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マジックアワーによばれて

 八月の末といえばまだまだ暑い時期だけれど、富士山に近くて標高も高いここは岡崎よりだいぶ涼しい。道の駅の駐車場で車中泊なんて正気? って思ったけど、意外と全然眠れた。

 つけっぱなしだった腕時計を見ると、現在朝の五時ちょっと前。窓の外はまだ暗かったけれど、うっすらと辺りをうかがうことはできて、朝がもうすぐそこまできていることがわかる。

 運転席のお父さんと助手席のお母さんは、二人そろってすやすや寝息をたてていた。平らにした後部座席で一緒に寝ていた弟の康太は、最初寝ていた位置からずいぶんと離れたところで、ぐうぐういびきをかいている。

 夏期講習をがんばったごほうびに、ずっと行きたかった遊園地に連れて行ってくれるのは嬉しかったけれど、正直中三にもなって家族で遊びに行くとかちょっと恥ずかしい。

 本当はエミとかともちゃんとか、いつものメンバーで来たかったけど、「久しぶりにみんなで出かけるぞ~!」ってはりきってるお父さんを見てたら何も言えなかった。お母さんも、チケットのこととかアトラクションのこととか、なんか急に調べだすし。

 夜中に家を出て、高速道路を走っている最中も大した会話はなかった。いや、正確に言えば、お父さんとお母さんが二人で喋ってて、たまに話をふられた私や康太がぽつんと一言二言、そしてまたお父さんとお母さんのターンにもどる、って感じかな。

 お父さんとお母さんの間にも、とちゅう何度か沈黙があった。何を言おうか悩んでるのがみえみえの、ちょっと気まずいやつだ。

 私はもう十五歳で、康太は十一歳。これで家族の形が変わっていないはずなんてないのに、お父さんとお母さんはいつだって私たちを小さい子供のように扱う。

 乗りたいアトラクションには乗りつくして今日という日を楽しむつもりだけれど、この空気があと一日続くのはちょっとゆううつだった。

 私は自分のリュックからポーチをとりだし、なるべく音をたてないようにそっとドアを開ける。

「……優奈?」

 お母さんが、ねぼけた声で私の名前を読んだ。

「トイレ。あと、顔洗って歯みがいてくる」

「だめよ。ひとりじゃ危ない」

「大丈夫だってば」

 私はそう言うやいなや、ドアの隙間に身体をすべりこませて外に出る。バタン、と少し大きな音が出てしまったから、お父さんも起きたかもしれない。

 私は小走りで明るい光を放つ建物に向かう。

 背中の方で何度かバタン、バタンという音がした気がしたから、さらに速度を速めた。

 お母さんはいつだってそう。「危ないからだめだよ」って、まるで小さな子供にするみたいに。


 比較的規模の大きい道の駅であるここは、建物の中もなかなか広い。吊り下げられた案内板にそってなんとかトイレにたどりついたはいいけれど、そこはもう、なんていうか白い迷宮だった。

「うわぁ……」

 これどんだけ入ったら満員になるの? っていうくらいの数の個室と、見たことのない文字が躍る液晶の案内板。そして専用のお化粧スペースに、着替えのための場所まで用意されている。

 そういえば、こういうところにくるのも久々だな。しばらく見ない間に、こんなに進化しちゃって……なんて、変な感じでしみじみしてたら、後ろからやってきた女のひとに追い抜かされた。

 横をすりぬける瞬間、鼻先で長い黒髪が揺れる。

 ミリタリーっぽいカーキのジャケットと、デニムのミニスカート。すらっと長い足の先には、重そうな黒いブーツを履いている。

 モデルさんかな? って疑うくらいの美人だった。

 おねえさんは、カッカッとかかとを鳴らしながらまっすぐに手洗いに向かう。手に持っている、ポーチというよりは大きなカバンみたいななにかを蛇口の横に置くと、ごそごそとそこから何かを取り出した。

 白くて丸いネットに、見慣れたサイズ感のチューブ。このおねえさんはどうやらここで洗顔をするつもりらしい。しかも泡立てネットを使った、結構本格的なやつ。

「……なに?」

 バッグからとりだしたヘアバンドを装着したおねえさんが、じとっとこちらを睨む。そりゃあそうか。だって私、さっきからこのひとのことガン見してるもんね。

「ご、ごめんなさい」

 あわてて謝ると、お姉さんはさらに目を細める。

「――べつに怒ってるわけじゃないよ」

 そう言うと、泡立てネットを濡らして黙々と洗顔を始めた。長い長い泡立てタイムに対して、顔に泡をのせているのは一瞬。しかし、水でさっぱり泡を洗い流したお姉さんのほっぺたは、卵みたいにつるつるだった。

