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17.温かな宵闇




 「本当に、良いのでしょうか…?」



 いつの間にか梅雨空は真夏の太陽の光が強く照り付ける濃い青空にその姿を変え、庭を彩る花や木々たちは眩しい光を浴びて鮮やかな色彩を惜しげもなく魅せるように輝いている。


 嵌め込まれた磨りガラスから、明るい光が部屋の中に差し込む午後。晶は外の明るさとは対照的な薄暗い部屋の中にいた。


 両側の壁には天井まである本棚。そこにタイトルさえよくわからない洋書がズラリと並んでいる。この部屋にいると、ここが本当に日本であることを忘れてしまいそうだ。


 そんな空間に置かれたベルベット地の布張りのソファは、身体が沈んでしまうほどフカフカで、晶は何だか落ち着かない気持ちでそこに座っていた。


 目の前にはこの家の主人である香月青年と、その執事の堀越。それから卓上に二枚の契約書。今この場では晶の住む場所と労働の条件が話し合われていた。


 

 「とりあえず、当面は新しい住まいが見つかるまでということにするけど、期限は気にしなくていいから、いつまでもいてくれて構わないよ」


 契約書に流れるようにサインするこの屋敷の主人は、先ほどから胡散臭いほどににこやかな笑顔を見せている。


 その隣の執事も然り。二人とも顔が良いのでうっかり騙されそうになるが、何か裏があるような気がして、晶は先ほどから何だか落ち着かない気持ちでいた。


 「それに、まだ学生の君には勉強が本分だから、夜九時以降の労働は無しにしよう。朝も好きなだけ寝ていて構わないから、大体毎日二時間ぐらい堀越の手伝いをしてくれればいいよ」


 「…それで、家賃と光熱費引いても毎月のお給料がこんなに…しかも三食の食事手当付きだなんて…どこのご令嬢ですか私はっ!?」


 晶は顔を引き攣らせて思わず突っ込んでしまった。


 日本中どこを探してもこんな好条件なバイトは見つからないだろう。これだけの労働でこの金額はありえない。もはや恐怖さえ感じる。これには絶対に何か裏があるに違いない。


 そう思った晶は疑いの気持ちを隠すことなく自分の主人となる彼を見たが、当の本人はどこ吹く風といった様子だ。


 「そう?でも堀越の手伝いは結構ハードだと思うよ?彼は今、一人でこの家を切り盛りしているからね」


 「そうです。基本的には家政婦のような仕事をお願いすると思いますが、他にも瑠依様のお仕事のお手伝いもお願いするかもしれません。その時は別途に手当を付けますが」


 それを聞いて晶ははっとした。もしかしたら笑顔の裏にあったのはこのことではないだろうか?


 「…香月さんのお手伝いって、幽霊退治ですか?」


 「まぁ、そんな仕事も頼むかもしれないけど、今回みたいに危険な目には合わせないようにくれぐれも気を付けるから」


 そう言って困ったように笑いかける香月の表情には、先ほどまでの胡散臭さは無くなっている。


 「それに危険が伴うような仕事なら危険手当ももちろん…」


 「分かりました!大丈夫です!何でもやらせていただきます!!」


 何だか怖くなってきて、晶は話を無理やり打ち切った。これ以上聞いているとどんどん給料が上がっていきそうで、良いはずなのに何だか恐ろしい。等価交換であれば晶に要求されるものがだんだんと吊り上がっている気がして、晶は思わず身震いした。これ以上は身の危険すら感じてしまう。


 「そう?良かった。ああ、でも、この家の仕事に就くにあたっては、いくつか条件があるんだ」


 晶の胸中を知ってか知らずか、香月はサラリとそう言って晶に笑顔を向け、堀越に目線を移した。それを受けて軽く頷いた堀越は改めて晶に向き直る。


 「では、私からお話させていただきます。まず、一つ目。この家に関することは無闇に詮索しないこと。私と瑠依様がお話したこと以上のことは、ご自身のためにも耳を塞いでおいてください」


