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第十話「蓮と依莉Ⅱ」・リアルワールド
土曜日の午前十一時。快晴で気温は三十度。午後から夕方にかけて、さらに気温が上がるとお天気お姉さんは言っていた。
「おじゃまします」蓮の声が大理石の玄関で広がる。
わたしが住んでいる十階建ての灰色の賃貸3LDKマンションは、蓮の住んでいる家から徒歩で三十分ほどらしい。意外と近いことに昨日は驚いた。
「なんでミセスバーガーの袋を持ってんの?」蓮の右手にさげた透明のレジ袋からMrsのロゴがはいった茶色の袋が透けて見える。
「お昼だよ」蓮は笑顔で袋を横顔まで持ち上げる。「一緒に食べようと思って。ネオバーガーのセット」開けてもいないのにハンバーガーとポテトの匂いが漏れている。店内に居る気分になる。
「買うなら連絡してよ。セブンチーズバーガー派なんだけど」わたしは袋を受けとる。
「ミセスはネオバーガーの一択でしょ。食べてるところをインスタにアップだね」蓮は茶色のリュックを床においた。
「インスタやってんの?」「やってないよ」「なんなんだよ」
蓮はけらけらと笑う。横を向いた。赤いスニーカーを脱いで端に揃える。蓮の私服はトップスが白のノースリーブシャツ。ボトムスが黒のショートスラックスと肌を大胆に露出させた格好だ。わたしは上半身に黒シャツと白パーカーで下半身は灰色の七分丈だ。
「冷房の温度、上げとくよ。寒くなると思うし」
「ありがと。私が男なら惚れてる気づかいだよ」
わたしは蓮の発言をノータッチする。気になることがあった。「メガネ女子だったんだ」チョロい女の目元を凝視した。
「そうだね。どうかな、学校じゃ見れないレアな私は」蓮はメガネのメタルフレームをつまんで上下に揺らす。
「違和感ないよ。それだけ」
「ふーん」蓮は細い目で不満そうな顔をした。「ま、いいや」
「なに」わたしは腰に手を当てる。「変なこと言ってないよね」
わたしはリビングに続いた廊下を歩く。蓮も後ろからついてくる。扉を開けると、ひんやりとした空気が肌に触れる。袋をダイニングテーブルにおいてエアコンのリモコンを握る。ピッピッ。わたしは温度を上げる。ウゥーンとエアコンから稼動音がする。
「へえー、しっかり読んでんだ」蓮の感動を漏らした声がした。わたしは声が聞こえたほうに顔を向ける。テレビの前にあるガラステーブルを見ていた。そこにあるのは蓮から借りている漫画やライトノベルだ。アニメは有料の配信サイトで観ている。近くには若草色のひとをだめにするクッション。これは最高で最強だ。
「借りて満足するタイプだと思わないでよね」わたしは言いながらキッチンに移動する。
「いいねえ」蓮は一冊のライトノベルを手にとった。キッチンからその様子を見る。ぱらぱらとページをめくっている。デスゲームで生き残るために戦うやつ。ゲームの世界に迷いこむやつ。漫画ならバトル系やスポーツ系も読んだ。持って帰る時には筋持久力を求められる。電子書籍は目が痛くなる。
「もうすぐ返せると思う」
「えこのあたり貸したの最近じゃん。ペース早すぎでしょ」
「寝落ちするまで観たり読んだりしてるから」
「それアニメ観てる時に寝落ちしたら起きた時には目次画面じゃん」
「あるあるだよ」わたしは冷蔵庫から牛乳を出してダイレクトで飲む。口のなかをあまくして牛乳を戻す。ガコンと冷蔵庫を閉じる。移動してテーブルの椅子に座る。
「そんなあるあるは依莉くらいだよ」蓮はリュックを片方がけにしてわたしの対面になる椅子を選んで座る。リュックは隣の椅子においた。「先に食べようか」
「そだねー」わたしはミセスの袋からドリンクを出した。ストローをさして口に含む。あまいコーラだ。ゼロじゃないな。
「それさあ、平日でもやってるの?」蓮はネオバーガーにかぶりつく。「よく学校に遅刻しないよね」頬を膨らましてもごもご言う。残っているドリンクを蓮に渡す。
「家に帰ったらスマホのアラームセットするし。朝になったらどっかでスマホが鳴ってるから起きる。中学からずっとそうだったし。録画してたドラマとかバラエティとかスポーツとか」
「よくない睡眠だねえ。ずっとクッションで寝てるってことじゃん」
「そういうことになるね」
わたしと蓮はしばらく無言のまま食事を続ける。バーガーを食べ終える。
