総統命令76号
人生最大の窮地といわれてもピンとこない。あらゆる窮地を乗り越えてきたからだ。
けどいま立ち塞がった窮地は桁がひとつかふたつ違う気がした。
三つ編みの悪霊をはるかに凌駕するサイズまで巨大化した信長は、反転した色のせいで青紫に染まっており、しかも依然そのサイズを増していく。
視界を占領した“それ”はやがて薄緑色に変化した。色彩の反転を考慮に入れると、元の色は褐色だ。
もしも樹木が悪霊になったらどうだろう。信長の変化したのはまさに樹木の悪霊だった。吊り上がった両眼に頰まで裂けた口。巨大化する甲冑は棘のような枝を生やし、悪魔のごとき風貌をさらに際立たせる。
三つ編みの悪霊は榴弾砲を撃ちまくるが、信長の勢いはとまらない。先の尖った手でふん掴み、一瞬で悪霊を握り潰しやがった。
こんなバケモノを倒せるのだろうか。いやそれ以前に戦えるのだろうか。
人間、頭が優位になるとろくな戦いができない。このときのおれは見たこともない魔物に圧倒され、心技体の均衡が崩れていた。
信長は剥き出しの牙をぎらつかせながら前方に屈み、おれの頭部を齧ろうとする。バカでかいくせにその動きは滑らかであっという間に距離を詰められた。受けるか避けるか、ベストの選択が思い浮かばない。猛烈な圧に判断が狂い、おれは刀を突き出すことしかできない。
そのとき、視界が塞がり急に体が浮いた。わけがわからねえ。気づいたら空を飛んでいた。
「いますぐ死ぬか、地獄に生きるか。自分の置かれた状況を理解せよ」
おれは分厚い体の男に抱きかかえられている。そのしゃがれ声でわかった。ヒトラーに救われたのだ、おそらく人生最大の窮地を。
地面に着地したおれをヒトラーは手放した。少し頭がクラっとしたが、その揺れもすぐに収まる。
「調子が戻ったのか?」とおれは聞いた。
「いや、体が勝手に動いた。腹はまだ痛む。本来ならベッドで寝ていたい」とヒトラーは憮然とした顔でいう。
「どっちにしろ動けるなら、さっき戦うべきだろうが」
窮地を凌いだ安堵感はなく、むしろ腹が立って毒づいてしまう。感情的になっている場合ではないが、さすがに動揺していたのかもしれない。
「貴様ら二人で三郎を倒せたかもしれん。そのチャンスを奪うと成長の機会すら奪ってしまう。獅子は子供らを谷底に落とす、というであろ?」
「その隙に本気を出されたら意味ねーだろ!?」
体の揺れは収まっても心の揺れは収まらない。怒鳴り声をあげたおれに対し、ヒトラーは淡々といった。
「あれは三郎にとっても賭けだ。死力を尽くすとは文字どおり命を削ること。貴様にとってピンチはチャンスである」
正直にいおう。その発想はなかった。いまはチャンスなのだ。頭の片隅にすらなかったが、まさに逆転の発想というほかない。
「貴様は見たところクレバーに戦える。呼吸を整え良さを発揮せよ」
そういったヒトラーはおれの頭に手を添え、ぐりぐりと撫でまわした。上から目線にもほどがあるが、相手は偉人中の偉人で、しかもジジイに片足突っ込んでいる。不思議と怒りは湧かず、むしろ気分が落ち着いた。
あとになって振り返れば、おれはこのときヒトラーに魅了され、心のドアを少しだけ開いたのかもしれない。味方のいる安心感。信長と戦うガッツが急速に溢れ出た。
「三つ編み、シャオレンを頼む!!」
後顧の憂いを払うようにおれは指示を飛ばした。悪霊を潰された三つ編みにできるのはそれくらいだろう、と思ったのだが、目を移すと野郎はすでにシャオレンを退避させている途中だった。状況が見えている。やっぱコイツ頼もしいやつだ。
