5.不測の事態
カフェを出ると、いつの間にか空は今にも雨が振り出しそうな模様で、灰色の雲が重く垂れ込めていた。
梅雨空に似合う生暖かい湿った風が纏わりつくように吹き、肌を瞬時にべた付かせる。そんな不快感をものともせず、先に外に出た香月が爽やかな笑みを見せて晶を振り返った。
「車で送るけど、家はこの近く?」
「近くはないですが、遠くもないので、歩いて帰ります。なので―――」
「じゃあ歩いて送るよ。偶には街を歩くのも悪くないしね」
ここから晶の住むオンボロアパートまでは、歩いて帰れないこともない距離だ。貧乏性な晶は香月の車で送るという言葉に気が引けたので、断るつもりでそう言ったのだが、その思惑は優雅に外されてしまった。
(それに歩きで帰ると言えば、送ること自体諦めてくれるかと思ったのに…)
仕方なく歩き始めた晶の横を、香月はつかず離れずの位置で着いてくる。
晶は妙に落ち着かない気持ちで隣を歩く香月を盗み見た。彼は何が珍しいのか、辺りの様子を観察するようにしきりに視線を動かしている。
(それにしても、綺麗な人だなぁ…)
横を歩く香月に内心見惚れながら歩いていると、ふいに晶は気付かなくても良いことに改めて気づいてしまった。
(…そういえば、こうやって年が近い男の子と隣り合って街を歩くことなんて、今まで一度もなかったな)
初めての経験で、しかもそれがとびきりの美青年だなんて、そんなシチュエーションを今まで想像したこともなかった。そんな晶は、この状況にどうしていいかわからず心の中でオロオロする。
現に先ほどから道行く老若男女が彼のことを二度見、もしくは三度見している。その気持ちは十二分に分かる。そんな誰もが振り返る美少年の横に自分なんかが歩いて申し訳ないとさえ感じてしまう。
若干気まずい思いで俯くと、そんな晶の様子に気付いた香月がこの間を持たせるためか、おもむろに話しかけてきた。
「静野さんは、この辺りは詳しいの?」
「そっ、そうですね。駅も近いし、よく来ます。…香月さんは普段あまり街は歩かないんですか?」
「そうだね。仕事で必要な時以外は部屋に籠っていることが多いから、新鮮だね」
その答えに妙に納得してしまう。何故なら彼は透き通るような程白くて綺麗な肌をしていたからだ。それに、こんな美形が普通に街を歩いていたら、すぐに注目の的になってしまいそうだ。
「お仕事、そんなに忙しいんですね」
「まぁ、そうだね。でもこうして可愛い子と一緒に街を歩けるのは嬉しいし、癖になりそうだよ」
そう言って微笑みを見せる美形男子に、晶はときめきを通り越してもはや自分に怒りすら覚え始めた。ここまでくると自分が遊ばれているような気がしてくる。それを自覚しているのに、いちいち過剰反応してしまう自分の心臓を心の中で叱咤する。
そして、ふと思う。
(もし自分に彼氏が出来たら、こんな風にドキドキしながら一緒に歩くのかな…)
今のドキドキはそれとは少し種類が違うような気がするが、晶はどうせなら少しの間、幻の恋人ごっこを心の中でこっそり楽しむのも悪くないかもしれないと思い始めた。
そういえば、こうして胸がドキドキしたり、誰かに見惚れたりといった感覚は随分久しぶりだ。
父親が死んでから、もう何にも心は動かされないと思っていた。だけど、案外自分の心は丈夫で単純だったのかもしれない。素敵な人に出会ったり、優しい心に触れると、ちゃんと自分の心は反応している。
それは、自分の心がまだ死んでいない証拠だ。現に今、香月にドキドキしている自分の心は、今を生きている証拠ではないだろうか。
―――じゃあ何で、自分は死んでもいいなんて思うんだろう。
そしてふと、思い出してしまった。
このまま家に辿り着いて香月と別れてしまえば、この夢のような心地のする現実は終わりを告げる。そうすれば、またひとりぼっちでモノクロームの孤独と戦いながら夜を過ごさなければいけなくなることを。
