第五十六話 明智十兵衛光秀と帰蝶 その3
明智荘から旅立った光秀は己を奮い立たせるようにして常陸へ向かった。出掛けに触れた煕子の頬の感触が手に残っている。
煕子は優しく、懸命で察しが良い。心配を掛けてはいけないと思っているが自分が至らないせいでままならない。あの儚く弱い煕子を自分が守ってやらないといけない。それには武功を立て出世しなくてはならない。
だが今の所は何の宛ても無いのが実情だ。戦があっても小勢の明智家の兵は軍の中に組み込まれ埋もれてしまう存在である。功を立てようにも後方に回される事が多く、敵と矛を交える事すら出来ない事が多々あった。
功は奪い合いである。軍勢を任された大将の取り巻きにでもならないと機会も巡って来ない。だからといって抜け駆けに突撃をしては兵が死ぬだけである。その兵は明智の民であり光秀が守るべき存在でもあるのだ。
何とかしないととは思うが今は雌伏の時だとも考えている。機会はきっと巡ってくる筈だ。そう考えながら光秀は足を動かした。
尾張を通り、三河を抜け今川義元の治める駿河を目指した。光秀の旅は今で言う貧乏旅行になるが、天気が良ければ宿すら取らない過酷なものである。
幸い季節は五月の終わり、寒さに凍える心配も無いし雨も降らないので旅は順調に進んだ。明智家は城を持ってはいるが、今では落ちぶれて土豪に近い存在になっている。当然生活は苦しいものとなる。路銀は武具を売り払い工面はしたが無駄遣いするつもりは無かった。若く丈夫な身体を頼りに旅を続けた。
旅で光秀を悩ませたのはあちこちにある関所である。ただ通るだけで銭を取られるのである。勿体ないと思いつつも払わない訳にはいかず、関所で渋々銭を支払った。河に当たれば船渡しに銭を支払う。いっそ泳ぎ渡りたい気持ちになったが無理をして身体を壊す訳にも行かない。
それでも駿河に近付いて来ると心が躍った。「東国の都」と呼ばれる駿府をこの目で見てみたいと思っていたのである。
若い光秀は寝食よりも好奇心を優先させた。折角の旅である、駿府の街を見る事で何かが得られるかもしれない。そう思うと自然と足が軽くなった。そして駿河の国に入り、駿府に足を踏み入れた時は日が暮れる頃であった。
駿府とは駿河国府中の略である。今川氏が京の都を模して駿府の街造りを行い、荒廃した京の都を逃れた多数の公家や文化人が駿府に居を移し「東国の都」などと呼ばれている。
京の荒廃を見て来た光秀はどれ程の差があるのかを知りたかった。それに駿河は「海道一の弓取り」と評される今川義元の本拠地である。どのような政をしているか興味があった。街を見ればそれが知れるのである。
光秀は駿府では宿を取り二日程滞在した。駿府の街の栄えようは光秀の好奇心を刺激した。あちらこちらと見て回り、人と話しては今川の治世を分析した。京とは比べ物にならない繁栄ぶりは光秀を大いに驚かせた。
箱根を越え、小田原に入る。関東の玄関口でもあり、関東では大国でもある北条家の領土である。ここでも光秀は二日滞在して街を見回った。見聞を広める事は己の力になると信じての行動である。
ここでは妙な噂を耳にした。茶屋で一休みしている時にたまたま話をした男から小田氏治の話が出たのである。聞くところによると怪力の姫であるとか、物の怪を従えているとか珍妙な話であった。そんな馬鹿なと思いはしたが、そのような噂が流れる小田氏治に興味が出て来た。
そうして小田原を出て千葉領に入るとまた小田氏治の噂である。今度は神仏の御使いであるという。流石の光秀も呆れてしまった。幾ら何でも話がおかし過ぎる。人は人である、そのような者になれるなら誰も苦労はしない。馬鹿げた噂ではあるが帰蝶から聞いた話もあり、光秀の興味を更に引く事となった。
そして光秀は小田家が治める土浦の街に入ったのである。土浦の街は平凡で特に見るべきものは無いように思えた。おかしな噂もあったので期待外れであった。土浦の街を通り過ぎ、本拠である小田の城下町を目指した。
田んぼを眺めながら歩いているとその風景に違和感を覚えた。光秀は立ち止まり田を眺める。そして違和感の正体に気が付いた。稲が余りにも整然と並んでいるのである。光秀は田に近寄りしゃがみ込んで観察した。等間隔に稲が植えられていてそのせいで田が美しく整って見える。
「魚がいる、、、」
田に住まう魚を見て驚いた。洪水で流されて来たのかとも考えたが、それにしては田が整い過ぎている。他の田を幾つか見たが同様であった。光秀は農政に明るい者が指示でもしたのだろうか?と推測した。
それを考えながら歩を進めると今度は広大な畑らしきものを目にした。木に棚が付けてあり笠のようになっている。そしてそれが延々と続いているのだ。光秀は木に近付き観察した。よく見ると葡萄である事が知れた。これが全て葡萄かと感心した。まだ青く小さな葡萄の房を見て、収穫したら如何程になるかと想像した。珍しい果物である、莫大な富を生むに違いない。
そうして葡萄園に足を踏み入れ観察していると石に腰かけた娘が目に入った。野良着にほっかむりをした若い娘である事が見て取れた。光秀は丁度良いと話を聞く事にした。田も葡萄も気になって仕方が無かったのである。何かが得られれば明智の荘でも応用出来るかもしれないという下心もあった。
