15.月夜に煌めくものは
規則正しい寝息を立て始めた彼女は、無事に夢の世界へと旅立ったようだ。
香月は軽く息を吐きながら、どさりと彼女の横に体を横たえた。間違っても彼女に不用意に触れないよう、できるだけ身体をベッドの端に寄せる。
倒れてから約一日半眠っていた香月にまだ眠気はないが、多少の疲労感は残っている。無意識に入れていたらしい身体の力を抜くため、目を瞑って深く息を吸った。すると、花のような香りが僅かに鼻を掠めた。
「…驚いたな」
そう呟いて隣に眠る彼女を見る。僅かな月明かりに照らされた彼女の穏やかな寝顔は、普段より若干幼く見える。その顔をぼんやりと見つめながら、香月は胸の奥底に溜まったものを払拭するように溜息をひとつ吐いた。
しばらくそうしていると、ふと規則正しい寝息が微かに乱れはじめる。
香月は目を閉じて眠ったふりをしながら耳を傍立てた。
静かに聞いていれば、それは徐々にすすり泣くようなものに変わっていく。やがて衣擦れの音とともにベッドが僅かに揺れ、寝ていたはずの彼女が起き上がったことが分かった。
そのまま彼女はベッドから降りると、月明かりが漏れる窓の方へと向かう。鍵を開けて窓を開け放つと、室内に夜の香りとともに湿った空気が流れ込んできた。彼女はそのまま裸足でバルコニーへと出て行く。
彼女が外に出たタイミングで香月は素早くベッドから起き、気配を消して窓に近づいた。そのままカーテンの影に隠れるようにして彼女の様子を覗く。
ゆっくりとバルコニーを歩く彼女の足取りは覚束ない。ふらふらとまるで夢遊病者のように歩く彼女は、とうとうバルコニーの柵の所まで辿り着いた。すると今度はその柵を越えようと身体を乗り出しはじめる。
柵を乗り越えようとしたその瞬間、彼女の身体は柵に乗り上げたところで固まったように動かなくなった。
「…また、あなたなの…」
首だけで振り向いた彼女の目は闇夜にあっても尚、虚空を映したかのように仄暗く、そこに何の感情も窺い知ることはできない。夜気を纏った生温い風がその髪を弄ぶように吹きつけていた。
そんな彼女にゆっくりと近づくと、香月は少し距離を取ったところで立ち止まる。
「…あなたは、小泉純子さんですね?」
確信を持って香月がそう尋ねると、彼女は忌々しいものを見るように彼を睨んだ。
「…いつもいつも、よくも邪魔をしてくれたわね」
柵から身体を降ろし、香月と向き合った彼女は警戒するように彼を見据える。
「…あなた、一体何なの?私の邪魔をしないで!」
「何と言われても、どう答えればいいか…。差し詰め、あなたと同じ化け物の類でしょうか。それに、邪魔なのは僕じゃなくてあなたの方だ」
香月はその端正な顔を僅かに傾け、さも愉快気に片方の口の端を釣り上げる。
その時、風に流された雲が月を隠し、真の闇が辺りを支配した。
僅かな明かりさえないはずのその場所に立つ香月の、その三日月のように細められた瞳は異常な光を宿している。
本能的な恐怖が、相対する彼女の身体を無意識に震わせた。
「彼女を道連れにするのは、もうやめていただけませんか?」
香月が一歩彼女に近づく。彼女の方は逃げたくても足がその場に縫い留められたように動かせない。
「何をしても無駄だと、もう分ったでしょう?」
「…彼女も私と同じだったのに、余計な事を…」
「同じなんかじゃありません。彼女は自力で答えを見つけ、立ち直りつつあります。…なのにあなたは、このままですか?」
その妙に明るい声に侮蔑の色が乗せられているように感じて、彼女は激昂する。
「うるさいっ!!!聞きたくないわ!!もう終わりにしたいの!!同じ様な子に取り憑いても、私だけが救われない!!!どうして?どうして私だけ…」
聞いている者が耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫びは、夜の闇に吸い込まれていく。彼女は両手で顔を覆い、崩れるようにその場に蹲った。
「では、終わりにしてあげましょうか?」
その言葉に思わず顔を上げた彼女は、目の前の香月の瞳に意識を奪われた。
先ほどの表情とは打って変わって、一切の感情が抜け落ちたような顔をした彼の、未だ異常な光を帯びた瞳を見つめることしかできない。
しばらくそうしていたかと思うと、次第に何かが自分の首に巻きついてきたことに気が付いた。
「なに…?これ…っ!!」
それが自分の両手であることに気付き、彼女は愕然とする。意志とは関係なく徐々に力が入っていく自分の指に絞められ、息が苦しくなっていく。
何が起こっているのか分からない恐怖で見開かれた目からは生理的な涙が溢れ、頭がぼうっとなって意識が遠退いていく。それでも指の力は抜けず、意思とは反対にさらに強くなっていく。
(…これは、なに…?)
