第八十話 槍大膳の来訪 その2
正木時茂は内心で舌を巻いていた。若い当主、しかも女子と聞いていたから説得は容易いと考えていた。だが、いざ交渉を進めてみると氏治は頷かなかった。それどころか蘇秦を引き合いに出し、さらに失敗するのではないかと時茂に問うたのだ。
更に氏康の連衡策を指摘されたのには驚いた。理路整然としたその説明にもである。この若さでこれ程兵書に精通している人物を時茂は知らない。だが、氏治の言う事は尤もである。
そして今川家の参戦が無ければ参加しないとも言う。参加しないとは言っていない、条件を付きつけられたのである。全く参加しないと言うのなら関東管領に背くつもりかと説得することが出来るし、遠回しに北条方と見做されると脅すことも出来る。だが、条件が合えば参加すると言っているのである。
そして口から出る言葉は一々尤もすぎて時茂は碌に口を開けないでいるのだ。歳は十七と聞いている。自分が十七の時はどうしていたであろうか?
結局、氏治の要求通り、『武蔵を取り返すまでは今川が軍を引かない』という条件を飲むしかなかった。だが、これも主である『里見義堯』の為である。
小田家に来るまでに土岐家、相馬家、豊島家、大掾家から民を返すように仲裁を依頼された。時茂はその様な無法を小田家が致すのかと内心腹を立てていたが、氏治から出た言葉はまるで違うものであった。一々尤もであり、更に好きに調べても良いとまで言い切った。真なのだろう、真であれば紛れもない仁君である。
「小田様、某が聞いた話とまるで違う様で御座います。それに小田様がそこまで仰られるのであればこの正木大膳、信じまする。小田様を調べる事など以ての外で御座います」
時茂はそう言いながら土岐家、相馬家、豊島家、大掾家に腹を立てていた。武士にあるまじき行いである。槍大膳と呼ばれ多少の自負はある、その自分を謀ったのも許しがたい。
「正木殿は信じて頂けるのですか?私が嘘を付いているとお考えにならないのでしょうか?」
「信じます、小田様は仁君であらせられる。この正木大膳、つまらなき者に謀られ、小田様にご迷惑をお掛けした己に腹が立って居ります。どうぞお許しください」
「では、腹立ちついでに、そろそろ腹を割ってお話しませんか?」
「は?」
時茂は氏治の意図を図りかねた。そして同時に思った、まさか見破られているのか?対して氏治は怒っていた。表面上はお淑やかにニコニコしているが、土岐家、相馬家、豊島家、大掾家のやりようが着火点となり、里見家の策謀にまでその火は及んだのである。氏治としては北条を弱らすのは大賛成である。時茂が里見家の利益の為だけに動いている事も知っている。だが、自分はその策略に巻き込まれている立場である。里見家にいいようにされては堪らない。そう考えるようになったのだ。
「此度の戦の要請、里見家の都合なのでは無いのですか?私が義堯殿の立場であれば、連合軍が武蔵で戦っている隙に上総を獲りますね。余裕があれば下総を獲り、関東の中央に出られるよう拠点を築きます。今の里見家の最大の問題は援軍を得られない事だと見ています。中央に出られれば援軍を得られますし、北条との戦も楽になるでしょう」
氏治は一拍置くと再び口を開いた。
「逆に中央に出られなければ里見家は北条にすり潰される事になるでしょう。北条家は百万石の大名、対して里見家は三十万石、これでは戦になりません。ですが、義堯殿は北条家と互角に戦っておられます。これは真に凄い事なのです。義堯殿は四万五千石の僅かな領土から三十万石の大名になられたお方です。これがいかに凄まじい功績であるかは正木殿が一番よく知る事だとは思います。里見家のお立場も解ります。天下の槍大膳が自らの誇りを捨ててまでお家に尽くしているのも解ります。ですが、私も大名であり、大切な家臣と領民を抱えているのです。それは里見家と何ら変わる所ではありません。我が小田家のみならず周辺諸国が里見家の為に兵を出すのが此度の目的なのではないのですか?戦が終わってみれば、かつての国府台の戦の後のように里見家だけが領土を増やしていたとなるのではないのですか?」
氏治の語る言葉に正木時茂は驚愕していた。正に氏治の言う通りである。他国の援軍を望めない里見家はいずれ北条家に屈する事になる。国力が話にならないほどの開きがあるのだ。だから主君である義堯と策を練り、北条を攻めさせるべく連合軍を立ち上げる事を諸国に触れて回っているのである。上総の平定と下総の確保も氏治の指摘する通りである。そしてそれがこのような若き娘に看破されたのである。
さらに氏治は義堯の実績まで語るのである。安房からは遠くにあるこの常陸の地で何故それほど詳しく里見家の事を知っているのか?ぐうの音も出ない。全て氏治の言う通りなのだから。時茂が黙っていると氏治は口を開いた。
