◆転生者②
アストリスは、よろめきながらもこちらへ歩いてくる。
足取りは不安定。でも、その赤い目だけは、焦点を失わず、僕をまっすぐ見ていた。
僕は、思わず後退った。
──その瞬間、アストリスが走った。
倒れそうな勢いで、こちらに突っ込んできた。
「! やめ──」
叫ぶ暇もなく、彼の冷たい手が僕の手首を掴んだ。
熱がじわじわと伝わってくる。体温を奪うように、絡みついてくる。
ぞくりと、全身が粟立つ。
『俺の世界征服のために───もうちょっと、一緒に遊ぼうよ、ソリオ』
それは、彼の口から発せられた声じゃなかった。
でも、確かに僕の“頭の中”に響いた。
冷たい囁き声。
心の奥に、無理やり押し込められるような感覚。
「……っ、離せ!」
僕がもがいた、その瞬間──
「"喰い尽くし"」
彼が、囁くようにそう言った。
それは、呪いのように僕の全身に絡みつく。
アストリスの掌から、ぞわりと真っ赤な魔力が溢れ出す。
それは炎ではなかった。……むしろ、触れられた部分が氷のように冷たい。
その魔力は、まるで“牙”のように、僕の中の魔力に食いついてくる。
魔力の流れが乱され、身体の内側をじくじくと喰い破られていくような感覚に、思わず震えが走った。
(……なんだこれ……! まるで……)
殺される。そう思った。
それは理屈じゃない。本能的な恐怖だ。
被食者としての根源的恐怖──“食べられる”──それがいちばん近い。
アストリス・ノクターンは死神の目を持っている。
死神の目を持った人物に近づいた人間には不幸が起こる。そんなくだらない逸話にも、理由はあるのだ。
それが、彼の──赤い目を持つ魔法使いが持つ特性。
アストリスが持っているもう1つの常時発動魔法───『喰い尽くし』であった。
その効果は、近くにいる人物の魔力を吸い取ってしまうこと。
そして、もうひとつ、副次的な効果がある。
(あ、─────)
頭の中で映像が浮かぶ。それは、姉さまの泣き顔だった。
僕に抱きついて、泣きながら、それでも嬉しそうに笑う姉さまの姿だった。
(幻覚、────!)
気づいた時には、もう遅かった。
『良かった……』
『良かった! よかった、よかった──星夜、星夜、星■、■夜、■■、■■、譏溷、、螟ァ蛻?↑縲∫ァ√?蠑──────
***
気づけば、僕は屋敷の裏庭に立っていた。
色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園。甘い香りが鼻をかすめる。
懐かしい。……でも、寒気がするほどに“嫌な思い出”の場所だ。
そして、そこにいたのは──彼女だった。
「ねえ、役立たず。お姉さまのために、薔薇を摘んでよ」
笑いながら、命令するような口調。
声の主はルナフィア──いや、“かつての”彼女だった。
僕は、反射的にうなずいてしまう。
喉が詰まりそうで、手が震える。いつの間にか、声も体格も幼い頃に戻っていた。
「でも……あれは、お義父様が大事にしてる薔薇で……」
「あら? 他人の子が“お父様”なんて呼んじゃいけないのよ」
彼女は、くすくすと笑う。
「薔薇ひとつ摘めないの? ほんと、出来損ないね」
言葉が鋭く、棘のように刺さる。
僕は恐る恐る手を伸ばし、薔薇の茎を握った。
指に棘が刺さる。血が滲む。
「っ、……あ、取れました! 姉さま……これ……」
摘んだ薔薇を差し出す。
だけど、彼女はお礼の一言も言わず、表情を変えた。
──突然、甲高い悲鳴をあげた。
「きゃああっ! 誰か! ソリオが、お父様の薔薇を盗んだの!」
足音が迫る。使用人たちが駆け寄ってくる。
ルナフィアは、彼らに抱きつくようにして、泣きながら訴えた。
「酷いの……ソリオったら! 私は止めたのに、バラをむしったのよ! バラが可哀想だわ!」
「ち、違う……違いますっ……! 姉さまに、言われて、それで……!」
僕の声は掻き消された。
使用人たちは困った顔をしながらも、僕に向ける目は冷たい。
「ソリオ様、たとえ頼まれたとしても、勝手に植物を摘んではいけません」
その視線には、ほんの少しの哀れみと──諦めが滲んでいた。
「ねえ、ソリオを叩いてちょうだい! この子、悪い子なの!」
ルナフィアが、無邪気な声でそう命じた。
その声音には、まるでおもちゃを壊した子を咎める幼子のような軽さがあった。
「お嬢様、それは……」
