プロローグ
僕にとって、この世界は他の人たちが見る世界とはまったく違って見えている。周りの人々(ひとびと)を見るたびに、みんな同じように見える。顔はどれも似通っていて、特徴がほとんどない。まるでゲームの中のNPCのように、顔のモデルが統一されていて、表情にほんの少しのバリエーションがあるだけだ。彼らを見分けるのは難しい。時には、以前会ったことがあるのかさえ思い出せないこともある。みんなが単調な人生の背景キャラクターのように感じられる。
だが、ときおり、特に目立つ人が現れることがある。それが有名人である必要はない。たぶん、顔の特徴ではなく、その人を取り巻くオーラのようなものに関係しているのだろう。人にはそれぞれ異なるオーラがある。体の周りにかすかに光る色。それは明るくて引き寄せられるものもあれば、暗くて重苦しいものもある。そのオーラの方が、普段ぼやけて見える顔よりも、その人を識別するのに役立つ。
一度でも誰かと十分に交流すると、通常、その人のオーラは記憶に残る。それで遠くからでもすぐに彼らを認識できる。だが顔は?それが近しい存在であるか、非常に有名である場合だけ明確に見えるようになる。それでも、顔が頭の中ではっきりするまでには何度も見る必要があることが多い。
サッカーボールを蹴る男性を目にした時、僕にはそれがただの日常には見えなかった。まるで映画のワンシーンを見るような感覚だった。彼の足がボールに触れるたび、光の流れが放たれ、青白い輝きがボールを包み込みながら空中に広がっていくように見えた。ボールが動くと、その周囲の空気が揺れ、シルエットの波がそれに追従する。人々(ひとびと)にはただのキックに過ぎないものが、僕には壮大な視覚的ショーに変わる。まるでそのキックが空を揺り動かしているかのようだった。
同じように、人が走るのを見ると、彼らが踏み出す一歩ごとに、空気中に残るエネルギーの残像が輝いて消えていくのが見える。車が高速で道路を走ると、ただ速く動いているだけではなく、ネオンの輝きに包まれているように見え、その唸る音は、空間を切り裂くかのような波動を生み出しているように見える。
しかし、このような見方には問題がある。僕がこのような光景について話すと、周囲の人々(ひとびと)はよく奇妙だと感じる。たとえば、サッカー練習中にボールから光が放たれているとクラスメートに話した時のことだ。彼らは全員笑い出し、僕が冗談を言っているか、映画の見すぎだと思ったのだろう。曖昧な顔ばかりの彼らが、困惑と少しの憐れみの表情を浮かべて僕を見ているのを覚えている。きっと彼らは僕のことを変わり者だと思ったに違いない。
それも仕方がないのかもしれない。僕の頭の中にあることは、説明するのが難しいからだ。しかし、それを理解してもらえない時、特に自分の両親にさえ「おかしい」と言われると、とても傷つく。世界には僕を理解する人が誰もいないように感じられる。
僕にとって、この世界はただの現実ではない。見えない別の層が存在している。けれども、それを人々(ひとびと)に伝えようとするたびに、彼らはただ困惑した顔で僕を見るか、遠ざかっていく。
だから僕は、この独特な感性を表現するための方法を見つけなければならない。そして、それが物語という形で現れるかもしれないのだ。
****
僕には感じられる——
夕方の冷たい風が肌を撫でる感触、
骨の奥深くまで染み込むような心地よい涼しさを運んでくる穏やかな風。
僕には聞こえる——
頭上で擦れ合う木々(きぎ)の音、
風に揺れる草原の囁き、
その柔らかな音が、穏やかな夕暮れの静けさを守っているかのように。
