第五十七話 明智十兵衛光秀と帰蝶 その4
光秀は困惑していた。百姓の娘だと思っていた氏子と名乗る娘が殿と呼ばれていた。どうも身分ある家の娘らしい。どことなく気品があったから納得といえば納得なのだが。
それに眼光の鋭い百地と呼ばれた男、百地と言えば伊賀の百地は聞いた事がある。だがここは常陸である。あの忍びの百地が居る訳はない。それに次郎丸と呼ばれるこの異常に大きな犬、よく見れば尻尾が二本もある。ここに来るまでに物の怪の噂を聞いてはいたが本当だとは思わなかった。
そして、、、。自分は捕らわれている。氏子と名乗る娘は光秀を客人として迎えると言ったが、自分は了承はしていない。無理矢理ではないが、あまりに驚いて考える事も忘れて流された形である。自分は小田氏治の噂を確かめに来ただけだと抗弁すれば国に迷惑は掛からないだろうか?今から逃げたとしても百地という男とこの大きな犬から逃れられるとは到底思えない。
自分は運が悪い、、、。褒美も無く主命ですらない命で捕らわれてしまった。光秀は俯きながら考えていると真横から声が掛かった。いつの間にか氏子が側にいたのである。
「明智殿、驚かせたのは謝ります。ですからお顔をお上げ下さい」
ニコニコしながら言う氏子を見て光秀は何となく安心した。この様子なら酷い事もあるまい、なら今は逆らわない方が賢明だ。他国の者が自国を探るような真似をしていれば普通はタダでは済まない。
「氏子殿、某はどうなるのであろうか?」
次郎丸を気にしながら不安げな光秀の問いに氏治はクスリと笑って答えた。
「先程申し上げた通りですよ。明智殿を私の客人としてお迎えするのです。美濃の方は初めてお会いするので話を聞かせて下さいね」
つまりは吐けという事か。氏治の言葉に光秀は苦笑いで答えた。
城に到着すると光秀は一室に通された。牢でない事にホッとしながらもこれからどうなるのだろうか?と不安になった。暫く待つと侍女らしき女が膳を持って部屋に入って来た。とても美しい娘だった。
「明智様にお食事を差し上げるよう言付かって持って参りました。どうぞお召し上がり下さいますよう」
そう言って女は光秀の前に膳を置き部屋から出て行った。膳には山盛りの白米に焼いた魚、香の物に味噌汁など光秀が普段口に出来ない豪勢なものであった。思わずゴクリと唾を飲み込んだ。ここに来るまでに倹約を重ね粗末な食事で過ごして来たのだ。それに若い光秀は食べ盛りでもある。
だが、小田氏治を探りに来て歓待を受けても良いのだろうか?自分の不義理と葛藤しながら光秀は膳と睨めっこするように対峙していた。暫くすると盆に茶を乗せて再びあの娘がやって来た。光秀の様子を見て小首を傾げ口を開いた。
「明智様、お口に合いませぬか?お嫌いな物が御座いましたら他の物をお持ち致しますが?」
娘の言葉に光秀はどう答えたらいいか迷った。
「我が殿が明智様があまりに御痩せになっているのを心配して居りました。この桔梗の目から見ても明智様のご様子は宜しくないと思われます。どうぞお上がりなされますよう」
そのような事を言われると思っていなかった光秀は自分の身体を軽くまさぐった。確かに痩せてきているが、他人からもそう見えるのか。こうなったからには仕方がない、覚悟を決めよう。光秀は膳に手を付けた。食べ始めると口の中で米が溶けて消えていくように感じられ膳を平らげるのに時は掛からなかった。
食事を終えた頃を見計らうように桔梗と名乗る娘が現れ風呂に入るよう促された。言われるがままに風呂に入り旅の垢を落とすと新しい着物に着替えるように言われた。着物は上質な物であった。気後れしながらも、どうにでもなれと着替えをする。
そして桔梗と名乗る娘に先導されて部屋に通された。そこには氏子が巨大な膳を前にしてちょこんと座っていた。
♢ ♢ ♢
明智光秀が美濃から私を探りに来た。私としては美濃との接点は全く無い。命じたとすれば斎藤道三の筈だ。戦国時代の大物である。
光秀の言葉を信じるなら主命ではないと言っていたから斎藤道三ではないのかも知れない。尤も、彼が本当の事を言っていると仮定しての話である。でも、もし彼の言葉が真実なら一体誰が依頼したのだろうか?
私があの辺りで面識があるのは信長、平手政秀、前田利家、佐々成政くらいのものである。全て織田家なので、斎藤家の家臣である光秀とは関わり合いが無い筈だ。それに遠い常陸にいる私を調べて何のメリットがあるのだろうか?
