◆優越感
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僕は、唇に残った熱を指先でなぞった。
それは、ついさっきまで彼女のもので──けれど今は、跡だけが残っている。
唇に触れる自分の指先に、そっと、もう一度触れてみる。
彼女が口をつけたティーカップを、反対の手に持って。
小さく息を吸い込んでから、彼女の痕跡に、形だけのキスを落とした。
──唇が、陶器の冷たさに触れる。
ぞくりとする。その冷たさが、かえって彼女の熱を思い出させるようで。
自分でも何をしているのか分からなくなって、思わず笑いが漏れた。
キスなんて、将来「仕事」以外で使う予定なんてなかった。
だから、これが初めてだった。
初めてのキスの感覚は、想像以上に……生々しくて、奇妙だった。
胸の奥に、小さな針を差し込まれたみたいに、じわりと熱い。
ひりつくような痛み。
でも、嫌じゃない。
(姉さま……かわいい……)
その感情には、ほんの少しだけ、歪んだ優越感も混じっていた。
"あれだけ怖かった姉さまが、自分に怯えていた"という、ぞわりとした実感。
あの時の、怯えた瞳。震える声。
逃げられないと悟ったときの、止まりそうな息づかい──
思い出すたび、胸の奥がぞわぞわと騒ぎ出す。
(また……見たい)
もっと追い詰めたい。
泣かせてみたい。
そうして、僕に縋らせたい。
自分の手を握る。
でもそれは、あの細くて柔らかな指じゃない。
ただの、自分の手だ。
(ああ、また"約束"の時間が来ないかな……)
ああ。僕は、姉さまのことを、大層気に入ってしまった。
隣にいてほしいと思ってしまった。
……だから、邪魔が入るのは困る。
────あなたは、この先の未来で婚約破棄を言い渡されるらしい。
王子からの一方的な破棄。
それは、きっと姉さまを社会的に追い込むだろう。
悪い噂が立って、貰い手なんてどこにもいなくなる。
可哀想だと思う──
……けれど、助けたいとは、思わなかった。
「……ああ、そっか。婚約破棄か」
姉さまが死んでしまうルートは困る。
でも“婚約破棄される”程度なら……むしろ都合がいい。
だって、“貰い手がない”のなら──
(僕が、貰ってあげればいい)
今の姉さまは、面白い人だ。
そして、僕に「温もり」をくれそうな、唯一の人だった。
きっと、あんな人にはもう二度と出会えない。
だから、逃がしたくない。手放したくない。
──もっと、彼女を感じていたい。
いっそ、僕だけのものにしたい。
(なんで、こんな感情になるんだろう……)
不思議だ。
おかしいのに、それすらどうでもよくなっていく。
ふわふわして、考えがまとまらない。
(今度は……どんな理由をつけて、彼女を閉じ込めようか)
「また、キスしたいな……」
自分の手の甲に、そっと唇を落とす。
──今度は、彼女が泣いて。逃げられなくなってから。
“仕方ないから”って顔で、泣きながら受け入れてくれたらいい。
あの細い首が脳裏にちらつく。
(……締めて、みたいな)
自分の中にわき上がる感情は、
どこか──とても後ろめたかった。
(……ほんとに、どうしてこんな気持ちになるんだろう)
けれど。
今はもう、それも、どうでもいいと思っていた。