僕には聞こえる——
枝に止まった蝉たちの鳴き声、
絶え間なく空気を満たす夕方の旋律、
まるで時間の流れを穏やかに伴奏するかのように。
僕には聞こえる——
回り始めたプロペラの音、
離陸の準備をするヘリコプターの音、
その音は放課後の部活動帰りの足音と交じり合っている。
彼らは一日を終え、
それぞれの家に戻り、笑顔とともに物語を持ち帰る。
僕には匂いが感じられる——
夜の気配が忍び寄る空気の香り、
冷えた大地の匂い、
清々(すがすが)しい平和の象徴のような空気、そしてほんのかすかなガソリンの匂いが混じり、
大きな乗り物が出発の準備をしていることを告げている。
僕には見える——
まるで本当にそこにいるかのように、
僕はアスファルトの道の真ん中に立っている。
穴だらけの舗装された道路、
あちこちが傷んでいるその影が、
ぼんやりとした街灯の明りの下にくっきりと浮かび上がる。
僕には見える——
沈みかけた太陽が、
そびえ立つ二つの山の間で消えようとしている姿が、
空に残る橙と赤の輝きが広がる様子が。
夜の訪れを告げるように、ゆっくりと暗くなる空。
僕には見える——
離陸の準備をしているヘリコプターが、
その影がどんどん大きくなり、
周囲の残り少ない光を飲み込んでいき、
最後には黒いシルエットだけが残る。
僕には見える——
目の前に立つひとりの少女が、
彼女の顔には深い心配が表れている。
その目は僕に向けられ、
言葉にできない感情が込められている。
僕たちは見つめ合い、
突然訪れた静寂の中に立ち尽くしていた。
彼女が一歩近づいてきた。
その足音の響きが僕の耳に届き、
時間がゆっくりと流れるように感じた。
彼女は僕を抱きしめた——
その温もりを感じられる。
しっかりとした抱擁、
その温もりが僕の体中に広がる。
彼女の鼓動が穏やかな歌のように響き、
静けさの中で流れる時を刻んでいく。
彼女の涙がこぼれ落ちる。
音もなく、絶え間なく流れ落ち、
僕たちの服を濡らし、
その涙が肌に触れるのを感じる。
気がつけば、僕の涙も流れ始めていた。
心の奥から溢れる感情を抑えきれずに。
僕たちはしばらく抱き合っていた。
その瞬間を記憶に刻みつけようと必死だった。
でも、わかっていた——
僕たちは別れなければならないことを。
彼女は戻らなければならない。
自分の居場所へ。
そして僕も戻らなければならない。
自分の日常へ。
重い心を抱えながら、
彼女は抱擁を解いた。
その解放には無理やりさが滲んでいて、
僕たちの間に漂う重さが伝わってくる。
彼女は振り返り、
僕を置いて去っていく。
僕はただそこに立ち尽くし、
沈黙の中で彼女の背中を見送るだけだった。
彼女はヘリコプターに乗り込む。
プロペラの音がますます大きくなり、
風が顔に強く当たる。
そのヘリコプターが空へと舞い上がる。
僕には見える——
上空から僕を見つめる彼女の姿が、
その顔にはまだ悲しみの影が残っている。
でも、僕は心を決めた。
手を挙げて小さく手を振り、
微笑みを浮かべた。
彼女は驚いたような顔を見せたが、
すぐに僕に手を振り返し、
小さな微笑みを浮かべた。
僕たちは知っていた——
これが最善だということを。
なぜかわからないが、そう感じ(かん)じていた。
僕たちはそれぞれの人生を歩む必要がある。
ヘリコプターは僕から遠ざかり始めた。
だけど……
もう一度彼女の顔を見ると、
その表情が変わっていた。
悲しみでも、喜びでもなく、
そこにあったのは恐怖——
僕の血が凍りつくような恐怖。
彼女の唇が動くのが見えた。
何かを伝えようとしているようだった。
彼女の手が僕に向かって伸ばされ、