「ところでさ」わたしはバーガーの箱に落ちた玉ねぎを食べる。「昨日、家に帰ってから思ったんだけど、蓮の家で勉強する選択肢もあったなあって」
「私の家だとできない」蓮はポテトを食べ終えた。「勉強してるとアニメを観たくなるから」指についた塩をなめる。
「逃げちゃだめだろ」
「はいはい」蓮はドリンクをわたしのセリフと一緒に流しこんだ。「ファンタうまあ」容器をおいて手についた水滴をティッシュで拭いた。「私もところでさ」
「めっちゃ強引に肩いれてくんじゃん」わたしはストローをかじる。
「アメフト選手なみに走り抜けてやるよ。いやそうじゃなくて」蓮はきまりが悪そうな顔で頭をかく。崖から落ちたような話の落差だ。ファンタをテーブルにおいた。「依莉の親は出かけてるの?」
わたしの右手に持った容器がへこむ。「なんでそんなこと聞くの」
「居たら挨拶しようと思って。結婚を前提に付きあってるカップルかってね」
「父さんは海外だよ」拍動が加速する。「しばらく帰ってこない」氷風呂に沈んでいるんじゃないかと思えるほどに、自分の体が冷たくなっていくのを感じる。
「母さんは居ない」わたしは細い声で言った。
「帰りは遅い?」蓮はしつこく聞いてくる。「あと依莉、顔色が悪いけど大丈夫なの」
わたしはコーラをおいてうつむいた。「だから居ないんだってば」蓮の心配する声に反応する余裕がない。
「えっと、病気とか事故」
「消えたの。知らない男と一緒に消えた」わたしは声をうわずらせて答えた。顔を上げると、深刻な表情をする蓮。眉ひとつ動かさない。「聞いといてだまらないでよ。嘘じゃないから」
「疑ってるわけじゃないよ。ごめん、嫌なこと聞いちゃったね」蓮はわたしの目を見ようとはしない。嫌な顔をさせてしまった。
「明日には忘れていいよ。蓮が悪いわけじゃないから」
わたしは椅子の背もたれから離れて前かがみになる。
「中二の時にどっかいった。父さんも驚いてたよ。出張の多い人だったし。計画してたんじゃないかな」
「それはえっぐいね」蓮は顔をひきつらせる。
「わたしさあ、ずっと母さんと仲よかったんだよ。なのになんでかなあ。あれは嘘だったのかなあ」
いまも母さんがどこに居るのかはわからない。わたし以外の人間に優しかったあの笑顔を向けている。そんな身勝手な想像をするだけで真っ黒な感情がわいてくる。
「許さない」わたしの口から本音が漏れる。テーブルに両肘をついて両手で顔をひっかくように覆う。指の隙間から唇を噛んだ蓮が見えた。
「重度のマザコンだね」蓮は背もたれに体重をあずける。お腹いっぱいになったような息の吐きかたをした。
「マザコンだったらなんなの!」わたしはテーブルたたいて椅子から立つ。やばいと思った。八つ当たりになる。蓮のひと言でぷつんと糸が切れた。あふれそうになる黒い泥が自分でコントロールできない。頭と心が乖離する。「お前だってわたしのこと好きじゃん。つまりフレンドコンプレックスでフレコンなんだよ!」
「フレコンとかいうパワーワードがきた……」
「親にすてられたりさあ。親に裏切られたりさあ。それでいままでの愛情がなくなるわけじゃないじゃんか。築きあげた愛情が消えるわけじゃないじゃんか。ちゃんと残ってるんだよ。少なくともわたしには。忘れられないくらいわたしの心に刻まれてる。わたしはいまでも母さんのことが好きだよ」
目頭からくる熱が高まる。視界がゆがむ。水のなかに居るみたいだ。
(なんでわたしは泣いてるの。母さんが居なくなった時ですら泣かなかったのに。なんで蓮の時は泣いて)
わたしは蓮に背中を向ける。右腕で痛くなるくらい目元をこする。泣いている顔を見られたくない。最悪だ。言いたいことだけ言って泣くなんて。
「依莉」蓮はわたしの隣にきて頭をなでた。「落ちついたらスッキリしてると思うし、それまではいっぱい泣いてもいいよ」優しい手つきに気持ちが軽くなる。
「うん」優しい手つきに気持ちが軽くなる。「ごめん。ごめんね」
蓮の言葉が、わたしのなかの泥を洗い流してくれた気がした。
「本当にごめん」わたしは椅子に座りなおしてから蓮に頭を下げる。「みっともなく泣いた」声はしゃがれていた。
「気にしなくていいよ」蓮は隣で微笑んで言った。「顔も上げなよ」
「うん。ありがとう」
「発見もあったしね」蓮は両肘をテーブルにおいた。いたずらな笑みを浮かべる。「依莉は急にキレだすタイプだってこと。糸がぷっつーんとね」嫌なところをついてくる。
