第八十一話 氏治包囲網 その1
年が明けて天文二十年(一五五一年)三月である。私は十八歳になった。だけど、背は伸びないし十六歳の頃とあまり変わっていない。成長期が終わってしまったらしいのである。女だから別にいいのだけど、欲を言えばもう少し上背が欲しかった。四尺八寸(一四八センチメートル)が私の身長である。
戦も小競り合いも無く、小田領は平和である。私が家督を継いでから三年、小田領は大いに発展した。戦が無いというのは素晴らしい事である。田畑も街も踏み荒らされないから収穫が減る事も無いし、人も亡くならないので人口はどんどん増えて行くのである。そして、移民も相変わらず受け入れているので田畑も増える一方である。
移民の受け入れにより村や田畑が増えて小田家の石高は表高二十五万石、実高五十万石が現在の小田家の国力である。常陸の石高は五十七万石と言われているから、小田家の努力で五万石増えた事になる。公共事業に銭を投入した結果でもある。人は力なのだ。
それにプラスして交易の収入や、香取の海における菅谷の水利権、城下町の税収を合わせると十万石は軽く行くと思う。合わせて六十万石。なので、お金にうるさい政貞がご機嫌なのである。まだ蕎麦屋をやる気なのだろうか?
兵に関しては六千五百から七千程度集まると報告があった。志願兵も当てに出来るらしい。単純計算だと一万石で二百五十人なので、二十五万石なら六千二百五十だから大体合っていると思う。
米にしても収穫して直ぐに換金するほど困っていないので相場が上がる時期を見計らって放出している。おかげで蔵には金銀や銭が潤沢にあるのだ。だからどんどん領内に投資が出来る、投資をすれば領内が発展する。発展すればそれを聞いた人々が集まって来て人口が増えるという好循環が生まれている。
私は出来過ぎなのでは?と思ったけど、他所が酷すぎて逃げてきた人々が小田領の領民の生活を見て驚き、それに続こうと懸命に働くので発展が速いのだ。国からも穀物の援助があるし、働ける環境もあるので小田領は別世界になっているのである。
小田家には犯罪者以外の賦役は無い。民から賦役を無くし、仕事の無い冬に建築や普請、開墾、治水で人足を雇うので元から居た小田の民は益々豊かになるし、移民は仕事を手に入れることが出来、農地が冬の間に広がって行くのである。重機など無いので手作業だけど戦国の人々は逞しく、小田領の原野に田や畑がどんどん作られていくのである。
小田家では計算仕事が出来る人が重宝されるようになって来た。人口が増えればその分管理の手間が増える。常陸中部を切り取った後の教訓から内政の補助が出来る人を育てる動きが出たのである。久幹や常陸中部で新たに城代になった家臣達が中心となり内向きの仕事が見直されたので武勇一辺倒だった小田家の将も計算が出来る人を採用するようになったのである。
拡張する農地と増える収入で計算が大変なので私は算盤を又兵衛に作って貰い小田家に導入したのである。私が皆に算盤を教え、今では多くの人が算盤を扱えるようになっている。算盤一級の腕前がこんな所で役に立つとは私も思わなかったのである。
戦国時代で算盤と言えば前田利家である。彼の使った算盤は現代では日本最古の算盤と言われている。だけど、私が算盤を沢山作ってしまったので、前田利家の栄誉を奪った形である。実際は又兵衛が作ったから又兵衛のせいでもいいかも知れない。そうしよう。
算盤は宗久殿にも送っている。商人である彼にこそ相応しいからだ。そしてついでに悪戯もしたのだ。彼に送った算盤は枠を漆で塗り、今井家の家紋を散りばめ、梁は銀、一玉、五玉は金で作った逸品である。きっと驚くはずだ。又兵衛が目の下に隈を作っていたから相当力を入れたに違いない。後世に残れば国宝になる気がする。ただ、重い金で玉を作ったので、実用に耐えないのが難点である。
何故こんな事をしたかと言うと宗久殿から送られた贈り物の中に『唐物茄子茶入』が入っていたのだ。この茶入れは史実で今井宗久が織田信長に贈った茶入れであり、歴史好きの間ではあまりにも有名な名物茶器である。