「正木殿、私は義堯殿や正木殿を責めている訳では無いのです。武家はお家が大事、私も義堯殿のお立場なら同じ事をしようとしたかも知れません。将が軍略を致すのは当たり前の事です。ですが、人を動かすには策だけでは足りません」
策では足りない?一体何を言っているのだろうか?時茂は思わず口を開いた。
「何が足りないので御座いましょうか?」
「それは信です。真とも言いますね。それが無ければ人は動きません、正木殿に信はありましょうや?」
氏治の問いに時茂は直ぐに答える事が出来なかった。ここで否定することは出来る。だが、ここまで見事に看破され、さらに信を問われてそれを謀っては今更ではあるが武士の面目が立たない。認めるしか無い。ここで言い逃れなどをしたら自分が自分を許せない。土岐家、相馬家、豊島家、大掾家に腹を立てたが、一番卑怯なのは自分ではないか。それに里見家の策であると吹聴でもされれば諸国から信用を失い、今後の手立てが完全に潰えてしまう。義堯に合わせる顔が無いが、策を看破されたと申し上げよう。この場で斬られなければであるが。そう決めると時茂は口を開いた。
「御座いません。全て小田様の仰る通りで御座います」
「何と!」
時茂の言葉に黙って聞いていた勝貞が口を開いた。
「正木殿は真に我らを謀ったと申すのか?」
「その通りで御座います。この正木大膳、小田様に策を見破られ、そして小田様のお心に触れ目が覚め申した。言い逃れる事も考えました。ですが、それを致せば真の卑怯者になります。ですが、真に厚かましいお願いでは御座いますが、この件は小田様の胸の内にお納めください。この話が広まりますれば里見は滅ぶしか御座いません。そしてどうかこの首一つでお納め下さいますようお願い申し上げます」
そう言って時茂は平伏した。後悔はない、ここまで見事に看破され寧ろ清々しい。義堯様も事の顛末をお聞きすれば納得して下さるだろう。自分の首を獲るのがこのお方で良かった、あの世で自慢が出来る。
「正木殿、正木殿の仰る通りに致します。ですが、首を頂く訳には参りません。貴方がいなくなったら義堯殿は一体誰を頼ると言うのですか?私は今、正木殿から信を頂きました。私は今後、正木殿の言葉を一切疑いません、お約束申し上げます」
「何と!」
時茂は思わず頭を上げた。
「某を許すと仰るので御座いますか!」
「許すも何も、私は怒っては居りません。そのような女子に見えるのでしょうか?とても心外です。それと謀略のご使者がそのような真っ直ぐな心根ではいけませんよ?ですが、そんな正木殿を私は尊敬致します」
嘘である。正木時茂が首を差し出すと聞くと、氏治は正気に戻ったのである。
♢ ♢ ♢
土岐家、相馬家、豊島家、大掾家の言い方にカチンと来て、里見家に八つ当たりしてしまった。それも憶測で色々言ってしまったけど、当たっていて本当に良かった。間違っていたら自殺ものである。それに正木時茂も首を差し出すとか言い始めるから本当に焦った。取り繕うのが大変である。
この時代の武士は直ぐに命を差し出してしまうから本当に恐ろしい。とりあえず穏便な方向に持って行こう。でも、里見の言いなりにはならないよ?
「小田様、某はどう致せば宜しいので御座いましようか?某は小田様を謀りました、その上でご慈悲を掛けられると言われるので御座いますか?」
さすが正木時茂である。これが真の武士なんだろうな、普通なら策を見破られたら必死で言い逃れをしようとするのに、この人は簡単に認めてしまった。そういう性分の人なのだろう、だから天下に鳴り響くんだと思う。器が違うよ。でもうちの勝貞には負けるけど。とりあえず正木時茂が死なないようにしないと。
「正木殿は勘違いをしています。我ら坂東の武士は皆里見家に助けられているのです」
私がそう言うと時茂は首を捻った。
「どういう事で御座いましょうか?まるで話が見えませぬ」
「義堯殿が不利な状況にも関わらず北条家と戦って居られるから私達坂東の武家はこのように暮らして行けるのです。義堯殿がいなければ北条は坂東へ本腰を入れて侵攻していると考えられませんか?」
「確かに、、、。そのようにお考え下さるとは」
「なので、私は義堯殿の策を評価しているのです。北条から武蔵を取り上げればより多くの人々が助かるのです。だから策は続けるべきだと私は考えます。尤も、武蔵を獲るまで今川家が参戦するという条件は変わりませんが」
「小田様、謀と知って尚、某共に合力なさると仰せになるので御座いますか?」
「そうですね。重ねてお伺いしますが今川家を動かせますか?」
「この正木大膳、必ずや今川家を動かして御覧に入れまする。某、小田様に御慈悲を頂きました。約束を違える事が御座いますれば腹を斬りまする」
そう言って正木時茂は平伏した。ちょ、やめて!なんでそんなに死にたがるんだよ!私は死ぬなと言っているんだよ!北条と今川は絶対和睦するよ?それに簡単に策略を認めちゃうし、君、使者に向いてないよ?何とかしないと私のせいで英雄が死んでしまう!
