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4.拝み屋の青年

 


 「生まれて初めての入院生活で、生まれて初めて幽霊に遭遇するなんて…」



 先ほどの体験が未だに信じられず、晶は制服に袖を通しながら呆然と独り言ちた。


 昨日雨に濡れた制服は病室の冷房である程度は乾いていたが、匂いを嗅ぐと何となく生乾き臭い気がする。


 濡れたままだったせいで、軽く風邪でも引いたのだろうか。少し重たくなった身体を気合で動かしてブラウスのボタンを留めると、脱いだ入院着を簡単に畳んでベッドに置く。準備を済ませると、少ない荷物を持って病室のドアへ向かった。


 (幽霊って初めて見たけど、あんなに違和感がないものなの?)


 未だに納得いかない気持ちで晶は病室のドアを開ける。


 「…?」


 開けた瞬間、目の前を何か異質なものが横切った。


 異質と表現したのは、それが決して現実的な光景ではなかったため、脳が処理しきれなかったのだ。晶はそれが何だったのか、もう一度確認しようと廊下に視線を彷徨わせた。


 すると、廊下の先の方で、やはりとても奇妙な光景が目に映った。


 視線の先には、薄汚れた苔色の服を着て、肩にライフル銃?のようなものを担いだ人達が、整列して颯爽と病院の廊下を行進しているのが見えた。軽快な掛け声と共に、足踏みの音まで見事に揃った隊列が廊下の奥のほうに遠ざかって行く。


 晶は暫く呆然としてその光景を眺めていた。


 (…病院の仮装イベントか何かかな?)


 動揺しつつも、尤もらしい解釈を考える。晶はあたりを見回して状況を把握しようとするが、廊下にいた患者やスタッフを見ると、まったく気にした様子がない。


 (もしかして、みんなが飽きるほど毎日仮装行列してるのかな?それで誰も気に留めなくなったとか?それにしても―――)


 自分の感じた違和感に無理やり理由をつけてみたものの、やはり違和感しかない。行進が去っていった廊下をぼんやりと眺めていたが、いつまでも気にしていてもしかたがないと気を取り直し、受付に向かうことにした。


 しかし、その後も奇妙な光景は続いた。


 晶がロビーで受付の順番を待っている間、受付の女性に向かって、必死に何かを訴えているパジャマ姿の男性がいた。


 男性は晶から見ても可哀想なくらい必死になっていたが、男性のことを女性は完全に無視していて、視界にも入れていない様子で全く取り合おうとしない。それはとても異質な光景だった。


 (もしかして、毎日来るクレーマーなのかな?だとしても無視するなんて何か変だけど…)


 そしてこの状況でも、周りにいる人達は全く気にした様子がない。


 「静野さん、お待たせしましたー」


 必死な男性を無視し続けていた受付の女性が、晶を呼んだ。


 晶は良いのかなと思いつつ、パジャマの男性に遠慮しながら受付に近づいて行ったが、そんな晶に男性は気が付いた様だった。


 「あんた、俺の声が聞こえるか?」


 男性に声を掛けられたことに驚いた晶は、男性のほうに振り向きかけた。その瞬間、男性側にある自分の身体の半分にゾワリと一斉に鳥肌が立つ。


 「聞こえるなら話をきいてくれ!」


 本能的に関わってはいけないと悟り、晶はそちらを見ないように努力した。


 手続きしている間、男性はずっと何かを訴え続けていたが、そちらを意識しないよう必死で無視し、震える手を誤魔化しながら何とか退院の手続きを済ませた。


 そして一刻も早く病院の外に出ようと、急いで出入り口に向かう。


 男性はそのまま晶に付いてきて、喚くように何かを訴えていた。耳を塞ぎたくなるのを必死に堪え、足早に出口の自動ドアを通り抜けると、それまで晶に付いてきていた男性は、外にまでは付いてこなかった。


 (一体何だったんだろう?)


 半分逃げるようにして病院の出入口から離れた晶は、もう大丈夫かと思い、恐る恐る振り返ろうとした。



 「―――駄目だよ、今振り向いたら。まだ彼が君を見ている」


 

 「ひゃあっ‼」


 突然耳元で聞こえた囁くような低い声に、晶は文字通り飛び上がった。


 驚いて振り向くと、声の主は晶のすぐ横に立ち、上から覗き込むように晶を見ている。


 さらさらした色素の薄い髪に、瑠璃色の瞳が印象的な作り物みたいに美しい青年がそこには立っていた。



 (!!??)