「味方が二人もいて負けるわけにいかねーよな」
小生意気な軽口を飛ばす余裕が出てきたとき、正面に立つ信長はさらなる変化を遂げた。樹木の体を持つ巨人は筋肉を盛り上がらせ、首と胴体のつなぎ目から細長い鞭のようなものを伸ばしていく。
「殄戮セヨ」
嵐のような罵声が聞こえ、その直後本物の嵐が押し寄せた。数えきれないほどの鞭が尖った先端を露わにし、猛烈なスピードで襲いかかってきたのだ。
何度だっていうが、悪霊との戦いは器の壊し合い。そして相手が強ければ強いほど、敵の手の内を知る必要がある。
だが解析が済む前に殺られてしまっては意味がない。
「食うかよ!!」
信長にとっては不幸なことだが、スピード勝負なら負ける気がしない。尖った鞭が着弾する前に飛び上がり、その鞭の上に体を滑り込ませた。相手の動きが直線的だったのでバランスは保てると思ったのだ。
その狙いは的中し、粉々におれを破壊するはずだった鞭は信長の体に戻っていく。当たり前の話だが、やつの胴体との距離は一気に縮まる。
おれは体の動作も速いが頭の回転も同じくらい速い。瞬きするほどの間に次のプランが浮かんでいた。
「小癪ナ!!」
信長が苛立ちとも鼻笑いとも取れる声を上げ、伸ばした鞭を何本かむけてきた。
正確に目視するとそれらは鞭ではなく、激しく回転する金属製のドリルだとわかる。ぼこぼこに殴りつける鈍器だと思ったら鋭利な刃物だったわけだ。
ちょっとでも触れたら一巻の終わりと悟ったおれはここでフェイクをかけた。真正面から勝負なんてしてやらねえ。
「かかってきやがれ、信長!!」
「クタバレ、坊主」
互いに馬鹿デカい声で吠え、おれは鞭の上をダッシュで駆け上がる。むろん信長はそれを先読みし、激しく回転するドリルを差しむけた。
まんまと引っかかった、と思ったね。信長の反応を瞬時に確かめ、体を浮かせたおれは鞭を滑り降りる。そうするとどうなると思う?
戦闘においてもっとも大事なのはタイミングだ。どんなにハンドスピードが速くたって、そこに相手の頭がなけりゃ空振りに終わる。
同じことが信長においても起きた。やつの操る鞭は何もない場所を攻撃し、自分の体をドリルで傷つけた。
「グオオオッ……!?」
その絶叫を聞き届けたおれは刀を突き立てスリップをとめ、鞭のうえを駆け上がる。プランを実行に移すためにだ。
もしこの戦いがボクシングだとしよう。
パワーで劣る、サイズで劣る、スピードは互角で、勝るのは戦闘IQだけ。
そんなおれが信長にダウンを奪うには相当上手く戦わなきゃいけない。10人いて、10人がおれの負けを確信するかもしれず、ぶっちゃけ反論は難しいと思う。
だがお前も知っているとおり、おれは自分でも驚くほど狡猾なファイターだ。24区の暗殺者として悪名をはせたのは、度胸や外見が理由じゃない。徹底的に嫌なところを押しつける。そうする悪知恵が最初から備わっていたからだ。
おれはまず、信長の鞭に刀を突き立て、それを抜いた瞬間前に跳び、また突き立てるという行動をとった。
重要なのは強弱をつけることだ。
芯まで響くように穿つように見せかけ、次は浅く突く。鞭から振り落とされない絶妙な強度で突く。
理由は簡単だ。強打を連続すると人間の体は慣れてしまう。暗殺だって一撃で殺せるのはまれだ。ほとんどの場合、相手の抵抗に遭い、場合によっては反撃を受け、乱闘になってしまう。
子供のパワーで大人を組み伏せるには賢く戦わなきゃいけない。そのとき、あえて弱い攻撃を混ぜるのはとても有効といえる。一度急所を狙われた相手は恐怖心を覚え、そこに軽打を混ぜると、どこで強打が飛んでくるのかわからなくなる。その迷いと怯えが敵を疲弊させ、神経を切り刻むのだ。
