第六十一話 信長への結婚祝い その2
那古野城では人々が忙しく動き回っていた。小田氏治から先触れの使者が来訪し、それを受けた信長の指示により徹底的な清掃をしているのである。小田氏治を歓待する為に信長は平手を奉行とし、食膳や菓子を吟味したり、小田氏治が宿泊する部屋の畳を入れ替えたり必要であれば大工も入れて整えさせた。
そしてそれは熱田に上陸するであろうことを見越して那古野城に至るまでの道にも及んだ。雑草を刈り取らせ橋には破損が無いかなどの念の入れようである。
信長の様子に家臣のほとんどが頭を捻った。彼らは他国の大名が婚姻の祝いに来ると聞いていたが、信長の対応はまるで朝廷からの使者でも迎えるような印象を持たせた。家臣の中で小田氏治を知るのは前田利家と佐々成政くらいのものである。前田利家は小田氏治の来訪を歓喜し、佐々成政は複雑な心境でこれを聞いた。
特に前田利家は楽しみでならないと佐々成政に語り、それを一方的に聞かされる佐々成政は苦笑いするのであった。
前田利家は小田氏治との邂逅の後、まるで人が変わったように穏やかな人物になっていた。傾奇者を装う信長の傍らに居ながらも粗暴な振舞いを一切しなくなった。そして信長が傾奇者の真似事を止めると更に顕著になった。
彼の耳には未だに小田氏治の言葉が聞こえていた。
『犬千代殿、私は弱い者いじめをする者が嫌いなのです。貴方が良き人になるならお相手しましょう』
前田利家は小田氏治に認めて貰いたかった。小田氏治が尾張から去った後、利家は己の行動を省みた。確かに小田氏治の言う通りだ。自分は乱暴なだけで弱い者いじめをしていたに過ぎない。他者から指摘されたその事に利家は心から恥じ入った。
若さとは暴力である。精神が未成熟な少年期は他者が自分に劣るところがあればそれに優越感を持ち、それが力であれば時として暴力に及ぶ。痛みを知らないが故の横暴であるが、これは誰にでも見られる事である。戦国の男子は力が全てと教えられるので更にそれを加速させる。そして若者を無軌道に走らせる。そしてそれは人間が元々持っている性であり、精神が未成熟な少年期に暴発するのはある意味仕方のない事だ。
これは前田利家だけではない。多くの者がそうなのである。だが、そんな中にあって前田利家は小田氏治の言葉を反芻し、己の行動を諫め変えていった。他者への接し方がまるで人が変わったように変わり、それは家族、親族、友人、知人の多くを驚かせた。
そして前田利家はかつて迷惑をかけた者達を一人一人訪ねては過去の非礼を詫びて回った。詫びを受けた者は一様に驚き、中には利家が気がふれたのではないのかと心配する者もあった。
そんな利家の様子を嘲る者もいた。前田利家は憶病になったのだと吹聴し、果てには主君の信長に語る者まで出る始末だった。だが、それを聞いた信長はその者にこう言った。
『前田利家は人物である』
信長の粗暴な振舞いを知る家臣や近習は一様に頭を捻った。主と正反対の行動を取る前田利家を人物であると評するのだ。そしてその言葉は家臣を評するには過ぎた言葉であった。
そして武芸への力の入れようも周囲を驚かせた。毎日多くの時間を鍛錬に費やし己を徹底的に鍛えた。十六歳ながら六尺(180cm)に届こうかという長身に成長した利家は文字通り周囲から頭一つ抜けた存在になっていた。武芸では大の大人でも敵わず、性格は穏やかで他者を気遣い、困るものが居れば手助けをする。いつしか仏の又左衞門、仏の又左と呼ばれるようになっていた。
ただ、毎日の鍛錬が終わると必死で槍を折ろうとする姿は誰の理解も得られなかったが。
前田利家が小田氏治の来訪を心待ちにする一方で、織田信長の正妻である帰蝶は日が経つ程に憂鬱な気持ちになっていた。
原因は自分が送り込んだ間者である光秀が小田家で捕らえられた事で、帰蝶が氏治が信長に懸想しているのではないか?と疑った事を知られてしまったからである。
もしこの事が信長に知れれば自分は離縁されても文句すら言えない。信長と氏治の友誼を知りながら行ったこの事は仁義にも反するし、他国への敵対行動でもあるからである。父である斎藤利政に知れれば叱責では済まないだろう。
帰蝶は元々は賢い人物である。だが、信長への思慕の情が聡明な眼を曇らせてこのような行動に走る結果となった。帰蝶もまた経験の足りない若者なのである。
氏治を迎える為に張り切る信長と平手の様子を見ながら嘆息し、どうか大事にならないようにと祈る事しか出来ないでいた。
♢ ♢ ♢
結婚祝いの準備を終えた私は土浦の港から船で尾張に向かった。今回の尾張行きのメンバーは勝貞、赤松、飯塚、百地、雪、桔梗と次郎丸である。
身体の大きい次郎丸が居ると船が狭くなるけど、置いて行く訳にもいかないので連れて行く事にしたのだ。次郎丸は皆と行動するのが好きなようで、なんとなく機嫌が良いように見えた。いつもより甘えて来るし賢い子だから旅も理解しているに違いない。長い二本の尻尾をブンブン振るからそれが雪に当たって軽く眦を上げさせた。次郎丸、私を巻き込まないでね?雪の精神攻撃は半端ないからね?