 至近距離でそれを見た晶の脳機能は、その活動を一時停止せざるを得なかった。


 目を合わせたまま固まっている晶の背中を軽く押して、その青年は晶をリードするように歩き出す。


 「もう少しこの場から離れよう。―――こっちだ」


 人間の脳は美しいものを見ると思考が停止する仕様にでもなっているのだろうか。頭が真っ白なまま彼に促されて歩き出した晶は、歩調を合わせつつ、事態を飲み込もうと必死に脳機能の回復に努める。

 

 (…何?私は何故こんな綺麗な男の子に連れられて…?一体何が起こってるの??)


 自分に起こった状況が把握できないまま、流れるような誘導で連れ出される。どうやら病院の入口から見えないところまで向かうようだ。


 動転しつつも、そっと横にいるその青年を窺うと、彼は真剣な表情で前を向いていた。彼のただならぬ雰囲気に途端に不安が過る。


 只事ではない気配を感じ、これは先程の病院の男性と関係があるのだろうかと思い至った晶は、その存在が気になり始めた。しかし、後ろを振り向くことは許されない空気が横にいる彼から伝わってくる。


 晶はその空気に飲まれ振り向くことなくそのまま歩みを進めたが、今度は別の不安が晶の胸に募ってきた。


 (この状況は一体…。何かの勧誘だったらどうしよう…よく考えたらこの状況ってヤバくない!?)


 父親が亡くなり突然一人暮らしになってから、晶は寂しさに付けこまれて痛い目にあいそうになった経験があり、それ以来用心深くなっていた。


 何か怪しげな勧誘ならこのまま彼に流されてしまうわけにはいかない。そう思い、晶は意を決して立ち止まる。


 「…あの、すみません!もう大丈夫ですから、失礼します!」


 晶はそう言って頭を下げ、そのままその場から逃げるために駆け出した。


 その途端、素早くその手首を捕まえられる。驚いた晶は瞬時にその手をふりほどこうと腕に力を込めた。


 しかし彼の瑠璃色の瞳と目が合った瞬間、痺れに似た感覚が全身を突き抜け、腕から力が抜けて動かなくなってしまった。


 晶は訳が分からず、自分を見つめている彼の瞳をただ茫然と見つめ返している自分に困惑する。


 (なに…?なんで??)


 晶が抵抗できない様子に、目の前の彼は安堵したようにその目元を和らげ、晶の手首をつかんでいた力を緩めた。


 「怖がらせたのなら、ごめんね。君が僕より先に悪い男に絡まれそうになっていたから、つい強引に連れ出してしまった」


 そう言って手首を掴んでいた手をゆっくりと離した彼は、眩しそうに目を細めて微笑んだ。


 「つっ!!?…」


 破壊力抜群な微笑みを受けて、晶はあからさまにギョッとしてしまう。


 そんな風に異性に微笑まれた経験がない晶は、突然のことに驚くと同時に自分の心臓が一瞬とびきり跳ね上がったことを自覚した。そんな自分の予期せぬ反応に更に驚く。


 その動揺を隠すため、晶は慌てて顔を俯かせた。


 (なんという破壊力…取り澄ました顔も人形みたいで綺麗だけど、笑うと半端ないわ…)


 何とか心を落ち着かせ、俯かせた顔を少し上げて改めて彼の顔を見る。印象的な深い瑠璃色の瞳に見合う、少し堀の深く鼻筋の通った整った顔立ちは中性的で、どこか別の国の要素が混じっていることは明らかだった。


 つまり、手っ取り早く表現すると、晶が今までお目にかかったことがないくらいの美形男子だ。クラスにこんな男子がいたら、さぞや学校中の女子から注目を浴びることだろう。


 その美青年という言葉がぴったりな人物が「微笑み」という必殺攻撃を食らわせてきたのだ。ただの小娘である晶には太刀打ちできるはずもない。とてもではないが直視に耐えられず、心臓はその衝撃でバクバクと破裂しそうなほど躍っていた。


 (そうか、これは正常な反応なんだ…)


 先ほど腕の力が抜けてしまったのも、余りにも彼が魅力的だから本能的に降参してしまったのかもしれない。


 自分は思っていたよりもミーハーで軟派だったのかもしれない。それにしても彼がナンパ師なら相当な手練れに違いない。怪しげな勧誘だってその顔で誘われれば誰だって喜んで受けてしまいそうだ。


