黒幕
生まれすぎたハエたちも、皆が無抵抗だったわけじゃない。同年代の連中はゴミの山にしがみつき、貴金属の含まれたチップを取り出して業者に売っていた。確かにそれは金になり、はるかにマシな飯が食える。だが静かに燃えるゴミは有毒なガスを生じるため、彼らは遠からず死んでいく。
賢いはずもおれも、状況を打開しようと悪事に手を染めた。住処から数㎞の場所にある反社の家に忍び込み、金目のものを盗もうとした。動機は洒落た服がほしかったからだ。薄汚れた服を脱ぎ捨て、レストランとかいう場所に入ってみたいという動機で。
「それでどうなったんだい?」とハクは聞いた。おれはやつのアパートの一室で簡単な身の上話をしていた。
「金庫の鍵が開かなかった。かわりに机にあるナイフを盗った。高価に見えたけど金に替えるには危なそうで」
「だからナイフを持っていたのかね」
ハクは自宅に来るまでの間、ナイフの所持について問い質し、おれは護身用だと答えた。実際武器を身につけた連中など周囲にはなく、いても反社に組み込まれたやつらで、それも16歳以上という年齢制限があった。おれはこの当時、まだ13歳だった。むろん反社になる気など微塵もない。
「とてもリスキーな仕事なんだ。ほとんどの場合失敗する。リスキーの意味はわかるかい?」
「大丈夫」
おれの賢さは勉強のおかげでもある。学校の本はあらかた読み尽くした。語彙力に問題はない。
問題はハクの依頼する仕事の内容だった。おれとの面談中、彼は梅干しを食いながら緑茶を飲んでいた。あとになってわかることだが、ハクは酒もたばこもやらない。自宅はくすんだ色のアパートの一室。何だか立派な油絵が飾られていて、質素なインテリアから浮いていた。
応接間につながるリビングでは、お前がテーブルで数学のドリルを解いていた。宿題なのだろう。お前はハクの孫娘で年齢は少し上に見えた。背中しか見えないが短くてぼさぼさの黒髪が印象的だった。
暗殺という仕事は少々現実味がない。学校に関連する本がなく、そもそもイメージが薄かったからだ。
簡単ではないことは容易に理解できるだろう。成功させるだけの技術と度胸を持ちあわせ、現場から立ち去り帰ってこなければならない。行ったきりの自爆テロとは違うのだ。淡々と働き続け、自分を守るためには。
ターゲットが何者かは事前にレクチャーがあった。その多くが街の有力者だ。職業はバラバラで、裏社会の潰し合いというイメージからも程遠い。表の顔とは違う一面を持つやつもいたが、罪なき一般人に見える者もいた。しかしハクが標的に定めた途端、殺害は速やかに実行された。
おれは相手の調査を念入りにおこない、独りでいるタイミングを掴み、防犯カメラに映らない工夫も凝らした。乞食になりすますことが多かった。
暗殺業なるものがハマった理由はいくつかある。
ナイフの扱いはそう難しいことではない。相手の不意を突いて急所に飛び込めばいいのだ。普段から警戒してる連中も子供に襲われるわけがないという油断があり、標的は何が何だかわからないうちに死ぬ。おれは背が低かったから尚更侮られ、成功率を高めることにつながった。
とはいえ最大の要因は無敵の記憶力だろう。おれは24区の沿岸部にいる住民をあらかた記憶していた。何年もの間、街の清掃に励んだ結果ともいえる。顔だけなら完璧に記憶していた。雰囲気的にどんな人間であるかも。
そこから洩れる標的の場合は乞食に扮して情報収集をおこなった。掃除機がゴミを吸い込むように、どんなに些細なことも見落とさず、頭のなかに吸収する。
外出のタイミング、行動ルート、付き人の有無、トイレに行く頻度、愛人の居場所。
こうなるともう一方的な顔見知りだ。標的は丸裸で、ある日突然ナイフが肝臓に突き刺さる。
標的を殺した証拠写真を撮ってきてそれを持ち帰ると、お前が褒めてくれたよな。ハクは何もいわない。ただ毎日三食与えてくれ、ときどきレストランにもいった。暖かい寝る場所もくれた。おれが望むと携帯音楽プレイヤーも。曲は無限に聴けた。色々なものが満たされていき、たくさんのことが欠け落ちていたことに気づいた。
お前は年上らしく、少し達観したところがあった。明晰なことをいっておれを何度か驚かせた。