そう思うと、途端に足に重りをつけたような感覚を覚えはじめる。
あの誰も待つ人のいない、独りぼっちの部屋に帰るのが、とても怖い。
あの部屋で、大好きな人をどんなに待ち続けても、決して帰って来てはくれない現実を受け入れるのが、とても怖い。
孤独と絶望が容赦なく自分を襲い、気が狂いそうになる夜を越えなければいけないことがとても怖い。
一体いつまでこの辛い現実は続くのだろう。いつまで耐えなければいけないのだろう。
もう、耐えたくない。逃げ出したい。
楽になりたい。
いつの間にか2人は、街中の交差点で立ち止まっていた。
目の前の信号は赤。狭い交差点で、歩道もない道を走る車はそれなりの速度を出していて、その風圧に晶の髪が揺れる。
晶の足は、自然に一歩前に進んだ。
更に、もう一歩。
進み出ようとした次の瞬間、強く腕を後ろに引かれる。
それとほぼ同時に、大型のトラックがスピードを上げたまま目の前を横切った。
腕を引かれた勢いで倒れそうになった晶は、後ろにいた香月に抱き止められ、何とか転倒せずに済む。
晶はたった今起こった出来事に頭が真っ白になる。
「どうしたの?危ないよ」
少し戸惑った様子で香月が晶を覗き込んでくる。彼に抱えられた状態の晶は、呆然としたまま動けないでいた。
(…私…今、何をしようとした?)
まるで体が勝手に動いたような感覚だった。
まさか、無意識のうちに自ら道路に飛び出そうとしていたのだろうか?
そう自覚した途端、全身がガクガクと震え出し、膝の力が抜けて、晶はその場にへたり込んでしまった。
(私が、自分で死のうとした…?)
自分のしたことがまったく信じられない。まるで何かに突き動かされていたかのように、自然と足が進んでいた。
晶の顔はみるみる蒼白になり、全身の震えもますます酷くなる。
その様子に異変を感じたらしい神月は、震える晶を宥める様に肩に手を回し、慎重に問い質してきた。
「…大丈夫?かなり震えてるみたいだけど。一体何が起きたの?」
「…自分でも、何が何だか…。考え事してたら、足が、勝手に…動いた感じ、でした」
晶は震える声を絞り出すようにやっとのことでそう答える。そんな晶を香月は難しい表情で見つめた。
「考え事って、どんな事を考えてたの?」
「えっ?…それは…」
晶は少し躊躇したが、思い切って話すことにした。
「このまま、一人ぼっちの部屋に帰るのは嫌だなって…。考えていたら、足が勝手に動き出して…。今までそんなこと、一度も無かったんですけど…」
香月と一緒にいることが夢の様だと思っていたことは、さすがに言えなかった。
香月は思案するような顔をしていたが、次第にその顔つきが厳しくなる。
「…そういうことか。ちょっと不味いことになったな」
そう言って前髪を無造作にかき上げると、徐ろにポケットから携帯電話を取り出して操作し、誰かにコールし始めた。
晶は震える体を必死に抱え込んで治めようとしたが、中々震えは止まらない。
その場にしゃがみ込む晶の背中を、香月は電話をしながらも優しい手つきで擦ってくれている。
香月の手の温かさに次第に落ち着きを取り戻してきた晶は、今度はその手を意識してしまい、また性懲りもなく心臓が勝手に踊り始めてしまった。
(今日はいつになく心臓が忙しい日だわ…)
自分の鼓動が背中にあてられた手に伝わらないよう、晶は静かに深呼吸を繰り返す。
そんな中、香月は誰かとの通話を終えて携帯電話をポケットに仕舞うと、晶を支えながら立たせ、交差点の角にある小さな公園のベンチまで連れて行ってくれた。
「ちょっとここで待ってて」
そう言って足早にどこかに行ってしまう。
香月の手が離れたことに内心ほっとしつつ、落ち着きを取り戻した晶は改めて先ほど自分の身に起きたことを考えた。
(あのまま、香月さんが助けてくれなかったら、私、…死んでいたのかな?)
