第24話 揺れる感情
春の陽気が、街に優しく降り注ぐ昼下がり。
相談所の中庭では、珍しくヘルミとユリウスが二人きりで紅茶を楽しんでいた。
「ここのバラは、君が植えたのかい?」
ユリウスの問いかけに、ヘルミは微笑を浮かべた。
「ええ。元は荒れた庭だったけれど……少しずつ手入れをして、今ではこうして咲くようになったの。」
「君らしいな。」
ユリウスは、そっとカップを口に運びながら言った。
「どんなに傷ついていても、諦めずに育てるんだ。人も、未来も。」
その穏やかな言葉に、ヘルミの胸が少しだけ痛んだ。
ユリウスの優しさは、まるで陽だまりのようだった。温かく、柔らかく、そして──距離を近づけてくる。
「でも……バラって、棘があるでしょう?」
「それもまた魅力さ。傷つけるための棘じゃなく、自分を守るためのものなのだから。」
ユリウスの目が、真っすぐに彼女を見つめていた。
ヘルミは一瞬、視線を逸らしそうになったが、思いとどまり、そっと笑った。
「ありがとう、ユリウス。でも……あまり優しくしすぎると、誤解するわよ。」
「誤解してもいい。だって私には、君が必要なんだから。」
言葉の裏に、真意が混ざっているように感じた。
この婚約は「偽り」のはずだった。互いに守るための契約。それ以上ではないはずだ。
それなのに、ユリウスの眼差しは、契約だけのものではなかった。
一方、相談所の廊下では、ノアがその二人の姿を遠くから見ていた。
(楽しそうだな、あの二人)
ヘルミの笑顔を見るのは、決して嫌ではなかった。むしろ、嬉しいはずだった。
だがその笑顔が、自分ではなく他の男に向けられている現実に、胸の奥が鈍く痛んだ。
俺は、護衛としてそばにいる。それだけの存在だ。
そう言い聞かせてきた。何度も、何度も。
それでも──。
「……俺は、ただの護衛なのか……。」
誰にも聞こえないように、呟いた言葉。
それが、自分でも気づかぬうちに抱えていた本音だった。
そのはずだった──。
「子供ですね、あなたは。」
アンネがそっとノアに近づき言った。
その言葉にノアは怒りが込み上げてきた。
何も知らないはずのアンネにバカにされたと感じたためだった。
その夜、ノアはユリウスに声をかけた。
屋敷の裏庭で、ふと顔を合わせた二人は、互いに軽く頷き合う。
「ヘルミさんのこと、本気で守るつもりか?」
静かな夜気の中、ノアの声が刺さるように響いた。
「もちろんだ。」
「……本気で、彼女を想ってるのか?」
「ノア、君は何が言いたい?」
ユリウスが問い返すと、ノアは少しだけ目を伏せ、そして正面から向き直った。
「俺は、護衛として……いや、それだけじゃない。」
「……。」
「俺は……彼女が、幸せであればそれでいいと思ってた。でも、あんたと笑ってる姿を見るたびに、自分が何を失ってるか、思い知らされる。」
その瞳は、まっすぐに揺れていた。
それは、長く押し殺してきた感情の波だった。
「ヘルミさんが好きだ。……それでも、俺には何もできない。」
吐き出した言葉は、苦く、重かった。
だが、ようやく正直になれた気がした。
ユリウスはしばし黙っていたが、やがて静かに言った。
「じゃあ、勝手に諦めるな。彼女の笑顔が見たいなら、護衛の仮面を脱いで、向き合えばいい。」
ノアは目を見開いた。
「私は、君に勝とうとは思っていない。けれど──彼女の支えになりたいとは、心から思ってる。それが偽りかどうかなんて、君自身が見極めればいいさ。」
その頃、ヘルミは一人、書斎で思いを巡らせていた。
ユリウスの優しさは、時に心地よく、時に怖かった。
頼ることに慣れてしまえば、自分の足で立てなくなる気がして──。
「私には……誰かに守られる資格なんて、あるのかしら。」
ふと漏れた言葉。
その問いの答えは、自分自身で見つけなければならない。
しかし、確かなことはある──。
ユリウスも、ノアも、どちらも彼女を「守ろうとしている」ことだ。
ただ、その方法も想いも、まるで違っていた。
翌朝。
ヘルミが中庭を歩いていると、ふと背後からノアの声がした。
「ヘルミさん。」
「ノア?」
振り返ると、彼は少しだけ照れたような、それでも真剣な顔をしていた。
「……今日、少し時間をもらえませんか?」
それは、今までの彼が見せなかった「男」の表情だった。
ヘルミは、少し驚きつつも頷いた。
「ええ。あなたの話なら、ちゃんと聞きたいわ。」
少しずつ、何かが動き始めていた。
偽りの婚約。揺れる心。変わり始めた関係。
その先に待つのは、誰にもわからない「本当の答え」──。




