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13.彼と彼女の秘密

 



 香月が倒れた後、晶は急いでナースコールで助けを求めた。すると慌ててやってきた医者と看護師数人によって、彼はあっという間に別室へと運ばれていった。


 晶は香月のことが心配だったので彼に付き添うつもりでいたが、自分はまだ病人扱いだったらしく、堀越と一緒にやってきた医者の一人にやんわり止められ、再びベッドの上に戻されることとなった。


 

 「…香月さん、大丈夫でしょうか?」


 もしかして自分のせいで香月の具合が悪くなったのではないだろうか。不安に思い、晶のそばに留まっている堀越を見上げると、彼は意外にも穏やかな表情で晶の顔を見返してきた。


 「心配ないと思いますよ。倒れたのはこれが初めてではありませんし、いつもと同じ症状なら、静野様が気に病むことはありません」


 「いつもって、香月さんはそんなに良く倒れるんですか!?」


 驚いてそう聞くと、堀越は何かを考えるように顎に手を当てて首を傾ける。


 「…これはこの場限りの話にしてほしいのですが、実は主人は不眠症のようなものを抱えていまして、通常なら三日ぐらいは眠らないのです」


 「三日も!?」

 

 驚きすぎて変な声が出てしまった。晶だって寝付きが悪くほとんど睡眠を取れない夜もあるが、そうすると次の日はかなりキツい。それを三日も続けられるなんて信じられない。


 「この場合眠れないと言ったほうがいいのかもしれませんが…ともかく、三日くらい寝ずに活動をし続けると、そのうち限界がきます。人間なのだから当然ですね。そして限界が来ると倒れるように眠りにつきます。そのまま丸一日ほど眠るとまた何事もなかったかのように復活するのです」


 「それは…身体は大丈夫なんでしょうか?」


 そんな生活をしていては身体に良いはずがない。でも不眠症は辛い。晶も一時期薬を飲んでいたことがあるが、あまり常用するものではないと言われて控えていった。最も、今でもたまにお世話になることもあるが。


 「あまりよろしくは無いでしょうね。いつもなら倒れる前に自分で限界を察知して対処していたのですが、今回はすでに七日目でしたので」


 「七日!?」


 事も無げにそう言った堀越を呆然と見上げた晶は、次第にその顔色を青くしていった。まさか―――


 「…ええっと、堀越さん…ちょっと訊きたいんですが…私は一体いつからここで寝ていたのでしょうか…?」


 「確か今日で三日目になりますね。このまま目覚めないのではないかと心配しましたが、本当に無事で良かった」


 そう言って穏やかな笑みを向けてきた堀越は心底ほっとした様子だが、あまりの衝撃的な事実に晶は眩暈を覚える。


 (そ…それって…完全に私のせいじゃない!?)


 自分はあれから三日も眠っていたというのか。それが事実なら、香月は晶と関わるようになってから一切睡眠を取っていなかったということになる。それなら香月が倒れた一番の原因は、つまり自分ではないのか。


 「堀越さん!香月さんは本当に大丈夫でしょうか!?私のせいで…」


 「心配には及びませんよ。それに、倒れたのがここで良かったです。ここなら無理に起きて仕事をすることもできませんからね」


 勢い込んだ晶にそう言ってはっはっはと笑う堀越は、主人が倒れたというのに何だか愉快そうだ。この様子だと香月青年は普段から相当無茶をしているのかもしれない。そしてそんな彼に付き従う堀越の苦労は推して知るべし…。


 どんな顔をしていいかわからずあいまいな表情を浮かべていると、堀越はコホンと咳払いをして改めて晶に向き直った。


 「こうなってしまうと、主人がいつ復活できるか予想ができません。つきましては、静野様にはこの後主人が復活するまでは当家で静かにお過ごしいただきたいと思いますが、いかがいたしますか?お一人でご自宅にいるよりは安全かと思うのですが…」


 そうだったと晶は思い返す。守ってもらうと約束?はしたが、本人がこの状態であればそれは不可能だ。


 それならばと、晶は決意を新たにする。これを機会に、香月に頼ることなく自分でできることはやらなくては。


 静かに拳を握って気合を入れ直した晶は、そこで重大な事実を思い出した。


 (あれ?アパートの期限って…あと三日!?)


