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11.光に向かって

 



 気が付くと晶は自分のクラスの席に座っていた。



 柔らかな日差しが差し込む教室では、午後の気怠い空気の中、国語の教師が黒板に書かれた漢文についてぼそぼそと子守歌のような声で説明している。


 窓際の一番後ろの席に座っている晶は、そっと教室を見回した。

 

 いつもの見慣れた風景。しかし、何だか違和感のようなものが胸を過る。


 その違和感の正体がわからないまま、授業終了のチャイムが鳴った。クラスメイトたちはそれぞれ教科書を片付けたり、席を立ったりして動き出す。

 

 晶も帰り支度を始めるため鞄を取り出そうとするが、いつも机の横に掛かっているはずの鞄が見当たらない。どこかに落としたのかとあたりを見回すが、それらしきものはどこにも見当たらなかった。

 

 クラスメイトに聞こうにも、すでに大半が教室を出てしまっていて、取り残された晶は残っていた近くの男子に話しかけた。


 「ねえ、私の鞄知らない?」


 そう尋ねてみるも、相手は振り向くこともせず、まるで晶を無視するかのように教室から出て行ってしまう。


 「…?」


 不思議に思うと同時に、訳もなくざわざわと胸が騒ぐ。


 (何だろう…変な感じ…)


 一人教室に残された晶は、鞄のことは諦めて教室を出ることにした。


 廊下を玄関に向かって歩いていると、一人の男子生徒がこちらに向かって走って来るのが見えた。


 とっさに避けようとしたが、何を思ったかその男子生徒は晶を避けようとせず、そのまま勢いよく向かってくる。


 「なっ…!」


 晶はぶつかると思い、反射で目を瞑って身構えた。しばらくそうしていたが、いつまで経っても衝撃はこない。恐る恐る目を開けてみると、目の前には誰もいなかった。


 「え…?」


 不思議に思って振り向いてみると、先程の男子生徒の後ろ姿が遠ざかっていくところだった。


 「えっ?…なんで?」


 男子生徒が走り去った廊下を呆然と見つめていると、今度は女子生徒二人組が廊下の角を曲がってくるのが見えた。二人は楽しそうに喋りながら歩いてくる。


 晶は二人を避けようと一歩壁際に寄ったが、彼女たちは話に夢中なのか晶の存在に気付かないようで、狭い廊下を横並びのまま歩いて来る。


 やはりこのままではぶつかると思っていると、その時驚くことが起こった。


 晶と女子生徒がすれ違う瞬間、なんと女子生徒の体の一部が晶の体をするりと通り抜けたのだ。


 「え!?」


 何が起こったのか理解できず、愕然とする晶を気にも留めずに、その二人組はそのまま話しながら歩いて行ってしまう。


 晶はその身に起こったことが信じられず、自分の体をあちこち触ってみる。確かに感触はある。どういうことだと頭が整理できず、心臓が早鐘を打つ。


 不安に駆られて視線を彷徨わせると、ふと廊下の窓が目に入った。そこには窓の外の裏庭の風景に重なるように、晶がいる廊下の風景が反射して映っている。


 そこにあるはずのものがないことに晶は気付いた。

 

 「まさか…噓でしょ?」 


 真っ青になった晶はその事実を確かめようと慌てて女子トイレに向かった。


 急いで女子トイレに入り鏡の前に立つ。そこで晶は更に混乱した。


 「…どういう…こと?」


 晶は震える手で口元を押さえ、もう片方の手で鏡に触れる。


 その鏡には、あるはずの自分の姿が映っていなかった。3面ある鏡すべてに晶は映っていない。これはどういうことだろうか。

 

 すり抜ける体。鏡に映らない自分の姿。これらが導き出す答えは―――


 「…私…もしかして、死んじゃったの…?」


 その事実に愕然とし、力が抜けたようにその場に蹲る。一体いつ?思い出そうとするが頭が混乱してまともに思考が働かない。晶はただ震える体を抱くように両腕を手で押さえることしかできなかった。


 


 しばらくその場に蹲って冷静になる努力をしていた晶は、やがて微かな音が聞こえることに気が付いた。

 

 はじめはトイレの外から聞こえたものかと思ったが、よく聞くと晶が今いるトイレの奥から聞こえているようだと気付く。


 晶が耳を澄ませてその微かな音を聞いていると、どうやら泣き声のようだ。

 

 (……誰かいる?)


