1-2.
B棟の裏手は芝生広場になっていて、この時間は次の授業待ちの学生の姿がちらほらとあるだけでほとんど無人に近かった。
広場を横切り、沙夜を従えてなるべく人の目につかない木陰の奥へと入り込む。改めて沙夜と向き合うと、雪乃はストレートに尋ねた。
「沙夜ちゃん……あなた、何者?」
「座敷わらし」
なるほど、そうきたか。
ドキドキと心臓が高鳴る中、雪乃は質問を続ける。
「それは、つまり……あなたは、人ではないということ?」
沙夜はうなずき、「あやかし」と答えた。
「特別な人には、見える。普通の人には、見えない。雪乃は、特別な人。沙夜たちが見える人は、特別」
驚きを通り越し、雪乃はそっと天を仰いだ。
知らなかった。まさか自分に、あやかしなんていう人ならざる存在と通じ合える力があったなんて。そもそもこの世界には、あやかしなんてものが本当に存在していたのか。信じられない。話はそこからだ。
「雪乃」
沙夜に呼ばれ、我に返った。
「うん?」
「来て」
沙夜は手にしていた貼り紙を雪乃に差し出し、雪乃をまっすぐに見つめた。
「パパを助けて」
「パパ?」
着物をまとうザ・和風なあやかしの口から「パパ」なんていうヨーロピアンな言葉が飛び出したことへの違和感が凄まじい。しかし、助けてと言った沙夜の言葉は、どこか真に迫っているように聞こえてならなかった。
雪乃が答えるのを待たず、沙夜は芥子色の帯に小さな手を突っ込んだ。イルカの調教に使うような長細い笛状のものを取り出し、口に咥える。やはり笛であるようだ。
ピイィィィィィ――!
沙夜の手にすっぽり収まるサイズの笛から、耳をつんざく大音響が放たれた。雪乃は思わず両耳を手で塞ぐ。
音が鳴り止み、いつの間にかぎゅっと瞑っていた目を開ける。遠くでおしゃべりとしている学生たちは、なにごともなかったかのように笑い合っていた。どうやら今の笛の音も、沙夜の言う『特別な人』にしか聞こえないものであったらしい。
「はーい、お待たせーっと」
すると、ふたりの前に空からなにかが降ってきた。ストン、と音もなく地上に降り立ったそれは、なんとなく人の形をしているように見える。
だが、人ではなかった。
おおむね人間の姿形をしているけれど、その背中では大きくて真っ黒な翼がバッサバッサとはためいている。巨大な烏の羽のようだ。からだにまとうのは群青色の山伏装束、頭には先の尖った黒いお椀のような形をしたかぶり物・頭襟がちょこんと鎮座している。顔立ちはどことなくやんちゃな印象を与える少年のようだった。
「まいどあり! 駕籠舁の雄飛だよ。オイラを呼んだのはどいつだい?」
幼い男の子特有の甲高い声で雄飛と名乗った翼の生えた少年は、「お」と言って雪乃に照準を合わせた。
「へぇ、こいつは珍しい。あんた、人間だろ?」
「え、あ、私ですか……?」
雪乃のことである。驚きのあまり言葉を失い、目をぱちくりさせている雪乃を見て、嘴を持たない烏のような少年はケラケラと愉快そうに笑い声を立てた。
「おもしれぇ。昔の櫻子を見てるみてぇだ」
「櫻子?」
「あぁ。あんたの他にも、オイラたちのことが見える人間がいたんだよ。ついこの間、寿命が尽きて死んじまったけどな。人間は早死にだから」
雄飛はからっとした口調で言う。なんとこたえたらいいものか、雪乃は引きつった愛想笑いを浮かべた。
「雄飛」
沙夜が雪乃の隣で声を上げる。「おぉ」と雄飛はようやく気づいたかのような顔で沙夜を見下ろした。
「おまえか、オイラを呼んだのは。なんだよ、もう帰るのか?」
「うん。雪乃も一緒に連れて行ってくれる?」
「雪乃? この人間のことか?」
沙夜はうなずく。
「パパのこと、助けてくれる人」
「あぁ、なるほど。弥勒兄の入れ知恵か。円のやつ、くたばっちまってんだったよな」
弥勒? 円? 話の流れから察するに、円というのが沙夜の言う『パパ』か。
「くたばってない」
これまでずっと無表情だった沙夜が、ほんのわずかにムッとした顔になった。
「雪乃が来たら、元気になる」
「そうだな」雄飛が沙夜の頭を撫でる。
「円が元気になることは、オイラたちみんなの願いだ」
沙夜を安心させるようにそう言うと、雄飛はスッと背筋を伸ばして雪乃を見た。
「オイラは烏天狗の雄飛。駕籠舁をやってんだ」
「駕籠舁?」
「現代風に言えばタクシーだな。片道百円でどこへでも、どこまでも好きなところへ連れてってやる」
片道百円? どこへでも、どこまでも?