「正木殿、今川を動かすのはただでさえ難しい仕事です。私は勝算は三割程だと見ています。仮に今川殿が動かなくても腹を召される必要はありません。その時は私に相談されれば良いのです。お約束頂けますか?」
「またもや御慈悲を、、、。承知致しました、小田様の御恩情に御すがり致します」
全く、油断も隙もあったものじゃない。あまり私をビビらせないで欲しい。武士って目を離すと直ぐに死んじゃう生き物に思えてしまうよ。いっそ私の家臣になればいいと思う。
「勝貞、政貞、百地」
「はっ」
「はっ」
「はっ」
「お前達もこの件は内密にするように。漏れる事があっては私は正木殿に合わせる顔が無くなります。ただ、久幹には連合致す事は話しましょう。それならば問題は無いはずですから。良いですね?」
「承知致しました。我らは御屋形様のお心のままに従いまする」
私は正木時茂が去って行くとパタリと倒れた。なんだかすごい疲れたよ。そうしていると勝貞と政貞と百地が私の前に座った。
「御屋形様、この勝貞、腰を抜かしましたぞ。良く見抜かれたものです。それにしても、あの槍大膳が我らを謀ろうとは」
私は寝転びながら口を開いた。
「発起人が里見家だからね。上杉朝定様かその家臣が言うのなら解るけど、里見家が上杉朝定様の為に必死になる理由が無いからだよ。どちらにしても関東管領が動くなら私達は協力するしか無いのだけどね。条件を付ける事が出来てホッとしているよ、尤も、里見家が保証出来る事でも無いのだから今川が来ても直ぐに帰っちゃうかもね」
私は身体を起こすと座り直した。
「正木殿の行いは里見家への忠義だよ。あれ程名声のある方がそれをしたのだから里見家は本当に苦しいのだと思う。正木殿は真の忠臣だよ、私の勝貞には負けるけどね」
私がそう言い、皆で笑った。
「御屋形様、そうなりますと戦の支度を致さねばなりませんな」
政貞がそう言って腕を組む。
「慌てなくても大丈夫だよ。今川は信秀殿と争っているし、そう簡単には口説けないと思うよ?少なくとも私は口説く自信が無いかな。正木殿が今川を動かすと言った時は驚いたけどね。今川を動かすには信秀殿を止めて、その上で今川に利を提供しないといけないのだけど肝心の利が無いんだよ。仮に武蔵を上杉朝定様が獲ったとしても次は相模を取り返すってなるでしょ?元々は上杉家の領土だし?土地を得られない今川を動かすには、義元殿の虚栄心をくすぐるか、関東管領として協力を要請するかだけど、あそこには太原雪斎がいるんだよね?絶対見抜かれると思う」
「我らには利の無い戦。土地のひとつも獲りたいところで御座いますが、そうも行かぬので御座いましょうな」
「勝貞は随分欲張りになったよね?久幹に乗せられてはいけないよ?」
「御屋形様、某は乗せられては居りませんぞ?久幹殿に賛同致して居るので御座います。力無くして平穏も、そして御屋形様の御身をお守りする事も叶いませぬ」
勝貞がそう言うと政貞が続いた。
「左様で御座います、現に常陸中部を獲り、国衆を被官させたから今の平穏があるので御座います。他国を攻めよとは申しませぬが、今少し欲を張っては如何かと存じます。それにしても民を返せとは常南の衆も行方の衆も許せませんな」
「私もそうだよ、赤松と飯塚の苦労を知っているからね。百地、念の為に監視を強めて欲しい、まさかとは思うけど結城に唆されて皆で攻めて来たら困るし」
「承知致しました。良く見張るように申し伝えます。結城と水谷も同様でよう御座いますか?」
「うん、今は静かにしているけど結城から見たら小田家は二十万石、諸国と手を合わせれば勝てると考えてもおかしくないと思う。小田家の実高なんて知らないだろうし、兵が増えている事も。ただ軍議はしないといけないね?周辺国全てが攻めて来るなんて予想していなかったし?予想は三番までだったよね?」
私がそう言うと政貞が口を開いた。
「左様で御座いますな、当家は随分と恨まれている様で御座います。尤も、逆恨みでは御座いますが。無いとは考えますが備えは致さねばなりませぬ。さっそく皆に報せ、軍議を致す日を決めねばなりませぬ」
「お願いね、仮に戦があったとしても策を練っておけば慌てなくて済むからね」
氏治主従がそう話している頃、正木時茂は足早に土浦に向かっていた。氏治に策を見破られあっさりと認めてしまった自分が可笑しかった。だが、今はそれが誇らしく思う。先ずは土岐家、相馬家、豊島家、大掾家を訪ね、問い質さなければならない。どの口が言うのかと自分でも思うが、これだけはやらないと国に帰ることが出来ない。そして義堯様に全てを話し、策を練り直すのだ。
後に今川家を訪ねた正木時茂は、今川義元から織田との和睦を条件に参加すると告げられ、仕方なしに織田信秀を訪ねる事になる。全く聞く耳を持たない信秀であったが、再度訪れると態度を豹変させるのは後の話である。