 自分の状況はひとまず頭の隅に追いやって、晶は泣き声のする方へと足を向ける。


 自分が今、所謂幽霊というやつなら、相手に見えないはずなので、むやみに驚かせたりはさせないだろう。そう考えながら、声がする個室をそっと覗き見た。


 そこには先ほどの自分と同じように、蹲って両手で顔を覆って俯いている女生徒がいた。


 微かに肩が震えているから、やはり泣いているようだ。その少女が履いている上履きが上級生の色のものなので、どうやら学校の先輩らしい。


 そっとしておいたほうが良いかとも思ったが、その姿があまりにも痛々しくて晶は放っておけない気持ちになった。自分の声が聞こえるかもわからないが、とにかく思い切って話しかけてみる。


 「あの…大丈夫ですか?」


 「――ひっく…っひっく…」


 やはり聞こえていないのか、声をかけても相手は泣くばかりで何の反応も示さない。


 相手の事情はわからないが、もし仮に自分の声が聞こえたとしても、彼女の力になれる確証もない。晶は諦めにも似た気持ちで、静かに身を引こうとした。

 

 その時、勢いよくトイレの入口のドアが開いた。


 「だってあいつマジやばいって~!!」


 「だよね~あの時さ~」


 二人の女子生徒が話しながらトイレに入ってきた。どうやら先程すれ違った二人組のようで、そのうちの一人が個室に向かって歩いてきた。


 晶のことを気にも留めない女子生徒の様子に、晶は自分が彼らに見えていないことを思い出し、同時に奥の個室に目を向けた。


 このままでは泣いている先輩が目撃されてしまうかもしれない。しかし、幽霊である自分の声は彼女達には聞こえないだろう。これではどうすることもできない。


 ハラハラと事の成り行きを見守っていると、入口から一番手前の個室に向かっていた女生徒が声を上げた。


 「あれ~ここペーパーないや~」


 そう言って出てきた彼女は奥の個室に向かおうとした。


 (そこはやめてあげて~!)


 晶が焦りながら祈る様に声を上げていると、一緒に着いてきた女生徒があっと声を出した。


 「そこ、やめたほうがいいよ。ここって西校舎の三階だよね?なんか変な噂聞いたよ~」


 「何それ?もしかして、怖い話?」


 「そうそう。このトイレ奥のほうの個室、出るんだって!」


 「やだ!!何でもっと早く言わないのよ!」


 そう言って飛び出すように出てきた女生徒は本気で怖がっている様で、顔を真っ青にしている。


 「あんたが漏れそうって言ったから近いトイレに来たんじゃん」

 

 「もう!私がそういうの嫌いって知ってるでしょ!?」


 相手を睨むようにして言った女生徒は片方の女生徒を急かして、バタバタとトイレから出て行ってしまった。


 再びしんと静まり返るトイレで、晶は先ほど聞いた言葉を反芻する。


 ―――出るんだって


 「出る」とはつまり…今晶が置かれているこの状況で言うならば、『お仲間』がいるということだろうか。


 恐る恐る奥の個室に目をやる。本当に?晶は半信半疑で再びその個室に近づき、そっと中を覗いてみた。


 そこに、先程まで泣いて蹲っていた少女の姿は無かった。




***



 いつまでも学校にいても仕方がないので、晶は取り敢えず外に出た。途方に暮れつつ、とりあえずいつもの帰り道をとぼとぼと歩く。


 いつもと同じ景色の中を歩いていると、自分が死んでいるという事実がまったく信じられない。晶は歩きながら何度も自分の手の平を眺めたり、着ている制服を摘まんでみたりした。

 

 そもそも自分が本当に死んでしまったのかさえ定かではなく、もしかしたらそれが晶を幽霊たらしめているのかもしれないと考えたりもした。


 試しに車道に飛び出してみようと思ったが、さすがに断念した。幽霊でも痛みは感じるかもしれないと怖気づいたのと、今更悪足掻きをするほどの気持ちも持ち合わせていないことに思い至ったからだ。


