第七十八話 氏治の謀略
天文十九年(一五五〇年)十月。私と勝貞、政貞は百地から甲斐潜入組の報告を受けていた。報告書を読んでいると、その中に武田家が砥石城を攻めて大敗したと記されていた。世に言う砥石崩れである。
五百の兵で砥石城を守る村上家に対し武田晴信は七千の兵で攻めたのだけど、天然の要害である砥石城を攻め落とす事が出来なかった。そして信玄は撤退を決めたけど、そこへ高梨家と戦っていた村上義清が戻って来て、撤退する武田軍を追い討ちしたのである。この時に武田家の有力武将の横田高松が戦死している。百地の報告書にもそう書いてあった。
関東の情勢は私の存在で歴史が変わってしまったけど、甲斐や信濃の報告を見るとこちらは私の知る歴史通りに進んでいるようである。このまま行くと史実通りに来年は真田幸隆の調略により砥石城は落城する筈である。そして二年後に村上義清は葛尾城を放棄して越後国の長尾景虎の元へ亡命するのである。
村上義清は武田晴信を二度も撃退した猛将だ。ほぼ負け知らずの晴信に土を付けた数少ない武将である。私は戦史を読んでいて思った事がある。それは武田晴信って村上義清と相性悪いんじゃない?という理屈も何もない素朴な感想だ。人間ってそういうものだから案外当たっているかもしれない。それともう一つ気になる事がある。それは晴信が村上義清が迫って来ている事に気付いていない事である。
砥石城の城攻めは一か月近く行っている。その間、村上義清は高梨勢と戦っていたけど和睦して戻って来たのである。晴信はそれに気が付かなかったようなのである。私はもちろん現代の歴史家や同胞である歴オタも晴信なら情報収集して当たり前だと思っていると思う。だけど現実はこのように不意を突かれて敗退しているのである。
もしかして私達が考えているほど緻密な情報収集は行っていない可能性がある。私達現代人にとっては情報収集は常識であり大前提である。この時代でも情報は大切だけど、少なくとも勝貞達の様子を見るにかなり大雑把である。他国の乱破の使い方を見ると限定的だし、とは言っても北条氏康のように何年も長尾家に乱破を仕込む人もいる。正直判断に困るけど、少なくとも戦場での情報収集は物見や拠点からの報告くらいなのではないのだろうか?
だとしたらこんな事が出来るかもしれない。一日くらいの距離に部隊を幾つか分散させて隠して、晴信と対陣したら分散した部隊に晴信に対して攻撃指示を与える。本隊は馬防柵や塹壕で陣地を固め時間を稼ぐ。分散した部隊が晴信の備えに攻撃を開始したらそれは予期せぬ奇襲になるので本体は総攻めを仕掛ける。移動し続ける別動隊を捕捉するのは大変だし、案外行けるかもしれない。私が考え込んでいると百地が私に声を掛けた。
「御屋形様、何か御座いましたか?」
「百地、私の忍びの使い方って他国と比べると違いはどのくらいあるの?」
「そうで御座いますな。まず、使い続ける所が違いますな。他国では一つの目的に対して間者働きを指示してそれで終いで御座います。我等も仕事としてそれを受けるので御座いますが、依頼毎に報酬を受け取るので一度の仕事の期間は短い事が多いですな。偶に長期の潜入の依頼が御座いますが、大概は途中で取り止めになる事が多く御座います。大半の理由は支払う銭に割が合わないと言ったところでしょうか。我等にとっては長期の仕事は割が良い故、反対に依頼主は割が悪いので御座いましよう」
「戦場では撹乱が主な仕事だと聞いたけど、物見とかはしないの?」
「我等は相応の銭を受け取るので、戦場ばかりで御座いました。物見に使うのは透波共で御座いますが、技も何も無い素人同然の者共で御座います。お役目という意識も無いので随分といい加減な仕事を致しますな」
百地は一拍置くと再び口を開いた。
「御屋形様の要求には正直面食らう事が多々御座いました。他国の領主では気にしないような些細な出来事や、噂話、米や食料の値の調べや産物の調べなどで御座います。御屋形様から『情報』と『情報操作』をご指南頂きましたが、これにも驚いたもので御座います。」
「ふむ、成る程」
情報の扱いと言っても色々あると思うんだけど、私自身が素人だから使いこなせていない気がする。情報操作は佐竹領で試したけど、他領で通じるとは思えない。たぶん佐竹領の成果は偶々だ。情報操作も文字だけ見ると簡単そうに見えるんだけど、何をどうするかちゃんと決めないと意味が無いし、使うなら相手にダメージを与えるか自分が利益を得なければならない。情報の使い道、、、。
「あっ!」
情報の使い方がある!何も敵国だけを対象にする必要は無いんだ!敵国の敵対国に情報をリークするのも立派な情報操作になる。私の歴史の知識を使う事だって可能である。
このまま行くと晴信は村上義清を信濃から追い出す事になる。そのキーマンは真田幸隆である。彼が調略を駆使して砥石城を落とすんだけど、私はそのやり口を知っている。だから村上義清にリークしたらどうだろうか?
