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5-2.

 円は雪乃の足もとに目を向けた。淡々と洗濯物を畳み続けていた弥勒が顔を上げ、「よ」と円に挨拶した。

「どうだ、体調は」

「はい、よく眠りましたので問題ありません。というか、ごめんなさい。洗濯、やってくださったんですか」

「オレじゃねぇよ。礼なら雪乃ちゃんに言いな」

 円は目を大きくして雪乃を見た。

「あなたが」

「いえ、私というか、コインランドリーの洗濯機が、です」

「そんな」

 円は慌てて寝室へと戻り、黒いビジネスバッグを提げて戻ると、こちらも黒い革の長財布から一万円札を取り出して雪乃に手渡してきた。

「申し訳ありません、お手間を取らせてしまって。あの量の洗濯物、持って歩くのも大変だったでしょうに」

 これで足りますか、と円は一万円札を押しつけるように雪乃の右手に握らせる。「待ってください」と雪乃は円の手を押し戻した。

「こんなにいただけません。私が勝手にやったことですから」

「ですが」

 円は室内をなめるように見回す。

「ひょっとして、掃除も……?」

「はい。拭き掃除と掃き掃除を少しだけ」

 あぁ、と円は頭をかかえた。

「本当に申し訳ありません。お客様に掃除や洗濯をさせるなんて」

「お客様じゃない」

 円の後ろに隠れるように立っていた沙夜が言った。

「雪乃、パパのお手伝いする人」

「お手伝い?」

「弥勒が言った。パパには、お手伝いが必要って」

 円は弥勒を睨むように見る。対する弥勒は涼しい顔だ。

「沙夜になにを吹き込んだんですか」

「たいしたことじゃねぇよ。おまえの力が戻るまで、家政婦を雇ってこの家の管理を任せたらどうだって進言しただけだ。そうしたら沙夜が雪乃ちゃんを見つけてきて」

「沙夜」

 円は静かに片膝をつき、沙夜とまっすぐに視線を重ねた。

「ダメじゃないか、勝手に」

「だって」

「だってじゃない。人間に迷惑をかけてはいけないといつも教えているでしょう」

 沙夜は下唇をかみしめ、「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で言った。今にも泣き出しそうな雰囲気だが、沙夜の表情に大きな変化はない。

「あの」

 悪くなりかけている空気に耐えかね、雪乃は思わず円に声をかけた。

「私、迷惑だなんて全然思ってません。大学でアルバイトを探していたところを、たまたま沙夜ちゃんに声をかけてもらったんです。お掃除やお洗濯なら、私にもできるかなって」

 アルバイト、と円はしゃがみ込んだまま雪乃の言葉をくり返す。「そういうことだ」と言って立ち上がったのは弥勒だ。

「教師の仕事を辞めるつもりがねぇんなら、せめて家事くらいは助けてもらえよ、雪乃ちゃんに。おまえは半分人間だ。オレたちとは違う。妙なところで意地張ってっと、マジでくたばっちまうぞ」

「別に意地を張っているわけでは」

 円と弥勒が睨み合い、険悪なムードが流れ始める。

 そんな中。

「教師?」

 その言葉に、雪乃は反応せずにはいられなかった。

「あの、円さんのご職業って……?」

 みんながそう呼ぶのでうっかり「円」と呼んでしまったが、円は特に嫌がる素振りも見せず、きれいな微笑みをたたえて答えた。

「夜間部の定時制高校で、教員を」

「えぇ!」

 驚かざるを得なかった。こんな偶然があるだろうか。

「すごい! 実は私も……」

 教師を目指しています、と言いかけて、途端に自信がなくなった。

 一年間働いた学習塾での経験が、雪乃を教師という夢から遠ざける。生徒との意思疎通がうまくいかず、教えることの難しさだけをひたすら痛感しただけの時間。教師という職が向いていないのではないかと、不安と焦りが募るばかりの日々だった。