あまりの苦しさに、夢の中にいた晶の意識が目覚めた。
何が起こっているのか状況を把握しようとして、自分の手が勝手に自分の首を絞めていることに気付く。その事実に驚愕する間もなく、晶は残された力で抗う様に全力で声をあげた。
「っ…いやっ!!死にたくない!!!」
途端に指の力が一気に抜け、首が解放された。
思わずその場に蹲り、咳き込みながらも足りない酸素を補おうと何度も荒い呼吸を繰り返す。心臓がドクドク音を立てて暴れ、全身から汗が噴き出していた。
すると、いつの間にか自分を支えながら背中を擦る手に気が付いた。
振り向くと、香月が無表情のままぎこちない手つきで咳き込む晶の背中を擦っている。何がどうなったのかさっぱり訳が分からない晶は、荒い呼吸を収めつつ彼の表情の意味を考えた。
(もしかして、香月さんて…)
その考えに思い至り、呼吸を整えながら改めて彼の表情を窺うと、何かに気づいた様子の香月が急にその表情を冷たくし、睨むように前を見据えた。
何が起きたのだろうと晶も顔を上げると、そこには夜の闇よりも深い昏さを纏った影が立っていた。
風に靡く髪の毛はまるでそれぞれが生きているかのように蠢いて見え、顔の中央にある赤黒く光る目はこちらを睨むように見ている。その姿は、初めてマンションで見た悪霊の姿にそっくりだった。
「あれって…!」
「そう。君の中にいた彼女が、出てきたんだ」
香月はそう言うと一歩前に出て晶を背中に庇う様に立つ。
「―――やっと出てきた。これでようやく片が付けられる」
場違いに楽しそうな声色が聞こえてきて、晶は驚いて彼を見る。彼はその場にそぐわない喜色をその顔に浮かべていた。そのことに言いようのない不安を覚え、晶は思わず声をかける。
「…香月さん、これからどうするんですか?」
すると、振り向いた彼はその端正な口の端を釣り上げて、壮絶な笑みを浮かべた。それを見た途端、全身を鳥肌が覆い、得体の知れない恐怖が心を支配する。香月から感じる不穏な空気に、晶は胸の底がぞわりと粟立った。
「もちろん、除霊ってやつさ。―――僕は『拝み屋さん』だからね」
「除霊…」
その言葉はどこかで聞いたことがある。確かあれは以前読んだ漫画でだったと思うが、「浄霊」というのは確か霊を浄化する方法で、「除霊」は排除する方法ではなかったか。
(彼女を…排除する?それでいいの?)
いつの間にか周りに吹く風が強まり、湿った夜気を纏った風が吹き付け、晶の身体は小さく震えた。香月がこれから何をするのかわからないが、彼から発せられる不穏な空気を近くで感じ、何故か、このまま彼に任せてはいけないような気がし始めた。
「静野さん、できれば目を瞑って――」
香月がそう言いかけた途端、晶は彼の背中から抜け出して目の前の彼女の方へと向かった。
「―――あの!どうすればいいですか!?」
目の前の影の間近に立って、晶は勢いに任せて問いかける。
「話なら聞きますし、してほしいことがあったら、できる範囲で協力します!私たちにどうしてほしいですか?」
必死に言い募る晶を唖然として見ていた香月は、ハッと気を取り直すと晶を庇う様にその腕を掴む。晶はそれを視線で制し、影の方に向き直った。
じっと返事を待っていると、微かに影が蠢く。その時、晶の腕を掴む香月の力が強くなったが、続いて囁くような声が影から聞こえた。
『……それなら、…私を消して』
「え…?」
『…もう…消えたい……彼のいない世界では、意味がない。彼のいる世界に行けないのなら、もう…消えたい』
「そんな…」
その答えは、彼女が浄化を望んでいないということだ。悲しみの底から聞こえてくるようなその声を聞いて、晶は何も言えなくなってしまった。
ただ、自分の存在を消す。誰にも顧みられることなく、魂を消滅させる。その答えを自ら導き出した彼女は、どれほど絶望を繰り返したのだろう。彼女は悪霊になるほど彼のことを思いつめて、すべての希望も無くしてしまった。そんな彼女の心を浄化する方法なんてあるのだろうか。
無意識に香月の方を向くと、彼と目が合った。彼はその美しい眉間に皺を寄せてこちらを軽く睨んでいる。もしかして勝手な行動に出た晶に苛立っているのだろうか。