 色々なことが起こりすぎてすっかり忘れていたが、そもそも自分はそのために厄介ごとに巻き込まれていたのだ。内心慌てた晶は改めて堀越に向き直る。


 「お気持ちはありがたいのですが、堀越さんも香月さんのことで大変でしょうし、私もアパートを探さないといけないので、いったん家に帰ります。自分のことは何とかする覚悟も決めましたし」


 焦りをなるべく出さないよう、晶が不器用ながらもニコリと笑って見せると、堀越は僅かに驚いたような表情をした。しかしその後すぐ眉を下げて穏やかな顔を見せる。


 「すぐに主人も気が付くと思います。それまではくれぐれも無茶はしないように。私はどうしても主人のそばを離れるわけにはまいりませんが、微力ながらできるだけ力になりますので、何でも相談してくださいね」


 その言葉だけでも、天涯孤独の身には十分すぎるほど沁みわたる。その気持ちを精一杯込めてお礼を言った。




 

 その後、若い男性医師に診察を受け、もう大丈夫だということで、晶は退院することとなった。


 鍵を預かってタクシーで香月家に向かい、荷物を素早くまとめてまたタクシーでオンボロアパートを目指す。


 ここでの出来事が夢だったような気がして、香月家の屋敷を後にする時、晶は門をくぐる前に振り向いて屋敷を見渡した。


 おそらくもうこの屋敷に来ることはないだろう。そう思うと、何だか不思議な感情が胸を占める。それは寂しさにも似ているような、少し違うような、なんとも形容しがたいものだった。


 その思いが何なのか、晶はアパートに着くまでの間にしばらく考えてみたが、結局その時は答えを見つけることができなかった。



 

 「噓でしょ…」


 目的地に着いてタクシーを降りると、すでにアパートの周りには足場やらシートやらが設置されていた。そこにはいつもの見慣れた自宅アパートの姿はなく、変わり果てたその姿に晶はそれまでのふわふわした気持ちが一気に冷める思いがした。


 急いで玄関の鍵を開けて中に入る。家を空けていたのはほんの数日だというのに、晶には見慣れたはずの部屋が何だか違って見えた。もしかしたらこの短期間で、香月家の豪華さに目が慣れてしまったのかもしれない。


 まるでシンデレラの魔法が溶けたように、もとの灰かぶり生活に戻るのだ。それどころか、このままでは路上生活もやむなしの状況に、思わず溜息が漏れる。


 「…さてと、やりますかね」


 ハードすぎる現実に引き戻され、途方に暮れたいところだが、そんな時間もない。とりあえず部屋の荷物をどうにかしようと、処分するものと取っておくもの、必要なものを分ける荷物の仕分けを始めた。


 一人暮らしで必要なものを仕分けるのは比較的簡単な作業だった。しかし、一番厄介なものは思い出の品だ。生活に必要なものの仕分けを終えた晶は、とうとう意を決して父親の荷物に手を付け始めた。


 父の遺品はあらかた段ボールに詰めて押入れの奥に押し込んでいた。どうしても寂しくてやりきれない時に、その箱を出しては心を慰めていた。


 今思うと、その行為は傷口に塩を塗り込むような、治りかけの瘡蓋を剥がすような行為だったのではないかと思えてくる。でもきっと、自分一人ではどうにも出来なかった。今の自分がそう思えるようになったのは、自分の中の閉鎖的な世界に香月たち他人が介入がしたことで、客観的に自分のことを見返せるようになったからかもしれない。


 段ボールの箱を開け、中身をひとつずつ取り出していけば、今でも胸底を悲しみが容赦なく刺してくる。だけど、それに縋るような気持ちはもう湧いてこなかった。

 

 荷物の整理を始めてからすでに半日が経って、ようやくひと段落ついたところで、晶は改めて不用品の山を見つめる。


 そこには今まで捨てられなかった父親の物が山になっていた。


 晶は今回、不思議と父の私物を手放す決心がついた。はじめこそ躊躇ったが、一度捨てると心を決めると後は早かった。あれだけ拘っていたのが嘘のように事務的に作業が進んだ。整理した山を見てやはり寂しい気持ちがないわけではなかったが、思いのほか心がスッキリもした。


