八話 おぞましきもの
それは佇んでいた。
無表情に、無感動に。飛び散った血と肉を気にすることもなく。
極めていつも通りのそれは、ただ彼を見つめていた。
「は、早く救急車を……! 誰か……っ」
「なんだなんだ何があった」
「うぇーん、うぇーん」
「人が倒れてるぞ! こっちだ!」
音がしている。焦燥と困惑にまみれた音だ。赤い汚泥や、紫の棺が騒がしく動いている。草でできた小柄な人形が喚いている。
喚き、騒ぎ、雑音を撒き散らしている。
演算能力に影響あり。加え、行動環境レベル3に到達。
推奨、この場における対象の除去。
『――』
言の葉を紡ぐ。
自分の言語回路は壊れている。しかしそんなことは関係ない。伝えるのは意思そのもの。聞こえずとも、強制的に従わせる絶対の命令。
ここ数分の記憶をなくし、普段通りの生活に戻れ。
かくして、効果は劇的であった。
「……」
「……」
「……」
男も、女も、子供も、老人も。
この場にいる全員が虚ろな瞳のままに、踵を返す。
あとは僅かに凹んだ車体をひと撫で。たちまち歪みは直り、少しして運転手はそのまま去っていった。
完全に直しはしない。むしろ、数ヶ月で壊れるように細工すらした。理由は不明。
ただ、そうすべきだと判断を下した。
「……」
「……」
静寂が辺りを包む。
ここにいるのは、彼と自分だけ。少なくとも十数分は誰も来ない。そういう風に、環境を調節した。
他意はない。
「……」
「……ぅ、く……か、はっ……」
べちゃり。
彼の口から、赤黒く濁った血が吐き出る。口以外からも、流れる、流れる、流れる。
腹部から、鼻から、腕から、足から。体中の全てから、彼の命が流れていく。
それはじっと見ている。
血が広がる様を、螺旋の瞳で観察している。
「……」
「は……は、ぁ……」
人間という生命体は、たかが鉄の塊に轢かれるだけで死に瀕するほど脆く、そして儚い。
彼がそのことを承知でなかったとは思えない。轢かれれば確実に、己が死ぬと分かっていただろう。
ではなぜ、彼はあの個体を助けたのか。
それにはどうしても、その理由が分からなかった。
「……」
「……ぁ……ぁ……」
シミュレーションをする。
一般的な人間の思考、および両者の普遍的価値を設定。普段の生活による対象の情報を追加。追加。追加。
同条件でのシミュレーションを開始。
対象、小戸森詩温、死亡。
「――」
再度シミュレーションを開始。
対象、小戸森詩温、死亡。
……再度シミュレーションを開始。
対象、小戸森詩温、死亡。
……。
対象、小戸森詩温、死亡。
対象、小戸森詩温、死亡。
死亡。
死亡。
死亡……。
「……」
……二億三千六百七万五千十七回目の実行。
対象、小戸森詩温、死亡。
実行結果による普遍性が実証。
これ以上のシミュレーションは無意味と判断。実行終了。
不理解。
なぜ彼は、あの個体を助ける。彼があれを助ける必要性はない。あれにそこまでの価値はない。非合理的すぎる行動。
なぜ死ぬ。
なぜ助ける。
なぜ……。
「……」
「……?」
静寂を確認。対象の状態を再度更新。
結果、呼吸停止を確認。
このことから、数分以内に対象の死亡が予想され、れれ、れ……。
『い、今までのお礼がしたくて。先輩に……読んでほしくて、買いました』
……?