今まで、どんなに辛くても本当に死のうと思ったことはなかった。それとも、自分で思っている以上に、父のいるあの世に惹かれているのだろうか。
そうなのかもしれない。この半年間、ふとした瞬間に父親の死を思い出しては言葉では言い表せないくらいに絶望と孤独に苛まれた。
部屋の所々に残る父親との思い出や、どうしても処分できず、置きっぱなしになっている父の私物を目にするたびに溢れ出る、行き場のない感情。
まるで真っ暗な世界で、ただ独り佇んでいるような、そんな孤独感。
――――そういえば、つい最近もあった気がする。
あれはいつだったか―――
「大丈夫?」
驚いて顔を上げると、香月の瑠璃色の瞳が目の前で晶を覗き込むように見つめていた。
いつの間に戻ってきたのだろう。まったく気が付かなかった。自分の考え事に囚われて周りが見えなくなっていたのかもしれない。
「やっぱり車を呼んだよ。このまま歩いて帰るのは危なそうだ。もう少しで来るからここで待とう。はい、これ」
そう言って香月は缶のミルクティーを差し出した。どうやらそれを買いに行っていたらしい。
「ありがとう、ございます…」
まだ少し震えが残る手でそれを受け取る。両手で包み込むと、温かさがじんわりと沁みてくる。自分で思っていた以上に血の気が引いていたようだ。その温もりに少しだけほっとした晶は、その様子を見ていた香月がどこか難しい顔をしていることに気付いた。
「…君は昨日倒れた後に、何か変わったことはなかった?」
唐突にそう問われて、晶は目の前に立つ彼の顔を見上げる。
「変わったこと…ですか?」
質問の答えを見つけようと頭を巡らす。変わったことと言ったらアレしかないと、晶は入院中にあった人生初めての出来事を思い出した。
「そういえば、生まれて初めて幽霊に会いました」
口に出してみると何とも滑稽に聞こえ、晶は口に出した言葉を瞬時に取り消したくなった。
こんな時に何を言い出すのかと呆れられたかもしれない。不安に思いながらチラッと香月の反応を見ると、香月は眉間にしわを寄せ、さっきよりもっと難しい顔をしている。
「…どんな初対面だったの?」
意外にも彼は晶の話を疑わなかったようだ。晶は馬鹿にされなかったことに内心安堵して、入院中にあった不思議な体験を彼に話した。
話を聞き終えると、香月は頭を抱えて晶の隣に座り、そのまま俯いてしまった。その様子に晶は狼狽え、不安になる。
「…あの、何か不味かったですか?」
「非常に不味い。不味いなんてものじゃない」
そう言って深い溜息をつくと、ゆっくりと辺りを見渡した。そして何かを見つけたのか、人差し指を向けながら晶に尋ねる。
「あそこに、4歳くらいの小さな男の子がいるのは見える?」
晶が目をそちらに向けると、少し離れた横断歩道の近くに、青と白のボーダーのシャツを着た男の子が一人できょろきょろと周りを見回しているのが見えた。近くに親らしき人がいなかったので、途端に心配になる。
「見えますけど、…迷子かな?あの子がどうかしたんですか?」
そう答えると、香月は少し間をおいて、諦めたような声で言った。
「…あの子は幽霊だよ」
「…へっ?」
驚いて香月を振り返ると、香月は困った様な、何とも言えない表情を浮かべて晶を見ていた。
「じ、冗談ですよね?」
そう言って晶は香月を見たが、見返す彼のその顔は決して自分を揶揄っているわけではなさそうだ。
晶はもう一度男の子の方を見てみる。と、やっぱり晶にはその存在がハッキリくっきりと見えた。
――――どういうこと?
(つまり、それって…)
晶は自分の導き出した答えに不安を覚えながら香月を見る。すると香月も、晶が出した答えを肯定するかのように頷いた。
「君も、あちら側の存在が見える様になってしまったんだね」
「…嘘でしょ…」
近頃よくこの台詞を聞くなぁと頭の隅で呑気に考えながら、同時にこれは夢の続きで、現実には自分はまだ病院で気を失ったまま眠っているのではないかと現実逃避する。
とりあえず晶は自分の頬っぺたをつねってみる。ちゃんと痛い。夢でもちゃんと痛いんだ。それともこれは本当に現実?
