◆あなたに捧げます②
『あら? あらあら……ふふふ……』
ルビナが、狂気と興奮を含んだ声を漏らす。
僕は、そのまま唇を離さずに彼女の肩を抱き寄せ、深く、柔らかく、彼女の唇を食む。
小さな抵抗。ビクリと震える身体。それすらも愛おしい。
そんな光景を、女神は嬉しそうに眺めていた。
こんな世界を作る神なだけある。
彼女の嗜好は完全に、乙女のそれであった。
(あなたが邪神なら、僕もそれを利用するまで──)
────だって彼女の声が聞こえるのは、僕だけなのだから。
少し笑って、僕は彼女の唇の隙間に、そっと舌を差し入れる。
彼女の身体が跳ねる。「だめ」と言おうとするその口を、甘く塞ぐ。
やわらかく、熱く、震える。
舌先が触れ合い、わずかに絡まり合う。
僕は、彼女の中の動揺と戸惑いと羞恥、そして……微かに混じる“歓び”を、ゆっくりと、味わった。
「……っ!」
彼女が僅かに抵抗する。
──初めてなんだ? 僕もそうだよ。接続で無理やりそう伝えてやりたくなったけど──我慢する。
(──姉さま、表面上は取り繕って、姉ぶったって無駄だよ。心の声まで、全部伝わってくるもの)
息が詰まるほどに甘くて、熱くて、怖いほどに愛おしい。
僕はたっぷりと彼女の感情を堪能してから、そっと離れた。
ようやく、名残惜しさを噛みしめながら唇を離すと──そこには、細く伸びる銀の糸。
彼女は、目を伏せて顔を逸らした。
唇が濡れて、頬が赤く染まり、瞳が潤んでいた。
それが、もう、たまらなくかわいくて──。
(──ああ、誰にも渡したくない)
名残惜しさから目を逸らし、僕は静かに御霊に告げた。
「……望み通りにしましたよ。ルビナ様、答えていただけます?」
『ソリオ・セレシア! あなたって、とってもかわいい子ねえ……!』
ルビナの声は、まるで子猫を撫でる少女のように甘やかで、舌足らずだ。
『ふふ……秘密にしておきたかったのですけれど。でも──今日は特別に。教えて“あげる”』
邪神だ、と思いつつも口には出さない。
女神ルビナが、僕の耳元で囁いた。
ルビナの声が耳元にまとわりつく。
ぞわりと、背筋が逆撫でられる。
『──彼女の弟──芦屋 星夜は死んでしまいましたわ』
「──ッ!!」
頭の中が、しんと静まり返った。
僕は反射的に息を呑み、つい聞き返しそうになった。
でも、声が出なかった。
目の前の彼女──姉さまが、あまりにも無防備で、あまりにも美しく、あまりにも哀れで──。
その姿に、喉が凍りついたようだった。
『芦屋星夜くん──あの子はね、お姉さんのことが、好きで、好きで、好きで──。
それはもう、恋愛の女神のわたくしでさえも、とろけるほどに。
──彼女を、愛していたんですのよ』
はぁ、と、息が漏れそうになった。
頭は真っ白だった。
『彼女が死んだとき、彼の心も同時に壊れてしまった。……だから自分で幕を下ろしたんですの。
──なんて、美しい姉弟愛かしら!』
(……何が、美しい、だ……)
そう言いたかったけど、口をつぐんだ。
その事実を聞いた時、真っ先に僕の心に浮かんだ感情は、悲しみでも、怒りでもなく、理解だった。
──それが、余計に怖かった。
ルビナ様の笑い声が聞こえる。
『それでね、ソリオ。わたくし、彼を転生させてあげましたの』
「……──」
世界が、止まったように感じた。
脳が、言葉の意味を咀嚼するのを拒んでいる。
いや、理解しているからこそ、拒絶したい。
僕は動揺を気取られないように、姉さまの顔をじっと見つめた。
姉さまはどこか泣きそうな──恥ずかしそうな顔で、ほんの少しだけ怒ったように、そこに立っていた。
恥ずかしいだろうに、彼女は、それでも逃げずにそこに立っていた。
(それはきっと、弟君への、深い愛情から?)
