第1話 会社は徒歩5分、世界は太陽の3000倍
(´・ω・) 大きいことは良いことだ?
住んでいる星の直径は太陽の三千倍。
空はどこまでも高く、地面は終わりが見えない。
けれど人間の暮らしは地球とあまり変わらない。
うちのマンションから会社までは徒歩五分だ。
角を三つ曲がって横断歩道を渡って、珈琲屋の角で右。信号が青なら、出社前の深呼吸を一回する余裕すらある。
この街はそういうふうに設計されている。家、保育園、スーパー、病院、会社、役所、駅前のモール——ぜんぶ半径十キロに収まって、生活はほどよく完結する。
出社前、ニュースを点ける。気象キャスターがにこにこしながら言う。
「南半球の雲帯はこの百年で少しずつ北上中、北都市圏への影響はおよそ三年後と見られます。今日は市内、終日晴れ」
相変わらず空は深い群青の層で、雲は地図みたいに巨大だ。
通勤路の珈琲屋でアイスラテを買うと、店主が言った。
「佐藤さん、例の豆、まだ先ですよ。赤道回廊が閉じてるって」
「回廊って、あの風の大通り?」
「ええ。『次の便は百四十二日後』だそうで。……平常運転ですって」
いつものことだ。僕は苦笑してカップの蓋を押し込み、「平常って便利な言葉だよね」とだけ言った。
会社に入ると、総務の山田さんが段ボールの山に囲まれていた。
「おはようございます。プリンターのトナー、やっと一箱届いたの。使い回してね」
「他のは?」
「来季。つまり三ヶ月後」
うちの町は食べ物も文房具もだいたい自給できるのに、妙にこだわった色のトナーだけは隣町にしか
工場がない。隣といっても、列車で何十日もかかる隣だ。
「じゃあ今季の帳票は、節約印字で……?」
「そうそう。濃度10%、フォント6ポイント。虫眼鏡、倉庫にあるから」
僕らは笑って肩をすくめる。笑って済ませる文化に、いつの間にか慣らされてしまった。
席に着くと、隣の席の川口がモニターを指さした。
「なあ佐藤、見た? うちの商圏の“向こう側”でバズってるラーメン」
画面では、隣都市の屋台が湯気をあげている。チャット欄に「いつか行きたい」「うまそう」で埋まり、通販ページには《お届け予定:87日後》の文字。
「うまそうだな……」
「通販できるってよ。到着予定、八十七日」
「相変わらずの平常運転だな」
「八十七日後の夜食、もう決まっちゃったな」
僕たちは未来に予約された腹の虫を納得させるために、コンビニの冷やし中華で誤魔化した。
午前十時、地続きの二十万キロ先にある隣町支社とオンライン会議。
「それでは——」上司の声が会議室に響く。
僕はミュートを外して話し出し、念のため数秒置く。音声はケーブルを伝い、途中の増幅器を何千基も経由して、またここへ戻ってくる。遅延は数字で見ればわずか——けれど、参加者全員がその“わずか”を警戒して譲り合うから、沈黙はやたら長い。
「——どうぞ」
「いえ、そちらから」
「いえいえ、どうぞ」
この儀式で五分。結局、議事録だけが滑らかに進み、会議が終わるころには、僕のコーヒーは氷で味が薄くなっていた。
昼休み、屋上。
柵にもたれてパンをかじると、水平線がひたすらまっすぐに横切っている。遠ざかる貨物船が、ぜんぜん沈まない。
スマホが震えた。ニュース速報だ。
《速報:お花畑生物、北環状鉄道の橋脚を全面メンテ》
動画サムネには、薄桃色の巨大な影がふわりと写っている。体長は都市を三つ並べたくらい。笑っている。この世界の上位の住人だ。
テレポートで現れては、線路をつぎ、橋を架け、舗装を磨き、そして……僕たちを運んではくれない。
動画をタップすると、現地の記者が興奮していた。
