表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/17

14.眠れない羊と紳士の夜




 「な…なんで…っ!??」



 突然入ってきた人物に驚いて、晶は思わず声を上げた。しかしすぐにはっと気付き、慌てて手を口に当てる。


 この店では従業員や客の身元が割れないように、仮面を被っているのだ。ここで下手に香月の名前を出しては不味いような気がした。


 香月はチラリと晶の方を一瞥すると、すぐに隣で寝ている男性に視線を移した。


 「…お客様。緊急事態が起こりましたので、今日のサービスはこれで終了させていただきます。速やかにお帰りを」


 「えっ!?」


 予想もしない言葉に晶はまたしても驚きの声を上げる。なぜ香月がそんなことを言うのか、それに緊急事態とは、一体何が起こったというのか。そもそも何故彼がここにいるのか。 


 混乱する晶にかまわず、香月は男性客の方を向いたまま、その顔をじっと見つめていた。


 「…?」


 時間にして数秒の間だけだったが、ピリっと張り詰めたような空気を感じて、パニック寸前だった晶は少し冷静さを取り戻す。


 「…ああ、わかった…。それなら、しかたがないな」


 香月に見つめられた男性は、ぼんやりとそう返事をする。


 息を詰めて事の成り行きを見ていた晶は、まるで夢の中の譫言のように答えた男性の声色に違和感を覚えた。


 男性の様子を確かめるため、その顔を覗こうとするが、急に腕を後ろから引っ張られ、身体のバランスを崩す。


 驚いて振り向くと、香月が晶の腕を掴んでいた。その顔は先ほどからずっと冷たい無表情で、いつもの雰囲気とはかけ離れた彼の様子に晶は不安を覚え、掴まれた腕を振りほどこうと身体を引いた。


 すると今度は少し強引に腕を引かれ、ついにはベッドから立たされてしまった。そのまま香月の目の前に立たされた晶は無表情のままの彼に両肩を掴まれ、顔を間近で覗き込まれる。


 その視線の圧が怖くて晶は彼の包囲網の中で身を縮こませるしかなかった。


 不機嫌にも見える彼の顔を見るのが怖くて俯いたまま青くなって固まっていると、頭の上から溜息のような音が聞こえてきた。


 それを聞いた途端、今の自分の姿を香月に見られたことが異常に恥ずかしくなり、全身がカッと燃えるように熱くなった。もしかしたら、香月はこんな晶の姿を見て呆れたのかもしれない。


 居た堪れなくて俯き縮こまっていると、ふいに香月の手が晶の肩から離れた。どうしたのかと僅かに顔を上げて様子を覗うと、香月はベッドの男性の側に回り込み、腕に嵌められた手枷を外し始めている。


 男性の手枷を素早く外し終えた香月は、すぐに晶の傍まで戻るとその手首を掴み、有無を言わさずドアの方へと向かった。


 「ちょ、ちょっと待って…」


 晶は混乱する頭のまま半ば強引に部屋から連れ出されるが、やはり残された男性が気になり、その様子を確かめようとした。しかしすぐに香月にドアを閉められてしまう。


 そのまま香月は晶の方を見ることもなく腕を引っ張りながら廊下を進んで行く。腕を掴む力は痛くない強さだが、振りほどくのは難しそうで、いつにない香月の様子に晶はますます混乱した。


 「…香月さん!!」


 やっとの思いでそう言ったが、香月は晶を振り向きもせず歩調も緩めようとしない。


 さすがに職場放棄はまずいと思い、晶は足を止めて何とか抵抗を試みた。


 「香月さん!私、まだ仕事が…」


 「いいから」


 そう言ってやっと晶の方を振り向いた香月はやはり無表情で、晶は胸の奥に冷たい針が刺さったような痛みを感じた。


 しかし次の瞬間、突然香月がその場にしゃがみ込んだ。


 「え?」


 どうしたのかと思ったその途端、晶の視界が急に高くなる。


 何が起きたのかと慌てて下を見ると、何と香月が晶のことを抱き上げていた。香月はそのまま何事もなかったかのように歩を進める。


 「ちょちょちょまって!!待ってくださ…わぁっっ!!」


 気が動転して焦った晶がバランスを崩しかけるも、香月の腕が晶の太ももあたりをしっかり抱きかかえているため落ちることはない。それでも不安定な上半身を支えるため、晶は思わず香月の首に抱きついてしまった。


 (ひえぇぇぇ…!!!)