巨大化した信長だって神経があり、人体である。同じ理屈はまんまと当たり、鞭の動きから戸惑いが伝わってきた。
「グルルッ……!!」
やつも嫌な感じがしたのだろう。“小僧”と見下した相手が自分を巧妙に傷つけてくる。与えるダメージは小さいが、やたらとクレバーなボクサーは本能的に危険を感じるものだ。パワーはなくてもボディや顎を捉えれば即KOだから。
信長は体から放った無数の鞭を集合させ、おれのほうにドリルをむけた。胴体に近づく前に一気に潰そうと考えたのだろう。こっちの好きにさせるまいと、妥当っちゃ妥当な攻撃だ。
だけどその動きもおれの読みどおり、狙いどおりだと知ったらどう思う? 自画自賛がすぎると怒られそうだが、おれは迫りくる鞭をジャンプで避け、そのうちの一本に刀を突き立て、体の安定を保った。予想どおりだからこそ、イメージどおりに体が動いてくれた。
スピードは体が生むが、速さは頭が生み出す。つまりは自分の敏捷性をどう使いこなすかってこと。この頃になると信長もわかってきたんじゃないか。自分がどんなやつを相手に戦っているかを。
頭上から盛大な舌打ちが聞こえてきた。苛立ってきた証拠だ。次は本気のパンチが飛んでくるだろう。
しかしそれを聞いておれはむしろ安心したね。信長は巨大化したことで無限のパワーを手にしたと勘違いしたのだろう。実際やつの巨大化はまだ続いており、完全体になると山より高くなるとすら思えた。
一般論だが、自分のほうが圧倒的に強いと思った途端、人間は頭を使わなくなる。だがちょこまかと飛びまわるハエに人間は手こずるだろう。そのハエに一撃必殺の武器があったらどうなると思う?
短い攻防のなかでおれはひとつの答えを見出していた。信長の鞭は弾力性があるため、攻撃をくわえると反動で元に戻ろうとする。そう、体のほうに。
鞭に刀を突き立てたおれはその反動を利用した。まるでジェットコースターに乗っている気分だが、おれは動体視力もよくて三半規管も強い。悲鳴ひとつ上げずに信長の胴体に近づいた。七階建てのビルの屋上から飛び降りるようなものだったが、やつの首筋めがけてジャンプする。
以前、バイト先の社長宅にお邪魔したことがあってさ、やつは仕事部屋の、それも机の真下に金庫を置いていた。
随分気のちいせえやつだなーと鼻で笑ったが、バイト先に戻って検索すると浅はかなのはおれのほうだった。同様の経営者は多いらしく、目の届く場所に大金がないと安心できないらしい。
周囲の人間を疑ってるわけでなく、とにかくそういうものだという。確かに除霊師も器のある場所を優先的にガードする。おれが日本刀を正眼に構えるのはそのせいだが、信長の野郎はどうだろう? それがこのプランのはじまりだ。
やつにとっての金庫は器だが、それはきっと机の真下のような場所にあるのだろう。巨大化した信長は図体が無駄にデカく、足や手の先にあるとは考えがたい。いちばん急所に近い場所、それはドリルを持った鞭の根元。首の付け根にほかならない。
どんな悪霊にも器はあり、そこを狙い撃てば一撃必殺の攻撃となる。
首筋に着地したおれは刀を突き立て、体重をかけた。その途端、信長の野郎が聞いたこともないほど悲痛な叫び声をあげた。
「グオオオッ……!!」
研修でぶっ倒した悪霊も同じように絶叫し、ひとしきり暴れたあと、痙攣しながら血を吐いて、結合の解けた霊子を撒き散らす。