匿名の手紙を送って注意を促すのだ。一通だと心配だから何通も送れば警戒くらいするのではないのだろうか?砥石城が落ちなければ晴信の侵略も足止めを食らう筈だ。そうなれば将来的に信長も楽になるだろうし私も晴信が関東に来る懸念を持っているので私も安心だ。
砥石城は来年の四月に落城する筈だ。今は十月だからあまり時間が無い。真田幸隆はもう動き始めているかも知れない。そうと決まれば手紙を送ろう。巧くいけば儲けものである。
「御屋形様、何という悪いお顔をなさるので御座いますか、女子にあるまじきお顔で御座いますぞ?感心致しません、悪巧みで御座いますか?」
政貞が困ったような顔で私に言った。えっ?そんな筈はない、私は清らかな乙女の筈?
「私は生まれてから一度も悪い事などした事はありません、悪事など以ての外です」
私がそう言うと勝貞が報告書に目を通しながら口を開いた。
「佐竹家が滅亡しそうになって居りましたな。御屋形様の悪巧みは想像を超えますので、この勝貞も少々心配で御座います」
私は勝貞達の苦言をスルーして私室に戻り、手紙を書き始めた。内容は大雑把に言うと、武田家の真田幸隆が砥石城を攻略する為に真田の一族である矢沢氏や村上家家臣に調略を仕掛けるという内容である。そしてついでに戦略上のアドバイスも書いておく。武田家は信濃の豪族の族滅を狙っている。これに対抗するには越後の長尾景虎を頼るべし。
私は内容を何度か確認してから同じ文面の手紙を三通作り、桔梗に百地を呼んでもらい、桔梗には席を外してもらった。この時代は指紋を調べられる心配が無いので安心である。
「百地、この手紙を信濃の村上義清殿に届けて欲しい。この手紙には差出人を記していないのだけど、私が送った事がバレないように村上義清殿の手に渡るようにして欲しいんだ。勿論、百地もバレてはダメだよ」
「承知致しました。差し支えなければお考えをお聞かせ願えますか?」
「他言無用ね、武田家の砥石城攻略を防ぐ策が書いてあるんだよ。武田に大きくなられると困るから成功させたい。尤も、村上義清殿が信じないと意味が無いのだけどね」
「武田家への妨害工作で御座いますな?承知致しました」
これが巧く行けば砥石城の落城を防ぐ事が出来るし、村上家と小笠原家の滅亡を回避出来るかもしれないし、長尾景虎を信濃に呼び込めるかもしれない。長尾景虎は正義マンだから期待が持てるのである。そして私は続けて百地に聞いた。
「それと、武田領の米の買い付けはどう?」
私がそう聞くと百地はニヤリと笑った。
「順調で御座います。大小の商人に依頼し、甲斐の米を買い付けて御座います。米は船で我が城の米倉に保管して御座います。御言い付け通り、米の値が上がりましたら捌く手筈を整えて居ります」
私と百地は勝貞や政貞、久幹に内緒で武田家への工作をしている。経済にダメージを与える工作が主である。特に甲斐は米があまり取れないので買い集めるのも楽だし、買い占めれば武田領全体の米の保有量が減るので米の値が上がるのである。米の値が上がれば武田家が戦に使う米を調達する時に余計に銭を使う事になるから武田家の軍費にダメージを与えられるのだ。
私と百地は米の値が下がる秋の収穫を狙って動いたのである。大小の商人を使い甲斐の国の各地から米を買い付ける。百地の配下が商人に扮して百姓から直接買い付ける。武家に手を出してバレると困るので武家からは買い付けていないけど、大量の米を買い付けるのに成功したのだ。