 そんな自分の行為に慌てるが、もうどうにもできない。


 「おっ、おお降ろしてくださいっ!!ちゃんと歩きますから!!」


 「ダメ」


 (ダメ!?なにその言い方!!何か可愛くない!??反則じゃない!??)


 必死の説得も無下にされ、顔を真っ赤に染めた晶にはこの状況が既に許容範囲を超えていて、今にも気絶しそうだった。


 (うううっ…仮面で顔を隠されてて良かった…)


 誰かに抱きかかえられるなんてそれこそ幼少期以来で、さらに相手が香月ということに晶は自分の頭が沸騰するかと思った。香月はそのまま平然と建物内を進み、晶を抱き上げたまま裏口から非常階段を降りて店のビルの外に出る。


 混乱する頭の隅で、晶がここまで誰にも引き留められなかったことを不思議に思うのも束の間、出口のドアを潜り抜けた途端、夜気を纏った風がむわりと顔を撫でてきた。


 その風を受けた途端、胸が意味もなくざわつき、晶は思わず香月の首を抱き締める腕に力を入れてしまう。


 あわてて力を緩めるが、それに気づいた香月が少し晶の方を伺う仕草を見せた。しかし晶は顔を隠すように俯いたままでいたので、彼はそのまま宵闇の中を進んでいく。


 夏の夜の空気は、身から出る熱を冷ますには温すぎて、ちっとも役に立たなかった。


 暴れる心臓の音は、すでに彼の耳に直接届いてしまっているだろう。そのことでもすでに羞恥心が限界だったのに、自分の腕から彼の首にその熱が伝わっている事実に気付いてしまい、さらに追い打ちをかけられたような気持ちになって、晶はその体を更に縮こませる。


 いつの間にか辿り着いた路地裏は、表通りの煌びやかな世界から反転した世界のように闇の中に沈んでいた。


 路地を進んだ先に見慣れた車が停まっていた。車に辿り着くと香月は晶を抱えたまま器用に後部座席のドアを開け、晶をそのまま車の後部座席に降ろす。そして香月も隣に乗り込むと、車はすぐに動き出した。



 晶が未だに動揺から抜け出せないでいると、香月が徐ろに着ていた黒のジャケットを脱ぎ、それを晶の肩にかける。


 晶はなぜそんなことをしてくれるのかと一瞬思ったが、自分が今、ヒラヒラの薄いネグリジェ姿だったことを思い出し、慌ててジャケットを掴んで前を合わせた。


 (よりにもよって、こんな姿を…!)


 こんな姿の晶を、香月はどう思っただろうか。店にいるときは必死で仕事に向き合っていたが、一歩外に出て自分を知る人の前に立たされると、やはり居た堪れない気持ちになる。


 赤くなった顔を俯かせていると、急に目の前に大きな手が伸びてきた。


 その手は晶の横髪を梳く様にその耳にかけると、そのままそっと耳に触れる。


 「!!」


 ぞくっとして反射的に思わず肩を跳ねさせる。その手はそのまま晶の仮面をゆっくりと剝ぎ取っていった。


 恐る恐る顔を上げると、瑠璃色の瞳が真っ直ぐ晶を見つめている。暗い車内でもなお僅かな光を映して静かに煌めくその瞳に、晶は状況も忘れて一瞬で心が囚われてしまった。


 その瞳に魅入っていると、再び香月の手が伸びてきて、晶の頬にそっと触れた。


 微かに体を震わせた晶には構わず、彼の親指はそのまま晶の下瞼をやさしくなぞる。


 「…何かされた?」


 その声はいつもより低く、微かに掠れていて、驚くほど甘く晶の耳に響いた。


 心臓の奥底が痺れるような感覚に、思わず身体の奥が痺れる様に熱くなる。晶は初めての感覚に戸惑いつつも、自分が泣いた後だったことを思い出した。


 「いえっ…大丈夫です!」


 動揺した心のまま声に出してしまった。晶はいつにない香月の態度にもういっぱいいっぱいだ。


 しかし、そう言った後に、はたと気付く。あの状況で何もなかったなんて言ったところで、果たして信じてもらえるだろうか?