細い針の穴を通すようにピンポイントで攻撃を仕掛けたおれを、信長は侮っていたのだと思う。偉人級のヒト型悪霊にとっちゃ、人間の除霊師などエリートクラスですらハエに等しい。だがおれは抜群に頭の切れるハエで、そこがやつの盲点となった。
ここまでいえば、戦いはおれの勝利に終わったと思うだろう。実際それはあとわずかで、目と鼻の先だった。
しかし言い訳になるが、器を穿つにはあと数センチ、数ミリ足りなかった。その隙をついて怒り狂った信長はすべての鞭をおれのいる場所に集中させてきた。自分の体を傷つけるリスクを投げ打って、きわめて危険な行動に出る。だがそうする以外に方法がなかったのだろう。もう一撃許せば、おれは器を打ち砕いていたのだから。
気づいたときには空中をすっ飛んでいた。鞭にバチンと弾かれたのではなく、避ける以外に術がなく、後方へと回転しながら生と死の狭間、死線を逃れたのだ。
猛烈に悔しかった。唇を噛んで血が滲んだほどだ。それでも離脱が一瞬でも遅かったらおれの命はなかったと思う。それにゴールドより重く貴重な情報を手にした。敵の弱点である器の特定。
七階建てのビルから落ちて平気なやつがいたら、そいつは間違いなくおれだ。そんなおれでも地面に着地した瞬間、脚の付け根に痛みが走った。人間の関節はスプリングではないため、衝撃を吸収しきれない。
さっきまでのように俊敏な動きは難しいだろうと思ったがプランはまだ続行している。おれは脚を引きずりながら、刀を突いて軍服姿のヒトラーに歩み寄っていった。全力を出し切り、一度で殲滅できなかったらバトンタッチと決めていたからだ。
「指示を出していいか。やつの首筋を狙え」
契約した悪霊に遠慮はいらない。強めな指示どころか命令だ。逆らったボコボコにする気でいい放つが、ヒトラーの野郎は不敵に笑んでこんなふうに返した。
「すべてじっくり見ておった。その命令、了承する」
口では殊勝なことを述べたものの、やつは片手を載せてきて、おれの頭をぐりぐり撫でる。
「あと数ミリ足りなかった——とか嘆いておるな。その差が実力差である。悔やんでも泣いても決して埋まらぬぞ」
ふと“老害”という言葉が浮かんだ。教官もそうだったが、年上の男はアホみたく説教が多い。
「泣いてねえし。あんなデカブツじゃなければ瞬殺だった。おれをなめるなチョビ髭野郎」
「ふむ、貴様が尋常でないことはよくわかった。人間ごときが……うぐッ!?」
頼もしさという点で偉人級ほど頼もしい悪霊はいない。だがヒトラーは苦しげな呻き声をあげ、おれを心配させる。
「腹が痛いんだろ、無理せず一撃で決めろ。回復したらおれも加勢する」
「御意」
言葉ではへりくだったものの、頭も下げず敬礼もしない。ただ一歩前に踏み出し、ヒトラーの表情が変わった。
どんなボクサーでもゴング直後はスローに立ち上がるものだ。しかしヒトラーはすでに数ラウンド戦ってアツアツに仕上がったような顔で信長を睨みつける。ようはぎらついているのだ。さっきまでカフェで紅茶を飲んでたやつが銃声ひとつで全身にスイッチが入るように。
はっきり見えたわけじゃないが、立ち上る覇気のようなものを感じとった。コイツなら勝負を一瞬で決めてしまうのではないかという威圧感だ。
一般論でいえば、信長はすでに手の内を見せていて、ヒトラーは違う。器の位置までほぼ特定された敵と、何をしでかすかわからない味方。どっちが有利かといえば、明らかにヒトラーのほうだ。
その証拠に信長のほうは相手の出方を窺うように防御姿勢をとっており、迂闊に攻め込んでこない。ヒトラーもまた巨大化して戦うのか?
