解雇(リタイア)
警察大学校の初任除霊科で、死ぬほど練習したことだった。警察の礼式に則れば、上官の個室に入るときは、まず室外にてドアを三度叩き、許可を得たのち入室する。
入室する者はドアを半分開け、「失礼します」と腹から声を出し、腰を15度曲げて頭を下げる。室内では脱帽することになっているから、軍隊と同じ挙手注目の敬礼ができないため、これが通常だ。
ちなみに研修中の身分なため、本制服は支給されておらず、代用の巡査服を着ている。おれはハエでも止まりそうな速さで部屋に入り、両手でドアを閉めた。その後は回れ右をしながら、机まで三歩の距離まで歩き、あごを引いて直立不動になる。
そんなおれを見つめ、除霊局第6課の課長である森田は席を立ち、左胸に右手をあて答礼を返した。
彼もまた帽子はかぶっておらず、黒を基調とした制服が艶かしい光沢を放っている。イタリアの国家憲兵をモデルにした、除霊局にだけ支給される研修生たちの憧れの的だ。
ちなみに森田の面前には先客が3名おり、彼らも巡査服に身を包み、背筋をこれでもかと伸ばしている。初任除霊科の同期であるため、横顔や背格好から名前が思い浮かんだ。右から立原、洲野、中西。おれを含めて全員男だ。
「急に呼び出して悪かったね、亜平ビンジさん。遅刻の理由は?」
「え、指定の時間に伺ったはずですが」
のっけから不可解なことをいう森田に対し、おれは声を大にして答えた。森田は無言で着席すると黒縁眼鏡をくいっと上げ、看護師のような笑みを作った。
「研修でこういうときは『申し訳ありません』と返答するように習わなかったか? 教場を離れると気が緩む悪い癖だ」
ちなみに教場とは、研修過程に授業を受ける教室のこと。
森田の顔つきは警察官とは思えないほど穏やかで、声はオペラ歌手のように透き通っている。だが口をつく言葉は怖いほど切れがよく、思わずおれは「申し訳ありません」と謝ってしまう。
もっともそれは儀礼的なもので、まだ愛着もない森田に敬意などない。
地獄のような研修期間は半分以上が過ぎ、おれは実技も座学もパーフェクトの成績を修めてる。初任除霊科はじまって以来の逸材、なんて呼ぶ声もちらほら聞こえだし、森田率いる第6課の内定を得て鼻高々だった。
第6課は帝の側近を除けば研修生の間では人気が高く、おれも出世の足がかりとしては悪くない入口だと思っている。とはいえ突然呼びだされた理由は釈然としないものがあった。
「亜平さんは首にマフラーを巻いているね。そんなに寒いかな?」
いまは5月の初旬だが、外は雪が舞っている。ただしこの部屋には煙突付きの薪ストーブが置かれていて、警察大学校の校舎より幾分暖かい。
「十分暖かいです。しかしわたしは滅法寒がりでして、教官から支給品のマフラーなら普段から着用してよいと」
そうして許可を得て買ったのがこの真っ赤なマフラーだ。生地はカシミアで、制服と同じく艶やかな光沢を放っている。
「いまのは悪くない申し開きだ。無駄もなく、合格点をあげよう。警察組織に順応しつつあるようでぼくは嬉しいよ。全員、気を楽にしたまえ」
おそらく似たようなチェックを森田に受けていたのだろう。横に並ぶ同期からピリついた空気が伝わっていたが、気を楽にしろといわれた途端、安堵のそれに変化する。おれは最初から緊張などしていないが。
「ほら、これでも吸いたまえ」
机の引き出しを開け、森田は小さな箱のようなものを取り出し、机の上にコツンと置いた。わざわざ凝視しなくてもそれが何であるかわかる。赤茶けたデザインのたばこの箱だ。
「研修中は禁止されていただろう?」
そういって森田は箱の上にライターを載せる。時間にして2秒程度だが、おれはこの状況をどこか不自然に感じた。