「うるさいなあ。子どもだもん。大人でもそういうひと居るじゃん」
「高校生はもう子どもってより未熟な大人って感じがするけどね。あ、私いま、深いこと
言った自信がある。深イイだね」
わたしはくすりと笑う。「ばかなんじゃないの」
「あはっ。依莉は私の恩人だからね」
「それはよくわからない」わたしは、また変なことを言い出したと思った。
「ここまで気づかれないとさすがに傷つくんだけど」
「いや困るよ。そんなこと言われても」わたしはティッシュで鼻をかむ。
「まじか」蓮は顔を伏せた。「そうだなあ」テーブルにあごをのせてわたしを見る。「そのパーカー貸してよ。いま依莉が着てるやつ」
わたしは首をかしげる。「いいけど」羽織っていたパーカーを脱いで蓮に渡した。
「ありがと」蓮が言う。ノースリーブシャツの上からわたしのパーカーを着る。彼シャツならぬ友パーカーだ。「どう?」フードをかぶってわたしに感想を求める。
「どうって言われてもなあ」わたしはかしげた首を戻すことができない。「悪くはない」
「恋人に言ってんじゃないんだから」蓮は自分の前髪をさわる。「私の髪を黒でイメージしてみて」
「黒い髪」わたしは目を細めてぼんやりと蓮の顔を見た。「あ」しばらくにらめっこをして、自然と声が漏れた。「ああ!」バチリと静電気のような刺激が底に沈んでいた記憶の塊を浮上させた。左手で開いた口を隠した。見たことがある。体が小刻みに震える。思い出した。
「しっかり思い出したみたいだね。長かったぞお。悲しかったぞお」
「だって別人じゃん」
わたしと蓮は一回だけ会っている。当時の風景が頭のなかでパズルのように組み立てられていく。
「中一の冬だったよね」わたしは記憶をアウトプットする。「あと夜だった気がする」
蓮はうなずいた。「めずらしく雪も降ってたよ」
わたしが住んでいるマンションから十分ほど歩いたところに小さな公園がある。遊具は劣化による事故の防止のために撤去されて、いまは更地のような場所になっているが。
(あの子が蓮だったんだ)
わたしは公園の先にあるコンビニの帰りにベンチに座っている女の子を見つけた。往路には居なかったし、見て見ぬふりするのもなあって気持ちになって声をかけたんだ。
わたしは力のないため息をつく。「あの子を蓮って気づくのは無理ゲーだよ」
「ひどいなあ。私は覚えてるのに」蓮は指先でテーブルをとんとんとつつく。「めっちゃあやしんだけどね。急に知らないひとが大丈夫ですかって言ってくるし」
「ふつうに心配するでしょ。夜だし暗いしひとりだし。それに蓮だって悩んでることを知らないひとにぺらぺらしゃべったじゃん」
「まあそうなんだけど。いま思うと、知らないひとだから話せたんだなあって。もう会わないだろう的な。大和さんの言ってることは正しかった」蓮は晴れのような笑顔で言う。わたしに指をさした。「さあクイズです。私はなにで悩んでいたでしょうか」
「ひととの接しかただっけ」わたしは確信をもって回答する。
「ピンポンピンポン。正解です」蓮は頭の上で手をたたく。「あの時はショックだったけど、いまは私のほうが子どもの発想だったかもって思うし」
蓮は身体能力がひとより優れている。わたしの主観では、自分の体を理解している動きだ。まわりを驚かせるテクニックを簡単にやってみせる。直近の体育でやったフットサルは、センターサークルから相手ゴールに無回転シュートを決めて派手なゴールパフォーマンスを堂々と披露していた。
「まわりからの空気に耐えられなくなったんだよねえ。それは小学校の時から感じてたんだけど。私は私自身をちょっと運動が得意な女の子くらいにしか思ってなかったし。中学に上がれば体も大きくなって変な空気もなくなるかなって」蓮は息継ぎなしで言った。左手でファンタの入った容器を掴んで飲む。至福そうな顔をしている。「でもそうはならなかった。私はどんどんうまくなっていったんだよね。特に競技経験もないのに。あれだよあれ。ソシャゲでいう才能開花ってやつ。超絶怒涛のスーパーガールだったんだよ」
わたしは声を出して笑う。シリアスのなかによくユーモアをはさめるなと感心する。
「誰だって必死に積み上げたものを簡単にやられたら複雑な気持ちにもなるよね」蓮の話すテンポが上がる。「陰で盗人って呼ばれてたんだよ。ひどいなあって。コソコソするより面と向かって言えよと思ったし。言われても傷つくけど」蓮はストローをくわえる。ズゴッと中身がなくなった音がした。飲み足りないように容器を傾ける。