 いきなり難題が課せられた。一番知りたかったことが教えてもらえないとは。


 だって、郊外にあるとはいえこんな立派な屋敷に住んでいる若い主人とは、一体何者なのか。気にならないほうがおかしい。いくら物事に興味の薄い晶でもそれはやはり気になる所だった。ここで働くとなれば当然教えてもらえると思っていたのだが、いきなり当てが外れてしまった。


 しかし、推しのプライベートは見て見ぬふりをするのが正しいファンの鉄則だと聞いたことがある。自分も正しいファンに徹するため、一定の距離を保つことを心がけよう。


 晶はそう心の中で誓い、堀越に頷いて見せる。


 「次に二つ目。基本的に来客とはお話ししないようにしてください。もし話しかけられ、何か聞かれた場合、知らぬ存ぜぬを通し、それでも尚聞かれた場合は、契約上のルールだからと言って断ってください」


 「そんなにお客さんは来るんですか?」

 

 晶がこの数日お世話になった時は来客などいなかったが、主人の仕事上、本来は来客も多いのかもしれない。そう思ったが、堀越の回答は予想外だった。


 「いえ、基本的に来客はありません。瑠依様は依頼人とお会いになるときは必ずこちらから出向くので、この屋敷に人を呼ぶことはほとんどありません。ただ、招かれざる客というものもおりまして、そう言った場合、こちらとしては用の無いお客様ですので、丁重にお帰り頂いています。そういった方が無用な詮索をする場合がありますので、基本的に来客対応は私が行いますが、万が一捕まってしまった場合は気を付けるようにしてください」


 「招かれざる客って?」


 「お聞きにならないほうが良いと思います」


 そう言ってニコリと笑った堀越は、笑顔なのに有無を言わせぬ迫力があり、晶は思わず背中に冷や汗を感じた。


 「そして三つ目。この家の地下は瑠依様の仕事部屋になっていますので、立ち入ることを禁止させていただきます。―――以上が条件になりますが、瑠依様、他に何かございますでしょうか?」


 それを受けて、香月は手を顎に当てて長いまつ毛を伏せ、考える素振りを見せる。


 「そうだな、特には…。ああ、一つだけ確認しておきたいんだけど―――」


 ニコリと笑顔を見せる香月の顔を見て、晶は何か嫌な予感がした。


 「寝るときは僕と一緒の部屋で眠ることが、静野さんの条件だったよね。もちろんこちらもその条件をのむから、安心してくれていいよ」


 「!!」


 それは本来晶から悔しまぎれに出した条件だったが、『僕と一緒の』は付けた覚えがない。


 しかも相手がこの香月となると、果たして自分の安眠は約束されるのかどうか。それに、香月の方は余裕の顔をしているが、本当にそれで大丈夫なのだろうか。


 色々な考えが頭を過り、固まったまま返事を言い淀んでいると、香月の表情が甘く色香を臭わせるようなものへと変わった。


 「先日、君の中の霊が浄化された日に共に夜を過ごしてみて分かったんだ。僕にも君が必要だってね」


 そう言ってますます甘い視線を晶に向ける香月に、訳が分からず晶は狼狽える。


 「ど、ど、どどういうことですかっっ!?」


 「あの日、僕は君が眠った後、君の眠る姿を見つめながら、いつの間にか僕も眠りについていたんだよ。それには驚いた。静野さんも堀越から聞いている通り、僕には不眠症の気があってね。限界までいかないと眠れないんだ。でもあの日は何の抵抗もなく眠りに就くことができた。これは今までにないことで、自分でも眠れたことに驚いたよ」


 そう言ってサッと晶の右手を取ると、そのまま流れるように薬指のムーンストーンに口付けを落とす。


 そのまま呆気にとられた晶をニコニコと見つめ、手の甲を親指で優しく撫で始めた。その行為に晶の顔は徐々に茹蛸のようになり、言葉を発せずに口をハクハクと開け閉めするだけの機械と化す。


 「これは所謂一石二鳥というやつで、二人で一緒に眠ればお互いにとって利になるんだ。だからこの条件は外せないよね」


 「は、はぁ…」


 キラキラした笑顔が眩しい…。晶は沸騰した脳みそで必死に考える。確かに、バイト先での仕事内容と変わらない条件なのだから、香月と一緒に眠る行為自体には問題はないはずだ。