「し、失礼します」
三歩足を進め、机に歩み寄った研修生がいた。このなかでいちばん背の高い男、洲野だ。
素早い動作で箱を拾い上げた彼は、おそらく喫煙者なのだろう。研修中はたばこを必死に我慢していたが、森田が特別扱いしたことでタガが外れたのだ。
「すみません、わたしも」
うまそうにたばこを吸いはじめた洲野を見て辛抱堪らなくなったのか、中西と立原も我先にたばこをくわえていく。同期にこれほど喫煙者がいたのかと呆れたが、微動だにしないおれを森田がじっと見つめてくる。
「亜平さん、きみも一服したまえ」
「必要ありません。わたしは喫煙の習慣がないもので」
「研修中に何を学んだのかな。上官が勧めたらそれは命令と同義だ。なに、たばこを1本吸った程度で病気にはならんよ」
黒縁眼鏡の奥にある森田の眼は相変わらずにこやかだが、言動は一致せず、口では高圧的なことをいい放つ。
とはいえおれがたばこを嗜まないのは、健康上のポリシーがあるわけではなく、そんなものに費やす金がなかったからだ。裏を返せば“命令”を拒む特別な理由は存在しない。
おれは「失礼します」と短くいって、素早く掴み上げた箱からシガレットを1本取り出し、ライターで着火した。
森田は机の隅にあった灰皿を研修生たちの前に置き、椅子に背を預けて首の後ろで手を組んだ。
たばこを吸った経験はろくにないが、口に含んだ煙から芳しい香りが感じられる。苦くて辛くてまずいものというこちらの認識が覆り、意外といける。嘘に聞こえるかもしれないがフルーティーな味もした。横目で見るとほかの研修生たちは緊張を完全に解き、夢中で煙を吸い続けている。ストイックな生活の反動だろうと察しがつく。
おれは煙の味に満足し、たばこの火を灰皿で消した。ちょうどそのタイミングで森田が口を利いた。
「話は変わるが、きみたちには依頼退職して貰いたいんだ。これにサインして」
森田は引き出しから紙切れを取り出し、目と鼻の先にボールペンを置く。文字どおり唖然とした。この展開は想像すらしていなかったからだ。
依頼退職というが、実際はクビだ。同期を見渡すと、全員顔面蒼白で言葉を失っている。そういうおれ自身、きっと無様に青ざめているだろう。香り高いたばこの味なんてもうしない。
「申し訳ありません。理由を教えていただけますか。座学はつねに上位で、実技だって悪くなかった。理不尽です」
最初に声を絞り出したのは洲野だった。思いのほか勇気がある。けれども涙腺が決壊しており、恥ずかしげもなく泣きじゃくっている。
「依頼退職が理不尽だという。それはきみの理が通じないというだけだろう? こっちにはこっちの理がある。皆そうやって生きているし、そうやって死んでいく」
森田は木で鼻を括ったようなことをつぶやき、手にはめた指輪を神経質に触った。よく見ると彼は耳にいくつものピアスを開けている。除霊師が霊力を高めるためにつける増幅器、あるいは契約した悪霊を封じるための道具だ。
教場で学んだことを思い出し、おれは胸に手をやった。視界の隅では号泣した洲野に続き、ほかの2名も最敬礼をして、退職の撤回を懇願しはじめる。
実際おれもコイツらと同じ真似をしてやりたかった。なぜなら依頼退職などしてしまったら、帝国大学卒業までにかかった奨学金の返すあてを失うから。むろん、おれを警察官に駆り立てた目的も頓挫する。
ショックが遅れてやってきて、両手が震えてくる。怯えによるものではない。腹から湧きあがる純粋な怒りだ。
「仕方ないねきみたちは。上官の命令にはたとえ間違っていても従え。それが警察のルールだよ」
「納得いきません、課長。せめて理由だけでも教えて下さい」
