第六十八話 愛洲宗通 その1
我が名は愛洲宗通、父である愛洲移香斎より剣を学び、陰之流の手ほどきを受けたものの修業の途中で父が逝去され、中途半端で放り出された形になった哀れな剣士である。
だが儂に父上を恨む気持ちなどは無い。父上の愛情豊かに育った儂が父上を恨むなど有り得ないのだ。だが、このままでは中途半端過ぎて仕官もままならないし、父上の名声に釣られた武芸者共が儂の命を狙って来るだろう。
正直、この界隈では父上の名が売れ過ぎていて儂は困っている。剣豪として名高い父の名声を当て込んであちこちから武芸者がやって来ては教えを乞い、そして父上も父上で、お人好しだから気前良く弟子にしたり教えを授けてしまう。そして死合を申し込む連中も同様である。そして父上はとても強かった、正に無敵である。
そんな父上が亡くなったので、武芸者共の矛先は儂に集中する事になるだろう。連中は儂が陰之流の皆伝を授かっていると誤解しているだろうし、父上の代わりに儂を倒せば名声が上がると思っている筈である。その場合、儂が死ぬ事になるのだけど、、、。
正直に言うと武芸者など荒くれの野武士共と大して変わらぬ連中だし、あいつら強面が多いから顔も見たくないし、相手をしたくないし、話もしたくない。臭いし、、、。
そのような危険な手合いの相手などしたくないので儂はさっさと旅に出る事にした。父上を弔った儂は剣の修業をしつつ日向国へ向かう事にした。
父である愛洲移香斎は日向国の鵜戸の岩屋に籠もる事三十八日、満願の日に神が猿の形で現れ、奥義と秘伝書を一巻授かったという。誇らしそうに語る父上の姿は今でもこの眼に焼き付いている。
それに倣って儂も奥義を習得しようというのがこの旅の狙いだ。武芸者共から逃げ回るのも限度があると思うし、儂も剣豪だと思われているから力を付けないと格好が付かない。何より、強くならないと殺されるのである。儂はまだ死にたくない。
ただ気になる事もある。以前、父上に秘伝書を見せて貰った事があるけど、どう見ても父上の筆跡だった。猿の神が記した割には馴染みのある文字だったけど、尊敬する父上にそのような指摘をする事は儂にはとても出来なかった。それに大体何故、神が猿の形しているのか全く理解が出来なかった。猿は猿だと儂は思う。
尊敬する父上だけど、この件に関しては眉唾だと思っている。だが、奥義は本物である。父上の秘剣、猿飛の剣はまるで煌めくような速さの神速の剣である。儂も近くで何度も見た事があるけど、とても真似を出来る技ではないと思っている。
でも、父上は儂には才能があると言ってくれたし、武者修行をしつつ父上と同じように鵜戸の岩屋に籠もれば奥義を授かるかも知れない。儂の命を狙う武芸者共から身を隠すことも出来るし一石二鳥の名案だと思う。
まさか連中も儂が日向に向かうとは思わないだろうし、行方を眩ませば諦めてくれるかもしれない。だけど、彼奴らしつこいから何処までも追って来そうな気もする。他にやる事があるだろうと一刻程説教してやりたい。
こうして儂の長い旅が始まったのだ。
なるべく清潔な旅籠を選んで泊まり、観光や食事を楽しみながら旅をしていたが、道半ばで路銀が尽きる事になってしまった。無計画に銭を使い過ぎてしまった儂は途方に暮れる事になった。
思えば道場から一歩も外に出た事が無かったから儂はこの歳でも意外に世間知らずなのである。父上が存命の頃から外は危険が一杯であった。父上に敵わない武芸者共が嫡男である儂を討ち取ろうと企む事もしばしばだったのである。
そのような訳で儂は道場に引き籠もって居た訳だが、儂は外よりも家の中で過ごす方が好きな質だし、父上と剣の修業をしながら趣味の彫刻をして過ごす毎日は幸せだったので特に不満などは無かったのである。
儂の部屋には人や動物などの小さな木像が並べられている。全て儂の作品である。儂はこういうチマチマした作業が好きで、時間が空けば木像を制作していた。そして絵も得意である。なのだが、儂は美人画が得意なので描いた作品は人目に触れないように隠している。
剣豪の嫡男が美人画を描いているなどと知られれば笑われるに決まっているし、父上や母上にも絶対秘密であった。だがある日、儂が描いた美人画を自ら鑑賞した後、隠し忘れた事があった。儂はそれを思い出し、慌てて部屋に戻ると儂の文机の上に丁寧に置かれた美人画と相対する事になった。多分、母上の仕業である。
儂は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、母上は見て見ぬ振りをしてくれたようだった。ただ、父上に相談したらしく、父上は物凄い遠回しに絵は鷹や獅子が良いなどの話題を儂に振り、美人画を描く事を嗜められた事があった。父上の気遣いに感謝しつつも、暫くは気まずい空気になったものである。