「おじいちゃんはぶっきらぼうだけど、あれは愛があるからなの。死んだときに悲しくなるから、決して情が移らないようにしてるのよ」
正直な話、ハクの気持ちなんて考えたこともなかった。ギブアンドテイクでいい関係だと思っていた。けれどお前の話を聞くと、そこに見逃しがたい歪さがあることに気づかされる。
確かにハクは、感情を表に出さず、特徴のない毎日を送っていた。仕事らしい仕事もせず、梅干しを食いながら緑茶を飲み、いつも瞑想していた。アウトプットのない人間をはじめて見た。後にも先にもハク以外見たことがない。
それは異常なことなのだろうか。確かに変人ではある。けれどハクは本物だった。本物の黒幕であった。
ハクの家で寝泊まりするようになってお前とつるむ機会が増えていく。学校をサボって真昼からレストランにいき、だべることもあった。夜中に家を出てカラオケではしゃぐこともあった。
海辺の防波堤に座り込んで、釣りをしながら他愛もない話をした。お互い学校に友人がいないことがわかり、同級生の悪口で盛り上がった。
似た者同士であることを知ると心の距離が縮まっていく。お前は次第に気を許し、夕暮れを見つめながら手を握ってきた。そしてハクの正体を語りだした。
おれなりの考えでは、黒幕とはトップではないが、トップ以上に力を持っている者を指す。
黒幕には二種類あって、ひとつは絶対的な発言力を持つナンバー2として権力の中枢に君臨する場合だ。もうひとつはトップの個人的な相談役としてトップを操る立場に居座る場合。ハクはこちらのタイプだった。
見るたび瞑想ばかりしているハクが唯一電話をする相手がいる。それはこの街の区長だという。
界隈の汚れ役を一手に引き受けるかたちで形式上のトップから苦情を聞き、問題のある人物を潰していく。もちろん表には見えない方法で。そんな悪事にハクは手を染めていた。
おれの前は凄腕の殺し屋を雇っていたという。だが報酬の額に文句をつけはじめ、断ると脅しに出た。危険を感じたハクはそいつを殺し、かわりにおれに目をつけた。ひと目見て適性を感じ取ったという。
「おじいちゃんは人間の天才なのよ。相手の本性が透けて見えるらしいわ。暗殺の依頼を受けても十分に吟味して実行へと移してきた。ビンジに依頼しないケースもたくさんあったはずだわ」
お前の片手を握りながら自分の置かれた世界の全貌をようやく理解した。ハクがこの24区を陰から仕切る黒幕であることを。だれを生き残らせ、だれを取り除くべきか、全部ハクが決めていた。名だたる反社、違法薬物のブローカー、詐欺組織のボス、得体の知れない一般人。英語のスラングでいえばハクはクールだ。尊敬に値する。
それ以来というべきか、おれのハクを見る目が変わった。貧困から救ってくれた変なジジイという印象は薄れ、一挙手一投足が格好良く見えた。ハクは相変わらず梅干しを食い、緑茶を飲んで、瞑想しているだけなのに。何もしてないのにすべてを支配している。こんなすごいことがあるだろうか。
自分に自信を持つ人間はほぼ例外なくトップを目指すだろう。だが明確な理想は価値観を変える。おれはこのとき、黒幕になりたいと思うようになった。のたうちまわるくらいハクに憧れ、支配される側でなく“世界を支配する側”に立つことを願った。
そんな気持ちはしかし、だれかにいえるわけもない。身の丈に合わない野心は笑われるのが関の山だ。
おれが雇われてから半年が経って、ハクの部屋に飾られる油絵はいつの間にか増え、小さな美術館になっていた。そこから読み取れる事実はさておき、殺害した標的の素性は全部覚えており、思い出しながら昼寝もできる。罪の意識はパラレルワールドの話だ。火事を止めて心を病む消防士などいるわけがない。
その頃になるとハクはまとまった金をくれるようになり、お前と毎晩レストランに行くようになったよな。血の滴るステーキを食いながら、どちらともなく下らないギャグをいい合う。最後にいちごパフェを頼み、ふたりで一緒に空にする。姉弟なのか友達なのか。関係性の変化に笑みがこぼれる。
「わたし、いちごが好きなのよ」とお前はいったっけ。「食べ物でいちばん好き」と。
そんな日々の刹那さをおれは徐々に見失っていた。気づいたときには何もかもが手遅れだった。