「聞き分けがない人だね、洲野さん。まあ、その様子じゃ引き下がる気はないか。特例で理由を教えてあげよう」
森田は恩着せがましくいったあと、同期のたばこを灰皿に回収し、それを引き出しに戻してからこう口を開いた。
「諸君らは器について学んだと思う。6課は悪霊と契約した式神使いが中心となる部隊だ。器のサイズは契約する悪霊の強さに直結し、並の人材は戦場で弾除けにしかならない。うちが欲しいのは戦況に違いを作れる特別な除霊師だ」
「つまり、器のサイズが足りなかったと?」
反射的に食ってかかったのはあろうことかおれだ。
器というのは霊体にとって心臓部にあたる。透明な気の流れを生む循環器にして、契約した悪霊を封じる格納器だ。特殊な素粒子によって構成された替えの効かない器官であり、霊体の弱点としても存在する。そして人間もまた、悪霊と同じく霊体の一種だ。
「6課が内定を出したのはきみたち4名だ。けれど研修の訓練を受けても基準値を満たす者は現れなかった。愚か者の愚か者たる理由は教育が意味をなさないこと。教育課程を経ても伸びしろを見せない器は愚か者にほかならない」
「ということは、わたしもクビですか? 奨学金の返済が滞るのですが」
気づけば机に手を置き、森田に詰め寄っていた。普段の冷静さは蒸発している。自分でも思うが、おれは少々怒りっぽい。
「除霊師として補助的な業務を行う警備会社につなげよう。うちをクビになっても、きみらは生きてかなきゃいけないだろう。再就職先を優先的に紹介する」
そういうが早いか、森田は口元に優美な笑みを浮かべた。その肌は目が醒めるように白く、作り物めいているというか人間らしさを感じさせない。表情こそ慈悲深く見えるが、実際は真逆だろう。
警察官とは他人のために必死になり、ときに命を懸けられる存在だと研修中に学んだ。それゆえに、どこまでも冷酷にならねばならないとも教わった。しかしそれでも、この仕打ちは受け入れがたい。
「ぼくらは帝大を出たエリートですよ。警備員になんてなれるわけがない」
吐き捨てるように洲野が泣き言を洩らした。そんな言い分が通るとは思えないが、案の定だった。
「高等教育を受けた人材は報われる資格がある、と勘違いしてないか? きみらは難しい試験を突破するだけの類い稀な頭脳を有している。だがべつの物差しで測ったら能力不足が露呈した。このご時世、仕事があるだけましだと思わないと」
見るからに腺病質で、警察官より学者のほうが似合う森田。彼は「これでおしまい」とばかりに眼鏡を外し、深緑色の布でレンズを拭きはじめた。
普通の日本人は黒もしくは茶色の瞳を持つのだが、森田のそれは何色ともいいがたい怪しげな光を放っている。
彼の背後の壁面には“撃ちてし止まむ”という警察省の標語が飾られていた。敵を撃つまで戦いを止めない。死ぬまで戦い続ける。そんな警察官の覚悟を体現した言葉だ。
「うちでは咲けなかったけど、よそでは開花したってケースはざらにある。初任除霊科に戻って本省の辞令を待ちたまえ。すぐさま動けるように配慮する」
内定面接のときから薄々感じていたが、森田は課長にしては随分と若い。そのわりに発する言葉はどれもずっしりと重く、はじめてゴールドを手に持ったときの感覚を思い出させる。
絶望を突きつけられ、まだパニックから回復できないでいる同期を尻目に、おれは三歩退いて頭を下げた。
お辞儀をしても地面を見ず、相手の顔を見やる。昔の武士は皆、そうやってお辞儀をしていたという。首をさらすと刀で斬られることが理由らしい。
そんな教訓が役に立つ機会は今後ないだろう。おれは複雑に溶け合った感情を抱きしめながら、森田の眼を乾き切った心でにらみ続ける。