 むしろその他の面で大変な好待遇なのだから、この仕事をやらない手はないだろう。そう思うが、自分の中の何かが警鐘を鳴らすように心臓が早鐘を打っている。


 自分は何を恐れているのか。目の前に出された餌に安易に飛びつくことへの警戒か、それとも―――。


 「では、以上の条件を踏まえた上で、改めて契約をするかどうか考慮していただきたいのですが…」


 堀越がそう言う間に、晶は静かに深呼吸し、膝に置いていた拳にぐっと力を入れて頭を下げる。


 「やります。条件もすべて飲みます。―――よろしくお願いします」


 晶は今回の事で、密かに心に決めたことがある。それは、香月に恩を返すこと。命を助けてもらい、生きる希望も貰った香月に、屋敷で働きながら少しでも役に立って恩を返していくことが、当面の晶の目標だ。


 その目標の為ならば、どんな条件でも飲んで見せよう。晶は覚悟を決めて顔を上げ、今から自分の雇い主となる香月の顔を見る。


 すると彼は満足そうな、でもどこか困ったような笑顔で頷いた。


 「こちらこそ、どうぞよろしく」






****





 「本当に、壊されちゃったんだ…」


 昼間の暑さが未だ地面に燻り、夜気を纏い始めた風も真夏の匂いを感じさせるものとなった夕刻。


 未だに太陽は沈みきらず、街がまだ浮足立っているような空気の中、晶は工事の囲いで覆われた元の自宅アパートの跡地にいた。

 

 建物も庭木も全て更地になった土地を見て、晶は少しの感傷にも浸れずにその場に立ち尽くす。


 住宅街の中にぽっかりと空いた空間は異質で、その場所だけどこか別の場所に転移してしまったようにさえ感じる。壊されていく過程を見れば感傷的な気持ちも起こるのだろうが、こうもさっぱりとしてしまうと返って涙も引っ込んでしまうというものだ。


 晶は小さい溜息を零すと、その場から立ち去るために歩き出す。思い出を彼方此方から掘り起こして感傷に浸ることは簡単だ。でももうそれはしたくない。やっと前を向こうとしているのに、また独りきりの夜に引き戻されそうになってしまうから。


 空を見上げると乱立した雲が夕焼けを映し、ピンク色に染まっている。遠くから微かに聞こえる雷鳴と波の音。そしてその匂いを嗅いで、晶は自分の心臓が微かに震えだすのを感じた。


 (―――もう大丈夫。私は、大丈夫)


 言い聞かせる様に深く深く呼吸をして、夏の夕暮れの空気を肺に満たした。


 薄暗くなってきた路地裏は、家々から明かりが漏れ、家族の笑い声とともにどこからか夕食の匂いが漂ってくる。


 薄闇に沈む道を歩きながら、晶は自分を落ち着かせるために、これまでの出来事を思い返した。



 父親の死による突然の喪失感。


 孤独と戦った夜のこと。


 生きながら死んでいた自分の顔。


 同じ悲しみを持つ霊に取り憑かれたこと。


 青い瞳を持つ不思議な青年。


 寂しさと向き合ったこと。


 胸に灯った温かさ。


 やっぱり生きていたいと思ったこと。


 瑠璃色の中の楽園。



 そして歩きながら、ふと考える。


 (―――お父さんの未練って、何だろう?)


 小泉純子は未練があるから現世にその魂が彷徨っていた。ということは、父親に未練が無ければもうこの世に父親の魂はないということだ。


 それならば、もしかしたら自分は初めから無いものねだりだったのかもしれない。



 考えながら歩いていると、いつの間にか路地裏を抜け、晶はあの交差点を見渡す場所まで来ていた。


 頼りない街灯に照らされた交差点。その街灯の下に、今日も一輪の花が薄汚れた瓶に挿してあるのが見える。花は昼間の暑さにやられたのか、力なく萎れていた。


 晶は一度立ち止まり、深く息を吸う。

 