「取り合えず、落ち着こうか」
そう言って、香月は労わるように晶の肩を軽く叩いた。
上の空で頷きつつ、一体自分に何が起きたのだろうと考えずにはいられなかった。今までその存在すら感じたことがなかったのに、一体いつから?病院で目が覚めた時からだろうか?それとも倒れた時頭でも打ったのだろうか?
周りを見回してみるとそこには通りを歩く人々やバイクに乗った人、自転車で走り抜けていく人達が見える。
今までと同じように違和感なく見えていると思っていたこの世界に、別の世界が重なって見えているというのか。
晶は自分が立っているはずのこの世界が急に心許なく感じ、寒気を覚えた。
その時、ふわりと生暖かい風が辺りを吹き抜けた。
すぐに空から雫がひと粒、またひと粒と顔に当たり始める。
「降って来たな」
そう言って立ち上がった香月は、辺りを見回して何かを探している様子を見せる。晶は先ほどの寒気が徐々に悪寒に変わり、ついには頭痛まで感じ始めた。
(昨日雨に濡れたことがまずかったかな。病院でも微熱があったし、熱が上がってきたのかも…それとも思いもよらない現実に体が拒否反応しているとか?)
次第に強くなる雨脚に、晶は唐突に傘の存在を思い出す。カバンを探ると、昨日見ず知らずの紳士から受け取った黒い折り畳み傘がちゃんと入っていた。
取り出して傘を開くと、晶は香月が濡れない様に高く差し出した。
「これ、借り物の傘なんですが、一緒に使いましょう」
振り向いた香月は晶と傘を交互に見比べ、少し驚いたように目を見開いた。
「この傘…」
「昨日、雨に濡れてぼーっと立ってたら、親切な人が貸してくれたんです」
「…そうなんだ」
晶の手から傘を取り上げると、再び隣に座った香月は晶の方に傘を傾けた。
「それじゃあ香月さんが濡れちゃいますよ」
晶が慌てて傘を奪い返そうと手を伸ばすと、期せずして香月と至近距離で顔を見合わせることになってしまった。
驚いて目を見開いた晶を見て、彼は急に色香をたたえた瞳で晶の目を見つめてくる。
形の良い口の端を上げながら、晶の耳元に近づくと、吐息が耳に届くくらいの距離で囁くように言った。
「それだと、もっと二人が近づかないといけないね」
「っありがとうございます!!」
とっさにそう言って晶は勢いよく自分の身体を引いた。こんなお色気垂れ流し美青年と密着するなんて、自分の精神が崩壊しそうだ。自分を守る為にも晶は香月の厚意を受けることにした。
そんな晶の反応を神月は珍しい動物でも見るような目で見た後、堪らずという風に吹きだし、顔を少し背けると片手で口元を覆って肩を揺らし始めた。
初めて見る香月の姿に晶は呆然とする。この反応を喜ぶべきか怒るべきか判らないが、晶の心臓はまた踊るように鳴ってしまった。
(ああもう!今はこんなこと気にしている場合じゃないのに)
そんなことをしているうちにますます体調が悪化していく。晶は激しくなる悪寒と動悸とめまいに必死に耐える。
「―――やっと来たか」
そう言って立ち上がった香月は、晶に傘を渡して車道の方に歩いて行く。晶がその姿を追って見ると、歩道に寄せるように一台の黒い高級車が停まっていた。その運転席から一人の男性が傘を差しながら出てくる。
その顔を見ようとした時、突然肩を叩かれた。
振り向くと、そこには離れた横断歩道にいたはずの小さな男の子が立っていた。
「おねえちゃん、一緒に遊ぼう?」
「…えっ…」
驚いてそう言った晶に、男の子は笑顔を見せた。すると次第にその姿が変わっていく。
みるみる皮膚が裂け、目玉が零れ落ちて血だらけになった彼の顔を見た瞬間、晶の意識は深い暗闇に落ちていった。