「わたしならよころぶけどね。だって最強じゃん」
「受容できないんだよ。同じ部活で同じ量の汗を流したとかならまだわかるけど、そうじゃないから。私の楽しい行為は見方を変えれば破壊行為なんだって気づいた。そこから一気に冷めたというか。しんどくなったんだよね。いま私と話しているこの子は、外面では笑っているけど内面ではどう思ってるんだろう。私のことをよく思っていないのにがまんしてあわせてくれてるんじゃないかって考えが浮かぶようになっちゃった。思いこみって怖いよねえ」蓮は目を閉じて頭を横に振った。切り換えたように笑顔でわたしのコーラを奪う。自分のものだスタンスで飲みはじめる。いいけどさ。蓮が買ってきてくれた昼食だし。わたしはカリカリのポテトを食べる。
「いまはちゃんと客観視できてるね」
「それは依莉のおかげだよ。あの時に言ってくれたことはしっかりおぼえてますとも」
「そっか」わたしは目を左右に泳がせた。恥ずかしいことを言ったおぼえがある。
「なにその反応」蓮はじろりと冷たい目をした。「あーそっか。私にとっては大事なことだったけど、依莉にとってはなんてことのない夜だったんだもんね。だから忘れてたんだもんね。ガラスのハートに傷がはいっちゃった。ここで泣いちゃおっかなー、私」
「やめてください。いまからインポータントなことにしますので」わたしはテーブルにおでこをこすりつける。
「急な英語を使うな」蓮はわたしの顔を掴んで持ち上げた。「ししし」漫画のキャラみたいな笑いかたをする。「なら私が言ってあげるよ。赤面するがいい」
「追いこんでくるなあ」わたしは髪を両耳にかける。
「変わりたくないのって依莉が聞いてきたから、私は変わりたいって言った。次に依莉は笑ってね。変わりたいと思っているなら、もう以前の君とは違う。いまは後ろを見てるかもしれないけれど、時間はかかるかもしれないけれど、前を向いて走り出せるよって」
「顔が熱い」わたしは言った。
「知ってる」蓮は歯を見せずに笑う。手のひらでわたしの頬を挟む。「手が熱いからね」
「依莉が言ったことだからね。誇張もねつ造もしてないから」
「わかってるよお」わたしは情けない声を出す。今日だけでさらけ出しすぎだ。
「私も言ってて体が熱くなったよ。よくさらっと言えたよね。私は救われたけど」
わたしは頭を振って蓮の両手から逃げる。「だって」すねたように言った。「中学生になったらカッコいいこと言ってみたくなる時期あるじゃん。その時は、まだ母さんが居なくなる前だったしわたしもテンションが高めだったというか。ちょかってたというか。ぐわああ」頭を抱えた。しかもだ。その女の子と一緒の高校になるっていったいどんな確率なんだ。一万円の宝くじくらいか。
「どう依莉。私は変わりましたよ。前を向いて全力疾走です」
「見たらわかる」
「私はすぐに気づいたよ。なのに依莉はまったく気づいてくれない。クラスでは孤立ぎみで誰かと話していても仲よくなりそう様子もない。私に手を伸ばしたひとがつまんなそうにしてるのはめっちゃ腹が立った。殴りたかったけどそこはがまんしました。私えらい。どうしようかなって考えたら、私のほうからアクションを起こすしかない。それでも依莉は気づいてくれなかったけど。もう本格的にふたりだけの会話をはじめるしかないって。話題もあっていいタイミングだったと自分でも思うよ」
「悪かったよ。でもさ、どこかで会ったことあるってわたし聞いたよね」わたしは五月をころを思い出す。はぐらかすような答えだった。防御態勢から攻撃態勢に転じる。
「それって気づいてることにはならないでしょ」
「ごもっともです」
蓮の痛恨の一撃であっけなく崩された。脳内で試合終了のゴングが鳴っている。
「助けた子に助けられるって」わたしは背もたれを抱きしめる。「はは、なんかおもしろいな」ふうせんがしぼむみたいに全身の力が抜けていく。
「運命的でしょ」蓮は指を鳴らして言った。
「あはっ、かもね」わたしは横目で彼女を見る。「蓮」向きをなおして息を吸う。「わたしを見つけてくれてありがとう」蓮の瞳を見て言った。
「私も。私を見つけてくれてありがとう、依莉」蓮もわたしの瞳をまっすぐ見て言った。
「あははっ!」わたしと蓮は声を大きくして笑う。照れる気持ちを半分こしているみたいだ。心があたたかくなった。