光秀が歩いて行くと、娘は光秀に気が付き広げた握り飯を守るようにして光秀を見た。光秀は警戒させてはいけないと努めて笑顔で話し掛けた。
「そこの娘。旅の者だが、ちと話を聞きたいのだ。田も畑も変わっているので良ければ教えて貰えぬか?」
娘は光秀を窺うように見た。よく見ると美しい娘である事に気が付いた。ぱっちりと開いた目に白い肌、髪は長く手入れが行き届いているように見える。野良着とほっかむりのアンバランスさがそれを引き立てているように見えた。美しい着物を着ればさぞ高貴に見えるだろうと光秀は思った。
「牢人さんだべか?おらに何の用だべ?まっ、そこに座ってくんろ」
娘の口から出た言葉を聞いて(なんだ本当に百姓の娘か)と何となく拍子抜けした。光秀は娘に促されて隣の石に腰を下ろした。
「牢人さん、名は何と言うんだべ?おらは氏子だ」
「これは失礼した。某は明智十兵衛光秀と申す」
光秀がそう言うと、娘は一瞬驚いたような素振りを見せてからしげしげと光秀を眺めた。
♢ ♢ ♢
おにぎりを食べようとしていたら声を掛けられた。それも明智光秀である。見慣れない武士がいるなと様子を伺っていたのだけど、私に話し掛けて来たので常陸弁で対応した。まさか国主ですなんて言えないし。そして名前を聞いたら明智十兵衛光秀だと名乗った。余りの意外さに一瞬固まった。
でも、彼が本当に明智光秀だとして何故常陸に居るのだろう?この時期の光秀の行動は現代では不明とされている。歴史の表舞台に出て来るまでの彼の半生は解らない事だらけなのだ。
それにしても若い、現代でも若々しく描かれるけど目の前にいる光秀は二十歳前後に見える。まだ骨格も出来ていないように見えるから幼さも感じられる。だけど、振舞いは丁寧で彼が紳士である事を伺わせる。ただ、随分痩せているなぁ。
身なりは正直良くない。着物も着古しているし、帯びた刀も大したものではないように見える。私は武具をコレクションしていて割と目が利く方だから間違いないと思う。
「氏子殿、聞いても宜しいか?」
「ん?なんだべ?」
「ここに来るまでに田を見たのだが、どの田も稲が整えて植えられている。これはどんな意味があるのだろうか?」
流石は光秀である。速攻気付いたらしい。正条植えはバレても全く問題ない。桶で苗を育てる発想に中々行きつかないだろうし、何より大切な田で簡単に実験出来るものではないのだ。その年の収穫を減らしてまで行うには相当の確信がないと出来ないだろう。適当に答えんべ。
「領主様にほうしろと言われだからしたんだ。おら達もよぐわがんねぇが、米はよけ取れるようになっだがら、村のもんもみんな感謝しとるんだ」
流暢な常陸弁で語る私の言葉を聞いた光秀は聞きづらそうにしていた。何?光秀?常陸弁に何か不満でも?
「領主様とは小田氏治様なのだろうか?」
「んだ、他にはだんれもいねべ?」
「ふむ」と光秀は考えるようにしている。彼は一体何をしに来たのだろう。聞きたいけど今の私は謎の美少女氏子だから変に探りを入れるのはまずいかな?取りあえず聞いてみんべか?
「明智様はどこさから来たんだべ?」
「所用があって美濃から参ったのだが、美濃は分かるか?」
「わがんねな、所用とはなんだべ?大変なお役目でもあんだべか?」
私がそう尋ねると光秀は肩を落とした。何か事情があるっぽい。一体なんだべ?
「役目などではないが、小田氏治様がどのような方か知りたくて参ったのだ。ここに来るまでに幾つか噂を聞いたが、どれもおかしな話ばかりで得心が行かぬ」
私の噂?心当たりが多過ぎてどれの事だか判らないけど、そんな事で常陸まで来た訳?光秀は明智城主の筈。勤めもあるだろうし、物見遊山で来るとも思えない。それに美濃まで私の噂が届いているとか勘弁して欲しい。とにかく情報を引き出さないといけないべ。
「おら達が殿様は美濃で噂になっとるんか?」
「いや、そうではないが少々訳があってな。それよりも小田氏治様の話を聞かせてくれないか?」
美濃で私の噂が広まっている訳ではないらしい。これにはホッとした。でもさすがに口が堅くなるよね。目的がある筈なんだけどこの調子だと話さないだろうな。ん?居るな?光秀に直接聞くとすんべ。
氏子モードではこれ以上光秀から情報を探れないと判断した私は、林に潜む一人と一匹に声を掛けた。
「百地!次郎丸!」
突然林に向かって声を掛けた私を見て光秀が驚いている。木の陰から百地と次郎丸が姿を現した。百地は遅れてくる予定だったし、次郎丸は狩りに出かけて帰って来たのだ。私の超五感は二人を捉えていたのである。
次郎丸を見た光秀は慄きながらも刀に手を掛けた。そして私を庇うように前に出た。中々男前である。
「明智殿、あれは敵ではありません。刀を抜かないで下さい」
私の変わり様に光秀は百地達と私を交互に見た。声も出ないようである。
「殿、御無事で御座いますか?」
「無事も何も、明智殿と話をしていただけです。百地、明智殿を客人として迎えます。戸崎の城に案内差し上げて。それと明智殿、その犬は私の犬ですからご心配なさらないよう。次郎丸、こちらに来なさい」
そうして私達は光秀を客人として戸崎の城に連行した。光秀は観念したように俯きながら百地と次郎丸に挟まれて歩いているのだけど、何か後ろ暗い事でもあるのかな?聞いてみんべか?