 そう自覚した晶は、それではいけないと密かに深呼吸して自らを戒めながら、警戒するように彼から一歩下がった。


 その様子に彼は慌てたように晶に話しかけてくる。


 「静野晶さん!実は君と話をしたくて、病院の外で待っていたんだ」


 「え…?」


 そう言うと彼は黒いジャケットの内ポケットから素早く何かを取り出すと、晶に差し出す。


 晶が恐る恐るそれを受け取ると、それは名刺だった。馴染みのない英単語の羅列の横に、日本語も書かれている。そこには、

 

 ゛サイキック・アドバイザー 香月瑠依”


 と書いてある。


 「こうづき…るえ…さん?ですか…。あの、サイキック・アドバイザーって?」


 そう尋ねる晶に、香月という青年は少し笑って答えた。


 「世の中に起こる、科学的には説明できない現象に悩まされている人の相談役って所かな」


 科学的には説明できない現象?


 それって―――


 「もしかして!昨日マンションにいた『拝み屋』さんて、貴方ですか?」


 勢い込んで聞いた晶に、香月は苦笑いを見せつつ頷いた。


 「ご名答。本当は、仕事で拝んだりしたことないから、厳密には『拝み屋』では無いんだけどね。何故かあの大家さんには、そう呼ばれてたな」


 (彼が『拝み屋』さんの正体だったのか…)


 晶は半分呆けたように香月を見上げる。本人を目の前にして、改めて自分の想像したイメージと大分かけ離れていたことに拍子抜けした。


 想像ではもっと修験者のような、厳しい修行をしてきたいかにも頑固で怖そうで屈強な日本男子のイメージだったのに、目の前に立っている人物はそのイメージを真逆にしたような出で立ちだ。


 ノーネクタイのブルーグレーのシャツの上に細身の黒のスーツを着こなす、すらりと背の高い身長。柔らかそうなダークブロンドの髪は日に透けるとまるで琥珀のように煌めいている。そのさらさらとした前髪が、印象的な瑠璃色の瞳を気まぐれに隠すように下ろされ、完璧なバランスの顔立ちはくっきりしているが少し日本人っぽい雰囲気もある。


 どこか不思議な印象を受ける香月青年を晶がまじまじと見つめていると、彼が顔を傾けて晶を覗き込んだ。


 「ところで、君はもう退院しても大丈夫なの?」


 「あ、はい!少し熱はあったけど、問題ないってお医者さんが言ってくれました」


 ぼーっと彼に見惚れるように見つめていたことに気付いた晶は、答えながら気恥ずかしくて慌てて視線を逸らす。


 そして、彼の正体に心の中で安堵の溜息をつくと、大事なことを思い出した。


 「あの、さっき電話で佐内さんから聞いたんですが、昨日は私が倒れて色々ご迷惑をお掛けしたみたいで、本当にすいませんでした」


 そう言って晶が勢いよく頭を下げると、彼は軽く目を見開いた後、穏やかな顔で軽く首を振った。


 「いや、迷惑とは思ってないよ。それに、そこは『すみません』じゃなくて『ありがとう』が嬉しいかな」


  そう言われてハッとする。確かに、自分も人を助けた時にその人にひたすら謝られるよりは、感謝された方が何倍も嬉しい。そう思い直して、晶は改めて彼に向き直った。


 「助けてくれて、本当にありがとうございました」


 そう言って晶は再び頭を下げる。


 そして、再び顔を上げると、香月の穏やかだった顔は、直視するもの憚られるくらいの眩しい微笑みに変わっていた。


 それを見た瞬間、今度は香月の周りだけが、何だか淡く輝いている様に見え始める。


 (何だろう、これ?私の目がおかしくなったのかな?)


 チカチカと眩い光に何度か瞬きを繰り返していると、香月が話し始めた。


 「どういたしまして。素敵なレディを助けることができて光栄だよ。ところで、少し倒れた時のことを聞きたいんだけど、かまわないかな?」


 「は、はい!大丈夫です。」


 (素でレディなんて言葉を使う人見たの、初めてだ…)