 怪しい部屋で男性と二人、ベッドで過ごしていたのだ。おまけに相手は手錠に足枷もしていた。普通に考えたらその異常性に引いてしまう状況だろう。あの状況で何もないという方が信憑性に欠ける。


 よりにもよって、あんなところを香月に見られてしまった。初仕事とはいえ、仕事の覚悟は出来ていたつもりだったが、こうなると羞恥心がその身を焦がし始める。それに、何よりも香月に見られたという事実が、晶の動揺をより大きくさている原因なのは明白だった。


 「…なぜ、あんなことをしていたのか聞いても?」


 羞恥で顔を俯かせている晶は、香月が今どんな顔をしているのか想像するだけで身が竦みそうだった。あんな場面を見られて、軽蔑の目を向けられているかもしれない。


 晶は必死にどう言い訳しようかと考えた。香月に軽蔑されることが怖くて仕方がない。


 でも、香月に嘘を付くのも何だか違う気がする。その理由はよくわからないが、とにかく彼に嘘を付くのは嫌だった。


 しばらく迷った挙句、晶は観念して本当のことを言うことにした。


 「…安眠できる、唯一の方法だったので」


 「安眠?」


 僅かに眉を寄せて、不可解そうな表情を見せる香月に、晶は小さく頷いた。


 「…私は、親を事故で亡くしたんですけど、それからあまり良く眠れなくて。そんな時、店長に誘われてあの店で働くようになって、そのうちに人の気配があるところならぐっすり眠れることに気が付いたんです」


 あれはいつだったか、顔色が悪かった晶が店長に無理やり寝かされた時だった。壁の薄い部屋の隣で、ピンクランクの客と先輩がお部屋デートをしていた。その会話を聞くともなしに聞いていたら、だんだん睡魔に侵され、晶はそのまま朝までぐっすりと眠ることができたのだった。


 それからというもの、あまりにも寝不足が酷くなると、店長に頼み込んで空いている部屋を使わせてもらい、隣の気配を感じながら眠らせてもらっていた。そんな自分の体質に気付いた晶は、自分にとって店のピーチランクの仕事はまさにうってつけだと気付いたのだ。


 すぐ傍で人の気配を感じながらぐっすり眠れて、しかも給料も今までよりも多く貰える。中にはいやらしい視線を送ってくる客もいると聞いていたが、そんなものは眠ってしまえば気にならない。


 「今まではカフェの仕事だけしていたんですけど、いよいよ住む場所も無くなって。新しい部屋が見つかるまでの宿代分を稼ぐために、今日から添い寝サービスの仕事を始めようとしたんです。一石二鳥かなと思って…」


 「……」


 話を聞いている間、香月はずっと無表情だった。さすがに軽蔑されただろうと晶はどんよりとした重い何かが胸の奥に沈むような気分になり、視線を下げる。


 (よりにもよって香月さんに軽蔑されることになるなんてね…)


 これが他の誰かだったらこんなにも心にダメージを負っていなかった気がする。何故、香月に軽蔑されることがこんなにも痛いのか。それは考えてはいけない気がして、晶はその思考に蓋をした。



 「静野さん」


 呼びかけられ、びくっと肩を揺らす。軽蔑の眼差しを向けられることを覚悟した晶は、恐る恐る顔を上げた。


 すると、そこには意外にも真剣な眼差しを向ける香月の顔があった。


 「これは契約の話になるんだけど。もし、君が良ければ、うちで働かないか?」


 「…えっ?」


 心無い言葉とともに軽蔑の視線を覚悟していた晶は、思いがけない話についていけず、間抜けな顔を晒す。


 「君の状況は理解した。でもこんな危ない仕事にまだ子供の君が就くなんて看過できない。ちょうど人手も足りないと思っていたし、君さえ良ければ住み込みでうちに来てもらいたい。主な仕事は堀越の補助になると思うけど、今より良い給料と、食事と専用の部屋も付くよ」


