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1-1.

 翌日の午後五時五十分。麓はまだ日暮れを迎えていなかったが、一歩山に入れば西日は少しも届かない。

 雄飛の背に乗せられ、雪乃は再び円の住む山を訪れた。かすかな陽の光さえも失った森の中は、ひたすらに深い闇だけが広がっている。時折聞こえるからすの鳴き声が、暗さを余計に意識させた。

 なにを着てきてもいいと言われたけれど、塾で働くことになるかもしれないと思うとあまりカジュアルな服は選べなかった。白いノーカラーシャツにサーモンピンクのカーディガン、ライトグレーのワイドパンツ。どの学校にもひとりは必ずいる、オシャレな女性教師を演出した。季節柄、夜になるとまだ肌寒く、上にベージュのトレンチコートを羽織ってきた。

「雪乃」

 雄飛が降り立った気配を感じ取ったのか、母屋から沙夜が出てきた。この闇の中で唯一頼りになるのは、彼女たちの住む屋敷から漏れ出る明かりだけだ。

 相変わらずの無表情に赤い着物姿はすっかり見慣れ、雪乃は穏やかな気持ちで沙夜に「こんばんは」と挨拶した。沙夜は無言でうなずくと、さっそく雪乃の手を取った。

 手を引かれるままついていく。母屋ではなく、直接離れに向かうようだ。

母屋と同じ造りである玄関戸の柱には、木の板に『結』と書かれた表札が掲げられていた。外にいてもわかるくらい、中はすでにわいわいガヤガヤと騒がしい。

 沙夜に続いて離れに入ると、沙夜はすぐ左手にあるふすまの向こう側へと消えていく。目的の部屋からは、蛍光灯で明かりを取っているのかと思えるほど明るい光が漏れている。

 その部屋に足を踏み入れた瞬間、雪乃は目の前に広がる光景に息をのんだ。

 学校の教室ほどの広さがある空間に、物語の世界でしか見たことのないあやかしたちがわらわらとひしめき合っていた。

 一つ目小僧にろくろ首、額に二本の角が生えた茨木いばらき童子どうじ。肌の色から着物まで全身真っ白な女の人は、ひょっとして雪女ゆきおんなだろうか。太鼓のような腹をしたまんまるのたぬきもいる。

「いらっしゃい」

 雪乃のいる出入り口の襖の対面といめんの壁には教壇と教卓、黒板が設置され、そこに立っていた円が微笑みながら雪乃に近づいてきた。白と灰色の細かい千鳥格子柄の着物に青褐あおかちの羽織を合わせ、足もとは足袋たびを履いている。

 円の動きに合わせ、あやかしたちの視線が一斉に雪乃に注がれる。「おぉ!」と誰ともなく声が上がれば、あやかしたちが高波のように雪乃に向かって押し寄せてきた。

「なんや、ほんまにべっぴんさんやないか、弥勒!」

「へぇ、あんたが新しい先生かい?」

「ひえぇ、恐ろしい! 若い頃の櫻子によぉ似てる!」

「そうかぁ? 櫻子先生よりだいぶ優しそうだぜ?」

 口々に雪乃について語り合うあやかしたちに、雪乃はどんな顔をすればいいのかわからず、背をらせながらひたすら引きつった笑みを浮かべるばかりだった。沙夜や雄飛のおかげであやかし慣れしていたからよかったものの、これがあやかしたちとの初対面だった時には一目散に逃げ出していたかもしれない。インパクトが強すぎる。距離が近い。

「はいはい、皆さん、お静かに」

 いつの間にか輪の外へと押しやられていた円が、あやかしたちの波を掻き分けて雪乃の前に立った。

「よろしいですか。雪乃さんはまだお客様です。彼女がここで教鞭きょうべんりたいと思うかどうかは皆さんの振る舞いにかかっているのですからね。まじめにやってくださいよ?」