「やめて!」と叫んでいるように見えた。
その時、腹部に温かい感覚が広がった。
何かが流れ出すのを感じ(かん)じ、
自分の腹部を見ると、血まみれだった。
『誰かに襲われた』、そう思った。
犯人を探そうと振り返ろうとしたが、
僕の体はすでに動かなかった。
その場に崩れ落ち、
アスファルトの上に倒れ込む。
呼吸が次第に弱まっていく。
『嫌だ、こんな形で死にたくない!』心の中で叫んだ。
周りを見渡そうとする。
一瞬、謎めいた影が見えた気がしたが、
視界はますますぼやけていく。
そして、ゆっくりと目が閉じる。
自分の人生の断片が、
フィルムのように逆再生されていくのが見えた。
その最後に残るのは、
彼女との出会いの記憶。
そして、すべてが闇に消えていった。
****
目を覚ました時、体は重く、力が入らなかった。ゆっくりと目を開けると、見慣れない部屋の天井が視界に入る。ここは、いつもの部屋ではない。白く、清潔で、漂う消毒液の匂いが空気を支配していた。周りを見渡すと、壁は淡い色で覆われ、窓のそばには白いカーテンが掛かっている。すぐに気づいた。この場所は病院の病室だ。
胸の奥に得体の知れない感情が湧き上がる。気づけば、頬に涙が流れていた。荒い息遣いと冷や汗で体中が濡れている。混乱したまま、現実と夢の境界が曖昧になり、最後の記憶が脳裏をよぎる。あの少女、ヘリコプター、そして血……すべてが生々(なまなま)しく、直前まで体験していたかのようだった。
体を起こそうと試みるが、重さに抗えない。顔を手で拭いながら、頭を整理しようとした。自分に何が起きたのか確かめる必要がある。しかしベッドから降りようとした瞬間、鋭い痛みが腹部を突き刺す。顔をしかめ、その痛みで体が硬直した。「くそっ……」心の中で呟く。「あの時の傷が……?」思わず動きを止める。治療を受けたはずなのに、どうして?疑問が頭をよぎったが、深く考える余裕もなく、無理に動くのを諦めた。
目線を横に向けると、そばの椅子で誰かが眠っているのが見えた。見覚えのある顔——母だ。目の下にクマができ、疲れ切った表情をしている。心臓が高鳴り、胸の中に温かいものが広がる。久しぶりに見るその姿に、僕は強烈な安堵感を覚えた。僕は一人じゃなかったんだ。
僕の気配に気付いたのか、母が目を覚ました。何度か瞬きをしてから、僕の顔をじっと見つめる。次第に彼女の顔に安堵の表情が浮かび、目から涙が静かにこぼれ落ちた。その疲れ切った顔に感謝と喜びが滲み出ていた。
「目が覚めたのね……」母の声はかすれていたが、優しさと温かさが溢れていた。「ずっと待ってたのよ……」
胸に重たい罪悪感が押し寄せる。「お母さん……」声が震える。僕は彼女の顔をじっと見つめ、言葉を探した。「ごめんなさい。黙って出て行ったことを……心配させたよね。でも、僕にはどうしてもやらなきゃならないことがあったんだ。あの子を助けたくて……ただそれだけで……」
母は眉をひそめ、僕の言葉に困惑したように見えた。「何を言ってるの?」彼女の声は真剣で、少し心配そうでもあった。
僕は戸惑った。「え?」
母は深く息を吸い、僕を見つめたまま続けた。「一週間前、学校に行こうとしていたあなたが、突然目を覚まさなくなったのよ。どれだけ揺すっても反応がなくて、すぐに病院に運んだの。お医者さんから、あなたは昏睡状態だと言われたわ。」
心臓がドキドキと音を立てる。「昏睡状態……?」信じられない。最後の記憶が鮮明に蘇る。あの少女、ヘリコプター、襲撃……すべてが現実だったはずだ。どうしてそれが夢だと?母の話を聞きながら、全身に寒気が走った。いったい僕に何が起きたのか?