 矢継ぎ早にそう言われて、晶は慌てて両手を前に向けて振る。


 「…ちょ、ちょっと待ってください!香月さんにそこまでしてもらう理由がありません。それにそんな好条件、詐欺を疑うレベルですよ?」


 本当にそこまでしてもらう義理がない。というか、むしろ今まで散々迷惑をかけているのだから、何かお返ししなくてはいけないのは晶のほうだ。それとも、何か裏があるのだろうか。


 晶が若干警戒の目を向けると、香月はやっといつもの人好きのする笑顔を見せて、晶の顔を覗き込んだ。


 「心配しなくても大丈夫だよ。ちゃんと部屋には鍵が付いてるし、就業時間は遵守する。君の意に沿わない仕事は強要しないと契約書にも明記しよう」


 「いや、そうじゃなくて!これ以上香月さんたちに迷惑かけたくないんです!」


 必死に言い募るが、香月は何でもないことのように言った。


 「ああ、そんなこと心配していたの?迷惑なんかじゃない。むしろ人手が足りなくて困っていたから、こちらとしても好都合なんだ」


 「…それ本当ですか?」


 そう言って今度は運転席の堀越を見る。すると彼から朗らかな笑顔で肯定の意が返ってきた。


 「それに、パートナーの件もまだ果たせてないしね」


 その香月の言葉に、ハッとする。


 「そうだ!香月さん、もう起きて大丈夫なんですか!?」


 「…君には堀越から事情を聞かされてしまったようだけど、気にしないでほしい。―――でも」


 そう言って少し困った顔を見せた香月は、次に愁いを帯びた色気たっぷりの表情を見せてこう言った。


 「こんな僕を、君が助けてくれると嬉しいな」


 推しのフェロモン爆弾を喰らい、晶の心臓は握りつぶされたようにギュッとなった。同時に一瞬息までできなくなったくらいだ。

 

 (あっ…危ないところだった…)

 

 この王子は人を殺す気だろうか。不意打ちでそんな表情は殺人兵器以外の何物でもない。


 しかし、冷静になってみると、何だか騙されているような気がしてきた。


 その思いを隠すことなく疑いの眼差しを向けると、彼はサッと晶の手を取り、そのまま自然な流れで自分の口元に引き寄せる。


 何をされるのか咄嗟に気付き、晶は慌ててその手を引き抜いて自分の背中に隠した。


 彼の顔を軽く睨めつけると、香月は「残念」と言って楽しそうに笑う。


 その余裕ある態度に、自分が結局彼の思い通りになっていることが何だか悔しい。晶はこの申し出を断ってやろうかとも思ったが、正直彼の話は今の自分にとってとても美味しい条件なのは否定できなかった。


 それでも素直に受け入れられない気持ちで、晶は悔しまぎれにこう言った。


 「…一つ、条件を付け足しても良いですか?」


 「何?言ってみて?」

 

 香月は組んだ足に頬杖をついて余裕のある笑みを見せている。晶は一呼吸置いてから、意を決してこう告げた。


 「寝るときは、誰かと同じ部屋で寝かせてほしいです」


 「…」


 それを聞いた瞬間、香月は無表情で固まり、黙ってしまった。





***





 その夜、香月の屋敷の一室で晶は自分の軽率さを呪っていた。


 「本当に、良いんですか…?」


 ここは初めて晶が香月邸に来た時に寝かされていた客間で、明かりが消えた室内には二つのベッドが備え付けられている。そのベッドの一つには晶が、もう一つには香月が寝ころんでいた。


 「それを聞きたいのは、むしろこちらの方なんだけどね」


 そう言った香月は晶の方を向いて軽くため息を吐く。晶の条件を飲む形でこのような状況になったのだが、晶としては断られることを予想していただけに、正直心の準備が整わない状態だった。


 (よくよく考えたら、自分の推しが隣で眠る状況で安眠などできるはずもないのでは…)


 窓から差し込む月明りにうっすらと浮かび上がる彼の姿は、神秘的なほど綺麗だ。腕を枕代わりに横向きになって寝転がっている香月は、首元が大きく空いた薄手のシャツを着ていて、その浮き出た首筋と鎖骨のラインを月明りがほんのりと照らし出している。