 夜の匂いを胸いっぱい吸い込むと、何故かあの瑠璃色を思い出した。すると、胸の奥にポッと小さな明かりが灯ったような気がした。


 「大丈夫」


 震える心臓を落ち着かせて、再び交差点に向かって一歩を踏み出す。


 いないならそれでいい。でも父親にもし未練があったとして、彼が未だに彷徨っているとしたら。もしそうなら、どうにかその未練を伝えようとするのではないだろうか。


 その答えはそこにある気がする。


 晶はだんだんと逸る気持ちを抑えきれず、思わず走り出した。


 (あの時見た夢みたい…)


 晶はひとり夢中で走り、とうとう街灯が照らすアスファルトの境界まで辿り着いた。


 上がった息を整えるため立ち止まると、いつの間にか雨が降り始め、全身を濡らしていることに気付く。


 晶はふと思い出し、肩にかけていた鞄から黒い折り畳み傘を取り出した。あの時堀越に借りた傘だ。返す機会に恵まれず、ずっと持ったままだった。


 傘を差してから、ふと足元を見ると、街灯に照らされたアスファルトの端に瓶に挿された花が目に入った。先ほど遠くで見たときは萎れていたと思ったのに、今改めて見るとその青い花弁はまだ瑞々しく、凛と咲き誇っている。


 その花に近づこうと一歩踏み出した時、街灯の明かりの向こう側で、何かの気配を感じた。


 晶は注意深くそちらを見つめる。すると、それはだんだんと近づいてくるようで、晶は身構えたが、その気配は街灯の明かりが照らす範囲の一歩手前で止まった。

 


 「…それ以上、近づいてはいけないよ」


 「……お父さん?」


 真っ黒な影のようなその気配から聞こえてきた、どこか懐かしく耳に響くそれは、紛れもなく自分の父親の声だった。


 暫くぶりに聞くその声に、晶はぐっと唇を噛む。


 乗り越えたはずの思いが溢れ出てくるのを感じ、それを必死に押し戻した。



 「お父さん…どうして?どうしてこんなところにいるの?もしかして、私が心配だった?ごめんね、ちゃんとお別れ出来なくて…」


 色んな思いが言葉になって出てくるが、父親の影はそれをじっと聞いているだけで微動だにしない。それでも晶は言わずにはいられなかった。


 「私は大丈夫だから。心配しなくても、ちゃんと元気に、生きていく…から…っ」


 (ここで泣いたら、お父さんが心配する。ちゃんと大丈夫なところを見せなきゃいけないのに!)


 そう思うのとは裏腹に、決壊した感情は止めどなく溢れ出し、もはや止めることは不可能だった。


 父親との思い出が、後から後から溢れ出す。繋いだ手の温もりや、背中の温かさ。撫でられた頭の感触。喧嘩して口をきかなかった日々や、テレビの前で笑い合った何気ない毎日が、とても愛おしくて胸を締めつける。


 嗚咽を漏らしながら必死にその涙を拭っている晶を、父親はただ黙って見ていた。それでも不思議と晶を思いやる気配が明かりの外の暗闇から伝わってきて、それが父親らしくて、また涙が溢れる。


 当たる雨は温かく二人を濡らし、その音は優しく耳に響いていた。


 「…ごめんね。こんな姿を見せるはずじゃなかったのに。でも本当に私は大丈夫だから、もうお母さんが待ってる場所に行ってあげてね」


 晶はやっと落ち着きをとりもどしてそう言うと、ふと自分の指に嵌まっていたムーンストーンの指輪を見た。


 (うん、それがいい)


 晶は小さく頷くと、指からそれを外し、暗闇の方へ差し出す。


 「これ、返すね。これを持ってお母さんに会いに行って。お母さん、きっとお父さんを待ってるんじゃないかな」


 あの夢で見た二人を思い出す。この指輪は、もともと両親の婚約指輪だ。自分が持っているよりも母親のもとに返した方が良いだろう。これは、二人の思い出の品だから。


 「…本当にいいのか?」


 父親からの問いに、晶は小さく頷く。


 「私はもう大丈夫。でも最後に、お父さんの顔、見たい。ちゃんと見たい。ちゃんと見てお別れしたら、きっと私の未練も無くなる。…お父さん、もしかしたら私のために今まで残っていてくれたんじゃない?」