周囲の人々(ひとびと)にとって、ただの夢と片付けられるかもしれない。でも僕には違った。あれはただの夢なんかじゃない——それ以上の何かがあったんだ。彼女の顔も名前も思い出せないのに、彼女への気持ちだけが心に深く刻まれている。僕は彼女を探さなきゃならない、たとえどこから始めればいいか分からなくても。
その後、僕は自分の体験を説明できる理論を調べ始めた。いくつかの仮説にたどり着いた。一つ目は「異世界」。僕が夢の中で別の次元、並行世界に足を踏み入れたという説。二つ目は「体外離脱」。夢の中で僕が誰か別の人間の体を借り、その人生を体験した可能性。そして三つ目は「明晰夢(ルシッドドリーム)」。僕はこの説を認めたくなかった。もしこれがただの夢であれば、なぜあれほどのリアリティと感情が伴ったのだろう?だが同時に、明晰夢こそが彼女と再会できる唯一の手段かもしれないと考えるようになった。
僕は明晰夢のテクニックを学び始めた。本やインターネットで見つけた方法を片っ端から試し、夢を通じて彼女にメッセージを届けようと決めた。そして、その過程の中で僕は小説を書くことを思いついた——彼女との出会いと、僕の気持ちをすべて物語として記録しようと。小説は僕にとってただの創作ではなく、彼女への手紙のようなものだった。
まさかその小説がベストセラーになるとは思わなかった。最初はただ彼女を探したい一心で書いただけだった。けれども、読者たちはそれをフィクションとして受け取り、物語のリアルさと感動的な内容を称賛した。僕が感じた感情や夢の中の描写が、読者に強い共感を呼んだらしい。
ある日、僕はオンラインでのインタビューを受けることになった。顔出しを拒否したが、読者たちはそれをミステリアスで面白いと感じてくれたようだ。質問が次々(つぎつぎ)と投げかけられたが、その中である有名な評論家がこう尋ねた。「この素晴らしい小説のインスピレーションはどこから来たのですか?」
僕は深く息を吸い、答えた。「これは、僕自身の体験から来ています。」
静寂が訪れた。やがて小さな笑い声が聞こえ始め、インタビュアーは信じられない様子で問い返した。「本気でおっしゃっているのですか?」
「はい。」僕は静かに答えた。「あの物語は、僕が実際に体験したことです。」
だが、僕が得た反応は期待していたものとは全く違っていた。人々(ひとびと)は笑い始め、僕が冗談を言っているのだと思い込んだのだ。視聴者の中には「ただの話題作りだろう」とコメントする者もいれば、「宣伝の一環だ」と断じる者もいた。誰一人として、僕が体験したことが本当だと信じてはくれなかった。
胸の奥に苛立ちがじわじわと広がったが、それを表には出さなかった。僕はただ黙って、インタビューが終わるのを待つだけだった。彼らはただ表面だけを見ているに過ぎない。あの夢の中でどんな感覚を味わったのか、それが僕の人生にどれほど深い影響を与えたのか、誰にも理解できるはずがないのだ。
インタビューが終わった後、大手出版社から次々(つぎつぎ)と新作小説の執筆依頼が舞い込んできた。彼らは僕に新しい物語や、ベストセラーになる続編を書くようしきりに求めてきた。しかし、僕はそのすべてを断った。新しい小説を書くつもりはまったくなかったからだ。僕にとって小説を書く理由はただ一つ——夢の中の彼女を見つけること。それ以外に名声やお金のために筆を取る気は全くなかった。どれだけ周囲に促されても、自分の限界と目的ははっきりしていた。僕が語りたい物語はすでに書き終えている。それ以上の物語はない。
それでも、僕の希望が消えることはなかった。僕は信じている。彼女はどこかにいるのだ。別の世界かもしれないし、夢の中かもしれない。それでも僕は、彼女を探し続けるつもりだった。そして、その想いを胸に高校に進学したとき、僕は「超常現象研究会」という部活に入部することを決めた。
その部活では、僕と同じような感覚を持つ人々(ひとびと)、あるいは夢や異世界、目に見えないものの存在を理解しようとする人々(ひとびと)に出会えるのではないかと期待していた。これが小さな一歩であることは分かっている。でも、これは僕が真実を追い求めるためにできる努力だった。あの夢が僕の人生を変えたのだから、それを解明する道を歩み続けることにした。
そしていつか、思いがけない日に——また彼女と出会える日が来ると信じている。