 それよりも本当に死んでしまったのなら、なぜさっさと成仏せずに幽霊にまでなって現世に留まっているのだろうか。それが不思議だった。自分はそれほどまでに現世に思い入れがあっただろうか。


 そんなことを悶々と考えながら歩いていると、いつの間にか海岸沿いの国道まで出てしまった。


 海の向こうには重く垂れ込めた雲を抱えた錆色の空が広がり、潮のにおいが混じった生暖かい風が晶の全身に纏わりつくように吹きつける。


 ―――この先に見えるのは、あの交差点だ。


 「あ…」


 晶ははっとする。もしかしたら、これが心残りで現世に留まっていたのかもしれない。


 そう考えるとストンと腑に落ちた。


 自分の心残り。それは父親のことしか無いのではないか。


 そう気付いたら、何だか居ても立ってもいられず、晶は徐々に足を速めた。


 (きっとあの交差点で、待ってる)


 そんな確信があった。


 堪らず走り出した晶の頬を、いつの間にか降り出した雨が、ひと粒ひと粒と濡らしていく。



 ―――もう少し、もう少しで―――



 逸る気持ちとは裏腹に足はまるで藻掻くように空を蹴り、遅々として進まないように感じる。いくら全力で走ろうとも、ちっともそこに近付くことができないもどかしさに焦燥感が晶を追い立てる。


 雨に烟る交差点は、いつの間にか街灯が灯り、暗い空間にそこだけがぼんやりと浮かび上がって見えた。


 そこに、街灯に照らされた人のような影がある。



 ――― あれは、きっと ―――



 逆光で真っ黒になったその人影が、こちらに向かって手を振っている。


 足掻けば足掻くほど遠ざかるような酷くもどかしい時間が過ぎ、ようやく晶は暗闇に浮かぶ交差点に辿り着いた。


 晶は堪らず上がった息を整えようと膝に手をつく。その時、足元にキラリと光を反射する何かが目に入った。


 何だろうと目をやると、そこには街灯の光に反射して光る瓶と、そこに差された青い花が一本、まるでスポットライトに照らされたように、凛としてそこに佇んでいた。


 そのあまりの美しさに、晶は状況も忘れ、思わず目を奪われた。



 ―――これは、どこかで―――



 その花から目を離すことができないでいると、視界の端に黒い影の動く気配があった。


 

 待ッテイタヨ



 くぐもった声はひどく聞き取りにくかったが、確かにそう言ったように聞こえた。


 

 サァ、行コウ



 晶はその花から目の前に佇む影に視線を移す。


 影はさらに近づく気配を見せ、晶の方にその黒い手の平を伸ばしてきた。


 その真っ黒な手は、心から待ち望んでいた父親の手だ。そう思っていたのに、その手を見た瞬間、晶は見慣れていたはずのその手に違和感を覚えた。


 (お父さんの…手?)

 

 この違和感は何だろう。そう思っていると、指の付け根に何か金属のようなものがついていることに気付いた。


 (あれは、指輪…?)


 父親は普段指輪など付けていなかったはずだ。それに、母親の形見の指輪は晶が持っている。確かめるため、晶は自分の首にかかっているチェーンを手繰り寄せ、襟ぐりから引っ張り出す。


 そこには街灯の光を受けて淡く輝くムーンストーンの指輪がちゃんとあった。


 父の大事な指輪はこれしか思い当たらない。それがちゃんとここにある。それなら、あの手に嵌っている指輪は?


 その時、心臓が大きく胸を打つように鳴った。それに合わせて、血液が体中を逆流するかのように勢い良く巡っていき、体が徐々に覚醒していくような感覚に陥る。


 体中が鼓動に合わせて波打っている。それと共に頭にも血が巡り、晶は頭の中でピースが嵌められていくように、今までの出来事を思い出し始めた。


 (――私は霊に取り憑かれて、そして、そのせいで屋上から飛び降りて…)


 晶はもう一度足元にある青い花に目をやる。美しく咲き誇るこの花は、何かに似ている。


 そして、自分の役割を思い出した。



 (そうだ。…私は、香月さんの、パートナー!!)