 きれいに光を反射するぴかぴかお肌のなかに一点、暗いかげがある。おでこから左目の上にかけて、約二センチ四方の赤いただれ。何かの痕だろうか。

 私がぼけっとしている間にも、おねえさんの身支度は進んでいく。

 ヘアバンド姿のままお化粧スペースに移動したおねえさんは、顔に色々なものを塗ったりはたいたりと大忙しだ。そうして、もともと綺麗だった肌がさらに美しく、TV越しに見る女優さんのものみたいになっていく。まるで魔法のようだった。

「――おもしろい?」

 おねえさんは、真剣なまなざしで鏡を見つめながらそう言った。

 私に向かって言われた言葉だと理解するのに少し時間がかかる。

「は、はい!」

 かたくなりながらそう返事する私に、おねえさんはぷっとふきだした。

「なにそれ、うける」

 しばらく背中を丸めながらくっくっくと笑った後、おねえさんはおいでおいでと手招きをしてみせた。

「いいもん見せてあげる」

 言われるがままに近づいていった私に、見せてくれたのは細長くて肌色の……多分、この流れでいくと化粧品だろう。

「なんですか? これ」

 私の質問に、おねえさんはやっぱり鏡の方を向いたまま答える。

「コンシーラー」

 聞いたことのない単語だった。

「舞台女優愛用の、たっかいやつ。すごいよ。見てな」

 おねえさんはそう言って、細長いそれの端をくるくるとまわす。あらわれた細いブラシで、ちょんちょんちょん、と額の赤いただれをつついた。ブラシの先と同じ形で、肌色のペンキみたいなものがちょん、ちょんと付着する。

 おねえさんはバッグの中から四角いスポンジのようなものを取り出すと、丹念にその肌色を塗り広げる。トントントン、と細かくたたくように。するとどうだろう。みるみるうちに赤いただれが消えていく。