そう思っていると、彼は深いため息を吐いて晶の腕を掴んでいた手を離した。とうとう見捨てられたかと、胸がズキンと痛んだが、彼はすぐにその手を晶の手に重ねてきた。
驚いて繋がれた手と彼の顔を交互に見ると、彼は耳元で「危ないから」と囁き、改めて影の方に向き直る。
「小泉純子さん。あなたの望み、僕なら叶えてあげられます。――でも、本当にそれだけで良いんですか?」
その言葉を聞いた途端、黒い影は朧げに輪郭を現し始め、それはやがて黒髪が美しい女性の姿へと変わっていく。
彼女は両手で顔を覆うと、その華奢な肩を震わせた。
「最期に僕たちに、聞いてもらいたいことはありませんか?」
先ほどの好戦的な雰囲気は幾分和らぎ、香月は静かな声色で再び尋ねた。彼女はゆっくりと両手を顔から離し、涙で濡れた顔はそのままで答える。
「…私、間違っていたのかしら?」
そう言った彼女は、香月に答えを求めるというより自問自答しているような表情だ。そんな彼女に、香月は同情するでもなく、至極冷静に答える。
「少なくとも、無関係な女性を危険な目に合わせたのは間違いでしたね」
それを聞いた途端、彼女は悲痛な目で香月を見つめる。
「だって!!どうにもできなかったの!悲しくて、自分でもどうすればいいかわからなくて…気が付いたら同じように寂しい気持ちを抱えている子に寄り添うようになって…」
それは自分のことだと晶は思った。父親に会いたい心が彼女と共鳴してしまった。もしあの時香月が救ってくれなかったら、今頃は彼女とあちらへ旅立っていたかもしれない。今更ながら晶は背筋が寒くなった。
「で、一緒に終わりにしようとしたけど、できなかった?」
「…そう。この気持ちから抜け出したくて、もう終わりにしたかった。でも、できなかった。何故だかわからないけど、いつも失敗して」
「それは失敗ではなくて、あなたの意思ですよ」
香月がそう言うと、彼女は不可解だという表情を向ける。
「あなたは、返されることのない思いに飢えていた。でも、期待することも止められなかった。あなたが取り憑いた女性達は最後の最後でその寂しさを救われてきた。だからあなたは自分にも救いがあるのではと期待していたんでしょう?」
その言葉に、彼女は目を見開いて息を詰まらせる。
「…そう、なのかもしれない。あの部屋で、彼が迎えに来てくれることをずっと期待していたの。でも扉を開いて来てはくれなくて。ずっと待っていたのに」
「純子さん、彼は来ません」
その言葉に、彼女は虚空を見つめ黙ってしまう。
彼はもうこの世にはいない。その事実が、ずっと彼女の心を蝕んでいるのだ。その証拠に、彼女は感情が抜け落ちたかのようにその表情を無くしてしまった。
「あなたを救うのは、彼ではなく…彼からもらった心ではないですか?」
その意味を理解するようにゆるく瞬きをして、彼女はゆっくりと再びその感情を目に浮かべた。
「だって、ずっと一緒にいようって約束したのに…」
「…ずっと一緒じゃないですか」
「…え?」
思わずそう呟いた晶の方を彼女は見た。
「覚えているでしょう?彼とのことを。今でも大切にしているんですよね?その心の中に大事にしているなら、ずっと一緒にいられるじゃないですか」
あの客の男性は、そのことを縁に今を生きていた。そうやって、生者は折り合いをつけていくしかない。死者を偲ぶ心は、それを理由に狂っても良い免罪符にしてはいけないのだ。
「…っ」
流れ出した涙をぬぐいもせず、彼女は何度も首を横に振る。白くなるほどきつく握られた手は微かに震えていた。
「…何度もそう思おうとしたわ!でも私は成仏できなかった!きっと、彼から愛された証がほしかったのよ…。たくさん愛してくれたのに、それだけじゃ満足できなかった!自分に嫌気がさすわ」
「それで、これを探していたんですね」
そう言って香月は自分の手を差し出す。
そこには月の光を僅かに受けて煌めくターコイズの指輪が載っていた。
それを見た彼女は一瞬目を見開いたが、すぐにそれは落胆の色に染まる。
「違う…それじゃないの。私が欲しいのはそれじゃない」
彼女はそのまま俯いて力なく首を横に振る。
(この指輪じゃ、なかったの…?)
