◆あなたに捧げます①
***
「……ルビナ様」
僕はそっと、御霊に囁いた。
どこからか、御霊──ルビナ様の声が聞こえた。
『あらあ、ソリオじゃないですか。またあなた?』
ルビナ様はあいも変わらず、うら若き乙女のような甘ったるい声をしていた。
その声には、まるで「さっきも呼び出されたばかりじゃないか」とでも言いたげな呆れが含まれている。
(彼女にとって三年前は"さっき"なのか──)
『まあ、だけど──いいですわ。話くらいは聞いて差し上げます』
ルビナ様からの許しに、そっと胸を撫で下ろす。
僕はそのまま彼女に問う。
「──なぜ、彼女をこちらの世界へ?」
『またその質問? 前に答えないって言ったじゃありませんか』
ルビナ様はまたすぐに会話を切ってしまいそうな雰囲気を出したが──ふむ、と考えるような声が聞こえた。
『……ああ、でも、今回は供物に趣向を凝らしたようですね。わたくしも礼を尽くすべきなのかしら。
そうですわね──答えて差し上げます』
「! 寛大な御心に、感謝いたします」
くすくす。ルビナ様が笑う。その笑い方は、まるで人間を嘲笑っているかのようだった。
『──暇つぶしですわ』
彼女は優雅に、けれども淡々と一言、そう言った。
その答えに、一瞬、「はぁ?」という言葉が出そうになる。
僕に習うように、目を瞑り、祈りを捧げている姉さまの姿が見えた。
ルビナ様は心底楽しそうに続ける。
『この世界は、わたくしが作った世界ですの。あなた達人間も、これまでの伝説も──全てわたくしが作ったもの』
その言葉に息を飲む。
彼女はまるで面白い話を聞かせてくれるかのごとく、僕の耳元でいたずらっぽく囁く。
『けれど、わたくし、一人遊びに飽きてしまって──。だから、別の世界の住人に、この箱庭の運命で遊んでもらうことにしましたの!』
「それが……あの世界の"ゲーム"……」
『ええ。──でもね? それもすぐに飽きてしまったのです。──なぜだか分かるかしら?』
「……いえ、僕には全く」
『彼女──主人公もわたくしの創造物だからですわ。わたくしの創造物でわたくしの創造物の心を動かしたところで、何が楽しいっていうの?』
「……」
『わたくし、もっと刺激的な運命が見たいの。わたくしも見たことないような運命の恋が!
だから、別の世界の人間──彼女の魂を取り込んだの』
──甘い少女の声が響く。
その声は、僕の心をかき乱してしまいそうなほどにわがままで、身勝手だった。
いや、恐らく──。
(──僕が、姉さまに深入りしすぎているのもあるのだろう)
彼女のことは最初から好意的に見ていた。
それは、僕がずっと孤独だった故なのだろう。
だけど、彼女の暖かさに触れて、こうして三年も月日が経って──僕はすっかり、彼女の虜になっていた。
だから、彼女を傷つけるものは神であろうと許したくないのだ。
『"恋なんてゲームの中で充分"──ですって? だったら、まさにこの世界こそ、彼女にふさわしい舞台ですわ。だってこの世界は、彼女が遊んだゲームの中だもの!』
「っ」
ルビナ様は、彼女の最期の願いを曲解して受け止めていた。
──しかし、上位存在である神にはよくあることでもある。
御霊の機嫌を損ねるのが怖くて、僕は押し黙ることしかできなかった。
ルビナ様は続ける。
『安心なさい。本物のルナフィアの魂は向こうに飛ばしてあげたわ。殺してしまっても良かったのだけれど……。
おかげでいい退屈しのぎになりましたわ。──ねえ、ソリオ。もっと愛に狂いなさい。あなたはずぅっと、良識ぶっててちっとも面白くないわ』
人の感情を弄ぶような、声──。
『愛や恋がわたくしへの何よりもの供物。あなたがもっと面白くなったら、あなたの相手をしてあげてもよろしくてよ?』
僕は少しだけ眉をひそめながらも、文句を言わず、口を動かした。
「──彼女の弟は。──アシヤ・セイヤは、向こう側の世界で息災でしょうか?」
三年前と違って、今度はどもらず、はっきりと伝えた。
ルビナ様は少し黙ってから──。
『────くふ、教えなぁい。だぁって、黙ったほうが面白そうだもの』
──あの日と、一言一句同じ言葉を返した。
「……そうですか」
僕はそっと微笑む。
女神ルビナはその反応に機嫌を良くしたのか、僕の耳元で囁いてくる。
『ソリオ。あなた、少々甘いんじゃなくて? 弟としてのポジションに慣れてしまったのかしら? やっぱり、王子様と結ばれるのが一番無難なのかしら』
「……」
『分かってるでしょう? ソリオ。今のフィンは、彼女との婚約を破棄する気なんてないわ。
だぁって、気に入っちゃったんだもの。あなたが甘い対応ばかりするからよぉ』
くすくすくす。ルビナは甘い声を上げて笑う。
僕はその声を無視して──、そ、っと僕の顔を見上げている姉さまの頬に触れた。
「……え?」
『あら?』
そして、目を伏せて小さく言う。
そう、とても、困った顔を作って。
かわいい弟の顔を作って。
「────姉さま。ルビナ様は、恋愛の神様だ。
──だから、それを聞きたいなら……そういう行為を“見せて”ほしいって」
沈黙が落ちた。
姉さまが小さく目を見開いた。
呼吸を忘れたように、言葉が出ない。
「……ソリオ……?」
その声に、僕は何も答えなかった。
ただそっと、彼女の顎に指を添える。繊細な輪郭が指先に触れ、肌がふるりと震える。
彼女の瞳が見開かれる。「駄目」──そう口にしようとしているのが分かる。
けれど、その言葉を口にする前に、僕はそっと息を重ねた。
お互いの吐息が混ざり合い、わずかな間に熱が宿る。
触れていないはずの距離が、もう熱を帯びていた。
僕は目を伏せ、囁くように呟く。
「……ねえ、ルビナ様。──“続きを見たいなら”、教えてください。
彼女の、“弟”は──?」
彼女の唇が、震える。
口を開きかけ、そして閉じる。その動揺、言葉にならない心の声が接続を通して、すべて流れ込んできた。
(だめ……ソリオ──私たちは……姉弟なのに──)
(どうして……こんなに、苦しいの……?)(やめて……お願い、やめて……)
──けれど。
『──あら、あらあらあら? わたくしと交渉を? いつからあなた、そんなに“面白い子”になったのかしら?』
(……嫌って言う割には、顔、真っ赤じゃないか)
僕はわずかに目を細める。神への畏れも、創造主への冒涜も、もう全部どうでもいい。
彼女の瞳に、僕が映るなら──それだけで、もう。
(……ああ、やっぱり……僕だけを見てほしいな)
『あは、いいわ。面白いから、教えてあげる! 彼女の弟は──』
その声が響くと同時に、ロウソクの炎が揺れた。
ふわりと、甘いバラの香りが空間を満たす。
時間が、重く、ゆっくりと沈んでいく。
そして──
僕は、そっと、彼女の唇に、自分の唇を重ねた。