「すごい……」

「ぶはっ!」

 思わずこぼした呟きに、おねえさんはさっきより盛大に吹き出した。

「あんた面白いね」

 瞼の上にのせられたアイシャドウのラメが、明かりを反射してきらきら光っている。

 私はすっかりおねえさんのメイクの虜だった。みるみるうちに、きれいだったひとが、もっともっときれいになっていく。まるで魔法みたいに。

「メイク、好きなの?」

 鏡に向かって身をのりだしながら、最後のしあげに塗ったのは真っ赤な口紅だった。

 にいっと吊り上がった赤がきれいで、みとれてしまう。

 けれど私は、おねえさんの問いにぶんぶんと首を振った。

「まだ中二なんで」

「えー」

 おねえさんは、メイク道具の入ったバッグをごそごそとあさりながら真っ赤な唇をとがらせる。

「もう中二、でしょそこは」

 おねえさんが言った言葉は、わたしの耳から入ってお腹の底の方までじいんと沈んだ。まるでスポンジが水を吸うみたいに、すうっと奥の方まで入っていった。

「あたしが中二のときは、ガンガンメイクしてたけどな」

「そ、そうなんですか?」

「そ。別にカンケーないかんね。年なんて」

 おねえさんは、バッグの整理が終わったのか、黒いリボンのついたそれをかかえてくるりとこちらを向く。

「てか、トイレにきたんじゃないの?」

「あ」

 そこで再び、私がこの場所でただただおねえさんを眺め続けている不審人物だってことに気づく。

「わ、忘れてました……」

 おねえさんは再びぶはっとふきだして、今度はお腹を抱えてげらげら笑っていた。私はいたたまれなくなって、そろそろと個室に入り、用を足す(流水音を多めに流しながら)。

 個室から出ても、おねえさんはまだそこでひーひー言いながら笑っていた。

「――せっかくだからさ」

 そう言ったおねえさんは、爆笑した後だっていうのにまるで人形みたいにきれいな顔をしていた。

「おいでよ。いいもん見せてあげる」

 こちらの返事を待たずに、おねえさんは歩きだす。けっこう迷ったけれど、ついていくことにした。私の乾いたスポンジに、水を与えてくれたこのひとに。

 途中、おねえさんがいきなり立ち止まった。

「なにがいい?」

 おねえさんが指さしたのは、昔ながらの紙コップ式の自動販売機だ。

 私は、さきにコインを入れているおねえさんの指先を盗み見る。カフェモカのホット。ココアで、と言いたくなるのをぐっとこらえて、私は言った。

「おねえさんと同じので」

 おねえさんは何も言わずに、カフェモカのホットをもう一つ買ってくれた。

「ありがとうございます」

 お礼を言って一礼すると、頭の上から声が降ってくる。

「ユナ」

「え?」

「おねえさんじゃなくて、ユナ」

 そう言うと、おねえさん――ユナさんは、すたすたと再び歩きだす。

 優奈とユナ。

 名前が似ているくらいであのひとと自分を重ね合わせられるほど図太くなんてないけれど、なんだか不思議と嬉しくなった。

 すたすたと歩き続けるユナさんの、しゃんと伸びた背中を追う。

「ここがいいかな」

 そう言ってユナさんが足を止めたのは、目の前に富士山をのぞめる、芝生のうえのひらけた場所だった。

 ユナさんはスカートなのも気にせずに、芝生のうえにあぐらをかく。私も少し悩んでから、同じように座った。

「――家出?」

 ユナさんは、にやりと笑いながらそう尋ねた。

「ち、違います!」

 思わず大きい声がでる。

「家族と、車中泊してて」

 そう言うと、ユナさんはすうっと目を細めて笑った。

「冗談だよ。わかってて言った」

 ユナさんがカフェモカをすすると、紙コップに赤いリップが少しだけうつる。せっかくきれいに塗ったのにもったいない、とぼんやり思う。

「話してるとわかるよ。親に愛されて育ったやつはね」

 ユナさんの言葉は、からかっている風でもなければ馬鹿にしている風でもなかった。

私はせっかく水を吸ったスポンジが、再び少しだけ渇いたのを感じる。ユナさんはもう一口カフェモカをすすって、はぁっと息を吐いた。

「――マジックアワーって知ってる?」

 そう聞かれて、思わず考え込む。

「……イッツショータイム的な?」

「あは、うける。ね、そう思うよね」

 くくくと笑いながら、ユナさんは続ける。

「日の出と日の入りの時にすっこーしだけある、空がめちゃめちゃきれいに見える時間のことらしいよ。ほら、見て。あそこ」

 ユナさんの細くて長い指が、富士山の裾野からなだらかに広がる山々をしめす。そこからはじんわりと、まるでにじみだすようにオレンジ色の光がもれていた。

 光は、空の藍色をゆっくりと食べ進めるようにじわじわ広がっていく。頭の上にわずかに残っている雲は一部が黒く、一部が赤い。何色もの色が混ざり合って、まるで一枚の絵を描き終えた後のパレットみたいだ。

 わたしは「きれい」という言葉のかわりに、ほうっとひとつ息をついた。

だってここで「きれい」なんて当たり前のことを言ったら、なんかちょっと馬鹿みたいだ。

私はさっき見たユナさんの背中を思い出しながら、できる限りしゃんと背中を伸ばしてみた。

空の橙は次第に燃え広がり、辺りは一気に明るく、朝の顔になっていく。

短くて儚い夢のような時間だからこそ、そういう名前がついたんだろう。ユナさんが教えてくれた単語を忘れないように頭の中で繰り返しながら、私は手の中のカフェモカを恐る恐るすすった。

 苦い。けど、「苦い」とは言わなかった。

 ユナさんは、たぶん渋い顔をしているだろう私を笑うのではなく、背中を押すように微笑んで、大きく空を仰ぎ見た。

「――……」

 赤く塗られた唇が、何かを告げようと言葉の形をつくる。

「――優奈‼」

 離れたところから、この時間にふさわしくないだろうボリュームで私を呼ぶ声がした。お母さんだ。

 その瞬間、ユナさんの顔がきゅうっとわずかに歪む。大きな黒い瞳が、まるで遠くの灯りにこがれるさびしんぼうの子供みたいにゆらりと揺らいだ。

「うるさいなぁ」

 そう言って顔をしかめながら、私はお母さんに向かって唇を尖らせる。

 お母さんは目をうるうるさせながら、「車から近い方のトイレに行ったけど、姿が見えなかったから血の気がひいた」とか「勝手に出歩くんじゃない」とか色々な文句を並べ立てている。

 うるさくてごめんなさい、の気持ちをこめて、ちらりと後ろを振り返る。ユナさんと視線を合わせようとして、そこに、もうすでに彼女の姿がないことを知った。

 広がっているのは、ただ燃えるようにまぶしい空と、雲と、山だけだ。私は一瞬目を細めてそれらを見上げてから、お母さんにこう言った。

「ごめん。だって、ほら」

 朝焼けの方を示すと、つられて顔をあげたお母さんもじいっと黙り込み、しばらくの間空を見上げて、それから観念したように息をついた。

「ごまかすならもっとマシなやり方にしなさいね」

 語尾に呆れたような笑いをにじませながら、お母さんは続けた。

「でも、本当にきれいね」


 それから私は、お母さんとお父さんにこってりしぼられながら朝ごはんを食べるはめになった。康太まで一緒になっていろいろ言ってくるのはムカついたけれど、まぁもうすぐ念願かなってジェットコースター乗り放題なわけだし、いいにしてやらないでもない。

 遊園地に向かう車の中、私は窓の外に広がる空を見上げる。少し前まで燃え盛るような色をしていたなんて信じられないような青空。

 私はその色を目に焼き付けるように見つめてから、自分のスマホに視線を落とした。ブラウザを立ち上げ、『メイク 初心者』の二語を検索ボックスに打ち込む。液晶に広がる検索候補を順番に表示させながら思う。私にもいつか真っ赤な口紅が似合う日がくるのだろうか。

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