 (不思議…お父さんの物を見ても、前より寂しく感じなくなった)


 荷物を整理し終えた部屋を見渡して、晶は何となく自分が以前と比べて変わったことを自覚する。


 (…うん、大丈夫な気がする)


 自分でもわからない気持ちが、前を向くように晶の背中を押してくる。この気持ちの正体ははっきりとは分からないけれど、暴いてしまうといけないような、まだ知りたくないようなそんな気持ちだった。


 それに、少しでも振り向いたら、そこにはまだあの闇が手を振っているような気がして、晶はその想像を頭を振って打ち消した。


 その時、窓の外で物音がした。続いて「ぶにゃ~」という低い鳴き声が聞こえて、晶は急いで窓を開ける。


 すると、夜風を受けてふわりと揺れるカーテンの影に、黒くて丸っこいシルエットが現れた。


 「大将!会いに来てくれたの?」


 このアパートの敷地を縄張りとしている野良猫の『大将』が、晶の部屋の狭いベランダにちょこんと座っていた。相変わらず貫禄のある黒い身体に毛足の長い尻尾を巻きつけ、目つきの悪い目でじっと晶のことを見つめている。


 「…このアパートのみんなともお別れだね。大将はこのアパートが無くなっても大丈夫?」


 「ぶな~」


 返事をするように低く鳴くと、大将は窓をするりと乗り越えて部屋の中に入ってきた。


 「あっ、だめだよ入っちゃ!…でももう取り壊すから関係ないか」


 大将はそのまま部屋をぐるりと歩き回ると、置いてあった座布団の上に座りそのまま身体を丸くして寝ころんだ。まるでここが自分の家かのようなその振る舞いに、自然と笑みが溢れる。


 「…今日は一緒に寝てくれるの?」


 「なぁ~」


 「ふふっ。ありがとう」


 晶は眠れない夜に時々外に出て気分を変えることがあったが、その時は大体この大将が付き合ってくれた。アパートの契約上、動物を部屋に上げることはできなかったので、外で一緒に星を見たり、泣き言に付き合ってもらったりと、思い返せば大将にはとても世話になった。


 「今までありがとね。元気でね」


 大将の隣に布団を敷いて横になった晶は、そのふわふわの毛並みをそっと撫でながら呟いた。既に眠っていた様子の大将は、微かに瞳を開いて耳を動かすと、そのまままた眠りに就いた。


 アパートで過ごす最後の夜は、さすがに寂しくて眠れないかと思ったが、嬉しいお客のおかげで夢も見ずにぐっすり眠ることができた。



 翌朝、晶が起きた時には既に大将の姿はなかった。まるで一夜の恋人のようだと苦笑いした晶は、気を取り直して朝の支度を始めた。


 その後、まだ早い時間に様子を見に来た大家の息子と契約書類に必要なサインやら保証人の件等の話をして、ついでに荷物の処分と必要なものを預けておくためのトランクルームの手配や運送の手配をしてもらった。晶が荷物を預けたり掃除をしたりいろいろと忙しく過ごしているうちに1日が怒涛のように過ぎていき、気付けば夕暮れの時間になっていた。


 すべて終わって部屋をあけ渡した後、必要な荷物だけキャリーケースやリュックサックに詰めた晶はそれを手にして部屋の前に立ち尽くす。


 「さて、今日からどこで寝ようかな…。まさか本当にホームレスのお仲間になるとはね。ははは…」


 もはや乾いた笑いしか出てこない。空っぽになった部屋はまるで見慣れない部屋のようで、一抹の寂しさが心を占めたが、晶はもう振り向かないと心に決め、住み慣れた我が家だった部屋を後にした。


 「さて、これからどうしようか…」


 やはり屋外で寝るのは抵抗がある。だからといって、主人が病床?にいるのに誰もいない香月家の屋敷に転がり込むなんて図々しい真似はできない。堀越はああ言って鍵を預けてくれていたが、主人が大変な時に、のこのこ居候を決め込むなんて恩を仇で返すようなことはしたくなかった。


 「ここはあの人に頼るしかないか」


 そう言っておもむろに電話を取り出した晶は、そのまま大荷物を引きずって夕闇の繁華街へと足を向けた。



***

 