「雪乃さん」

 円も雪乃をファーストネームで呼び、静かに立ち上がった。

「もしかして、麓の教育大学にかよっていらっしゃるのですか?」

「はい。この四月から二年生です」

 そうですか、と円は微笑む。

「不思議なご縁に恵まれましたね」

「え?」

「実は僕の母も、同じ大学を卒業した国語科の教員だったんですよ」

「本当ですか」

「はい。僕は母に憧れて、教師の道を志しました。かくいう僕も、あの大学の卒業生です」

「そうだったんですか」

 本当に不思議な縁だ。雪乃は心が大きく揺さぶられるのを感じてやまなかった。

 憧れ、という言葉が胸に突き刺さる。

 雪乃もそうだった。中学時代の恩師に憧れ、教師になろうと決めた。あんなに本気だったのに、あの頃の情熱はどこへ消えてしまったのだろう。

「雪乃さん」

 しばらく黙ってしまっていると、円が雪乃との距離をそっと縮めた。

「もしよかったら、家政婦としてではなく、うちの塾で働きませんか?」

「塾?」

「えぇ。週末の夜限定ですが、この建物の裏手にある離れで、あやかしたちに読み書きそろばんを教える時間を設けているんです」

 思い当たる節があり、雪乃は弥勒を振り返る。

「もしかして、さっき言ってた?」

 あぁ、と弥勒はうなずいた。

「オレや八雲の旦那みたいに、人間と仲よく暮らしていきたいと思ってるヤツらを集めて、円は人里での暮らし方をみんなに教えてるんだ。平日は高校での授業があるから、週末限定でな」

「もともとは父が始めた塾なんだそうです」

 円は伝聞調で弥勒の句を継ぐ。

「人間好きだった父は、人間の暮らしのすばらしさについて他のあやかしたちに説くこともまた好きだったそうで、それがいつしか発展して、よりよい人里での暮らしについてみんなで考える寄合よりあいみたいなものになっていったのだとか。その最終形態として、人間との穏やかな共存を望むあやかしたちのために、人間としての正しい暮らし方やルール、必要最低限の能力を教える塾になったそうです。父の死後は母が、母の死後は僕が跡を継ぎ、今に至ります」

 円の語り口は穏やかだった。母の櫻子だけでなく、父の八雲もすでにこの世にはいないというが、悲しみに暮れる様子はおくびにも出さない。別れの時から多くの時間が経過しているのだろう。

 円は困ったような笑みを浮かべる。

「お恥ずかしながら、母と違って僕は体力面に少々不安がありまして、ひとりで大勢のあやかしたちを相手にするのはなかなか大変なんです。なので、教師の道に進もうとされているあなたにお手伝いいただけたら、とても助かるのですが。もちろん、お給料はきちんとお支払いします」

 はい、と円は手にしたままだった一万円札を差し出してくる。心がぐらりと揺れたのは、お金のせいではなかった。

 今はまだ、誰かになにかを教える気になれそうもない。ましてやあやかしなんていう未知の存在を相手にするなど、うまくやれる自信がまるでなかった。

 反面、これは大きなチャンスかもしれないと思う気持ちもあった。定時制高校といえば、現役生である十代の子たちだけでなく、二十代、三十代、それ以上の成人した生徒も在籍している。さまざまな年代の生徒を相手にしている円からなら、学ぶことも多いだろう。自分に足りなかったものが、あるいは円のもとでなら見つかるかもしれない。そんな期待も確かにある。

 でも――。

「では、こうしましょう」

 煮え切らない雪乃を見かね、円が顔の横でピンと人差し指を立てた。

「明日はちょうど土曜日です。雪乃さん、一度『ゆい』に見学にいらっしゃいませんか?」

「結?」

「父の創設した塾の名です。人とあやかしとの良きご縁を結ぶための学びだから、『結』」

 素敵な名前だと思った。それだけで少し興味が湧いた。

 雪乃の表情が変わったのを見逃さず、円は笑顔でたたみかけてくる。

「開講は午後六時。ご自宅まで雄飛をお迎えに向かわせますから、タクシー代わりにお使いください。費用はこちらで負担します」

「はい。あの……ありがとうございます」

 見学に来ないかと誘われていただけのはずが、なぜか参加することが決定した流れになっている。弥勒といい円といい、この界隈の人たちはどうしてこう、少々強引なところがあるのだろう。

「持ち物は特にありません。服装も、裸でなければどんな服でお越しいただいても結構です」

「はっ……!?」

 裸。

 一気に顔が熱くなる。クスクスと円は笑った。

「では、雪乃さん。明日、お待ちしています」

 漆黒の瞳に射貫かれ、雪乃の心臓が小さく跳ねる。

 優しい眼差しだった。嫌なことをすべて忘れさせてくれるような、あたたかみのある光を感じる。

 胸が高鳴る。この人のもとで学んだら、未来が切り開けるかもしれない。停滞している今が、明るい未来にきっとつながる。そんな気がしてならない。

 だって、今この時がすでに、これまでまったく想像していなかった未来なのだから。

「はい。よろしくお願いします」

 今度は迷わず、雪乃ははっきりと返事をした。円も、弥勒も、なかなか表情の変わらない沙夜でさえ、嬉しそうに笑った。

 人間の世界について学びに来るあやかしたち。どんな愉快な生徒が集まるのだろう。

 雪乃の心は、いつしか楽しみな気持ちでいっぱいになっていた。

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