 そんな神々しい姿の中にも彼の匂い立つような色香を感じてしまい、晶はどぎまぎしっぱなしで、さっきから心臓が落ち着いてくれない。


 あまり見ていては目の毒だと視線を逸らし、心を落ち着かせようと軽く息を吐き出す。自分で言い出したとはいえ、今後は物事をちゃんと考えてから言わなくてはいけないことを肝に銘じる。


 気分を変えるため、晶は今までどさくさにまぎれてちゃんと聞けなかったことを聞くことにした。


 「そういえば、香月さんはどうして私のバイト先が分かったんですか?」


 あのタイミングでよりにもよって香月が登場したことは、心臓が飛び出るほど驚いた出来事だったし、あのまま職場放棄をしてきてしまったことも気になっていた。


 すると香月が少し間を置いてから、気まずそうな顔をして言った。


 「…実は、君が気を失っている間に何度か君の携帯に電話が掛かってきていたんだ。印象的な店名だったから記憶に残ってね。それを手掛かりに場所を調べて、君がいるか当を付けて行ってみたというわけ」


 「そうだったんですか。…でも、あの店は完全会員制だから簡単に中に入れる訳じゃないんですけど、どうやって入ったんですか?」


 よくよく考えたら、『ソムニウム』はホワイトランクが仕事をしているカフェと、ピーチ以上が仕事をするフロアは入口が違っていて、ピーチ以上のフロアに入るには会員証と厳重な手荷物検査があるのだ。それにフロアには死角が無いように監視カメラが設置されているので、それをかいくぐって晶がいる部屋に乗り込むのは不可能に近い。


 まさか香月があの店の会員証を持っているのではと思い、首を振る。あの店は未成年で会員証は作れないのだ。ではどうして―――その時、ある可能性に思い至った。


 「もしかして、香月さんのお家って、あの店の経営者だったりします?」


 それなら納得がいく。経営者の子息なら自分の家が経営する店に出入りするなんて簡単なことだ。逆にそれ以外はどんな方法も思いつかない。それくらいあの店の警備は固いのだ。


 それを聞いた香月は驚いたような顔をした後、少し吹き出す。そして、笑いながら首を振った。


 「いや、違うよ。あの時君の元に辿り着いた方法は…」


 「…方法は?」


 香月は人差し指を自分の唇の前に立てて片目を瞑る。


 「ヒミツだよ」


 「うぐっ…!!」


 ここで質問を躱されると思っていなかった晶は、落胆する以上に彼のその姿が尊くて、それ以上追及することができなかった。


 (このミステリアスイケメンボーイめっっ!!)


 香月には不思議が多すぎる。


 そのことはこれまでの出来事で充分わかっていたが、何故かそれを追及することができない。いや、できないのではなくしたくないと思わせる何かが彼にはあって、それを暴こうとすると、極上の夢が覚めてしまうような、綺麗なシャボン玉が割れて跡形もなく消えてしまうような、そんな言いようのない怖さがあった。


 香月は確かにこの世に存在しているのだから、そんな思いを抱くのはおかしいとわかっている。香月をそういう存在にしたい晶が勝手に抱く幻想かもしれないが、その彼のおかげで晶は生きる希望を見出すことができたのだ。だから、そのまま彼の魅せるまやかしの世界に漂っているのも悪くないと思う自分がいる。恐るべし推しの力である。


 これ以上の追及を諦めた晶は、軽く息を吐いてベッドの元の位置に戻り布団を掛ける。


 「…わかりました…。では、今夜はよろしくお願いします。あ、間違っても襲い掛かることはしないよう気を付けますので!ではおやすみなさい」


 そう言って頭から布団を被り目をつむると、隣から笑いを堪えるような声が聞こえてきた。


 「ふふっ!!何それ…。普通逆だよね?それ言うの…」


 その後しばらく笑いを堪える様子が続いたが、はぁ〜と満足したような息を吐くと隣からも布団をかける音が聞こえた。


 香月も眠りにつくのだろう。晶もこのまま目を瞑って眠ってしまいたかったが、今はまだ隣の気配が気になりすぎて眠れそうにない。そもそも、今日は色々とありすぎて、隣の香月の存在以上に気持ちが落ち着かなかった。