そう思った瞬間、やつはとんでもない行動に出た。
ヒトラーは左眼を覆っていた眼帯を外し、真紅の瞳を露出させた。信長は噴煙のような黒い息を吐き、どこか不思議そうな反応を示す。
まだ守りを固めたままだが「そんなので倒せるのか?」というやつの侮蔑が聞こえた気がした。かくいうおれ自身、同じことを思った。けれどすべての疑念はあっという間に塗り替えられた。
「総統命令76号。その力をおのれにむけよ」
文字どおり“命令”と理解すべきだったのだろう。けれどおれは、そういう術の存在を教官に聞いたことがある。
彼がいうには、命令系の術式は相手の精神力が強いと不発に終わる恐れがあるという。またおのれの意思を押しつけたところで、相手が本気を出すと限らない。つまりは自由意思を奪うべく、除霊師自身の精神力が不可欠とされる。
心と心の戦いで、どちらが優位なのかまったくわからない。ともに数々の修羅場を乗り越え、悪行の限りを尽くし、最期は自殺で死に到った。偉人対偉人の衝突は互角に思えてならない。しかしそれだと、ヒトラーは無駄に霊力を消耗しただけになる。
「大丈夫なのかヒトラー!?」
おれは思わず刀の柄を握りしめ、祈るような気持ちで吐いた。ヒトラーと信長のサイズ差は巨人と小人であり、後者のほうが弱々しく映る。不安といえば不安だが、その後ろ向きな気持ちは見事に的中してしまう。
先端がふたつに分離し、最低でも20〜30本はあろうかというドリルがヒトラーを襲った。相手の逃げ場を塞ぐため、四方八方から殺到するかたちでだ。
無数の刃を投下すればどれかが器にあたる。悪霊を倒すうえでこれほど効果的な武器はない。
信長の操るドリルは並の除霊師が避け切れる数ではなく、悪霊とて同様だろう。おれの脳裏には無惨に切り刻まれるヒトラーの姿が浮かんだ。命令が効いた様子はなく、戦術の失敗を悟った。
ところが複雑な軌道で降り注ぐドリルの先端がヒトラーに突き刺さる直前、ミリ単位の近さで動きが止まった。命をさらす状況にあって微動だにせず、やつは勝利を確信していたのだ。
「もう一度いう。力をおのれにむけよ」
そう唱えたヒトラーが片手で薙ぐと、50本ほどにまで増えたドリルは急激な速度で向きを変え、自分を排出した信長の体へ躍りかかる。まるでドリルがべつの生き物であるかのごとく、意思統一できずに本体を攻撃する。
教官から聞いた命令系の術式は、もっぱら相手の脳に作用するものだ。しかし目の前の光景はおれに驚くべき答えを指し示す。ドリルが信長にむかったのは信長の意思に介入したのでなく、直接ドリル自体、つまり物質を操ったのだ。
本体である信長のコントロールを外れたドリルは巨大化した彼の体表面を削り取り、周囲には血しぶきと肉の破片、樹木の灼ける夥しい匂いが飛び散った。
そのダメージは激しく、信長は体を波打たせ、猛獣のような悲鳴をあげた。それでも彼の一部であったはずのドリルは肉を容赦なく削っていき、サラミを削ぐように一枚ずつ肉を剥いでいく。
惨たらしい殺戮をおのれの誇る武器で味わうとは、信長にとって屈辱以外の何物でもないだろう。さっきまで「腹が痛い」と泣き言をたれていたジジイの所業とは思えず、おれは息をのんだ。こんな壮絶な戦いを、生まれてこのかた見たことがない。
冷たい風が吹き抜ける間に、信長の樹体は三分の一以上その骨身を失った。辺りにはむせ返るほどの熱を孕んだ膨大な血が大小の池を作っている。
逆にいえば、それほどまでに蹂躙され尽くしても信長は生きていた。しかし残存する樹体を震わせながら咆哮をあげても、その雄叫びは断末魔の悲鳴にしか聞こえない。
戦闘の趨勢は追うまでもないだろう。ヒトラーの圧勝でピリオドが打たれる。だれが見てもそうなるはずだった。
「ぐっ、何なんだこれは……!?」
突然体をくの字に折り曲げ、ヒトラーはベルトを掴んだ。ほぼ同時に信長の現しめた歪な世界が解けてゆき、景色が元の色合いを取り戻していく。
「グハッ!!」
口から真っ赤な唾を吐き、みぞおちを押さえ、ヒトラーは苦悶の表情を浮かべた。やつが突如として変調をきたした理由は思いつかないが、憶測なら可能である。