 何もかもが規格外の彼と連れ立って、二人は昨日の話をするため、近くにあるカフェに向かった。


 晶が入院していた病院から数分歩いた所にある年季の入った喫茶店で、女子高生が入るというよりはオールドミセスが好みそうな雰囲気だ。


 店に入ると、コーヒーの香りが鼻腔を擽る。自分ではあまり飲まないが、父親がよく飲んでいたので、晶には懐かしい香りだった。


 店内は、どことなく古き良き英国の屋敷をイメージしている様で、不思議と香月の雰囲気にとても良く合っていた。一緒にいる自分の方がなんだか場違いな気がして、晶はどことなくソワソワしてしまう。


 「紅茶は好き?」


 「はい、好きです」


 案内された席に先に晶を座らせると、香月は慣れた様子で紅茶をオーダーした。その物腰もさまになっていて、晶は気を抜くと見惚れてしまいそうになる自分に呆れてしまう。


 (何をしても様になる人って、本当にいたんだ…)


 香月はその顔貌もさることながら、醸し出す雰囲気が晶が知っているどの男性ともまるで違う。悪気はないが、クラスの男子生徒がみんなお子様に見えてしまうくらい、落ち着きがあって、とても齢が近いとは思えなかった。


 見た目では自分と同じぐらいか、少し年上に見えるが、外国人の雰囲気も相まってよくわからないので、もしかしたら年下の可能性も無くはない。


 失礼でない範囲で彼を観察しながら、晶はふと、年頃の男の子と二人っきりで学校の外で話すのは初めてだという事実に気が付いてしまった。


 余計なことに気付くと、せっかく落ち着いてきた心臓がまた早くなってきたような気がする。


 そんな調子でがちがちに固まってしまった晶を気遣ってか、香月は柔らかい笑みを見せた。


 「君は高校生のようだけど、今日は学校は大丈夫だった?」


 「は、はい。昨日終業式だったので、今日から夏休みです」


 「そうなんだね。夏休みというと、どこかへ出かけたりするの?」


 「…いえ、私は特には。たくさんバイトを入れるつもりです」


 「へぇ、偉いね」


 そう言って少し驚いたように目を丸くした彼の様子に、晶は同年代の男性に褒められて何だか気恥ずかしい気持ちになる。それに目の前の彼の雰囲気に圧されてか、会話が自然と敬語になってしまう。


 「何の仕事をしているか聞いても?」


 「はい…。カフェの、接客です」


 「そうなんだ。こんなに可愛らしい店員さんがいるなら、その店も盛況だろうね」


 「…いやいや、そんな…」


 何なんだろう。この、自然と紡がれる甘いお世辞は。


 本当に別世界の住人ではないだろうか。そうだ。きっと彼は日本人ではないのだろう。イタリア男性は息をするように女性を褒めると聞いたことがあるし、きっと目の前の彼もそうなのかもしれない。現に日本人離れしているし、ご両親の、それも父親のほうがきっとそちらのご出身なのかもしれない。


 それがデフォルトだと思えば、これからの会話の覚悟もできる。そう思うと、初めは落ち着かなかった彼との会話も、段々と楽しめる余裕が出てきた。


 (相当な手練れだわ…きっと)


 こんな、見た目も言動も魅力的で気遣いも完璧な男性が、人生経験豊富じゃないなんてことはないだろう。やはり、この年頃で妙に大人に見えるのは住んでる世界が違うからなのだろうか。


 そんな風に思いながら彼と会話をしていると、店員が紅茶の入った白い陶磁器のポットとソーサーに乗せたカップをテーブルに置きに来た。


 香月が手慣れた様子で晶のカップに熱い紅茶を注いでくれる。そして差し出されたカップを晶は恐縮しつつお礼を言って受け取った。淹れたての紅茶の香りを嗅いで、美形を前に緊張していた心が少し和らいだ気がする。


 自分のカップにも紅茶を注ぎ、一口飲んでから香月が話し始めた。


 「それじゃあ早速なんだけど、昨日君が体験したことをできるだけ詳しく聞かせてもらいたいんだ。でも話したくないことは無理に話さなくていいから。あと、もし話しているうちに気分や体調が悪くなったら、すぐに伝えてほしい」


 「はい、わかりました」


 そんなこともあるのかと、さっきとは違う緊張を感じながら、晶は昨日不動産会社で佐内と話した内容から、事故物件で自分に起きたことをなるべく詳しく話していく。


 

 「その部屋の扉が開いた時、君は何かを見た?」


 自分が気を失う直前のことまで話し終えた後、神妙な顔で香月が質問した。


 「…はっきりとは見えなかったけど、手?みたいなものがドアの向こうから沢山こっちに向かって来たような感じがしました。アレに捕まったら、何だか恐ろしいことになる様な…そんな気がして、すごく怖かったです…」


