第23話 サムエルの動き
「……婚約、だと?」
サムエル・グランディールは、デスクの上に置かれた報告書を睨みつけながら低く呟いた。
指先が書類の端を握りつぶす。噂話の断片を寄せ集めた内容だったが、その真偽を疑う気にはならなかった。
そこにははっきりと──
ヘルミがハマハッキ大公家の嫡男と婚約を発表した、と記されていた。
「……そんなはずがない。」
声には怒りというより、傷ついた獣のような棘があった。
彼女が誰かと婚約する──それが「自分以外の男」であることが、どうしても理解できなかった。
机に拳を叩きつける。
「ヘルミが俺を愛しているのは確かだった……あれだけの情熱を交わしておいて、今さら他の男に靡くはずがない!」
秘書が戸口の前で顔を引きつらせて立ち尽くしていたが、サムエルはそれにも気づかない。
「ハマハッキ……あの男の素性を洗え。過去に何か、汚点はないのか。弱みはないのか。何でもいい。あの男が「ふさわしくない」理由を見つけろ。」
「……かしこまりました。」
小さく頷いて部屋を後にする秘書の背に、怒りと執着の混じった視線が突き刺さる。
「ヘルミ……どうして、俺を見捨てる……?」
サムエルの心には、愛という名を借りた支配欲が燻っていた。
その頃、相談所の執務室ではヘルミが頭を抱えていた。
「あそこまでしたのに何も証拠を掴めなかった……。」
夜会ではお披露目だけで終わってしまったのである。
「まぁ、なんとかハマハッキ大公爵の婚約者としてわかってもらえたからいいのじゃない?」
アンネが慰めるとヘルミはもう一度、大きなため息をつきながら頷いた。
一方、問題なのは──。
相談所の応接室ではノアとユリウスが向かい合っていた。
ヘルミは不在。
「……随分と、堂々としていたな。あの夜会での宣言。」
ノアの声は静かだったが、奥に棘が含まれていた。
ユリウスは肩をすくめて笑う。
「必要だったからな。彼女を守るためには、まず世間の目を変えなきゃならなかったので。」
「偽りの婚約で?」
「偽り、か……。そうだな、確かに今はまだ「契約」の上に成り立ってる。でも、あなたには関係ないことだですよね?」
ノアの目が鋭くなる。だが、ユリウスは気にする様子もなく続けた。
「私は、ヘルミが笑っていてくれればそれでいい。あなたはどうです?
護衛の仮面をかぶって、彼女をただ守ることしかできないのか?」
「……!」
ノアは唇を噛み締めた。
図星だった。護衛という立場に甘え、踏み込むことを恐れていた自分。何度も彼女の隣に立ちたいと願いながら、その手を伸ばせずにいた。
「言っておきますが、私は本気です。たとえ最初が契約でも……その先を、俺は望んでる。」
ユリウスのその言葉に、ノアの拳が震える。
けれど殴るわけにもいかない。ただ、悔しさを噛み殺すしかなかった。
その夜、サムエルの元に一通の報告が届いた。
「ユリウス・ハマハッキ──かつて騎士団での武術訓練を拒否し、学術方面に傾倒した変わり者として知られています。過去に女性関係の噂はありませんが、一時期国外留学していた時期に、不穏な動きがあったようです。」
「不穏……?」
「政治思想に関する本を大量に購入し、現地の活動家と接触していた記録があります。」
「……いいだろう。それを使え。『革命思想に染まった危険人物と、あのヘルミが婚約した』……そう流せ。社交界の噂は、火がつけばすぐに燃え広がる」
サムエルは口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「そうだ、ヘルミ。お前の人生は、俺の手の中から逃げられない」
数日後──。
「ヘルミちゃん、大変です! ユリウス様の過去に関する悪い噂が広まっています!」
相談所に飛び込んできた報告に、ヘルミは眉をひそめた。
「『危険思想を持つ人物』と婚約した、ですって……?」
どう考えても、サムエルの仕業だ。
「やはり動いたか……。」
ヘルミは立ち上がる。
「構わないわ。私は私の意思で、ユリウスと婚約した。噂がどうあれ、引くつもりはない」
その背を、ノアとユリウスが見つめていた。
そして、互いに目を合わせた。
ヘルミを守る。そのために、二人の男が、違う形で動き始めた──




