理科準備室
覚悟を決めて戸をくぐったが、中は何の変哲もない理科準備室だった。いや、空間に突然現れた引き戸の中としては、十分異常ではあるのだが。
薬品やフラスコなどが並んだ棚に、昆虫の標本や人体模型。そこは、竜次が日直の雑用で一度入ったときのままだっだ。
「ようこそ、私の部屋へ」
警戒している竜次に、式島がにこやかに笑いかける。
あとから戸を通って、灼や燈も入ってきた。最後の燈は当然のことのように、引き戸を閉めた。
「何で、瞬間移動みたいなことができるの……? そこの戸をまた開けたら、さっきの教室に行ける?」
「今は接続を切ったので、普通に開けても理科準備室前の廊下ですよ」
何から何まで、わからないことだらけだ。
怪訝そうな竜次に、式島は部屋の奥を指さしていった。
「立ち話も何ですから、奥に行きましょう。軽食でも食べますか?」
ぐうぅぅぅー。
口で返事をするより先に、腹が答えていた。今まで気づいていなかったが、竜次はものすごく腹が減っていたようだ。
土蜘蛛の騒動で校内を嫌というほど走りまわり、落着して安堵したところである。育ち盛りの竜次が、腹が空いていないわけはなかった。
示された部屋の奥を見やると、そこだけ以前来た理科準備室でないことがわかった。
部屋の奥といっても、狭いこの準備室ではすぐに壁に行きあたるはずである。しかし、目の前の光景は壁どころか、廊下のようにどこまでも続いていた。
「どういうことだ?」
よく見ると、床が続いているだけで、壁も天井もない。全くの暗闇である。
竜次が困惑していると、式島が優しく声をかけてきた。
「とりあえず、歩きながら話しましょうか。まずは、この学校についてから」
式島が先頭に立って歩く。灼と燈も、黙ってそれに続く。
置いていかれそうになった竜次も、慌ててあとについていった。道を踏みはずすと、帰れなくなってしまいそうだった。
「この学校、実はパワースポットなのです」
式島の唐突な発言に、竜次は首を捻る。
そのような話は、聞いたことがない。念のために、認識があっているか確認をしてみる。
「それって、神社や寺が幸運のパワースポットとかいって騒がれている、あれのこと?」
「まさしく、それです。パワースポットには霊気が集まりやすく、不思議な力が満ちやすい。その恩恵にあやかろうと、お化けも集まります」
なるほど、大まかな認識はあっていたようだが、だいぶ知らないことが多かった。
パワースポットだから、この学校にはお化けが集まりやすいということか。
「日本には、そのような土地がいくつもあります。特に山などが多いですね。そのような場所に自社仏閣がつくられたため、ご利益があるのです」
式島が補足をする。
その補足に、竜次は疑問を感じた。
「それじゃあ、この学校は何でパワースポットなの? もともと、山じゃないでしょ?」
御山高校などという名前だが、この学校は平野にある。昔も今も、山ではなかったはずだ。
「その理由はもう少し理解を深めてから、おいおい話すとしましょう」
式島が含みをもった目で、灼をチラリと見た。
灼はうつむいたまま、今まで黙ってついてきていたが、やっと口を開いた。
「先生、こいつに説明をする必要はないと思います。すぐに、追いかえすべきです」
灼のいいぐさは気に食わないが、それは竜次も気になっていたことだった。
灼と燈は、ずっと竜次に話す情報の取捨選択に、気を配っていた。
しかし、式島は先ほどから、大体の質問には答えているし、何なら自分から進んで説明をしようとしている。一体、どのようなつもりなのだろう。
式島は、おどけた表情をしてみせた。灼に対しては、口調も少し崩れるようだ。
「だって、彼は巻きこまれて、怪我までしているのだ。せめて、誠意ある対応をしないとね」
「こいつの自業自得ですよ」
灼が食い下がる。
「わかっているさ。でも、知っていたのに防げなかった、私たちの失態だ」
式島は優しい声で灼を悟すと、竜次に向きなおった。
「竜次くん、君が知りたいことはできる限り教えましょう。……ただし、他のモノには、決して喋ってはいけないよ?」
式島が、にこやかな笑顔を向けてきた。
その笑みはにこやかなくせに、話したらどうなるかわかっているだろうな、という脅しに見えた。
竜次は好奇心と恐怖心の間で一瞬だけ揺れたが、好奇心が勝ってしまった。
竜次は、式島に無言で頷いた。
式島はそれを見ると、説明の続きを話しだした。
「では、話を戻しましょう。パワースポットにはそれぞれ、お化けが悪さをしないように管理者がいます。神社なら神職、寺なら僧侶。そして、それ以外には拝み屋などが着任します」
「拝み屋?」
聞きなれない言葉に、竜次が訊きかえした。
式島は意外だったのか、少し困ったような顔をした。
「ええと、拝む人です」
そのまんまな説明をされた。先ほど、できる限り教えるといっていたばかりだというのに、ずいぶんな説明である。
後ろで、燈が眉間を押さえている。
「私の本業も、拝み屋です。もとは陰陽師の家系です。この学校の管理者として、赴任してきました」
(自分のことなのに、あんな雑な説明でいいのかよ……)
竜次はそのようなことを考えていると、燈が補足してくれた。
「拝み屋は、祈祷師ともいうわね。占いや呪術などいろいろな役割があるけど、主にホカゲはお化けを祓う仕事が多いわね」
「へ〜」
やがて、黒い門に行きあたり、そこをくぐった。広い庭の奥には、一軒の立派な日本家屋があった。
もちろん、普通に考えたら理科準備室の中に家などあるわけがない。
本来ならとり乱すところだったが、竜次はもう何を見ても驚かないと思った。
「竜次くん、『迷い家』って知っていますか?」
式島が問いかけてきた。
竜次が首を捻る。もちろん、知っているはずもなかった。
「迷い家とは、山奥で人が稀に迷いこむ、この世ならざる家のことです。たどり着いた人に、幸運をもたらすこともあります」
「それって、ある意味パワースポットみたいだね」
説明しながら、式島は我が家に入るかのように気安く、玄関を開けた。手で竜次に入るように示す。
「そうですね。いわば、パワースポットの付属品みたいなものです。迷い家は異界ーー私たちの普段暮らしている世界とは別の空間にあるのですが、パワースポットの霊気を借りて、この世と繋がります。……この学校のようにね。この家も、迷い家です」
何となく予想はついていたが、怪しげな場所なら、どうせなら入る前にいってほしい。
竜次はそのように思ったが、この人には何をいっても無駄だと思いなおし、黙っていた。
「いやあ、迷い家って、けっこう便利なのですよ。この学校は全体がパワースポットなので、敷地内ならどこにでも繋げられて移動が楽です。それに何といっても、宿直室と違って快適ですし」
式島が嬉々として、語っている。正直、竜次はその便利さを熱弁されても、全くついていけないが。
ギシリ、ギシリ――。
ふいに、床を軋ませながら何かが近づいてくる音がした。
思わず竜次が身がまえていると、家の奥から着物をきた美しい女性が現れた。
式島と同じくらいの歳だろうか。艶やかな長い黒髪を、後ろでひとつに縛っている。
「誰ですか? 先生の奥さん?」
竜次の問いに、式島が苦笑する。
「残念ながら、違います。彼女は、この迷い家の主さんですよ。……ホノカさん、お客様が見えたので、軽食でもお願いできますか?」
ホノカと呼ばれた女性は、黙ったまま恭しく頭を下げると、家の奥に消えていった。
竜次は式島に案内され、居間に通された。
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