 人の気配に安心するのは、きっと父親との生活で無意識のうちに植え付けられてしまった体質だ。赤ちゃんが人の気配がある部屋でないと良く寝ないという話と同じだろう。


 晶の住んでいたアパートでは、壁は薄いが両隣は空き部屋だったので、夜は特に静かすぎるほどだった。だから晶は父親がいなくなってからは夜眠るのに苦労したし、そんな時は羊をいくつ数えたか知れない。社長に拾われて、千万匹の羊達との夜ともしばらくはおさらばできると思っていたのに、何故こんなことになってしまったのか。


 人の気配があれば眠れると思っていたが、香月の気配では眠れないなんて、とんだ誤算だ。こんなことなら堀越に直接頼めばよかった。指名しなかったのがいけなかったのかもしれないが、なぜ恐れ多くもこの家の主人と共寝になってしまったのだろうか。


 ますます思考の渦に飲まれそうになった晶は、無心になるため、もう習慣化しているモフモフの可愛い羊を思い描き、数え始めようとした。


 その時、隣で微かに動く気配がした。


 「静野さん、まだ起きてる?」


 囁くように尋ねられ、晶は布団から顔だけ出して香月の方を向く。彼は腕を枕にして身体を横にして寝そべる格好でこちらを見ている。


 「…はい。まだ起きてます」


 「良かった。さっき聞き忘れたことがあったんだ」


 「何ですか?」


 香月は少し視線を彷徨わせて言い淀んでいたが、やがてまっすぐ晶を見つめてきた。


 「…言いたくなかったら言わなくて良いんだけど、仕事中、泣いていたよね?」



 その真剣な瞳に胸の奥が一瞬ざわつく。もしかして彼は晶のことを心配してくれているのかもしれない。そんな期待に胸が温かく疼く。晶はその通りだったので小さく頷いた。


 「理由を聞いてもいい?」


 あの時は自分でも涙の理由がはっきりとは分からなかった。確か男性の言葉がきっかけだった気はする。晶はその言葉を思い出しながら香月に告げた。


 「私にもよくわからなくて…。今日のお客さんに、私に取り憑いた彼女の話をしたんです。もしも同じ立場だったらどうするかって。それで、愛と依存を見分けるのは難しいって話になって…」


 「愛と依存…」


 自分の中にいる取り憑いた彼女は、悪霊に身を落とすほど婚約者の彼を愛していたのだろう。でも、その愛は純粋にただの愛情だけだったのだろうか。見返りを求めないのが本当の愛だというのなら、そもそも悪霊になるほどの思いを持て余すのはおかしいはずだ。