思考に異常発生。予測される未来映像の生成不可。
身体に異常発生。呼吸系、疑似臓器系に異常あり。
異常発生。
異常発生。
推奨、原因の考究。内部を精密検査……。
結果、不明。
「……」
「……」
……内部に問題はない。身体系、情報系ともに正常である。
ならば、現在発生しているこれは何なのか。
過去の経験から原因を予測……。
該当される事例が複数発見。共通項を整理、演算。
結果、いずれも小戸森詩温の存在を確認。
「……」
今一度、彼を見つめる。体を破損した状態の、小戸森詩温という生命体を観察する。
まもなく途切れる命。
色が抜け落ちる。
そこにはアレがない。
自分が初めて目にした、アレ。
柔らかな、酷く温かな。薄い雲と、気遣わしげにぼんやり浮かぶ太陽の下で。
一つ、花畑の海に小さく綻ぶような。
あるいは、二酸化炭素が抜けきった炭酸飲料の、ふにゃふにゃの砂糖水のような。
忘れてしまった海の匂いを思い出させる。
儚く、柔らかい、陽だまりのようなそれ……。
『今日はありがとうございました。僕も先輩と一緒に買い物ができて、凄く嬉しかったです』
「……」
……異常の原因を小戸森詩温だと仮定。異常による危険性、行動予測不可能な点について演算中。
演算中。
中立思考回路からの回答。
推奨される対応は……。
対象の抹殺。
「……れ」
提案、対象の放置。
現在対象は著しく身体を破損している。このまま放置すれば、確実に死死死死死ししし……。
「る」
ぞり。
彼女の舌が、硬いコンクリートを這う。
そして。
「れる、んちゅ、れる、れる、ん、ぁ、じゅるるる」
掬い取る、舐め取る、啜り取る。
赤黒い液体、情報の集合、彼の命そのものを。
無様に手を地面に付き、浅ましく膝を折り、どこまでも頭を垂れて。
「んく、ぇう、れる、ん、ん、ん……」
飲み下す。
無駄な思考など必要ない。
それは今、ナニカによって突き動かされている。
それ自身、ソレが何なのかすら分からないが。経験的に、ソレが悪くないものだとは知っていた。
自分が故郷から逃げ出したあのときも。
自分が彼を見つけたときも。
ソレはいつも、それの最善を導いてくれた。
だから今度もきっとそうなのだ。
だからこれは、必要なことなのだ。
たとえ他にもっといい方法があったとしても。
ソレが最善というなら、仕方ないのだ。
ああ、仕方ない、仕方ない。
「じゅるるる、んちゅ、れろれろ、ごくん」
足りない。
彼の血液を摂取するのに、人間の口は小さすぎる。これでは非効率だ。
で、あれば。
ぞわり。
部分的に情報を解禁。効率面から頭髪の変質が最善。三次元世界の影響を考慮し、これより十五分間の限定解禁を了承。
次の瞬間、それの虹色の髪が、どろりと変わる。
色合いはそのままに、質感、透明感が変化していく。絹のような繊細さは消え、あるのは弾力と艶。
うねうねとしたその髪は、まるで意思を持ったかのように蠢いている。
ばかりか、地面に這い、彼の血液を吸収していく。それは地面だけではなく、彼の服、彼の体まで伸びていき……。
その道に詳しい紳士が見れば、こう口にするだろう。
あ、同人誌で見た触手だ、と。
「んんぅ」
喉を鳴らし、それは体を震わす。
理由は分からないが、どうやら彼の血液情報を取り込む度、体がどうしようもなく反応してしまうらしい。また彼の一部が自分の中に溶け、一つになると考えるだけで、思考回路がバチバチと焦げて焼き切れそうになる。
流石にそれは危険だと判断し、一度ソレに問うてみた。
本当にこのまま進めてよいのか?
ソレは答える。
問題ナイ、行ケ。
なるほど、問題はないようだ。
「ぁ、ぁ、ぁ……」
ごくん。ごくん。
余すことなく、散らばった彼の血液が集められていく。舌で、触手でこそぎ取った彼の命。
そして最後の一滴を飲み干したとき、準備は整った。
それは両手の袖をめくり、白く細い腕を伸ばす。行先は、最も破損している彼の腹部へ。
だが触るのではなく、少し上に留まらせるだけで。
「……」
「……」
……情報の解析は済んだ。変質も終了している。
あとは実行するだけだ。
ちらりと、彼の顔を見る。血の気の失った、青白い顔であった。にこりともせず、目を閉じている……。
ずきり。
疑似内臓系に異常発生。生命活動に支障なし。代わりに、肉体の制御不能。
救助プロトコルを強制実行。
早ク。
早ク、彼を。
「……ん、ぁ」
どろり。
それの腕が、溶けた。
比喩ではない。現実として、それの両腕が粘液と化し、溶けていた。
そして、沈む。
彼の腹部に、それの両腕だったものが流れ込んでいく。
「あ、ぁ、ぁ……」