 色とりどりのネオンが昼間よりも煌びやかに踊る街のメイン通り。ショーウィンドウには季節のディスプレイが華やかに飾られ、食欲をそそる香りが漂う飲食店からは人々の嬌声が聞こえてくる。


 昼間よりも人が増えて、肩をぶつけないように歩くのが大変なこの通りからビルの谷間の細い路地を抜け、角を曲がって少し奥まったところにあるその薄暗い道を進むと、突きあたりに5階建てのビルが見えてくる。


 そのビルの裏口に、荷物を引きずりながら晶は入っていった。


 ドアを開けるとそこには人とすれ違うのがギリギリの幅しかない廊下が伸びていて、大荷物の晶は誰にも行き会わないようにと密かに願いながらその奥へと進んでいく。


 奥に進んでいくと、突き当りには立派な摺りガラスのドアが現れ、そこには繊細な模様とともに『ソムニウム』のアルファベットが見事な草書体で書かれていた。


 「おう、あーちゃん!ひさしぶりじゃねぇか。どうしたんだその荷物?」


 そう言ってガラス扉の手前にある守衛室から顔を覗かせたのは、五十代くらいの浅黒く厳つい男性で、咥えた煙草をもみ消してにやりと笑うとその口元に銀歯が光った。


 「ムネオさん!お疲れ様です。ちょっと訳アリで…店長って今日いますか?」


 「ああ、いるよ。今呼んでやるから待ってな」


 そう言って守衛室からコールしてもらった後、晶はカードキーを取り出して差し込み、解錠したガラスの扉の中へ入る。


 扉の中は少し広めのホールのようになっていて、全体的に暗い色調の内装に金の装飾が施された空間は、何処となく高級感がある。


 ほどなくして奥にあるエレベーターが動き出し、黒地に金の装飾が施された豪奢な造りの扉がゆっくりと開いた。


 それと同時に、カツ…っと高らかにヒールの踵を鳴らしながら、場違いなほど煌びやかなドラッグクイーンが登場した。


 ここが舞台の上かと勘違いするほどキラキラした豪華な衣装は、その悩ましいダイナマイトボディを惜しげもなく強調し、深いスリットから覗く魅惑的な脚は目の粗い網タイツで覆われとても扇情的だ。ボリュームのある金髪を完璧にアップして、ばっちりまつ毛が今日も決まった美女が、晶を見たとたんにその顔をゆがませて全速力で迫ってきた。


 「晶!!あなた大丈夫だったの!?急にバイトに来ないと思ったら倒れたなんて…それに何なのその荷物は!?」


 顔面の迫力に気圧されてつい仰け反ってしまった晶だったが、すぐさま頭を深く下げて手を合わせた。


 「店長!!お願いがあります!しばらく救済措置を施してくれませんでしょうか!」


 「救済措置…?なに?あんた、またなの?」


 晶の勢いに今度は店長と呼ばれたドラッグクイーンが軽く仰け反ったが、晶の訴えを聞いてその見事な曲線を描く麗しい眉を顰めた。


 「いつになくあーちゃんが必死だが、てんで話が見えねぇなぁ…」


 面白い見世物でも見るような顔をした守衛室のムネオがそう呟くと、店長は軽く溜息を吐いてギロリとムネオを一瞥した。


 「ムネちゃん、これはちょっと訳アリみたいだから、これからしばらく事務所には誰も近づけないで」


 「ああ。店には伝えとくよ」


 そう言って片手を顔の横でひらひらさせたムネオは足元から鍵を一つ取り出すと店長に手渡した。


 「ありがと。店の方、よろしくね」


 そう言い置いて目線で晶を促すと、店長は鍵を受け取って先に立って奥へと歩き始める。その所作一つとっても優美で華麗な姿につい見とれてしまいそうになるが、慌ててその後を晶は大荷物を持って付いて行った。