色々考えてみたけどさっぱり見当が付かなかった。ここは予定通り光秀本人に聞いてみよう。主命ではないなら彼から情報を得ても面目が潰れる事も無いだろうし。私がうんうん唸っていると百地が口を開いた。
「明智の事をお考えになっていると存じますが、明智の名は某も特に覚えが御座いません。美濃では数ある家の一つなので御座いましょう。見た所、間者働きを得意とする御仁には思えませぬな」
「小田家を探る意味が解らないんだよね、私の事を聞きたがっていたけど、私の何が知りたいのか?知ってどうしようというのかが解らないんだよ。考えても仕方ないから本人から聞くしかないかな。話してくれると良いのだけど」
「口を割らせる事なら出来ますが、殿が客となされたのであればお望みではないので御座いましょう」
「私にはそういう趣味は無いからね」
百地と話をしていると桔梗に連れられて光秀がやって来た。少し驚いた様子だったけど、桔梗に座るよう促されて座卓に付いた。多分、座卓が珍しかったのだろう。
「明智殿、先程は氏子と名乗りましたが私が小田氏治です。騙すような事をしましたがこれでも国を預かる身なのでどうぞお許し下さい」
光秀は私の言葉に目を見開いた。本人に本人の事を聞いていたんだからそれは驚くだろう。
「大変ご無礼を致しました。某、斎藤利政が家臣、明智十兵衛光秀と申します。知らぬとはいえ大変ご無礼を致しました」
そう言って彼は平伏した。斎藤家の名を普通に出しているけど、ますます解らない。
「明智殿、単刀直入にお伺いしますが、何故私を探っていたのですか?明智殿は美濃で私の噂は無いと仰られました。ならば、一体何処で私の事を知ったのですか?御覧の通り私は常陸の田舎大名に過ぎません。一体私の何を知りたいのですか?」
私がそう聞くと光秀は黙ってしまった。凄い汗を掻いているのだけど、そんなに重大な事なのだろうか?なんだか不安になって来た。
「明智殿、話せない程の大事なのでしょうか?私は明智殿に危害を加えるつもりはありません。ですが、自身が探られているとなると理由くらいは知らないといけないと思うのです。私も家臣を大勢抱える身ですから家を守らなければなりません。斎藤家は我が家に何か含む所でもあるのでしょうか?」
「そのような事は断じて御座いません!某個人で参ったので御座います、どうぞお許し下さい!」
そう言って彼は平伏してしまった。個人なら話してくれてもいいのにと思っていたら百地が厳しい顔をして口を開いた。
「殿、明智殿は間者働きをしていたので御座います。幾らなんでも寛大が過ぎると存じます。このような事では我等も殿の御身をお守り致す事が出来ませぬ。この百地に明智殿を御引渡し下さい。必ずや吐かせて御覧に入れます」
それを聞いた光秀は顔を上げて百地を見た。百地の演技が凄すぎる。正に迫真の演技である。私も乗るしかない!
「百地、明智殿は私の客だと申した筈です。お黙りなさい!」
「黙りませぬ!間者働きを許された上に訳も話さぬとは虫が良すぎる話に御座います。次は美濃から刺客が送られるやも知れませぬ。見過ごされては殿の御身が危うくなるやも知れませぬ」
百地がそう言うと光秀は顔色を変えて口を開いた。
「お待ち下さい!そのような事は決して御座いません!」
慌てるように口を開いた光秀の言葉に百地は厳しい顔で答えた。
「明智殿、何も話さぬ貴殿の言葉を信じろと仰るのか?貴殿が某の立場ならその言葉を信じると仰るのか?明日にはこの事は家中にも知れ渡り大騒ぎになるのは必定。間者を許した事が知れれば、我が殿のなさりように不満を持つ者も出るやも知れぬ。現にこの百地も納得はして居りませぬ。明智殿は我が殿に恩がある筈。その恩を仇で返されるのか?間者が捕らわれればどうなるかは知らぬとは言わせませぬぞ」
百地、乗っておいてなんだけど、あんまり言うと光秀が切腹しそうで怖いんだけど?もうちょっと穏便に行こうよ?一応武器は預かっているからこの場で切腹はないだろうけど、なんだか気の毒になって来た。
光秀も運が悪いと思う。多分、光秀にとって私が第一村人な気がする。領内に入って速攻捕まるとか想定外だろうな。歴史上で超が付く有名人の明智光秀だけど、見たままの彼は未熟な若者だ。私が前世と合わせると三十六歳になるけど、その目線から見ても史実で語られる大人物には見えない。これから経験を積んで成長していくのだろう。なんせ、三傑に匹敵する評価を受けた人なのだから。
一方、光秀は百地の語る言葉を聞いて大いに肝を冷やしていた。百地の語る所は当然である、他国の者が間者のような行動をしていれば誰もが疑うだろう。そして捕らえられれば拷問を受け、吐かされるのが当たり前だ。
氏子の様子に安心してしまった自分も迂闊だった。それに氏子が小田氏治本人であった事も予想の外であった。自分は本人に秘密を語れと言ったに等しいのである。問われた本人は気になるに決まっている。帰蝶の命は主命ではない。だが、武士として秘密を漏らす訳にもいかない。実に下らない命ではあるが。
だが、その下らない命の為に常陸の一国を騒がせることになってしまった。このままでは主君の斎藤道三に抗議が行くだろう。そうなれば確実に責任を取らされる、恐らく切腹だ。最悪は一族を巻き込む事になるだろう。いや、主君の斎藤利政の性格なら明智家は滅ぼされるに違いない。煕子まで殺されるか自害に追い込まれてしまう。煕子の性格では自害を選ぶに決まっているのだが。
まさかこんなに簡単に捕らえられるとは思っていなかった。運が悪いにも程がある。だが、そんな事を考えている場合ではない。己の意地のために斎藤家、常陸小田家、尾張織田家を騒がせる事になるのだ。この下らぬ命の為に。
ふむ、光秀が悩んでいるみたい。もうちょい押せば話してくれるかな?私としてもそこまで口を噤むような大事だとしたら対策なりしないといけない。ただ、斎藤道三に睨まれる覚えなんて無いのだけど?