赤松や飯塚は上機嫌でまるで修学旅行のような気分になる。城代の二人は当然他国に出る事は少ないから刺激になっているのだと思う。日ノ本が平和になったら皆で旅行に行くのも良いかもしれない。一体、何時になるやらだけど信長に何とかして貰おう。
今回の尾張行きは帰蝶の疑いを晴らすのが目的だけど、今後の為には必要な事である。私はなんだかんだ言いながらも信長を信頼している。四年間の交流で彼の性格や物の考え方も解って来たし、何より彼は誠実だ。ただ、帰蝶の例もあるように詰まらないトラブルもあるのだから信長の家族や家臣と交流を深める必要はあるのかも知れない。
皆が皆、機嫌良く船旅を楽しみ、熱田の港に到着するとその繁栄ぶりに目を見張っていた。そして赤松と飯塚は早速お土産の話をしていたけど、ホントに修学旅行っぽいノリである。折角来たのだから大いに楽しんで欲しい。
雪もソワソワしていて、赤松と飯塚の会話に混ざりたそうにしていた。雪も小田家では武将の一人なので赤松や飯塚とも親交があって仲が良いようだ。ただ人妻だから他の男と親し気にする訳にもいかず気を揉んでいるように見えた。
そして百地と桔梗は相変わらずである。たまには気楽に楽しんで欲しいのだけど、多分、聞かないだろう。そして船から降りた次郎丸を見た人々の反応が凄かった。巨大なオオカミが突然現れたのだから仕方がない。大声でバケモノだと叫ぶ者や逃げ出す者、そして暴れる素振りの無い次郎丸を見て遠巻きに見物する者と反応は様々である。
「殿、次郎丸は置いて来た方が良かったのでは御座いませんか?」
次郎丸を遠巻きに見ている人達を見回しながら勝貞は嘆息した。
「置いて行けないよ、この子は寝る時だって私から離れないし世話する人もいないでしょ?」
「そうなので御座いましょうが、ちと目立ち過ぎますな。これでは見世物で御座います、良からぬ輩に目を付けられなければ良いので御座いますが」
「それは仕方がないのだけど、う~ん、人がどんどん増えて来てるね」
私と勝貞が話をしていると、取り巻く人々を掻き分けるようにして武家の者と思われる一団がやって来た。そして近付いて来ると先頭に居るのが信長なのが判った。
四年ぶりだけど、一目で判った。随分背が伸びて男らしくなっている。それに平手殿が後ろに続いているし間違いないだろう。ただ、次郎丸を警戒したのか随分前で歩みを止めていた。私は次郎丸に待てと指示を出してから勝貞を促して彼に歩み寄った。
「信長殿、お久しぶりです。大分背が伸びましたね、見違えました」
私がそう言うと信長は目を見開いて落ち着かないような素振りで口を開いた。
「大変失礼な事をお聞きいたしますが、真に氏治殿ですか?」
ん?私が判らないのかな?私も背が伸びたし、会ったのは四年前の一度きりだから仕方ないか。
「真ですよ、私も背が伸びたので間違っても仕方ありません」
「なんと、、、。このようにお美しくなられているとは、この信長、想像もしていませんでした」
そう言って私を眺めるように見た。後ろにいる平手殿も私をガン見していた。私も女らしくなったとは思うけど、褒め過ぎである。社交辞令として受け取っておこう。私は後ろで待っている赤松達に声を掛けて呼び、信長と再度挨拶を交わした。
「氏治殿、その獣は何でしょうか?人を襲う様子は無いようですが、、、」
次郎丸を見ながら信長は落ち着かないような様子だった。さりげなく刀に手を掛けやすい体勢になっているのが彼の警戒ぶりを伺わせる。後ろに控える家臣達も同様である。私は次郎丸の事を信長に説明した。平手殿や信長の家臣もそれを聞いて目を丸くしていた。
「信長殿、次郎丸を撫でてあげて下さい。次郎丸、おいで」
私が次郎丸を呼び、次郎丸の首を抱えるようにして信長に促した。彼は次郎丸を見ながらとても真剣な顔で口を開いた。
「撫でる、、、。ですが、いや、それは、、、。だがしかし、、、」
すっごいビビってる。佐竹殿は冷静だったんだけどね?
「大丈夫ですよ、私が抑えてますから安心ですよ?」
「尾が二本もありますが、、、。真に犬なのでしょうか?」
「大きい犬のようなものですから問題ありません」
「『犬のようなもの』ですか、、、。噛まれたらタダでは済みそうにありませんね、、、。真に大丈夫でしょうか?」
随分警戒するな?と思いながら、私は次郎丸に大きく口を開けさせた。そして自分の腕を口の中に入れる。私と次郎丸の様子を見て信長主従だけでなく、遠巻きに見ている人々も驚きの声を挙げた。
「ほら、大丈夫ですよ?信長殿は食べないから安心です」
「他の者は食べるのですね?」
「食べませんよ、ご安心下さい」
なんだか私が無理やり撫でさせる形になってしまったけど、信長は身体を固くしながら次郎丸をひと撫でした。そして飛びのくように後ろに下がった。なんか、ハァハァ言ってる。そんなに怖がらなくてもいいのに。
「氏治殿にはいつも驚かされます。まさか、このような物の怪を従えていたとは、、、。この信長、氏治殿のお力を見誤っていました。お許し下さい」
許すも何も、紹介しただけなのだけど信長は動物が苦手らしい。ていうか、物の怪じゃないし?この調子だと次郎丸は屋敷に上げて貰えないかな?その時は厩で我慢して貰おう。
「この子は家臣が拾ってきた犬のようなものですから、物の怪ではありませんよ?」
私は未だに疑っている信長に念を押した。それからは信長に促されて那古野城に向かう事になった。那古野城へ向かう道中も次郎丸を一目見ようと人々が付いて来て行列が出来上がってしまった。まさかここまで大騒ぎになると思っていなかった私と勝貞は信長に詫びながら馬を歩ませたのだった。




