交渉術
時間が止まる、なんて言葉をときどき耳にするけど、本当に止まることはまずない。だがそう錯覚することは頻繁にあるだろう。たぶんこの場にいる全員の時間が一瞬止まった。そのくらい奇妙な沈黙が漂った。
目の前にいるボスはカエルを飲み込んだような顔でシャオレンを見ている。この写真をプロフィール画像にはしたくないだろうという滑稽な顔で。
「卸値を倍にしても貴方は利益を十分に出せるでしょう。この贅沢なビル、オフィスの活気、いまの会話からそう理解しました。随所に埋め込まれた高い利益率、それこそが御社の収益の源泉です」
やり手のコンサル、投資銀行家、経営者などはこういうスマートなやり口で相手を恫喝するのだろうか。そう、突然切り出した提案は恫喝以外の何物でもない。けれどおれのイメージした恫喝より輪をかけて悪辣だ。
「待とうよお嬢ちゃん、アンタ正気でいってる?」
時間停止の魔法が解けたのか、滑稽な顔を歪めてボスが洩らした。呆れているようにも怒っているようにも見える、普段めったにお目にかかれない顔つきだ。
「もちろん正気ですよ。ほかに選択肢はありません」
ああ、いっちゃった。いっちゃったよ。しかも私欲も下心もない感じで断言しちゃったよ。卸値を倍にすれば大金が転がり込んでくる。けれどシャオレンの表情にそういう打算が垣間見えないのはなぜだ?
ガタッと椅子を引く音を立て、ボディガードの黒人がパソコンデスクから立ち上がる。場の空気を察してシャオレンを威圧するつもりなのか、それとも本気で脅しにかかる気なのか。どっちにしろ不穏な動きどころか一触即発の流れであるのは間違いない。
だがなのにだ。シャオレンはさらに不可解なことを口走りやがった。
「ビンジはうちの会社に長く勤める気はないのでしょう? まとまったゴールドを貯めたら除霊師として独立を果たしたい。もしそれが本当なら、わたしは貴方を支援したく思います。社員の相手は大変な苦痛ですが、悪霊退治はとても楽しそうです」
なにいってんだアンタ、という言葉が口を突きそうになったものの、黒人のボディガードが接近してきたのでおれは軽く腰を浮かす。三つ編みの野郎は次のたばこを口にくわえ、ライターをカチカチと鳴らす。反社のボスは眉間にしわを寄せ押し黙っており、その視線を払いのけながらシャオレンが話を継ぐ。
「警備会社の社長さんに問い合わせました。ビンジは警察官僚だったんですね。しかも除霊局の。それを知ってピンときたんですよ、貴方の本心が。護衛兼秘書なんて退屈でしょう。わたしも貴方を応援することが社会貢献になるわ」
戦時下において、ひとりでも多くの除霊師を助けるのはお金儲けより大事でしょう? そう軽々といってのけ、シャオレンはおれをソファに座らせた。こちらのすぐ側まで来ていたボディガードは二、三歩後退る。目に見えないパンチに虚を突かれ、反社のボスは驚きをあらわにしている。
なにがコイツらに影響したか、答えは一目瞭然だろう。おれが警察省除霊局の除霊師だったことを知ってショックを受けたのだ。
そこにはきっと二つの意味がある。ひとつは暴力に訴えても勝てるわけがないこと。もうひとつは疚しいビジネスを警察関係者に目撃され、摘発リスクに焦ったこと。
この状況を狙って作ったのだとしたら、シャオレンは戦略家だ。おれ自身頭が良いから相手の賢さが手に取るようにわかってしまう。ちゃんとジョーカーを手にして交渉に臨んでいたのだ。ボスはいい返す言葉が見つからず、もはや彼女の独壇場といってよいだろう。
「つまりあれか、お前が除霊師をまとめる組織を作ってくれるってことか」
「そのとおり、費用は値上げで得た利益で。夢のある話だと思わない?」
「確かに夢はあるよ。けどクライアントがいまの要求をのむとは思えないんだが」
そう、ビジネスは相手があって成り立つもの。交渉を力ずくで押し切ろうとしても、相手が納得しない限り話は前に進まない。
「どうかしら。倍額でも利益は出せるでしょう?」
「バカなこというな。無理だよ」
衝撃を受けている間にもボスは損得勘定を計算したのだろう。にべもない様子で「利益なんて出らん」とくり返す。「会社の維持と社員を食わせるだけでトントンだ」と。
「ではこうしませんか」
シャオレンは組んでいた脚を解き、ローテーブルに身を乗り出して微笑んだ。
「値上げは半額にして差し上げます。それなら利益は出るでしょう?」
コイツ最初から価格をまける気だったのか、とおれはたまげたよ。倍額でトントンなら確実に利益の出る提案だ。
まあシャオレンの交渉が提案か否かは不明だが、一旦利益が出るという事実が明るみに出てしまった以上相手にいい逃れる隙はない。
ボスの「やっちまった」という顔が笑えたね。コイツは外国人を盾にしていたが、十分が利益が出ることをゲロっちまった。トラップにはめたシャオレンはまじで戦略家だ。相手の値下げ交渉をひっくり返しちゃった。
「話はまとまりましたね」
ぐうの音も出なくなったボスに勝利宣言を放ち、シャオレンは夏の向日葵のように笑った。ボスは額に両手をあて、力なく首を振った。自分がドジを踏んだことに想いを馳せれば、悔しさもひとしおだろう。
だがシャオレンの要求はここで終わらなかった。図々しいにもほどがあるが、彼女はもうひとつ話をねじ込んだ。
「値上げを半額にして差し上げたかわりに、といってはなんですが、九州でいちばん精強な除霊師を紹介して下さい。貴方ほどの大物なら裏にコネクションがおありでしょう?」
何を根拠にとはじめは感じたものの、そうでもないのかと思い直す。すぐれた除霊師は警察省にほとんど採用されていて、彼らから引き抜くのは至難の技だ。
一方民間の除霊師はもっぱら警備会社に勤めており、こちらは力量が劣る。そうなると在野の凄腕がいるとしたら、反社のような闇の勢力と結びついた連中だろう。
展開が急すぎて実感に欠けていたが、シャオレンは本気で除霊師部隊を作る気なのだ。そしてその意欲は、図らずもおれの野心と合致する。
「アンタがめついな」と吐き捨て、ボスは舌打ちをする。「ブローカーが知り合いにいるにはいる。ウチん名前ば出したっちゃ構わんたい」
怒涛のようなやりとりを経て、戦意を喪失したのか。ボスはスマホを取り出して、携帯の番号を読み上げた。シャオレンはそれを「ふむふむ」と聞き取り、器用にも暗記しているようだった。
まさかそんな特技を隠し持っていたとは、おれのなかでシャオレン株は爆上がりだ。ストップ高である。
問題があるとすれば、この女が作ろうとする組織において、おれの置かれる立場だろう。
トップに立つシャオレンがたんなるおバカでないとわかった以上、彼女は何らかのかたちで主導権を発揮すると見るべきで、それが強すぎればこっちの発言力は低下する。三つ編みに対して築いた優位を保ちつつ、シャオレンにとってなくてはならない存在であり続けねば。
手っ取り早いのは実戦だ。思わずひれ伏したくなるような結果を出せば、絶対的な腹心として信頼を置くだろう。
早く悪霊とやり合いてーな。交渉のピリオドを受け、おれは呑気につぶやいた。