 一番奥の突き当りにあるドアを開けて中に入ると、そこは可愛らしいソファがいくつか並び、簡易的なキッチンがある休憩所のような部屋になっている。


 店長はソファの一つに優雅に腰を落ち着けると、目線で晶にも座るように促した。荷物を床に置いて向かいのソファに座った晶は、早速今までの顛末を店長に話し始めた。



 「じゃあ、あんたは今、その悪霊とやらに取り憑かれているっていうの?」


 話をあらかた聞き終えた店長は、奇妙なものでも見るように晶をジロジロと眺めはじめた。店長の目線に、何だか居た堪れない気持ちになって晶は縮こまる。


 「そうみたいですね…今までの出来事を考えても確実かと」


 「しかも、家まで無くすと…」

 

 「はい…」


 今度は哀れな生物を見るような眼差しを向けられ、晶はますます居た堪れない気持ちになる。


 「人生ハードモードね…嫌いじゃないわ」


 そう言って店長はいつの間にか取り出したキセルに口を付け、ゆっくりと煙を吐き出した。


 「わかった。あたしは幽霊なんてものは信じてないけど、あんたの言うことは信じてあげる。それに哀れな女の子を助けるのも私の使命だから、落ち着くまであの部屋を貸してあげるわ。でも、その代わり働いてもらうわよ?」


 「それはもちろん!今回はピーチまでやります!」


 覚悟を持った目で見ると、それを聞いて店長が目を見開く。


 「…あんたいいの?本当に綺麗なままでいたいなら、やめたほうがいいわよ?」


 「大丈夫です。もういい加減、前を向いて生きなきゃって思えたので」


 真剣な眼差しを送ると、店長はそれを静かに見返した。彼女の鋭い眼光の前では下手な嘘も虚勢も通用しない。これから自分の力で前に進んでいかなくてはならない晶は、形振りなど構っていられないのだ。どんな条件だって生きるために必要なら受け入れるつもりだった。


 しばらく黙って晶を見つめていた店長は、やがてその目元を少し緩め軽く息を吐いた。


 「その目、嫌いじゃないわ。―――わかった。じゃあ今日からお願いするわ。今日はちょうど指名のない上客が予約しているのよ。荷物を整理したら早速準備して頂戴」


 「わかりました!」




 ****




 「お待たせしました~」


 扉を開けると、そこは黒地に金色の模様が繊細に描かれた壁に、淡く紫色に光るシャンデリアが怪しく室内を照らす非日常的な空間があった。


 脳まで蕩けるような甘い香の香りが漂う室内には、キングサイズのベッドが一つだけ置かれている。そしてそのベッドには何も繋がっていない手錠が置かれていて、その近くに仕立ての良さそうなスラックスとベストにシャツ姿の男性が腰掛けていた。


 男性の顔には蝶をかたどった仮面がつけられており、入ってきた晶を静かに見定めているようだった。


 「ああ、今日は新しい子か。初めまして。よろしくね」


 声の雰囲気からして40代くらいだろうか。常連なのか余裕のある態度で、シャツのボタンを緩めながらこちらを見ている。


 「まだ慣れてないんですけど、頑張りますのでよろしくお願いします」


 「いいね。初々しい感じが堪らないよ。じゃあお願いね」


 そう言ってこちらに差し出された手を取って、晶はこれからの手順を思い出していた。


 (確か、ベッドに繋がっている手錠をお客さんにかけて、苦痛がないか確かめながら足枷もつける…と)


 そう頭で確認しながら慎重に作業を始めるため、晶は手枷を手に取った。


 お客の要望で、晶は今、フリルは多いが露出の少ないネグリジェ姿で、顔には男性と同じように目元を隠す蝶の仮面を付けている。


 「痛いところはありませんか?」


 「ああ、大丈夫だよ」


 すべての枷を付け終えた晶は、次の手順として自由の奪われた男性のそばに顔を近づけると、軽くその頬に口を付けた。


 「では、おやすみなさい、あなた」


 「…ああ、おやすみ」


 そう言って晶は男性の隣に体を横たえ、そのまま目を閉じる。



 晶のバイト先である『ソムニウム』は、”お客に夢を与える”がモットーで、その内容は男性に一時の夢を与える行為を行うというものだ。


 ホワイト・ピーチ・ピンク・レッドと内容によってランク分けされており、ホワイトは喫茶店の給仕、ピーチは安全が確保された添い寝、ピンクは疚しい行為は一切無しだが手錠も無しで一夜を過ごす、レッドは期限付きの彼女になる、という内容だった。