私も最初は綺麗だなとしか思わなかった。目録を確認したらそれらしきものは無いし何だろうと思って蓋を開けたら折り畳んだ手紙が入っていたのだ。読んでみると『名物唐物茄子茶入を小田様にお譲り致す』と書いてあり、さすがの私も驚いたのだ。たぶん、私がいつも驚かせていたからお返しなのだろうけど豪気過ぎて呆れてしまった。
そして私は久幹が小田城に来た時に『唐物茄子茶入』を自慢したのだ。あまりにも久幹が羨ましそうな顔をしていたので私の茶器コレクションから一つだけ好きな物を選んでもらってプレゼントしたら大喜びで帰って行ったのである。
その算盤を私の私室で政貞とパチパチと弾いている。今年は年始から領内の城や砦で軍資金や兵糧の棚卸をしたので集計に追われたのだ。面倒だけど必要な事である。なので早朝から二人でパチパチと、算盤を弾いていたのだ。
「私のほうは終わったよ、政貞はまだ掛かりそう?」
私は書類を纏めながら政貞に問い掛けた。
「今少し時が掛かります、少々お待ちください」
「早く土浦に行かないと屋台が混んじゃうよ?今日は当たりの日なんだからね。遅かったら置いて行くからね?」
当たりの日とはうどんや蕎麦の屋台のスープに椎茸を使った日なのである。悪戯的に始めたのだけど、あまりにも好評だったので月に一度は椎茸を入れているのである。私は出資者特権で熊蔵に教えてもらっているのだ。
「解って居ります、焦らせないで下さいませ」
私達が話していると百地がやって来た。私は互いに挨拶をする。百地は私と二人きりで話したいというサインを送って来たので、私は別室に百地と移動した。向かい合って座ると百地はさっそくと切り出した。
「まずは、信濃より知らせが届きました。真田幸隆殿が捕らわれたようで御座います。詳しくはこちらをお検めください」
そう言って百地は懐から手紙を取り出し、私に差し出した。私は急いで手紙を読んだ。真田幸隆、矢沢綱頼が捕らわれた事、村上義清が武田晴信に抗議したと記されていた。私は思わず震えてしまった。私の手紙を村上義清が信じた事、砥石城落城が防げた事、そして真田幸隆、矢沢綱頼が私の策で捕らわれた事に少し恐怖した。
でも、これで武田晴信の信濃平定は大幅に遅れるだろうし、今回の真田幸隆の調略の失敗は村上義清を今まで以上に警戒させるはずだ。そして私の一手が歴史を変えたのだ。ただ、これで甲斐、信濃の情勢は本来の歴史から大きく変わって行くと思う。関東ですらこんなに変わってしまったのだから。
「百地、これで信濃の情勢は膠着すると思う。武田晴信の足を止める事に成功したよ。これも百地のおかげだよ、ありがとう!」
「何を申されるので御座いますか、御屋形様の謀略、真に見事で御座います。この遠方に居りながら他国の情勢を操るなど聞いた事が御座いませぬ。この百地丹波、真に感服致しました」
歴史の知識を使ったズルだけど、ここは素直に聞いておこう。
「後の問題は北条家なんだよね。色々考えてみたのだけど、北条家って弱点が見当たらないんだよ。里見殿の策が正しいのかも知れないね。正木殿はどうしてるのだろうね?」
「大国のうえに氏康公は戦上手と聞いて居ります。更に民から慕われ善政を敷いていると聞いて居ります。君主として正しいお方ゆえ、隙も少ないので御座いましょう」
「氏康殿は真の名君だからね。侵略さえなければ同盟して共に繁栄する道もあるのだろうけど残念だよ。でも、正木殿の包囲網で武蔵を獲ったとしても維持出来るのかな?氏康殿は奇策も多いから心配だね?まだ獲ってないけど?」
「武蔵を獲れば氏康公の勢力が減じまする。そうなりますと武田家と結び、武蔵を狙うやも知れませぬな。戦上手の氏康公と晴信公が攻めて来ますれば防ぐ術がないのでは御座いませんか?」
「百地、なんだか軍師みたいだね?それが最悪の状況だと私も思う。里見家がどれだけ動くか判らないし、上杉憲政様が援軍してくれるかも判らない。元々は扇谷上杉家と山内上杉家は争っていたしね」