 今思い出してみても鳥肌が止まらず、晶は無意識に腕をさする。気を失う前に見た、身の毛もよだつ悍ましいもの。あれは一体何だったのだろう。


 話を神妙に聞いていた香月が、晶の様子を見て痛ましげな視線を送ってきた。


 「大丈夫?君はまだ退院したばかりだし、無理はしないほうがいい。話の続きはまた次の機会にしておこうか」


 「いえ!大丈夫です。少し怖くなっただけで、気分が悪くなるほどじゃありませんから」


 気遣ってくれる気持ちは嬉しかったが、自分はこれから部屋探しやバイトで忙しくなるだろう。それを思い出し、晶は溜息を吐きたくなった。


 そうなると、香月と会って話す機会は当面なさそうだ。なのでできれば彼の為にもそのまま会話を続けた方が良いだろうと晶は考えた。


 「そう言ってくれるなら、続けさせてもらおう。じゃあその、沢山の手?みたいなものは、君は誰の手だと思った?」


 妙な質問だと思った。誰の?そんなのは部屋に憑いた悪霊の物ではないのだろうか?返答に困っていると、香月が少し悩んだように顎に手をあてた。


 「ごめん、質問を変えよう。その手に、何か特別印象に残るものがあったかな?」


 「印象に…ですか?」


 「そう。性別とか、感じたものを何でも良いから教えてほしい」


 晶はあまり意識してなかったが、もう一度あの時のことをよく思い出してみる。一瞬の出来事だったので、覚えていることは少ないが、何か特徴があったような気がする。ーーー暫く考えて、ハッと思い出した。


 「…女の人の手だったと思います。指が細くて爪が長かったし…。あと、その中の1つは指輪のようなものをしていた気がします」


 「指輪ね…。それはどんな指輪だったか覚えてる?」


 「はっきりとは…でも変わった形の感じで…」


 そう言うと、香月は内ポケットから今度は写真を取り出した。それを晶に見せるようにテーブルに置く。


 若い男女が数人集まって写っている写真。どこかの店内で撮られたようなその写真の中央に、長い黒髪の女性が笑顔で写っていた。薬指に嵌めた指輪をこちらに向けているが、その指輪は珍しいデザインで、ターコイズの様な、コバルトブルーの石がそこに嵌っていた。


 「あ、この指輪!これと同じだったと思います。うっすらとですが、印象に残ってます」


 そう答えた晶に、香月はあまり驚いた様子もなく頷いた。納得したといった様子で写真を内ポケットに仕舞う。


 「やっぱり、これで決定打か」


 「決定打って?」


 まさかこの写真の女性があの手の主だとでもいうのだろうか?


 しかし、晶の質問には答えず、香月は伝票を持って立ち上がった。


 「今日は話を聞かせてくれてありがとう。君の話のおかげで、あの物件についてはこれでどうにかできそうだよ」


 そう言って、今にも立ち去ろうとした香月を晶は慌てて引き留める。


 「あの、待ってください!私、全然よくわからないままなんですけど…。一体どういうことなんですか?」


 あの部屋にいたモノは一体何だったのか。知るのが怖いと思う半面、正体がわからないままなんて、こんな中途半端なままでは気持ちが悪かった。


 「あそこにいたのは一体何だったんですか?」


 晶の質問に、香月は何かを逡巡するように少しの間視線を彷徨わせたあと、再び晶を見た。


 深くて澄んだ香月の瑠璃色の瞳に見つめられ、晶は自分の魂が吸い込まれていくような、妙な感覚に囚われる。


 何か魔法にでも掛かったかのように、どうしてもその瞳から目を逸らせない。


 「君は、あまりこの件に関わらない方がいい。深入りするとまたひどい目に合うかもしれない」


 本当に自分を心から心配している様な、労りの声色と視線を向けられ、晶はどうしていいかわからなくなってしまった。


 この人は、世にいうタラシというやつではないだろうか。それも、飛び切り上級の。


 昨日今日会ったばかりの小娘に、高度な技を使わないでもらいたい。というか、本当に同年代なんだろうか。到底信じられない。


 耳まで赤くなっていたことに気付かず、晶はまた無意識に香月をじっと見つめてしまっていた。今の二人の様子を傍から見たら、初々しい若人のカップルにでも見えていただろう。