そのような経緯もあって、儂はあまり世間を知らないのだった。それに一人で歩く世間は儂には眩しく見えて、つい浮かれてしまったのは仕方のない事だと思う。そのような気持ちになるのは歳は関係ないと思うし、むしろ持ち続ける方が人として健全だと思う。だけど路銀を使い果たしたのは些か不用心が過ぎているとも思い、今後は気を付けようと反省した。
それからの旅は過酷を極めた。
路銀を稼がなくてはならなくなった儂は、旅籠や商家を訪ねて周り、仕事を求め歩いた。そして得た薪割りや荷担ぎの仕事をしてコツコツと路銀を稼いだのである。
仕事も初めての経験で、この事により儂は人として成長出来たと思う。薪割りは剣の修業に通じる気もしたし、荷担ぎの仕事は体力をつけられるから身体造りに良いと感じた。そして労働の後の食事の味は格別である。ただ、家に居た頃は時間になれば母上が食事を持って来てくれたので、偶にそれを思い出して切ない気持ちになる事もあった。
儂はある程度の路銀を確保すると旅に出て日向を目指した。そして懐と相談しながら旅の傍らに仕事を求め、路銀を確保し再び旅を続けるという型が出来て儂は無事に旅を続ける事が出来るようになった。全く剣の修業をしていない事が気になったけど、今は食べて行く事も大事だし目的地に着くまでは別にいいやと気にしない事にした。旅と仕事の疲れで剣どころではないのが正直な気持ちである。
儂は路銀を稼ぎつつ日向を目指して旅を続けた。だが旅には思わぬ苦難が付きもので、途中で何度か死合を申し込まれた事があった。どうも旅に出た儂を追って来たらしく、儂も路銀を確保するために寄り道をする事が多かったから容易く追い付かれたのだと思う。
連中の脂ぎった目に辟易としたけど逃げる訳にも行かず、儂は渋々死合に応じたのである。無難に勝つ事が出来てホッとしているけど、正直斬り合いなどという野蛮な行為は儂は好きではないのだ。どうして皆仲良く出来ないのかと不思議に思う。
剣の修業は全くしていなかったのでよく勝てたと自分でも思うけど、よくよく考えたら最強である父上の修業を受けた身である。父上に比べれば大した手合いでは無かったのである。
路銀を稼ぎながらの旅は儂を人間的に成長させたと思う。世の中は儂の知らなかった事が実に多く、道場に籠もっていては体験出来ないような事柄も多々あったのだ。
世を治めている武士が威張っているけど、現実は心優しい町民や百姓が一生懸命働いてくれているから儂等武士も食べて行けるし、安心して生活できるのである。路銀を調達する為に民草と交流する事が多い儂は、彼の者達の慈悲のお陰で生き延びる事が出来たのでそれを日々痛感している。
武芸者の馬鹿共もそれを知るべきである。己の力を誇示する為に他者を殺害するなど獣にも劣る行為である。戦国を言い訳にして人ならざる行為に及ぶ者も多いが、儂から言わせればただ楽をしたいだけの卑怯者である。
儂も曲がりなりにも剣の道を歩んでいるが、ただの一度も自ら望んで人を斬った事は無い。そのような事をせずとも剣を修める事は出来ると思う。
そして儂は目的地である日向の国に到着したのである。
早速、鵜戸の岩屋を訪ねて歩き、現地を確認してから食料を買い込み岩屋に籠もる事にした。でも籠もるとしても何をしたら良いのかと困惑したけど、多分瞑想だろうと当たりを付けて儂は岩屋の中で瞑想する事にした。だが、すぐに寒くなって岩屋から出る事になった。季節は五月とはいえ、岩屋の中は寒いのである。
このままでは風邪をひいてしまうし、身体にも良くないので森から草や薪を調達して暖を取れるように工夫した。そして寝床の問題にも気が付き、やはり森から寝床に使えそうな草などを調達して岩屋の中に設置した。
こうなると楽しくなってくる。儂は適当な木を切り出し拠点と決めた岩屋の床に蔓で縛り編みながら敷いて行った。そしてそこに寝床を再設置して少しでも快適になるように工夫した。岩屋は海のすぐ側なので、魚や貝を取ることが容易かった。買い込んだ食料もあるけど、父上と同じ三十八日間籠もるには少々心許ない。
なので儂は現地で手に入る食材をなるべく食するように心掛けた。暇に任せて木製の銛を削り出して魚の大物を狙ったり、蔓で編んだ罠を仕掛けたりして食材を確保した。これが結構楽しくて儂は使えそうな物を岩屋に持ち込んでは住環境を整えたり、魚介の狩を楽しんだり、時には夜の海に浮かぶ月を眺めたりと大自然を満喫した。
岩屋の中は広く、窪みのような水の溜まりがあるので儂はそこに焼いた石を投入して風呂を作り、ゆったりと湯を堪能した。こうして日々の喧騒から離れていると心が浄化されるようである。ここには武芸者の馬鹿者共も来ないし。
岩屋の壁には日数を忘れないように石で傷を付けて数えていたけど気が付けば三十九日経っていた。どうも儂はいつの間にか父上より長く岩屋に籠もっていたらしい。だけど、猿とか見掛けてないし、神とも会ってないしどうしよう?