タクシーとしては破格の安さに、雪乃は惜しげもなく目を見開く。どこへでもということは、たとえばハワイに連れて行ってくれたりもするのだろうか。
「あんたにもこいつをやるよ」
雄飛は先ほど沙夜が使った銀色の笛を雪乃に手渡す。
「行きたいところがある時は、この笛を鳴らしてくれ。オイラが連れてってやるからよ」
「片道百円で?」
「そう、片道百円で」
雪乃は受け取った細長い笛を顔の高さに掲げ、しげしげと眺める。イルカの調教用に似ていると思ったのはあながち間違いではなく、イルカにしか聞こえない音が出るように、この笛も普通の人間には聞こえない音が出るのだ。あやかしと、あやかしの見える特別な人間にだけ聞こえる音が。
「それで」
今度は沙夜に目を向けて、雄飛は尋ねた。
「円の家に帰るってことでいいか?」
「うん。お願い」
「じゃ、百円な」
沙夜は着物の左袖に右手を入れ、白いがま口の財布から百円玉を一枚取り出し、雄飛に払った。
「まいど。さ、あんたも」
「えっ、私も?」
差し出された雄飛の手を見て、雪乃は声を裏返す。
「円の家に行くんだろ? 片道百円だ」
なるほど、相乗りで割り勘、というケチな乗り方はさせてもらえないというわけか。
……いや、そんなことより。
「ちょ、ちょっと待って」
雪乃は沙夜の前にしゃがむ。
「ねぇ、沙夜ちゃん。私、全然状況を理解していないんだけど……?」
「雪乃、貼り紙見てた。パパのお手伝いをしてくれるんでしょ?」
「パパのお手伝い? それって、お掃除とか、お料理とか?」
沙夜はこくりとうなずく。
「パパ、忙しい。櫻子が死んじゃったから」
「櫻子って、私みたいにあなたたちのことが見える人のこと?」
今度は首を横に振られた。
「パパの、ママ」
なんだって? 話がいきなり飛躍し、雪乃はいよいよ混乱した。
「えっと……、パパっていうのが円さんというお名前で、櫻子さんというのは、円さんのお母さん?」
櫻子が人間なら、円というのは人間の男性、ということになろうか。そして櫻子と円は雪乃と同じようにあやかしの姿が見えるので、座敷わらしである沙夜とともに暮らし、沙夜は円を「パパ」と呼んで慕っている。三人の関係をまとめると、こんな感じか。さらに現在、円は櫻子を亡くしたことで家事もままならないほど多忙を極めるようになってしまった、と。
「パパには、お手伝いが必要」
沙夜が真剣な顔で雪乃に訴えかけてくる。
「パパ、仕事が忙しい。力が弱くなってきてる。たくさん眠らないと、死んじゃう。だから、雪乃に助けてほしい」
死んじゃう、という言葉はまたしても真に迫っていた。命が危ぶまれるほど多忙な生活というのはいったいどんなものかと理解に苦しむけれど、沙夜が円の身を案ずる気持ちに嘘がないことだけは確かだと思った。
「わかった」
立ち上がり、雪乃は大きくうなずいた。
「とりあえず、お話だけでも聞きに行きます。でも私、これから四時限目の授業があって……」
雪乃がそう言うが早いか、沙夜はがま口財布から百円玉を取り出し、雄飛に手渡した。
「これで、ふたり分。雪乃も一緒に連れて行って」
「まいどあり。さ、乗った乗った!」
「えぇ?」
一瞬のうちに、雄飛の姿が巨大な烏に変化した。沙夜と雪乃、ふたりを背に乗せてもまだ空きスペースがありそうなほど背中が広い。
沙夜が雪乃の右手を握り、漆黒の羽を大きく広げる烏の雄飛めがけてタッと駆け出す。カッカッカッと下駄を鳴らして走り込み、右足で踏み切って高らかに跳び上がった。
「うわぁっ!」
沙夜に手をつながれたままの雪乃も一緒になって宙を舞い、気がつけば雄飛の背中にすっぽりと収まっていた。沙夜が前、雪乃が後ろと連なり、乗馬の要領で羽の付け根あたりに跨がる。履いていたパステルブルーのロングスカートがめくれやしないかと一瞬不安になったけれど、そんな些細なことを気にしている場合ではない。雪乃はまさに今、巨大な烏の背に乗って大空へ舞い上がろうとしているのだ。
「振り落とされんなよ、お嬢さん方!」
雄飛は楽しげに声を上げ、バサァッ、と羽を派手に動かして飛び立った。ぐんぐんスピードを上げ、真っ青な初夏の大空を、快調に風を切って駆け抜けていく。
「いやあぁぁぁぁああ――っ!」
叫び声は蒼穹に溶け、雪乃はひたすら目を瞑り、雄飛の漆黒の背中に必死になってしがみついた。
三つの影が音もなく消えた芝生広場の木々たちは、なにごともなかったかのように、穏やかにその葉を風に揺らしていた。