晶は彼女の求めていたものが指輪じゃないことに愕然とした。それでは、彼女を救う方法がわからない。
どうするのかと香月に目を向けると、彼はチラリと晶を見た後、再び胸元のポケットから何かを取り出した。
そして再び彼女の目の前でその手を開く。
それを見た彼女はその瞳を徐々に丸くし、香月とその掌にあるものを交互に見つめる。
そこには先ほどのよりも一回り大きいターコイズの指輪が載っていた。
「どうしてこれを…!」
「これは、祥太さんの部屋に隠されるように大事に仕舞われていました。まるで自分の心に蓋をするように厳重にね」
彼女は震える手でその指輪を取ってまじまじと見つめる。
「それには手紙も添えられていました。―――『約束を破るようなことをした俺を、できることなら一生恨んでくれ。そして、何十年か経って、お前がこっちに来た時に、またプロポーズさせてほしい。待っているから』だそうです」
そう伝えた瞬間、彼女のその瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……どうして?…それならどうしてあの時祥太は……」
「貴方が本当に祥太さんを大切に思っていたのなら、彼が貴方に別れを告げた理由が分かるんじゃないですか?」
「……だって…何で…何でよ……祥太ぁ!!」
そして、叫び声のような慟哭が夜空に響いた。
彼女はずっと彼に愛されていた。彼の彼女への想いが、このすれ違いを悲劇へと変えてしまった。もっと早くこの誤解が解けていれば。あるいは彼らが生きているときにその思いに気付いていれば。
「あなたはこの指輪を彼に嵌めたかったんですね…それが、唯一の心残りだった」
香月の言葉に、嗚咽を漏らしながら彼女が微かに頷く。彼女は自分がもらった指輪ではなく、彼に送った指輪を探し求めていた。
晶が横山祥太の家から飛び出した後、香月は生前に彼が使っていた部屋を念のため見せてもらっていた。そこで引き出しの奥底から見つけた鍵付きの箱。その中にこの二つが大事に納められていた。
純子は赤ん坊の頃両親を事故で無くし、養護施設で育った。家族愛というものを知ることなく育った純子は、その反動か子供の頃は物語や映画に出てくる家族に強い憧れを持っていた。
だが成長とともに、誰にも愛してもらえなかった自分が家族愛はおろか、愛そのものを理解できるのか疑問を持つようになり、次第に施設の人間や他人からも距離を置くようになっていった。
そんな中、就職先も決まり、施設から出て一人で生活し始めた純子は、一人の男性が気になり始める。同僚である彼は人付き合いが苦手な純子をさりげなくフォローしてくれて、純子が困っている様子にいち早く気付いてくれた。人からそんなことをしてもらったことのない純子は、この胸を占めるものが何なのかに気付くことを恐れて、気付かないように気持ちに蓋をした。愛されたことのない自分が他人を愛することができるとは到底思えなかったからだ。
しかし、無視しようとしても募る気持ちに毎日悩まされ、とうとう耐えられなくなった時、彼の方から純子に告白してきたのだ。初めてのことにパニック寸前の彼女は、いっそのこと振られようと自分のことを洗いざらい話し始めた。孤児であることや、愛に臆病なこと、そして持て余したこの思い。そうして全部ぶちまけた後にやってきたのは彼からの拒絶の言葉ではなくて熱い抱擁だった。
それから二人は交際を始め、周囲の人間にもその仲睦まじさが認識されたところで彼の方からターコイズの指輪とともにプロポーズの言葉を伝えられた。純子は感動してその日一日中泣き止むことができないほどだった。
それから結婚に向けて忙しい日々が始まったが、2か月が経った頃、祥太は会う度に沈んだ顔を見せるようになった。始めは疲れているのかとも思ったが、徐々に彼がこの結婚を後悔し始めているのかもしれないと思い始めた。
ある日何気なくそのことに触れると、祥太は疲れているだけだと言って曖昧な笑みを浮かべるだけ。その言葉を信じて、ふと、自分の薬指に嵌められている指輪に目を向けて、純子は良いことを思いつく。
―――自分からも婚約指輪を彼に送ろう
急いで店に向かい、彼のサイズにぴったりの自分とお揃いの指輪を購入し、驚かせようと彼の自宅にメッセージ付きで送った。メッセージの内容は「私と結婚してくれてありがとう。あなたと家族になれるなんて夢のようです。いつまでも一緒にいようね」