契約を交わしたとき、コイツは器に異常があると喚いていた。その異常は放置されたままで、おかげでずっと腹部に痛みを抱えていたのだろう。
器が混線するという奇妙な事態をおれたち除霊師は想定すらしてないが、現にヒトラーは苦しんでいる。本来早急に解決すべき問題の棚上げがここで裏目に出たわけだ。
終戦が見えてきたのにこのザマかよ。心のなかで呻いたが、そうは問屋が卸さなかった。
「人生とはままならんものよ。神の掌の上で翻弄され続ける。だがこのまま終わるわけにいかんぞ……!!」
次でトドメを刺す。やつの思惑はわからないが、激しいプライドが空気を震わせた。
「砕け散れ三郎!!」
ヒトラーがドリルを動かすと、約50本に及ぶそれらが鋭い切っ先を信長にむける。樹体をあらかた削り取られ白骨化著しい信長だが、その双眸は爛々と輝いており、一斉に攻撃を仕掛けると口の端を大きく吊り上げた。
——実休光忠。
そんな文句が聞こえたかどうかは定かではない。空耳だろう。だが聞き違いか否かに意味はない。
骨になった信長の手に黄金色の塵が集まった。それは瞬く間に細長い刀剣をかたどっていき、視界を切り裂くような得物が禍々しい姿をあらわにした。
その刀剣はなぜか先端を欠いており、武器としては不十分な代物だった。しかし襲いかかるドリルを薙ぎ払い戦況を変え、ヒトラーを叩きのめすには十分に映る。
防御に出るどころか攻撃に打って出る。いくらヒトラーが不調をきたしたとはいえ、主導権を奪われた者が逆襲して上手くいった試しがない。力量に差のない者同士なら尚更だ。相手に命を差し出す自殺行為とすらいえる。
互いの力と力がぶつかり合いは、案の定信長の不利に傾いた。
視界を塞ぐ刀と無数のドリルが交差して、空中に恐ろしい数の火花を生む。まるで打ち上げ花火だ。薄暗い曇天が明るく染まり、地面に数えきれないほどの影を落とす。
信長のぶった切ったドリルは一体何本だったのだろう。数えてないから把握などできない。だが空中を飛び交ってたドリルが次々と落下し、やつが自分の体を切り刻んだことはわかる。
おれの想像したとおり、それは自殺行為だった。腕をぶった切って殴り合っても失血死で死ぬのは間違いなく、悪霊の場合それは霊力の損耗を意味する。やつはおそらく、この戦いで生き延びる気はないのだろう。
偉人級の悪霊、とりわけ誇り高い武人がどういうメンタルで戦ってるか、その一端が見えた気がした。敵のドリルを乗っ取って戦況を有利に進めたヒトラーも、当てが外れたとばかりに焦りのようなものを見せる。
「三郎のやつ気が狂っておる……!!」
そう叫ぶのも道理で、無理はないと思った。命を守るより敵を倒す。そこまでの根性がこのおれにあるだろうか。
やがてすべてのドリルが信長によって斬り伏せられ、もつれ合う束になって地面へと落ちる。周囲にはもう血の匂いしかしない。
「我は侮ったな、常軌を逸した三郎の心を」
ヒトラーがぽつりと洩らしたのをおれは聞き逃さなかった。
敵の一部を乗っ取って同士討ちにさせ、殲滅に追い込む。そういうプランが敗れ去ったとき、余力があれば次の手を講じて、即座に反撃をくり出すだろう。
しかしヒトラーはやけに清々しい顔で戦況を見つめている。“総統命令”とかいうやつの術はもう使えないのだ。何らかの理由で霊力が尽きた、そう考えるより答えが見当たらない。
「グルルッ……!!」
傷だらけの胴体をさらし、朽ち果てる寸前の信長が近づいてきた。骨だけになった手を伸ばしながら、こちらを握り潰す気でいるのだと思う。
やつの霊力が底を突けば、信長は継戦能力を失い、勝利は勝手に転がり込んでくる。しかしそんな甘い見通しが成り立つ気はしなかった。前進をやめない以上まだ力は残っていると見るべきで、おれもヒトラーも死力を振り絞ればならない。
無意識に三つ編みの野郎を捜してしまった。悪霊を潰されたやつも体力だけは残っているだろう。ヒトラーがアウトなら二人で信長を倒す。再びインファイトに持ち込めば状況は覆せる。器の位置は確定しているのだから。
「小僧、あとは頼んだ」
そういったヒトラーは地面に片膝を突き、血反吐のようなものを吐く。バケモノじみた力を発揮する悪霊も、所詮は人の子ということか。無尽蔵の霊力を携えた者でない限り、いずれ限界を迎える。遅かれ早かれ。