取り敢えず日数は経過したものの猿の神が現れる気配も無かったので念の為もう一日岩屋で過ごす事にした。そして何事も無く一日が過ぎて儂は岩屋を出る事に決めた。奥義も授かっていないけど、儂は父上の猿飛の剣を何度も目撃している。練習すれば形位はどうにかなるだろうと前向きに考える事にした。
それからの儂は猿飛の剣の練習をしながら各地を旅して周った。実家に帰れば武芸者共が押し寄せて来るだろうし、帰るに帰れない現状なのである。それでも連中は鼻が利くらしく、儂は発見されては死合をする羽目になった。
此奴らは本当にしつこい。まるで猟犬のように儂を追い回してくる。そんなに死合がしたいなら武芸者共同士で共食いの如く死合って居れば良いのにと思う。わざわざ儂ばかり標的にして迷惑である。儂は連中とは違って太平を求める者なのである。斬り合うより笑い合う方が好きなのだ。
結局、剣の修業は碌に出来なかったし、父の秘剣の練習も毎日何度か真似をする程度であった。しかし、継続する事は力になるらしく父上の真似事くらいは出来るようになったと思う。
そして武芸者共の相手をしている内に儂の名が広まるようになって、途中途中で剣の師事を求められたり、武家に請われて逗留したりするようになった。
正直、儂は剣とかどうでもよくなっていたけど、これしか能が無いし路銀の足しにもなると自分の中で折り合いを付けた。そうした生活を続けていたけど、気が付けば十二年の月日が流れていた。
儂は放浪の生活に嫌気がさし、そろそろ落ち着きたいと考えるようになった。そこで父上の伝手がある常陸の佐竹家を思い出し、仕官しようと再び旅に出たのだ。猿飛の剣は形だけだけど習得したし、長い修業の成果もあって儂も父に近い速さで剣を振るえるようになっている。そしていつの間にか剣の道では名の知れた存在になっていた。
先日、死合を申し込まれたので戦ったけど、相手が真っ二つになってしまって驚いてしまった。適当に修業していただけだったのに、儂の腕は儂が考える以上に上がっていたらしい。ただ、儂は人を斬るのが好きではないので今後は手加減するつもりである。真っ二つとか気持ち悪いし、怖いから二度とやりたくない。
兎も角、平穏な生活を送る事を目標にする事にした。それに大名家に潜り込めれば死合を回避出来るという目論見もある。儂は争いが嫌いだし、年齢的にも厳しくなって来たので安心して余生を過ごせる場を求めても罰は当たらないと思う。
そのような訳で、佐竹家に仕官を求めても断られる事は無い筈である。曲がりなりにも剣豪としての名声はあるし、もしかしたら剣術指南役になれるかもしれない。儂は意気揚々と常陸に向けて歩みを進めた。
儂は常陸の小田領に足を踏み入れていた。佐竹領は北常陸なのでまだ暫く掛かりそうだが、路銀はとうに尽きていた。
旅の途中に津島の街で飲んでいたら、中々美しい女に声を掛けられた。馴れ馴れしい態度に最初は警戒したけど、様子を見ているとどうも儂に一目惚れしたらしい。そう思ったのが失敗だった。
女に勧められるままに酒を飲み儂は酔い潰れて寝てしまった。そして懐に入れてあった路銀と荷を盗まれてしまったのである。太刀を抱えて眠ったらしく、幸いにも太刀は無事であった。流石に丸腰で剣士を名乗る訳にも行かないから助かった形である。
ただ、路銀を盗まれてしまったので一文無しになってしまった。儂は仕方がないと、かつてのように薪割りや荷担ぎで路銀を調達しながら旅を続けた。一張羅であった着物も傷んでしまい、みすぼらしくなってしまったが仕方がない。佐竹家に着いたら修業しながら来たと主張しようと心に決めた。
そして腹を空かせながらもようやく佐竹領の手前である小田領に足を踏み入れた訳である。だが、もう少しだからと無理をしたのがいけなかった。腹が空き過ぎて力が入らなくなって来たし、なんだか眩暈も感じるようになった。
だが、儂はもう少しと自らを叱咤し歩き続けるのであった。