 「…」


 「顔、見せて。どんな顔でもいいから。ちゃんと見たい」


 そう言うと、明かりの向こう側から気配が動くのを感じた。


 じっと晶が視線を送る先――その街灯の明かりの中に入ってきたのは、所々破れて赤黒い染みが付いた白いシャツにスラックスを履いた、右側の顔が醜く陥没し、頭蓋骨まで剥き出しになった最後の姿の父親だった。


 ぐっと歯を食いしばり、その顔をしっかりと見つめる。堪らず涙が溢れ出し、晶は思わず傘を投げ出して父親の胸に飛び込んだ。


 「お父さん…っ、ごめ…んっ。ありがと…っ」



 父親が死んだ時、晶はその事実に目を背けるように、その痛ましい顔をまともに見ることができなかった。それが自分の深い後悔となっていたことに、漸く気付いた。


 嗚咽の合間に伝えたい言葉を挟むが、上手く言葉に出来ない。代わりに抱きつく力を強くするしかその思いを伝える術がなかった。


 そんな晶を父親は残された片方の瞳で悲しそうに見つめていたが、晶が泣き止むまでその背中を優しくあやす様に撫で続けてくれた。


 落ち着きを取り戻してきた晶は、背中に感じる温かさに徐々に心が解れていくのを感じていた。


 同時に、最近同じことがあったことを思い出す。その感触まで思い出してしまい、密かに頬を染める。


 晶はやっと顔を上げると、父親の胸から顔を離してその手を取った。そこにムーンストーンの指輪を載せる。


 「…お母さんに、よろしくね」


 そう言って、精一杯の笑顔で父親の顔を見上げる。すると、彼は眩しいものを見るような眼差しで晶の顔を見つめたあと、困ったような微笑みを見せて頷いた。


 次第にその顔がだんだんと揺らいでいき、やがて暗闇の中に溶けるように消えていく。




 「…さよなら」



 

 呟いた言葉は、優しい雨音の中にぽつんと落ちて消えた。


 晶は一人立ち尽くし、しばらくその場から動けなかった。




 遠くに雨の音と波の音を聞きながら、ぼんやりと暗闇を見つめていた晶はふと、足元にある青い花に視線を移した。


 スポットライトに照らされて輝くように咲き誇っていたその花が、次の瞬間、みるみる萎れていく。


 それと同時に、目を覚ましたような感覚を覚え、その変化にくらりと目が回る。晶は思わずその場に蹲った。



 暫く目を瞑ってやり過ごしていると、いつの間にか全身に当たっていた雨粒が止んでいることに気付いた。


 雨の音はしているのにおかしいと思い、目を開けて徐に空を見上げれば、そこには青い月が二つ、ぽっかりと浮かんでいる。


 こちらを見下ろす青い月は、じっと見つめていると何だか悲しげな色に見えた。



 「香月さん…こんな所で何してるんですか?」



 香月は晶が落とした傘を差しながら、じっと晶を見下ろしていた。


 どうして彼がここにいるのだろう?それに、どうしてそんな悲しい目をしているのかと不思議に思う。

 

 「それはこっちの台詞。…大丈夫?」


 その低くて柔らかい声を聞き、彼の存在をしっかりと認識した途端、何故だか全身の力が抜けていくのを感じた。


 「…はい。もう、大丈夫です」


 晶の答えを聞いて、香月は一瞬その瞳の色を微かに深くする。しかし、香月を見上げたまま立ち上がる様子のない晶の姿を不審に思ったのか、彼は僅かにその眉を寄せた。


 「…もしかして、立てないの?」


 「…いえ、大丈夫ですので、気にしないでください」


 晶はしゃがんだ状態で香月を見上げたまま答える。


 質問の答えになっていないが、笑顔で誤魔化した。香月が来てくれたことで安心して腰が抜けてしまったなんて暴露できるわけがない。


 ニコニコと笑ってやり過ごそうとしていると、ますます眉間に皺を寄せた彼は、突然その綺麗な顔をぐっと近づけてきた。


 互いの鼻先がくっつく程近くに迫った彼の瞳を思わず覗き込む形になった晶は、相変わらず宝石のように美しく神秘的な瞳につい魅入ってしまう。


 その瞳に暫く見つめられ、ぼんやりと見惚れていると、次第にこの事態の意味するところが何なのか思い至った。


 (もももももしかして、これって!!?)