 お客は金さえ積めばどのランクも選べるというわけではなく、完全会員制で、ホワイトから通いつめなくてはいけない。ある程度信用を得てからでないとランクを上げることはできないので、変な客はホワイトの時点で裏で待機している強面の男性陣に摘まみだされるシステムだ。


 ピーチ以上の行為も、すぐそばで従業員が待機しているので、下手な行為をすることはできない。一般的な風俗店とは違い会員の規律も厳しいが、ソムニウムで働く女の子たちはあの店長に見込まれた子たちばかりなので、質が高いと有名らしく、裏では名店として名が通っていた。


 晶がこの店長に拾われたのはほんの偶然だった。あれは確か中学の卒業式があった日。晶は式の後、そのままあの海沿いの交差点が見える場所まで来て、いつものようにぼんやりと交差点を眺めていた。その時に偶然バイクで通りかかった店長が声をかけてきたのだ。


 『――あんた、今にも死にそうね。うちの店で働いてみない?うちは貴方みたいな女の子がたくさん働いてる店なのよ』


 半ば強引な勧誘に初めは戸惑ったが、店長の人柄に惹かれ、元々高校に入ったらバイトをしようと思っていたこともあり、晶はそのまま店で働くことになった。


 それから今まで晶はホワイトの仕事を主に働いていた。ホワイトではメイド喫茶のようなカフェで給仕するのが仕事だが、お客と同じ席に着いて相手をしたり、指名を受けたりといったことは一切しないクリーンな職場だ。ただ、少し変わっているのは、その日によって従業員の女の子が着るユニフォームが変わることだが、晶は特に何とも思わず淡々と給仕をこなしていた。


 晶が他のランクの仕事のことを初めて知ったのは、眠れない日々が続いてフラフラの状態でバイトに顔を出した時、店長がその顔色を見て晶を問答無用で寝かせようとカフェの上の階に連れて行った時だ。


 ちょうど今男性と一緒に寝ている部屋に一人連れていかれた晶は、その異常な空間に戸惑ったが、そこで店長から店のモットーとシステムの話を聞かされ、ひどく驚いたのと同時に、世の中には色んな仕事があるものだと大人の階段を上がったような気持ちになった。そしてそのままベッドで休むように言いつけられ、店長の監視の元、既に限界を過ぎていた晶は信じられないくらいすぐに眠りについたのだった。


 それから、時々限界を感じたときはここで休ませてもらっていた。その時はピーチランクの仕事をやるなんて考えていなかったが、人生何が起こるかわからないものだ。



 そんなことを思い出しながら、今まで起きたことやこの先の身の振り方なんかを考えていると中々眠ることができない。軽く身じろぎすると、隣の男性もまだ起きていたようで、こちらに顔を向ける気配がした。


 店長の話によると、この男性はいつも同じ条件を希望するらしく、それが、ネグリジェ姿で頬におやすみのキスをするということだけだった。それ以外何も希望することはないまま、週に1,2回利用するので、上客として扱われているらしい。


 男性がこちらを向いたため、晶も男性側に向けて寝返りを打った。このピーチの条件は客側からの不可触の他に、客側から話しかけてはいけないというものがある。あくまで添い寝のサービスなので、夜通しおしゃべりというわけにはいかないのだ。


 

 「すみません、起こしちゃいましたか?」


 晶から話しかけると、男性は驚いたように少し顔を上げた。


 「話をしても良いのかい?」


 「ええ、私からですから、大丈夫です」


 この部屋でのやり取りももちろん監視されているが、晶から話しかけていれば条件に抵触しない。そう言うと男性は少し間を置いてから、身体を少し晶の方に向けた。


 「何か悩んでいる様子だったから、少し気になってね」


 「私のことですか?」


 「ああ、呼吸が不規則で脈も早いようだ。これでも医療従事者でね。職業柄気になってしまって」


 晶が驚いて男性を見ていると、彼は自嘲気味に小さく息を吐き、再び上を向く体勢になった。

 