 円が睨むようにあやかしたちをジロリと見回す。あやかしたちは互いに顔を見合わせると、すごすごと雪乃の前から引いていった。

「すみません、騒がしくて」

 円が申し訳なさそうに頭を下げる。

「いつもはもう少し静かなのですが、あなたが来ることを弥勒さんや雄飛が方々(ほうぼう)でしゃべったようで、普段は顔を見せないような方まで今夜はお見えになっていまして」

 なるほど、どこの世界にも野次馬根性丸出しのやからはいるものだ。よく見てみると、整然と並べられた文机についている者と、その周りでうろうろしている者の二手に分かれている。席についているのが生徒で、そうでないのが野次馬だろう。生徒たちの顔は、皆どこか幼げに見えた。

「私のほうこそ」

 雪乃も深々と頭を下げた。

「今日はお世話になります。あの、これ」

 持参した手土産の入った紙袋を円に差し出す。

羊羹ようかんです。皆さんで召し上がってください」

「これはこれは、お気づかいいただいて恐縮です。授業が終わったらいただきます」

 受け取った円は沙夜に「台所へ」と言付ことづけて袋ごと預けた。沙夜は素直に従い、離れを出る。

「雪乃ちゃん」

 最後列のさらに後ろで壁に背を預けて座っていた弥勒が、笑顔で雪乃を手招きした。人の姿をした今夜の弥勒は黒いライダースジャケットを羽織っていて、自身の座る座布団の隣に用意された、まだぬしのいない座布団をポンポンと叩く。ここへ座れと言いたいのだろう。

 雪乃が弥勒の指示に従って腰を下ろすと、円は黙って教壇へと戻っていく。予定された授業開始時刻まで、まだ七分ほどあった。

「最初は読み書きの授業からだ」

 弥勒がまっすぐ前を見据えたまま解説してくれる。

「読み書きの勉強を一時間、そろばんを一時間。最後の一時間は変化へんげの練習」

「全部、円さんが教えるんですか?」

「今はな。櫻子が生きてた時は最初の二時間を櫻子が受け持ってたけど」

「円さんは変化の授業だけを?」

「そ。櫻子は純粋な人間だからな。妖力ようりょくがなきゃ、なにかに化けることはできない」

「妖力?」

「オレたちあやかしが持つ力だ。雄飛みたいに空を飛べたり、オレみたいに人にうまく化けられたりする力。あやかしごとに持ってる妖力の大きさが違って、八雲の旦那みたいにバカでかい妖力を持ってると、変化だろうが飛行だろうが、思いどおりになんでもできる。逆に妖力が小さいやつは、変化できても短時間とか、小さいものにしか化けられないとか、なにかと不利ってわけ」

「じゃあ、半分は人間の血が流れている円さんは?」

 純粋な疑問を投げかけたけれど、弥勒はすぐに答えを口にしなかった。

 しばらく考えて、弥勒はかすかに目を細めた。

「わからない」

「わからない?」

「あぁ。オレたちの住むこの集落で、半妖はんようなのは円だけだ。前例もないって聞いてる。だからわからないんだよ。あいつの力は未知数だ。どれくらいの力があいつの中に眠ってるのか、あるいはほとんど妖力を持たないのか。人間らしくいつか死ぬのか、死という概念のないオレたちあやかしのように、いつまでもこの世に縛りつけられたままになるのか」

 なにもかもが未知なんだ、と弥勒は言った。彼の見つめる先で、円は授業の準備なのか、わら半紙の束を手にしている。

「これは単なる憶測だけど」

 控えめな前置きを据え、弥勒は続けた。

「八雲の旦那が持っていた妖力の半分くらいは円に受け継がれているんじゃないかっていう話だ。とはいえ、いくら八雲の旦那が力の強いあやかしだったからといって、その力の半分じゃ平均以下。あいつが純粋なあやかしだったとしたら、人の姿にうまく化けられるかどうかすら怪しいレベルだ」