 晶は首から下げていた母親の形見の指輪を無意識に握りしめながら、目の前の影を睨むように見据えた。


 そして、確信する。


 (この影は、お父さんじゃ、ない)


 ずっと胸にしまってあったからだろうが、握った指輪からわずかに温もりを感じる。緊張で指先まで冷たくなっていた晶は、その温かさに少しだけ勇気づけられた。


 晶は静かに呼吸を整える。そしてゆっくりと指輪から手を放し、意を決すると目の前に差し出された黒い手を思い切り掴んだ。


 「!」


 その勢いのままその手をひっくり返すと、そこにはやはり見覚えのある青い石がついていた。


 それを確認した晶はその指の付け根からもぎ取るように指輪を引き抜くと、その場から逃げるために一目散に駆け出した。



 晶は振り返らずに全速力で走り続ける。


 できるだけ速く、遠くに逃げるように必死に走り続けた。振り返ればすぐ後ろまであの真っ黒な手が追いかけてきているような気がして、怖かったからだ。


 降り頻る雨の中、晶は真っ暗な道なき道をがむしゃらに走り続けた。今度は意識が飛ぶようなこともなく、しっかりと自分の意志で走っている感覚がある。


 手に握り込んだターコイズの指輪はひんやりと冷たいのに、胸に揺れるムーンストーンの指輪はそれ自体が熱を持っているかのように温かく、まるで誰かの体温のように感じられる。それに励まされるように晶は闇の中を走り続けた。


 やがて晶は、自分があてもなく走っているわけではないと気付き始めた。


 いつの間にか真っ暗な中に一点の光が見えている。始めはぼんやりと微かにしか見えなかったその光は、近付くにつれて徐々にはっきりと大きくなっていき、やがてその正体が青白く輝く満月であることが分かった。


 月まで走っていくことができるのかは晶にも疑問だったが、晶は本能的にそこに行かなくてはいけないと悟っていた。


 自分が行きたいと思うのだから、行くしかない。そう思うと自分の足にさらに力が入った。幸い疲れはあまり感じていない。


 綺麗な月を眺めながらそれに向かってがむしゃらに走っていく。夢中で走っていると、先ほどの恐怖心や近頃の孤独感、そして虚無感がすべて後ろに遠ざかっていくように感じた。


 ただただ目の前の光を目指して走っていくのが、こんなにも気持ちよく、満たされた気持ちになることだったなんて知らなかった。

 

 とても現実的ではないけれど、そんな幻想的な体験も悪くないと思いながら、晶は何も考えず、ひたすら目の前の月を目指して走り続けた。



 

 やがて晶は、とうとう青白い光が晶の全身を包むほど月に近づいた。視界いっぱいに広がる青白く優しい光は、独りきりの夜に見上げた時に感じたものよりも、どこか胸を騒がせるような光だ。


 晶は眩しい光に思わず目を閉じると、次の瞬間、急速に光が収まった感覚を瞼の裏に感じた。


 一体何が起きたのか。それを確かめようと、晶はゆっくりと目を開けた。



 するとそこには、さっきまで強く光り輝いていた月が、その光をなくして静かに浮かんでいた。


 それでもその透き通った宝石のような月は、微かな光を反射してキラキラと淡く輝いている。


 見惚れるように月を眺めていた晶は、その月に自分の顔が映っていることに気が付く。


 (あれ、自分が映ってる?月に?)


 そう思うと同時に、その月が急に遠ざかった。


 そして、その持ち主が顔を離して息を吐くのを視界の隅に捉える。



 「よかった。気が付かれたんですね」


 後ろから聞こえたその声に驚いて振り向くと、そこには心の底から安堵したような表情の堀越が立っていた。


 その時、自分の手から温もりが離れていくのを感じて晶が自分の手を見ると、たった今、そこから離された手が綺麗な月を隠してしまった。


 それと同時に、片手で顔を覆った香月が、全身の力が抜けるのではないかというほどの長い溜息を吐いて俯く姿が見えた。






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