「明智殿、主命でないのなら互いに話し合い、折り合いを付けるという訳には行きませんか?私も理由が解れば策も打てますし、明智殿が求める話に応じると約束しましょう。明智殿にご迷惑になるような事は致しません。如何ですか?」
私がそう言うと百地が顔色を変えて口を開いた。まだ続けるのね、これも百地流なのだろうか?
「殿!何故、明智殿を庇われるのか!某の忠言には耳を塞がれなさるのに黙して語らぬ明智殿を気遣うのは得心がいきませぬ!他家の間者と家臣の某共とどちらが大切なので御座いましょうか?!」
「百地、黙れと申した筈です!己が身を弁えなさい!」
「いいえ、黙りませぬ!我等は命を懸けて殿にお仕え致しているので御座います。殿を危険に晒す輩が居るのであれば、これを誅するに何の躊躇も御座いません!」
「黙れと申した筈です!何度言わせるのですか!」
「殿の御為に申し上げているので御座います。だいたい日頃から共も付けずに出歩かれる事も此度の騒動の一因で御座います!そのような振舞いは我等家臣にとっても迷惑で御座います!我等の忠義を蔑ろにするもので御座います!」
あれ、百地?さらりと本心が漏れている気がするのだけど?あれ、桔梗?何で頷いてるの?
「それは此度の事とは関係ありません!私の振舞いが気に入らないのであれば何処へでも行けば良いではないですか?私は止めませんよ?」
「いいえ、何処へも参りません。某は殿に忠義を尽くすと決めたので御座います!」
「ならば私の命に従いなさい!」
「いいえ、此度だけは見過ごす事は出来ませぬ。殿のお命が掛かっているやも知れぬのです!」
光秀の前で私と百地は口論を演じた。私のキンキン声と百地のドスが効いた声が室内に響いた。さらりと苦言を混ぜる百地に私は必至で抗弁する羽目になった。おかしいな?光秀を責める筈なのに私が責められてる。納得がいかない。光秀は私と百地を交互に見ながら真っ青になっていた。そして彼は平伏して口を開いた。
「お話しいたします!全ては某の不徳のなす所で御座います!小田様にもご家中の皆様にもご迷惑をお掛けして申し訳御座いません!百地殿!この通りで御座います!」
それを聞いた百地は相変わらず厳しい顔で光秀に答えた。
「全て話すと仰るのか!主命を漏らすなど武士の風上にも置けぬ卑怯な行為、真なのか信じられぬ!」
「真で御座います!此度は主命では御座いません!それもお話致しますので君臣で争うのは御止め下さい!全てはこの光秀が悪いので御座います」
それを聞いた百地は声と表情を一変させニッコリと笑った。
「殿、明智殿がこう仰って居ります。よう御座いましたな」
私はホッと息を付いて百地に答えた。それにしてもこの鬱憤はどうしてくれようか?百地の演技を利用した苦言が気に入らない。なに?忍法説得の術とかなのかな?
「良かったけど、百地が私をどういう目で見ているかよく判ったよ。後でじっくり話し合おうか?」
「あれは演じただけの事で御座います。話し合いの必要は御座いませんな」
私と百地が笑顔で睨み合っていると光秀が口を開いた。
「演じた、、、。で御座いますか、、、」
「明智殿、百地のせいでお辛かったでしょう?約束はお守りしますからお話し下さいね?私も出来る限り明智殿の立場をお守りしますから」
私がそう言うと彼はコクリと頷いて肩を落とした。