鼓動だけが、うるさいほどに鳴っていた。
目の前には、僕の知っている“彼女”が、今そこにいる。
けれど、その“彼女”に知られてはいけないことが、すぐそこにある。
──もし、今ここで姉さまに、すべてが伝わってしまったら。
何が壊れて、何が残るのだろう。
『──彼を、この世界に、転生させてあげましたの!』
……。
さっきまであんなにうるさかった、鼓動が止まった気がした。
(──は?)
そんなわけ、ない。
そんなの、認めたくない。
僕の背中を冷や汗が伝う。
恐怖で身体が震えだしそうになる。
──嫌、だ。
いやだ。
いやだいやだいやだ──。
『ねえ、ソリオ・セレシア。あなたはルナフィアの弟──だから、あの子はあなたに優しくしたのよ?』
「っ……は……」
脳の奥で警報が鳴り続ける。
もう聞きたくないって、聞かないほうがいいって。
──知らないほうが、いいって。
(僕の、居場所が、僕の姉さまが、“僕のルナフィア”が……)
『──じゃあ、この世界に、「本物」の弟がいたら?』
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、僕は彼女の肩を掴んでいた。
ふっ、と、ロウソクの火が消える。
部屋は一瞬で闇に包まれ、バラの残り香だけが漂う。
今、この暗闇の中で──僕の顔は、きっと見えていない。
「……姉さま」
低く、掠れた声で呼びかける。
彼女の身体がビクリと小さく揺れた。
(どうか、見ないでほしい。僕の顔も、心の中も──)
「あのね……」
声が震えないように、感情が漏れ出さないように、僕は息を整えた。
──そして、そっと、彼女を抱きしめた。
まるで、崩れそうな何かを“囲い込む”ように。
彼女を“守る”ふりをして、閉じ込めるように。
僕はなるべく、温かい声で言った。
「──姉さまの弟君。向こうの世界で……元気に暮らしてるって!!」
それは、咄嗟についた嘘だった。
彼女は、ほっとしたようにわずかに力を抜く。
「良かった……」
彼女は、泣きそうになって呟いた。
「良かったぁ……ッ!!」
彼女は感極まって、僕の身体に抱きついた。
そうすると、どうしようもないくらい、安心した彼女の思いが伝わってくる。
僕の頭に、温かな弟君との思い出が流れ込む。
『良かった! よかった、よかった──星夜、星夜、星■、■夜、■■、■■、譏溷、、螟ァ蛻?↑縲∫ァ√?蠑』
僕は弟君の顔を頭の中で何度も何度も何度も何度も塗りつぶした。
──邪魔、だ。
お願いだ。どいてくれ。
消えてくれ。近づかないでくれ。
盗らないでくれ。関わらないでくれ。
彼女に悟られないように、口では笑った。
心臓が嫌な音を立てる。
(ああ、浅ましいな……)
────僕は、彼女に嘘をついた。
これは、彼女を守るための嘘じゃない。
優しさでも、慰めでもない。
──自分のためだけの嘘。
(彼女は何も悪くないのに、全て、僕が悪いのに。僕は──彼女を、離したくなくて、どこにも行って欲しくなくて)
浅はかで、最低な嘘だ。
胸の奥に、焦げるような独占欲が渦を巻く。
でもそれを見せないように、僕はただ静かに、静かに彼女を抱きしめた。
(────殺して、やりたくなるんだ)
彼女の幸せだけを願えたら、どれだけ幸せだったのだろう。
彼女が幸せであればそれでいいと諦められたら、どんなに楽だったのだろう。
──僕は、彼女に恋をしてしまった。
許されない恋をしてしまった。
──どうしようもなく、汚くて、どす黒くて、誰も報われない、恋を。