一つになる。
彼と、自分が。自分が彼に流れ込み、彼の血肉となって混ざり合っていく。
疑似脳の片隅がショートした。思考制御が上手くいかない。
もはや彼しか、考えられない……。
「んうぅ、ぅぅぅぅ……っ」
「……ぁ……」
どろり、どろり。
ぐちゅ、ぐちゃ、ぐちゅり。
言語の出力など、関係ない。絞り出せるのは譫言だけだ。
目の前がチカチカする。輝く恒星を見ても、こうはならないというのに。それほど、刺激的な映像であった。
自分だったものが彼に混ざり、肉体を変質させている。元の形に戻ろうと、健気に筋繊維を構築している。
あれは自分の力だ。
欠陥品の自分に、申し訳程度に備わった復元能力。
それは周りと比べればあまりに粗末だが、三次元生命体である人間ならば、効果は十分にある。
結果は見ての通りだ。
もう破損の半分程度を復元している。
彼の血液をベースとして構築したのは正解だった。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ、ぅぅっ!」
「か、は……っ」
にゅるん。
そして、最後の塊が、彼の体に溶けて。ようやく全ての復元能力の譲渡を終えた。
これで彼は安全だ。体の修復はほぼ終えている。呼吸系、内臓系にも問題はない。じきに目を覚ますだろう。
両肘から先の無くなった自分の腕を見ながら、それは一つ頷く。
「……」
……しかし、予定よりも早くプロトコルが完了してしまった。
この姿が元に戻るのにはあと数分はかかる。また、暫くは第三者の介入もない。
次点における最適解を模索中。
模索……ノイズ。
中立思考回路からの回答。
危険。
危険。
対象、小戸森詩温の抹殺を推しょ。
ぶつん。
……報告、中立思考回路の破損を確認。損傷率八割。機能不全を確認。
自己復元プログラムを自動発動。
復元……不能。
「……」
さて、これで邪魔なノイズは消えた。
次点における最適解を模索、演算。
演算中。
回トウ、疑似頭髪ユニットを用イた触診を推奨。
「……」
「すぅ……すぅ……」
無言で眼下の彼を見た。
規則正しい寝息、あどけない寝顔が視覚と聴覚を刺激している。
ふむ。確かに、見た目だけは完璧に修復しているようだ。しかし、その中身はどうだろう。
もしかしたら見落とした問題があるかもしれない。
確率は非常に少ないがゼロではない。
そして、その問題が彼の命を脅かす可能性を考慮すると……。
なるほど、一刻も早く触診をすべきである。
疑似頭髪ユニットを彼の全身に這わせた。
ぞぞぞぞ。
「……」
「……ん、んぅ……?」
足に、腕に、腹部に、首に、耳に、唇に、指に、胸板に。
それは、ありとあらゆる場所へ触手を這わせた。さわさわと触れるだけの触手もあれば、大胆に擦り付ける触手もある。かと思えば、ちょんちょんと突く触手もあり……。
気のせいだろうか、先程よりも触手の数が多い気がする。
また絵面も悪い。第三者が見れば、エイリアンが人間を捕食しているようにしか見えないだろう。
虹色の妙にテカテカした触手が、男の体中に這っている。
控えめに言って地獄絵図だった。
「……ふー、ふー……」
「……ん、ぁ……」
それは、触手から得られる情報が伝達する度に体を震わせる。また段々と呼吸も荒く、激しくなっていく。
相変わらず理由は不明である。
それは、どうしてそうなるか分からなかった。ただ取り敢えず、今は触診に集中しなければいけない。これは必要な行動だ。
ソレもそう言っている。
モット、モットと言っている。
モット、もっと……。
「ふ、ぅ……ふー……っ」
「……ぁ、う……」
さわさわ。ぬりぬり。ちょんちょん。ごしごし。
彼の情報が集合している。
顔の形、筋肉の付き方、骨格のバランス。彼を構成する全てが分かる。神経系が燃え尽きるようだ。体も痙攣している。視界がチカチカしている。
「はっ、はっ、はっ」
これは、なんだ。
先程の感覚に類似している。
類似しているが、僅かに違う。
何が違う。不明、不明、不明。
不理解は危険な状態である。早急に学習が必要だ。
学習……そう、学習だ。
次にこうなった場合の学習が必要である。データは多ければ多いほど良い。現状起こっている不可解な状態を打開するのだ。
だから、もっと。
もっともっとモットもっとモットもっともっともっともっともっともっともっと。
彼のことを、知らねば――。
「せん……ぱい……?」
「――」
行動、静止。
ぎぎぎ、と彼の顔を見る。目が合った。
思考停止。
思考停止。
固まった脳神経活動の片隅で、ソレが気の抜けた声を出した。
アッ、ヤバイ。
なるほど、やばい。