 「お客さんはずっと愛を信じてなかったそうなんですが、相手から貰ったたくさんのものをいつまでも大切にしたいと思った時に、これが愛なんじゃないかって気付いたって」


 「……」


 大切にできたなら。大事に大事に仕舞っておけたなら、きっと悪霊になんてならない。それを天国まで持っていくだけ。でも彼女は返されない想いに飢えてしまったのだろうか。


 「でも今度はその愛に自分が生かされているって。…それを聞いたら自然と涙が溢れてきてしまって」


 愛に気付いた男性は苦しんでいた。いつまでもそれを大切にすることは結局は依存と同じではないのかと。


 それでも彼は、これからも生きていくために苦しみながら大切なものを大切にし続けるのだろう。もしかしたら、あの店に通い詰める理由もそこにあるのかもしれない。


 忘れられたならどんなに楽だろう。でも苦しみながらもみんなその心に向き合い、やがて折り合いをつけていくのだ。


 そして、ふと晶は気付いた。あの時の涙は自分が流したわけではなく、もしかしたら私の中の彼女が流したものなのかもしれない。


 それは何を意味しているのだろうか。


 もしかしたらこれが解決への一つのきっかけになるのではないかと思い、同時に晶は大事なことをすっかり忘れていたことを思い出して、ベッドから飛び起きた。


 「そういえば香月さん!私、病院で気が付いたときに、これを見つけたんです」


 そう言って首に下げてたチェーンを外して香月に見せたのは、例のターコイズの婚約指輪だ。


 金のリングが月明かりを反射して微かに煌めく。その指輪を香月に差し出すと、彼は僅かに目を見開いてそれを受け取った。


 「これは…小泉純子の指輪?一体いつ…」


 「私も不思議なんですが、屋上から飛び降りた後、不思議な夢?を見ていて、その中で指輪を見つけたんです。まさか夢が現実になるなんて…」


 「夢?一体どんな夢だったの?」


 「えーっと…」


 晶は自分が見た不思議な夢の内容を掻い摘んで説明した。最後に目を覚ます件は少し気恥ずかしくて詳しくは説明しなかったが、大体の内容は香月に伝えられたはずだ。


 「それで、病院で気が付いたら自分が持っていたはずの指輪が無くなってて…それなのに何故かこのターコイズの指輪があったんです」


 ターコイズの指輪を発見した晶は、その時無くさないようにと形見のムーンストーンの指輪と同じように首から下げようとして、指輪がないことに気付いた。香月が倒れたことですっかりそのことを忘れてしまっていたようだ。


 晶の話を聞き終えると、香月はそのままターコイズの指輪をじっと見つめて黙ってしまう。


 しばらく沈黙が続いた後、香月がやっと口を開いた。


 「…静野さんは、亡くなったお父さんに…会いたい?」


 突然聞かれて、晶は言葉に詰まる。


 これまで散々会いたいと思っていた。しかし、会うといっても、もうこの世にはいない人間と、どうやって会うというのだろう?幽霊になった姿を見たいかと言ったらそうではない気がする。では、自分があの世へ行くしかないのだろうか。


 「どうでしょう?…今まではずっと会いたいと思ってました。でも、今ではそこまで強く思わなくなった気がします」


 その言葉に香月は僅かに目を見開く。


 「それは、どうして?」


 「…生きたいと、思えたから、かな?」


 晶はついこの間まで、父親と一緒にあちら側へ行ってもいいような気がしていた。独りぼっちでこの世を生きていくことに意味を見出すことができなかった。


 でも実際に死にそうになる経験をしたことで、晶の中に本当は生きていたいという欲求があることに自身で気づいた。


 それは、ほんの些細なことだったのかもしれない。香月と出会って、忘れていた感情や願いを思い出すことができた。止まっていた時間が動き出したかのように、心の奥底から何か説明できないものが溶けて溢れ出し、自分を動かした。そんな自分をもっと見たいような、今死んでしまうのは勿体ないような、そんな気がしたのだ。


 父親に会いたい気持ちは無くなったわけではないし、自分のすぐ後ろにはまだ深淵が覗いている気がする。それでも、もうあの交差点を見つめながら動けない自分ではなくなったように思える。


 「…香月さんのおかげです。本当に、ありがとうございます」


 礼を言った晶は自然に笑顔を向けていた。彼には感謝してもしきれない。この恩を返すためにできる限りこの屋敷で精一杯働こう。そう思って密かに拳を握り、改めて気合を入れる。


 「…僕は何もしていない。むしろ、君を危険な目に遭わせた」


 香月はそう言ってベッドに仰向けに寝ころんだ後、片手で顔を覆って黙ってしまった。


 「そんなことないです!あれは私の中の彼女がそうしただけで、香月さんは何も悪くありません!」


 彼が負い目に感じることなんて何もないはずだ。晶は勢い込んで香月のベッドの傍まで行き、必死に言い募った。

 