 はっと気を取り直し、晶は頭を振る。


 「でっ…でも、このままじゃ私も気が済まないです!せめてあの部屋にいたモノの正体だけでも教えて下さい!」


 そう食い下がった晶に、香月は少し悩む様にじっと彼女を見つめ返す。しばらくそうした後、彼は軽く息を吐いてまた席に着いた。


 「…この話を聞いたら、君はもうこの件に関わらない。そう約束してくれるね?」


 先ほどの甘い視線とは違い、香月は強い光を湛えた瞳を晶に向けた。晶は一瞬たじろいだが、覚悟を決めてしっかりと頷く。


 「わかりました」


 晶の返事に頷き返し、香月はやっと話し始めた。



 「あの部屋で異常な現象が現れ始めたのは、君も不動産会社で聞いた通り、不幸な事故が起きてからなんだ。だからこちらは、まずその事故について調べた」


 そう言って、香月はまだうっすらと湯気の立っている紅茶のカップをゆっくりと口に運んだ。


 晶も思い出したようにカップに手を伸ばす。程よく冷めた紅茶の苦みが、緊張で乾いた喉を心地よく潤してくれる。


 「その事故というのは、今から約二年前、あのマンションが建ってまだ間もないころに起こった。その部屋に初めて住んだ女性が、浴室で亡くなっていた。その女性というのは、さっき君に見せた写真に写っていた指輪の女性だ」


 やはりというべきか。指輪の件もあるし、その女性が悪霊の正体で間違いはなさそうだ。でも納得できない部分もある。写真の女性はとても幸せそうで、悪霊なんて縁がなさそうに見えた。そんな女性が悪霊になってしまうなんて、一体何が彼女をそうさせたのだろうか。


 「もしかしてその人、惨い殺され方でもしたんですか?」


 晶が怖々聞いてみると、香月は首を横に振った。


 「状況から見て、自殺だった可能性が高い。浴室で手首を自分で切ったことによる大量出血が原因。でも不可解なのが、亡くなる直前まで特に悩んでいる様子もなかったこと。友人の証言によると、むしろ恋人と婚約したばかりで、幸せオーラを周りに振り撒いていたらしい」


 やはり写真で見た指輪は婚約指輪だったのか。女性がつけていたのは、ターコイズの石を指輪のラインに沿って嵌め込んだデザインだった。婚約指輪は大体ダイヤモンドが使われることが多い印象だが、ターコイズを婚約指輪にするからには、何かその石に特別な思い入れがあったのだろうか。


 そういえば、晶も母の婚約指輪を形見として常に持ち歩いているが、それもダイヤモンドではない。自分の両親にも何か思い入れがあったのかも知れないが、今となっては知る術もない。


 「ということは、その恋人が自殺の原因ですか?」


 「まあ、そんなところかもね。ともかく、こちらとしては異常現象の正体が掴めれば、そこまで詳しい調査は必要ない。それ以上は推測の域を出ないしね」


 「そういうものなんですか…。じゃあ、幽霊退治はどうやるんですか?」


 少し腑に落ちない気もしたが、それよりも、晶にとってはそこが一番興味があるところだ。拝んだことはないと言っていたが、ではどうやって悪霊を退治するのだろう。


 少し期待するような目で見つめる晶に、香月はわざとらしく口角を上げて意地悪そうな顔を作ると、ニンマリと笑って見せた。



 「それは、秘密だよ」



 そう言った香月の表情からは、それまでの紳士的なものとは雰囲気の違う、ハッとするほどの凄味と、得も言われぬ色気が迸っていた。


 今までとは別人の様な香月が醸し出す空気に飲まれ、晶はそれ以上問い詰めることができなかった。


 (…この人、一体何者だろう?)


 蛇に睨まれたカエルの様な心境で、目の前に座る人物を見る。この有無を言わせない迫力は、何度も言うようだがとても同年代の青年とは思えない。


 「じゃあ、この話はこれでお終い。僕の為に時間を取ってくれてありがとう。お礼と言っては何だけど、家の近くまで送っていくよ」


 先ほどの雰囲気とは打って変わって、彼はまた元の人の好さそうな紳士の微笑を向けてくる。


 がらりと纏う雰囲気を変えてきた香月に呆気にとられつつ、まだ先ほどの底が知れない彼の雰囲気に飲まれてしまっていた晶は、彼の申し出を断る勇気など持てるはずもなく、こくこくと顔を縦に振るしかなかった。





 


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