使用人が困惑の表情を浮かべる。
けれど、彼女はその反応さえも弄ぶように笑う。
「あら、触りたくないの? そうよね。この子に触れたら、心を読まれてしまうもの。ソリオの体は卑しい体だもの!」
──それが、僕の呪いだった。
僕の母は、父の後妻だった。
母には父との子供がいない。僕は母の連れ子だ。
母は父に見捨てられないように必死で、僕を「足枷」として扱った。
ルナフィアに優しくして、彼女を甘やかして、どうにか彼女から気にいられようとしているようだった。
母はよく泣いていた。
時に酔い、時に叫び、時に笑って「あなたが神託を持ってるから、私達はお屋敷で暮らせるの」と教えてくれた。
僕が離れに行かなかずに済んだのは、一重に『神託』を持っていたからだろう。その魔法の使用者は、王家の関係者の目の届く場所にいなくてはならないからだ。
“接続”と”神託”の力があったから、僕はセレシア家から切られなかった。
けれど、それは同時に、僕が誰にも心を許されない理由にもなった。
「ねぇ、動物用の鞭を持ってきてちょうだい! それなら触れずに済むでしょう?!」
「は、はい……!」
使用人が小走りで立ち去る気配がした。
(……好きでこんな力、持ったわけじゃないのに)
それを言ったところで、何か変わるわけじゃない。
どうして父が助けてくれないのか、僕は何となく察している。接続で、使用人の心を読んできたからこそ、なんとなく。
父は、僕を扱いやすいようにしたいんだ。
反抗しない、反抗したくてもできない───ビクビクした子供に育て上げる。
本来なら奴隷契約をするのが手っ取り早いだろう。しかし、"神託"の使用者は神に繋がる手段を持っている。ある意味聖域だ。
父は姉に僕を世話するように言い含める。きっとそれは、『教育』も兼ねているのだろう。
だから僕をいじめるのは、次期王妃のルナフィア。
僕は時期王妃のルナフィアを世話する義務があるのだ。だから、ルナフィアに逆らってはいけないんだ。
(ああ、みんな、だいきらい)
この屋敷に、誰も僕の味方はいない。
子供はこの屋敷から逃げ出せない。
逃げ出したとしても、僕は神託を持っている。きっと捕まえられてしまって、もっと酷い扱いを受ける。
「さあ、ソリオ。お姉さまがあなたを教育してあげる」
ルナフィアが笑う。
その笑みは、傍から見れば、きっと、無邪気で、愛らしいものだった。
「私があなたをいい子にしてあげるの。……私って、とっても優しい姉でしょう?」
……。頭がぼうっとする。
「ソリオ……ここに座って」
──声がした。
姉さまの声だった。
「大丈夫よ。私の手を握って。ね、落ち着いて……」
現実と幻覚の境界が、少しずつ溶けていく。
重く、鉛のように沈んでいたまぶたを、僕はゆっくりと持ち上げた。
……彼女がいた。
僕が怯えても、震えても、それでも彼女は、僕の手を、そっと握ってくれていた。
(……心を読んで、暴くだけのこの手を)
その手を、拒絶しないで。
優しく包み込んでくれていた。
(あの人が──別人になったんじゃないかって、ずっと怖かった)
姉さまが死んだら、僕の責任だ。今度こそ、この国から僕の居場所がなくなる。逃げ場なんてどこにもない。
だから、怖かった。
(……でも本当は、ずっと、姉さまにいなくなってほしいと思ってた)
そんな自分が、最低だと思った。
浅ましいと、心の底から思った。
ルナフィアと、きっと、僕は似ている。
誰かが不幸になって、手に入った“幸せ”を手放せない。
彼女がいなくなったから、僕はようやく愛された。
ルナフィアが消えたから、姉さまが僕に笑いかけてくれた。
「───心を読んで、確信を得る癖がついちゃってるのね」
彼女の声が、優しく響いた。
「……ねえ、ソリオ。あなたは賢い子よ。確信なんてなくていい。
わざわざ嫌われる方法を取るのはやめて……思ってることを話して……!」
(違うよ。僕は、賢くなんかない。あなたに守られる資格なんて……)
それでも。
あの時のあなたの背中が、暖かくて、小さくて、頼もしかったの。
「──ソリオ!」
聞こえてくるのは、怖くてたまらないあの人の声か、それとも──。
「────ッソリオ! 頑張って……!」
────ああ、だいすきだ。
それは、愛おしくてたまらないあの人の声だった。
──僕は、彼女がいる現実に、帰ろうと思った。