「——現場ではにこにこしたお花畑生物が、劣化した橋脚を一瞬で新品に替えました! 輸送ダイヤへの影響は……いえ、ダイヤはそもそも気分次第なので……ええと、良くも悪くもないということです!」
お花畑生物は光速を超えて移動できることでも知られている。誰もが知る常識だ。けれど、どうしてそんなことが可能なのかは誰にも分からない。
記者が思い切ってマイクを向ける。
「なぜ、そんなに速く動けるんですか? 本当に光より速いんですか?」
巨大な笑顔がこちらを向き、声が響く。
「君たちが“距離”と呼ぶものは、僕たちにとっては“花びらの模様”にすぎないよ」
言っていることの意味は分からない。
午後、総務チャットに通知。
《【備品】限定キーボード(静音・隣都市ブランド)を発注しました。到着目安:87日後》
チャット欄は『ぱちぱち』『わーい』であふれている。
上司が顔を出して、「よし、年内に間に合うな」と言った。
「いや、年末年始で誰も受け取れないでしょう」
「不在票がポストに入ってれば、それで年内クリアだ」
僕は見積書にハンコを押した。印面は薄い。インクは来季だ。
夕方、娘の保育園に迎えに行く。
「パパ、きょうの運動会の練習、ゴールが見えなかったよ」
「そりゃそうだ。ゴールは地平線の向こうだからね」
「なんで?」
「大人にも見えないからだよ。望遠鏡で応援するんだ」
娘は「ふーん」と納得した顔をして、園庭の隅の掲示板を指さした。
《来月の園外保育:沈まない水平線を見に行こう》
この街は教育が早い。シュールを教養にするのが早い。
帰り道、スーパーの棚。
「パパ、これ欲しい!」
娘が掴んだのは、隣町で流行っているキャラクターの限定グミ。札には「只今輸送中(到着まで残り78日)」とぶら下がっている。
「……ほら、これはね、ちょっと時間がかかるんだ」
「どうして?」
「隣町は遠いから」
「でも動画ではすぐそこだったよ」
「動画は光より速いからね(※速くはない)」
めちゃくちゃな嘘をついた。娘は「ふーん」と言って、代わりに地元の牛乳を選んだ。うちの街は牛乳がうまい。ここで取れて、ここで飲めるからだ。
夜。
食卓でニュースの続きを見ながら、娘が牛乳を飲み、僕はラーメンの通販ページを開いた。カートの横に、「到着予定:87日後」。
「ねえパパ、三か月ってどれくらい?」
「ハロウィンのお菓子を食べて、こたつでみかんを食べて、サンタさんが来るころ」
「じゃあ、ちょうどグミ食べられるね」
「そうだな。じゃあパパはラーメン、君はグミ。予定の夜は同じ日にしよう」
「やくそく!」
僕らは指切りをした。巨大な星の上で、とても小さな約束を。
寝かしつけのあと、ベランダに出る。
夜風は遠くから薄まってここまで届く。空は厚い。街の灯りも、海の端も、どこまでも水平に伸びている。
スマホが震え、社内掲示板の新着。
《【連絡】北環状鉄道、橋脚メンテ完了。ダイヤはしばらく“いい感じ”です》
いい感じ。いい言葉だ。いい意味で、何も保証しない。
衛星中継のアプリを開くと、世界の反対側で雲が渦巻いていた。巨大な渦。キャスターが笑顔で言う。
「赤道の嵐は、予定どおり百年かけて北上中です」
その下で、お花畑生物がまたにこにこして橋を磨いている映像が流れた。コメント欄に「運んで」「運んで」「せめて俺を」。
僕は小さく「せめて僕も」と呟いて、ラーメンの注文履歴をもう一度確かめた。87という数字が、星のどこかの遠さとぴったり重なる。
明日も会社は徒歩五分。世界は太陽の三千倍。
僕らはその両方を、だいたい笑ってやり過ごす。