 「むしろ、それも命の恩人であって、何から何まで感謝してもしきれないです!どうやったらこの恩を返せるのかわからないくらいで…」


 「…それなら―――」


 顔を覆っていた手を徐に晶の方に伸ばした香月は、その腕を取り、勢いよく自分が寝ているベッドに晶を引き込んだ。


 「!!?」


 腕を引かれてバランスを崩し、そのままスプリングのきいたベッドに倒れ込む。晶は気が付くと今までにないほどの距離で香月の瞳を見ていた。


 「僕にも同じように接客してくれる?」


 「なっ!?なにを…」


 驚いて身体を引こうとしたが、掴まれた腕にそれを阻まれる。


 「だって、あの男性とは同じベッドで寝ていたじゃないか。なら僕とだって構わないよね?」


 その宝石のように煌めく瞳に、いつにない色を乗せて晶の顔を覗き込んでくる香月の、その男性的な香りを感じ、晶は全身の産毛が逆立つような初めての感覚に眩暈がした。


 「必要なら枷も用意するよ。目隠しだって」


 そう言って晶の目を見つめてくる。彼の瞳の、そのわずかな月明りを拾って輝く虹彩の中には、まるで極彩色の天国があるようで、ずっと見ていたいような、その中に永遠に閉じ込められたいような不思議な気持ちになる。


 すると、いつの間にか晶の手は勝手に動き出し、その手がそっと撫でるように彼の頬に触れた。


 そのさらりとした感触を意識する間もなく、そのまま顔を近づけ、晶は彼の頬に自分の唇を微かに触れさせる。


 「おやすみなさい、あなた…」


 言葉にできない衝動が身体を駆け抜け、自分でも何をやっているのかわからなかった。


 勝手に体が動いたような、衝動的に動いてしまったような不思議な感覚が晶の体を支配する。


 混乱する頭で香月を見ると、香月も目を見開いて晶を見つめたまま動かない。


 お互いにしばらく見つめ合ったまま動かないでいたが、香月の方が先に目を逸らし、そのまま反対側へ体ごと向いてしまった。


 (なっ…何やってるの、私!!)


 自分がやったことが信じられない。全身が真っ赤に染まった晶もまた、香月とは反対側に体を向けて身を縮込ませた。


 (こ、こ、香月さんに、じ、じ、自分から、キ、キスを!?)


 頭が混乱しすぎて目が回る。心臓は暴れて口から飛び出しそうだ。いくら落ち着こうとしても自分がやったことの恥ずかしさに今すぐこの場から消えてしまいたかった。


 「ごっ、ごめんなさい!!」


 とりあえず、しでかしたことについて謝らなければと晶は香月の顔を見ずに謝罪した。


 「…いや…」


 香月も驚いたのだろう、声がくぐもって聞こえる。晶の心臓は香月の耳にも聞こえるくらい激しく鳴り響いている。


 「頼んだのはこっちだから…。驚いたけど、でもまさかそれ以上は…」

 

 「ありません!!」


 真っ赤になりながらそう叫んだ晶は、自分のベッドに戻ろうと体を起こすが、その腕を再び香月に掴まれた。


 「なら同じベッドでも安心だね」


 そう言って軽く引っ張られると晶の体は再びバランスを崩して香月のベッドに突っ伏してしまった。


 「なっ!?なにを…」


驚いて香月を見上げると、彼はにやりと口の端を上げている。


 「これで公平だろう?」

 

 公平とはどういうことか。目を白黒させながらその意味を考える。そしてはたと思い至った。彼は晶がいきなり頬に口づけしたことへの仕返しとしてこんなことを言い出したというのか。


 「そんな!恐れ多いです!!」


 「恐れ多い…」


 (こんなきれいな王子と同じベッドでなんて、不釣り合いすぎていけないわ!)


 パニックでまともな思考回路を持たなくなった晶の、もはやファン心理に近いその心情は明後日な方向へ飛んでいこうとしていた。


 対する香月は、よもや自分が晶の推しに昇格されつつあるなどと分かるわけもなく、頭上に大きな疑問符を浮かべたような顔を見せる。


 しかし何故か納得したように一つ頷くと、のっそりと晶の上に覆いかぶさってきた。


 「!!!」


 彼の顔が視界を占め、その瞳に釘付けになる。月光の薄明りを纏う彼は本当に綺麗だが、自分の顔のすぐ両側に彼の腕があることで、追い詰められたような心情になる。


 心臓が早鐘を打つが、その目を逸らすことができない。青い虹彩の中に極彩色の天国を見つけようとすればするほどそれが遠退いていき、それを追いかけているうちにいつの間にか晶の意識は闇に溶けていった。

 



 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