「じゃあ、円さんが人の姿になれるのは……?」

「櫻子の血のおかげだろうな。半分は人間だから、人の姿に化けることに苦労しない。そう解釈するのが妥当ってわけだ」

 そうなんだ、と相づちを打ちながら、雪乃は小さく首を振る。

「私、勘違いしてました。円さんは、人の姿でいるのが普通なんだとばっかり」

「違うよ」

 弥勒は淡々とした口調で否定する。

「あいつの場合、狼の姿がスタンダード、表の姿だ。人の姿でいるためには、オレたちと同じように妖力を使って化けなきゃならない。今もそう。平均以下の小さな妖力を振り絞って、あいつは必死に人の姿を維持してる。教師という仕事を続けるために」

 弥勒の視線は、まっすぐ教壇に注がれていた。円ははなだ色の着物をまとったろくろ首――彼女は野次馬らしい――と楽しげに談笑している。本人も体力に不安があると言っていたけれど、そんな様子は微塵も感じない。

「つらいんですか」

 雪乃はやや声を落として弥勒に尋ねる。

「人の姿に化けるのって、そんなに大変なんですか?」

 うーん、とうなって、弥勒は困ったように笑った。

「妖力ってのは増えることもなければ減ることもなくて、一度使い果たしてもすぐに回復するのが普通だ。けど、やっぱり円は例外だった」

「円さんの場合は?」

「あいつの場合、人間の血が完全に足を引っ張っちまってる。昨日も話したけど、あやかしには人間でいう生理的欲求ってやつがない。けど、円は違う。働けば疲れが出るし、食ったり眠ったりしなけりゃ体力は回復しない。そこが厄介で、あいつはどうも体力と妖力が連動してるみたいなんだ」

「つまり、体力が低下すると、妖力も小さくなる?」

 弥勒は黙ってうなずいた。

「半年前に櫻子が死んで、それまで櫻子が主にになってた家事や『結』での仕事を、あいつがひとりで全部やるようになった。以来、あいつの妖力は日に日に小さくなっていってる。昔は一日の半分くらいは人の姿でいられたんだが、今じゃ八時間……いや、七時間を切る日もあるくらいで、ここ最近は一日のほとんどを眠って過ごすようになった。そうしないと、高校での仕事もここでの仕事もまともにこなせないってことなんだろうな」

 ろくろ首だけでなく、いつの間にか円の周りにたくさんのあやかしが輪を作っていた。みんな楽しそうに笑っていて、円の顔にも穏やかな笑みが浮かんでいる。その笑顔があまりに自然で、本当は必死になって人の姿を保っているのだという弥勒の話は嘘なんじゃないかとさえ思えてくる。水面に浮かぶ優雅な姿はかりそめで、水の中では懸命に足をバタつかせている白鳥のようだと雪乃は思った。

「だからさ」

 弥勒の視線が雪乃に移る。

「雪乃ちゃんみたいな子、ずっと探してたんだよ。オレが手伝うって言ったんだけど、『弥勒さんは教えるのがヘタなのでダメです』なんて言いやがるからさ、あの野郎。ひでぇよな、少しでも楽させてやろうと思って言ってやってんのによ」

 むくれる弥勒に、雪乃は思わず笑ってしまう。しかし、なぜ円は自分を犠牲にしてまでこの塾の運営にこだわるのだろう。あるいは、教師という仕事に。

「どちらかだけではダメなんでしょうか」

 雪乃も円を見つめて言う。

「高校の仕事か、ここでの仕事か。どちらか片方だけにすれば、からだをゆっくり休める時間が取れるのに」

「そいつは無理な相談だな」

「どうして?」

 円がパンパンと手を叩いた。午後六時。いよいよ授業開始だ。

 弥勒が言った。

「見てればわかるよ」

 その横顔が自信に満ちあふれていて、雪乃は自然と気を引き締め、教壇に立つ円に目を向けた。

「始めます」

 円の号令に合わせ、席に着いていたあやかしたちが一斉に起立した。

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