彼の驚く様子を想像しながら二人の新居になる部屋に帰ると、先に彼が来ていた。まだ2人で住み始めていたわけではなく、純子が先に一人暮らしの部屋を引き払ってこちらに移り住んでいた。ふざけて「ただいま!」と声をかけると、驚いた彼は次の瞬間泣きそうな顔をして、それからすぐ暗い顔で告げたのだ。「別れてほしい」と。
明確な理由もなく突然の別れ話に純子は混乱した。どんなに問い詰めても彼は理由を言わなかったし、しつこく聞き出そうとして拒絶されるのは耐えられなかった。純子はやはり自分の愛し方がいけなかったのかと自分を責めたりもした。そして、初めての愛の終わらせ方もわからないまま、彼女は彼のいない辛さに耐えきれなくて、自ら死を選んだのだった。
「祥太さんは、もうすぐいなくなる自分があなたを幸せにすることはできないと身を引いたんです。このまま一緒にいて自分の最期を見せると、いつまでも自分に縛り付けてしまうのではないかと」
「それでも!…それでもいいから、最後まで一緒にいたかったのに…!」
そう言って泣き崩れる彼女を見つめながら、香月は静かに言った。
「消して、楽にしてあげましょうか?」
その言葉に、彼女はふと顔を上げて香月を見る。
「あなたの記憶や、彼から貰ったものを。そうすれば執着は消えて心残りも無くなる。そうやって楽になることを、あなたは望みますか?」
そう問いかければ、彼女は一瞬考える素振りを見せた。しかしすぐに強く首を横に振る。幾分落ち着いたとはいえ、未だに嗚咽を漏らす彼女の手は、先ほどより幾分か力が抜けたようだった。
「じゃあ、その恨み言を、あちらに行って彼にぶちまけてきて下さい」
香月はそう言うと、繋いでいた晶の手を取って、そこに彼女の指輪を握らせた。
驚いて彼の顔を見つめた晶は、どうすればいいか瞬時に悟り、香月に頷き返す。そして彼女に近付いてその手を軽く引き寄せると、彼女の左手の薬指にターコイズの指輪をはめた。
涙を溜めたままの瞳を大きく見開いて晶を見た彼女は、そのまま薬指に視線を落とす。鮮やかなコバルトブルーの石が嵌ったその指輪を見つめた後、やがて静かに微笑んだ彼女は「そうね…」と呟いた。
そして、何かを吹っ切るように深く息を吸って吐き出し、改めて晶のことを見つめた彼女は晴れやかな表情を見せる。
「ありがとう。そうするわ。…あなたには悪いことをしちゃったわね」
「良いんです。それに…悪いことばっかりじゃなかったから」
そう言って晶は困ったように少し笑った。それを見て不思議そうな顔をした彼女は、ふと何か思いついたような表情を見せる。
そして、徐に晶の右手を取ると、そこに何かを握らせた。
「――ごめんなさい。そして、本当にありがとう。お幸せに」
そう言って笑顔を見せた彼女の目から一粒涙が零れ落ちる。
その瞬間、辺りの空気を吹き飛ばすように勢いよく風が吹き荒れた。
風の勢いに圧されてよろめきそうになった晶は、香月の腕にしっかりと抱きとめられた。背中に回された腕の感触に、こんな時でも心臓がまた忙しなく音を立てはじめてしまう。
赤くなった顔を俯かせていると、自分のとは違うもう一つの振動に気付き、更に全身が熱くなったことは内緒だ。
しばらくそうしていると、次第に風が止み、再び夜気を纏った空気が辺りに漂った。いつもより澄んだ夜の空気が、火照った全身を心地よく冷やしてくれる。
「終わったな」
頭の上から声がして、顔を上げる。すると、思いのほか間近にその美しい顔があり、今更ながら密着している事実に慌てて彼を突き飛ばしてしまいそうになった。危なかった。
「ありがとう、ございました」
「いや、君のおかげで解決したようなものだよ。僕のやり方ではうまくいったかどうかわからないから」
そう言って腕を緩めた彼は、その瞳に安堵の色を浮かべている。
彼の腕から解放された晶は、彼の体温が遠ざかってしまったことを少しだけ寂しく感じ、そのことに自分自身で驚いた。
そして晶はふと、ずっと握ったままだった自分の右手のことを思い出した。
恐る恐るその手を開いた晶は、驚きで息を飲む。
そこには、無くしたはずのムーンストーンの指輪と、彼女のターコイズの指輪が月明りに煌めいていた。