ふと見ると、シャオレンを抱きかかえる三つ編みのやつが暗雲漂う空を見上げていた。おれは意識を自分の心に対しむけていたが、その注意を引き剥がすようにノイズが聴こえてくる。
ノイズは周囲に鳴り響いていたサイレンとは違い、ヘリコプターと思しき飛行音だ。周囲の静寂をかき乱し、その音は次第に大きくなっていく。
戦場では何が起きても不思議ではない、と教官はおれたちにいった。その言葉はあまりに常套句で、心に刻まれることはなく、正直忘れかけていた。だが夏の蝉が地面から這い出してくるように、頭の隅から顔を覗かせる。そして枝にとまって蛹となり、殻を脱いで空に飛び立っていく。
ヘリの音は場違いなほど騒々しくなり、彼方へ遠ざかるどころか戦場に侵入してきた。空の染みにしか過ぎなかった機影が刻一刻と近づき、いつの間にか操縦士が見えるまでになる。
まるでここを目指してきたような動きに違和感を抱いた。悪霊同士の戦闘に巻き込まれたがる操縦士などいるわけがないからだ。
疑問が予感に、予感が確信めいたものに変わっていくなか、案の定ヘリは下降をはじめ、後部座席のドアが勢いよく開く。姿を現したのは風采のあがらない男だった。黒縁の眼鏡をかけ、除霊局の制服を着ている。その男はおれのよく知る人物だった。
「森田……!?」
思わず声が裏返ったが、まじで不思議というか驚きしかない。おれにクビをいい渡した森田がどうしてこんな場所に姿を現したのか、頭が混乱をきたして絶句する。
高さは余裕で10メートル以上あったが、森田は何の補助もなく飛び出し、体のバランスを崩さず地面に着地した。
見た目とは裏腹に驚くべき身の軽さだが、おれに困惑以外の感情はなかった。俊敏な森田はスタスタ歩きだし、生存者である三つ編みのそばに直線的に近づく。
「警察車両では間に合わなくてね。自衛隊のヘリを借りた」
やつは気安い調子で言葉を交わしたあと、今度はヒトラーのほうに歩み寄ってきた。昼下がりのカフェでくつろぐような顔で、当然おれの側にも近づいてくる。
「あなたが亜平ビンジさんと契約した悪霊ですね」
「それが小僧の名前か。貴様は何者だ?」
ヒトラーはおれに負けず劣らず困惑したようで、猜疑心のこもった目を森田に対してむけている。
「ぼくですか。この間まで亜平さんの上司でした」
「そんな人間がここに何の用だ?」
生きるか死ぬかの戦いをしていたおれたちにとって、飄々とした森田は異物でしかない。だがその異物は、熟練した引越し業者のように状況を整理する。
「貴方がたを救助にきました。亜平さん久しぶりだね」
ウインクこそしなかったが、眼鏡の奥の目が笑った気がした。コイツこの状況でどうしてヘラヘラしてられる?
あと一歩のところで勝利を逃し、それをもう一度手繰り寄せようとしていた矢先、さすがのおれも腹が立った。
とはいえ冷静に考えるなら、森田は除霊師の最高峰に位置するエリート中のエリートだ。大言壮語する資格はなくもない。いや十分すぎるほどあると見なすべきか。
「やって貰おうじゃねえか」
おれは森田との間にわだかまりがあったため、口調は自然と荒くなる。もう上司と部下でもなく、敬語を使う必然性もない。
「貴様、除霊師だな。敵か味方かはっきりせよ」
おれが荒ぶる横でヒトラーの野郎も身構えていた。治安組織はどの国でも悪霊の天敵であり、除霊師の巣窟である。民間人であるおれたちと違う態度をとっても不自然ではない。
「味方ですよ。続きはこちらが引き取りましょう」
「引き取る?」
ヒトラーの呻き声には呆れが混じっていた。森田はおれたちを救助しにきたという。それは死地から味方を拾って、安全な場所に避難させることを意味する。
だが森田は軽く肩をまわし「引き取る」といい放った。そのニュアンスの違いは天と地ほども大きい。
「バカをいえ。あいつは三郎……つまり信長だぞ?」
森田の置かれた地位を知らないヒトラーは激しく唾を飛ばした。けれど森田は相好を崩し、眼鏡の奥の目を糸みたく細めながらこうやんわり返すのだった。
「ご安心下さい。ぼく負けないんで」