 思い付いた一つの可能性に、晶の頭は混乱の極致に達し、身体は岩のように硬直する。


 思わずぎゅっと目を瞑った晶は、その直後に香月の瑠璃色の瞳が穏やかな色を湛えたことには気付かなかった。


 全身に力を入れて硬直していた晶は、突如身体が浮遊感に包まれたことに気づき、あわてて目を開ける。


 すると驚くことに、晶の身体は香月の腕に抱きかかえられていた。


 所謂お姫様抱っこをされた状態で、驚きすぎて声も出せない晶はただただ目を白黒させる。


 「なななっなにをっっ」


 やっと出せた声は情けないくらいにか細くて、自分の身体が香月の胸に密着している事実にクラリと目眩がした。さらに夜気を纏った彼の匂いを間近に感じて、身体が急速に熱を持つ。するとますます眩暈が酷くなった気がした。


 「お、降ろしてください!」


 「何言ってるの、腰が抜けてるくせに」


 「時間が経てば大丈夫ですから!ちょっと休んでいただけですし!」


 「はいはい」


 晶の必死の弁明も相手にせず、香月は晶をお姫様抱っこしたままずんずん進んでいく。その彼の行動に困惑しながらも、晶は自分の身の内の熱とその心地よさに戸惑い、無意識に彼の胸元のシャツをぎゅっと握り締めていた。



 「そういえば、今日は君の歓迎会をするって張り切っていたよ」


 道の向こうで主人の帰りを待つ堀越の姿が見えたころ、香月は思い出したように笑って言った。


 「え、本当ですか!?」


 「うん。腕に縒りをかけて歓迎するって。僕も君を歓迎するよ。ようこそ、我が家へ」


 そう言って微笑む穏やかなその顔に、晶は胸に温かいものがこみ上げる。それが少しだけ零れそうになり、慌てて彼からそっと視線を逸らした。


 気が付くといつの間にか雨は上がっていて、雲間から夜色に染まりかけた茜色の光が差して、彼の横顔を柔らかく照らした。


 その光を受けて輝く彼の瞳が本当に綺麗で、晶は心の何処かで、この夕闇にいつまでも漂っていられたらと思ってしまった。


 でも、その願いは叶わないから、晶はこの瞬間を切り取って、宝物のように大切に心に仕舞っておくことにする。



 晶はふいにあの交差点を振り返る。



 暗闇の中、頼りない街灯に照らされたそこは、今見ると何の変哲もない交差点に見える。


 そのことに安堵する気持ちと、泣き叫びたくなる気持ちが混在して、晶はすぐに視線を戻した。



 (私はもう、大丈夫だよ)



 心の中で、そっとそう呟いた。




 視線を上げれば、夕空は茜色から深い蒼へと移り行く様を描き、忍び寄る夜の孤独を映していたはずの闇色は、温かな夜風を伴って晶の心に優しく吹き込んできた。



 夏の夜に響く生き物たちの声に


 人々が行き交う街の騒めきに


 闇に浮かぶ街灯の明かりに


 彼の胸から伝わる鼓動と甘い夜の香りに


 雲間から覗く月明かりに


 今感じる全ての、そのひとつひとつに胸を震わせる。


 晶はそれらをひとつも零さないよう全部吸い込み、




 温かな宵闇に染まった。


  


 

 


 




 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 数ある作品の中で、この物語を読んでいただいたこと、本当に嬉しく思います。


 少しでもお楽しみいただけた方は、作者の励みとなりますので評価していただけると嬉しいです。宜しくお願いします。

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― 新着の感想 ―
怖いのは苦手なんですが、明るい終わりで気持ちよく読み終えられました。 おぼっちゃまの香月と晶がバランスいいなと思いました。
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