私と百地が話をしていると桔梗がやって来て鷹丸から火急の知らせがあると伝えに来た。それを聞いた私と百地は顔を見合わせた。私は桔梗に鷹丸を私室に通すように伝えると百地を引き連れて急いで部屋に戻った。私達の様子に政貞は私に問い掛けた。
「御屋形様、どうされたので御座いますか?」
「鷹丸から火急の知らせがあるそうだよ?」
私が自分の席に座ると鷹丸がやって来た。彼は緊張した面持ちで私に平伏すると口を開いた。
「申し上げます!結城政勝、兵を挙げまして御座います、小山家、宇都宮家と共に小田家を討つと吹聴して居ります」
「鷹丸、常南と行方はどうか?」
百地が厳しい声で鷹丸に尋ねた。
「報せを待って居ります、先ずは御一報で御座います」
「百地、久幹に四番で連絡を」
「四番で御座いますか、畏まりました。御屋形様、某、情報を纏めて参ります。これにて御免。鷹丸、続け!」
そう言うと百地は鷹丸を引き連れて部屋から出て行った。百地の懸念は常南と行方の動きだと思う。
「政貞、陣触れを」
「はっ!」
「御屋形様、桔梗も鉄砲衆を連れて参ります。御側を離れる事をお許しください」
「うん、桔梗の鉄砲衆は直ぐに集まるから慌てなくていいよ?ゆっくりと支度して来るといいよ」
私がそういうと桔梗はクスリと笑った。私に平伏してから桔梗も部屋から出て行った。それにしても結城政勝はしつこい。父上のライバルなのは知っているけどいい迷惑だよ。私が次郎丸に寄りかかっているとドカドカと足音を響かせて勝貞と政貞がやって来た。勝貞は部屋に入るなり口を開いた。
「御屋形様、結城が兵を挙げたとか?小山と宇都宮も合力していると聞き及びました。陣触れも四番と聞いて居ります」
そう言いながら勝貞は腰を下ろした。政貞も隣に座る。
「結城政勝が小山家と宇都宮家と共に小田家を討つと吹聴しているそうだよ?」
「ふむ、正気の沙汰とは思えませぬ。未だに我らを侮っている様で御座いますな。懲りない御人で御座います」
勝貞がそう言うと政貞が続いた。
「あまりに見え透いていて却って困惑致しますな、兵はいかほどになりましようか?」
「六千がいい所じゃないかな?多賀谷も入れてだけど?宇都宮は領土は広いけど十万石位だったよね?」
私がそう言うと政貞が答えた。
「左様で御座いますな。結城の目で考えますと我らの兵が四千、常陸中部の兵が二千と見積もれば六千。常南の衆と行方の衆、鹿島の衆が我らを攻め、兵を分けて守ると考えますれば結城に当たる兵は三千という所で御座いますか。しかし解せませぬ、我らの領の繁栄は耳に致しているはずで御座いますし、隣国で御座いますから解りそうなもので御座いますが」
「百地の事知らないんじゃないかな?百地が来る前の小田家なら包囲を敷かれている事に気が付けないから。二十万石を外から見たら動員兵力は五千がいいところだよね?今の小田家の石高が二十五万あるなんて知らないだろうし?だけど、以前の小田家なら包囲してすり潰すと考えれば結城の考えは正しいのかもね?此度は百地が大変だよ、情報が同時に来る訳ではないからね」
「左様で御座いますな。して、此度は如何致しますか?」
政貞の問いに私は答えた。
「結城は以前見逃したけど、此度は許さない。水谷に多賀谷、常南と行方、鹿島もね、全部獲るよ。それと良い機会だから義昭殿にお返しがしたいかな」
「どういう事で御座いますか?」
「義昭殿に下野を獲って貰おうと思う。私達が常陸中部を獲ってしまったからお返しがしたい」
私がそう言うと勝貞と政貞が笑った。そして勝貞が口を開いた。
「左様で御座いますか、お返しで御座いますか」
「百地の情報が纏まったら私が義昭殿に書状を書くよ、情報が遅れるのは鹿島だろうから時間があるね。政貞どうする?今日は当たりの日だし、飛ばせばお蕎麦間に合うよ?」
「残念では御座いますが、食している内に真壁殿が到着いたします。御屋形様もお諦め下さい」
「久幹、嬉々として来るんだろうな。それにしても戦後の統治を考えると頭が痛いよ」
私達が雑談しているとドカドカと足音が響いて来た。そして赤松と飯塚が部屋に入って来たのだけどとても嬉しそうな顔をしていた。




