あんそにー?
「お、おかしい……おれがあっさり捨てられた……」
食堂で、よろよろと椅子にすわりこんだ王子は頭を抱えていた。
フィリッツ王子の予想では、エマは「捨てないで! 婚約破棄なんていや!」とみっともなく縋りついて泣いて取り乱して、王子の足元にひれ伏すはずだった。
プライドの高い悪女であるエマの悪行を衆人環視で暴き立てて、ティアを苦しめた罪で学園から堂々と追放するつもりだった。
それなのにエマはあっさり、去っていった。颯爽と。未練の一欠けらもない様子で。
「おれは何か……思い違いをしたのだろうか? 冤罪だ、と言っていたな……」
ふと、王子の目が正気の色を取り戻しかけた。が、俯いているティアが視界に入るなり、でれっと表情を崩した。
「ティア、さっきのエマをどう思う? おれをあっさり捨てた……」
「そんな……殿下を捨てる女性なんて、この世界のどこにもいません。あれはきっと、エマさまの負け惜しみ、いえ、涙を見せないための演技と捨て台詞に違いありません」
ティアが、大きな目にたまった涙をぽろりとこぼし、王子がそれを親指で拭う。エマがいたら「おえええ……」とでも言いそうな、甘ったるい雰囲気と魅了魔法の充満である。
「ああ、そうだよね。ティアは優しいなぁ」
人前であるにも拘らず、王子はティアをひしっと抱きしめた。それを見て、「きゃああ、殿下とティアさま、素敵だわぁ!」と一部からは歓声とハートマークが飛び交うが、それはティアの魅了の魔法に中てられている人たちだろう。
その場にいた、魅了にかかっていない生徒の一人が、ハッとしたように呟いた。
「……エマさまの悪行って……本当に悪行なのか?」
「というか、悪行って何をなさったのかしら?」
きっ、と王子はその声がした方へ顔を向けた。
「いいか! あの女はおれという婚約者がありながら、おれを蔑ろにし、他の男たちに色目を使ったのだ。そのうえ、公衆の面前でおれとティアを侮辱した。それだけで十分、不敬、不貞である。腹が立つ! よし、アンドゥー公爵家は娘も両親も、王都から追放してやる! 父上に進言してこよう」
「あああ……ごめんなさい、おとうさま、おかあさま……やってしまったわ。王子をあっさり捨てました」
エマは学園から戻るなり両親に頭を下げ、事の次第を手短に説明した。
一族郎党王都から追放されるだろう、というエマの突拍子もない発言に両親は顔を見合わせた。
「それは構わないんだが……。エリザベータ、お前は王子殿下を愛していたのではないのかな?」
父が至極まっとうな質問をしてくる。そうね、と、エマはちょっと遠い眼になった。
「……昔は、愛していたような気がします。いえ、確かに愛していた時期もありましたわ。ですが、今では……」
「うん、聞いているよ。ティアだったか、子爵令嬢に王子殿下の心が移ってしまった、と」
はい、と父の言葉を肯定する娘を、母がそっと抱き締める。
「たくさん傷ついたわね……」
「お母さま……」
「傷が癒えたら、あなたに相応しいお相手を探しましょうね」
そして、ちょっと気分転換にお出かけしましょう、とエマを促した。
「どちらへ……?」
「さ、外出用のドレスに着替えてちょうだいな。みんな、エマの用意を手伝ってちょうだいな」
「え?」
「王都の中心部よ。公爵令嬢らしく堂々とね」
向かった先は、レストランだった。半年ほど前にオープンしたばかりの店で、王侯貴族から庶民まで幅広く対応するという珍しい店だ。
「いらっしゃいませアンドゥー公爵さま」
使いの者から連絡があったのだろう、出迎えてくれたのは、若い男性だった。シンプルなデザインの庶民と同じ服を着ているが、貴族階級の若者だろう。物腰が洗練されている。
「ああ、アンソニーは会うのは初めてか。妻と娘だ」
アンソニー。あんそにー。
エマが知らない男性である。原作にいないキャラなのか、モブすぎて恵茉が見落としたか。記憶を探るが、どこにもそんな名前はない。
「……だ、だれ!?」
原作から乖離した展開にはある程度慣れたつもりだったが――見知らぬキャラまでいるとは思いもよらなかったエマである。