 「もし君が良ければ、話してみないかい?もちろん無理にとは言わないが、お互い何者かも分からない者同士だし、他人になら話せることもあるんじゃないかな」


 男性の思わぬ申し出に晶は少し迷ったが、ふと思い立って自分の悩みとは別のことを相談することにした。


 「あの、例えばなんですけど、もし自分にとても好きな人がいて、その人と結婚の約束までしていたのに相手から突然別れを切り出されたら、どんな気持ちになりますか?」


 男性には予想外の質問だったらしく、驚いたように再びこちらに顔を向けた。そして暫く考えている様子で黙っていたが、やがて口を開いた。


 「それは…とても辛いだろうね。相手を問い詰めたくなるだろうし、何とかやり直そうとするか…。でも、どうしてもダメなときは、相手のことを思って身を引くしかないんだろうな」


 「では、その相手が死んでしまったとしたら?」


 晶の問いに男性は再び黙ってしまった。


 しばらくして、静かに息を吐き出したかと思えば、何処か力無い声で答える。


 「それは…辛いだろうね。本当に好きだった相手なら、自分も死んでいたかもしれない。…相手がいない現実を受け入れられないだろうね」


 「そうですか…そうですよね」


 その気持ちは身に染みて分かる。一人きりで迎える夜を耐えることが辛くて、現に晶はあの交差点を見つめながらあちら側へ行くことを何度も考えた。


 「今まで愛を捧げていた対象がいなくなった時、その心は行き場を失くしてしまう。その心を喪失感が埋める。その愛が深ければ深いほど、その喪失感は自分の身を削るほどだろうね」


 晶は今自分に憑いている彼女のことを考える。彼女は、その喪失感に殺されてしまったようなものだろうか。


 「ただ、これは依存とも言える。相手に依存していればいるほど、その対象がいなくなった時、寄りかかる対象がなくなった自分は身の危険を感じ、心が不安定になる。ーーーそれが愛か依存かというのは、難しい問題だね」


 思いもしなかった解釈に弾かれたように顔を上げた晶は、男性を見つめたまま、その言葉の意味を考えた。


 愛か依存か―――今まで疑ったこともなかった問題に、晶は戸惑いつつも自分を振り返って考えてみる。

 

 自分が父親に感じていたのは愛情だと思っていた。しかし、冷静になって当時の自分を俯瞰して見てみると、保護してくれる人間がいなくなったことによる心の不安も大きかったように思う。果たして自分は父親に依存していたのだろうか。分からなくなって、晶は率直に聞いた。


 「どうやったらそれが愛か依存なのかがわかるんでしょう?」


 「…私にもそれが分かればよかったんだが…」


 そう言って男性は再び顔を上に向ける。仮面を着けているせいでその表情は読み取れないが、彼は何かを思い出す様に視線を遠くにやった。


 「…私は昔、愛というものを信じていなくてね。すべての恋人は依存しあって成り立っていると思っていたんだ。だから、自分に好意を寄せてきた相手が自分の前からいなくなっても、自分は心を失うようなことはないと…常に心の中は冷静でいるつもりだった」


 いつの間にか先ほどまでとは雰囲気が違い、男性の声はどこか過去を彷徨うような不確かな声色に変わっていた。


 「でも…失ってみれば、ちっとも冷静なんかじゃいられなかった。そして、それまで溢れるほど与えられたものに気付いてしまった。それが愛おしくて愛おしくて、一生大切に取っておきたいと思った。…その時、これは依存ではないのかもしれないと思ったんだ。でも―――」


 そう言って言葉を切った彼は、手枷のついた両手を持ち上げて顔を覆い、何かに耐えるような素振りを見せる。


 「その与えられたものに、今は執着することでしか…自分を保てない」


 そう言った男性の手は微かに震えていた。その手を見つめていると、晶はいつの間にか自分の頬を伝っているものに気付いた。


 晶は慌ててそれを手の甲で拭ったが、後から後から溢れ出して止まらず、晶はどうしようもなくて仰向けのまま両手で顔を覆う。


 晶の様子に気付いた男性が戸惑ったように声を掛けた。


 「大丈夫かい?何か気に障ることでも言ってしまったかな?」


 「…いいえ…何だか、胸が…」



 そう言いかけた時、突然大きな音を立ててドアが勢い良く開いた。


 吃驚してそちらを見ると、開いたドアの前には酷く不機嫌そうな顔をした香月が、こちらを睨むようにして立っていた。







  


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