私は基本的には民に迷惑が掛かる策は用いない。だけど、武田家だけは別である、晴信が怖過ぎるのだ。北条氏康ですら晴信との直接対決は避けているのである。鉄砲を用意したし早合も用意したから初見なら勝てるかもしれない。でも武田晴信は紛れもない用兵の天才だ。そんな彼に武力で勝つ事を考えるのは現時点では無謀だと思う。
なので私でも勝てそうな経済戦を実験がてら晴信に仕掛けているのだ。用兵では勝てなくても経済戦なら勝てる可能性があるからね。
「甲斐で米が高騰するなら甲斐で捌いてもいいね、私達は儲かるし武田家は銭を失うし」
「そうで御座いますな、量が量で御座いますので差額での儲けが多く御座います。儲けた銭で更に米を買い、値が上がったところでまた売るので御座いますね?」
「うん、差額で儲けた銭は豆や小麦を買い占めて他領で売る。これは儲けが無くてもいいからね。大切なのは武田家から物資と銭を奪う事だからね」
「承知して居ります。しかし、このような戦の仕方があるとは面白いもので御座いますな」
「武田家の弱点は土地が貧しい事だからね。宗久殿に頼んだ商家の拠点が出来ればもっと楽にやれるよ。勿論、規模もね。甲斐で買い集めた物資を各地で捌くんだよ、百地には相場も調べて貰っているけど各地に商家を持てば相場も共有出来るし、海で繋がっているから船で楽に運ぶことが出来る。私達は商人と違って儲けはいらないから捌ければそれでいいんだよ。多少の損が出ても問題ないよ。それに本番はこれからだよ」
「考えとしては甲斐の物資を買い占め、国外に出すで宜しいので御座いますか?」
「うん、甲斐で品不足を常態化させるのが目標かな。今は米や穀物を狙っているけど、拠点が出来れば馬の飼料でも木綿でも、戦に必要な物資は全て買い付けられると最上かな?米の買い占めで今は試しをしているけど、これだけでも効果がありそうなんだよね。ただ、対策を取られる可能性もあるんだよ。国外の商人に買い付けさせないとかね、でもそれをすると物資の流れが止まるから出来ないかな?国内で完結出来ない武田家では無理な気がする。駿河に拠点を置くから今川との関係を考えると、、、。ハイパーインフレって何処までやればいいんだろう?」
私が頭を捻っていると百地が笑いながら言った。
「武田が気の毒になって参りました。御屋形様の戦は姿が見えぬので戦のやりようが御座いません」
「これからの戦は銭でする事になると思うよ?銭があれば兵糧が買える、銭があれば武具が買える、銭があれば鉄砲や玉薬が買える、銭があれば人が雇えるってね。今は小田家では銭で兵を雇わないけど、いざとなれば千でも五千でも兵を雇えるようにしないとね。その為にはもっと領を豊かにして商売を奨励して人を集めて人口を増したい」
「土浦で商家をせよと命じられた時は冷や汗をかき申したが、こうして動いてみますと面白うなって参りました」
「太平の世が来たら百地の家は大儲けしていそうだね。忍びの技に商いの技が加わるのだから。そういえば人集めは順調なの?」
「伊賀の忍びは粗方集め終わりまして御座います。今は甲賀に声を掛けて居ります。不遇な者も多いので集めるのは容易いかと。ただ、武士の身分を与えると申すと皆一様に疑いまする」
「百地もそうだったしね。技のある忍びはなるべく確保したい、私の戦は忍びが居ないとどうにもならないからお願いね」
「承知して居ります。この日ノ本で我等をお認め下さるのは御屋形様ただ一人で御座います。我等にとっては聖徳太子様と何ら変わりませぬ」
「聖徳太子様は帝の血を引くお方だよ?不敬になるから他の人に言ってはダメだよ?」
「心得て御座います」
そう言って百地は私に平伏した。私が謀略を実行出来るのは全て百地のお陰なのに、こんな私を大切に思ってくれる。本当にありがたいと思う。




