第五十五話 明智十兵衛光秀と帰蝶 その2
光秀は不本意ながらも那古野城の帰蝶を訪ねた。煕子と祝言を挙げてからは顔こそ合わせるものの、言葉を交わす事は無かった。光秀としては気まずい思いがあるが命とあらば仕方がない。取次ぎを頼み、那古野城内の一室に通された。そして待つ事暫し、帰蝶が侍女も付けずに現れた。
光秀は平伏して挨拶の口上を述べた。数年ぶりに声を掛ける事に緊張した。
「久しいですね十兵衛、会えて嬉しく思います」
予想外の帰蝶の言葉に光秀は思わず相好を崩した。嫁いでからそれ程の時は経っていないが帰蝶はとても美しく見えた。
「お久しぶりで御座います。帰蝶様もお元気そうで何よりで御座います」
光秀の様子を見て帰蝶はクスリと笑った。相変わらずだと内心思いながら早速、要件を切り出した。
「十兵衛にお願いがあるのです。常陸の小田氏治様を探って欲しいのです」
帰蝶は光秀に信長と平手が常陸の大名に心酔している様子を語った。それを不思議に思い、自分も信長や平手に聞いてはみたが要領を得ない。二人が語るには大人物に聞こえる、だが自分と一歳しか歳が離れていないのにそのような事があるのか?
そして更に聞く内に小田氏治が女である事が判った。口篭もるように吐いた信長の様子に疑念を持った。それに付け加えて今の自分は信長を慕っている事も話した。光秀とのわだかまりをついでに解こうと思っての事である。
帰蝶は別に意地の悪い性質ではない。帰蝶は賢い、それ故に親の立場と自分の立場、そして自分の未来を理解していた。理解が速く、深いだけに若い帰蝶は自分の未来を暗く考えた。この時代の女は皆そうである事も理解していた。だが、理解できるから納得している訳ではない。でも自分ではどうしようもない。そんな中で光秀に出会い恋をした。
表には出さないが行き場の無い不満を抱えていた帰蝶はストレスを溜めていた。それが爆発する形で反動形成となり、光秀に歪んだ愛情表現をしてしまったのだ。今は光秀に悪い事をしたと思っている。
光秀は帰蝶の話を聞いて、帰蝶が信長に惚れている様子に安堵したものの、とどのつまりは浮気の調査ではないかと嘆息した。自分はまた詰まらない仕事を押し付けられたらしい。
それからは帰蝶の信長への惚気話を聞く事になった。織田家で上手くやれている事に安堵もしたが、何故自分がこんな話を聞かされるのかよく判らなかった。
だが、帰蝶との関係を修復する好機でもあった。光秀は相槌を打ちながら楽しそうに語る帰蝶に合わせるように立ち回った。一通り話を終えると帰蝶は居住まいを正して再び口を開いた。
「帰蝶が信を置けるのは十兵衛しかいないのです。受けてくれますね?」
帰蝶の言葉は本心である。このような頼みは他の者には聞かせられないし、恥になるかも知れない。だが帰蝶は光秀という人物をよく知っていて、しかも高く評価している。かつて抱いた恋心とは別としても光秀は信用に値する人物だと。
だから小田氏治を探るに当たって光秀を選んだが、聞けば京に行っていて暫く帰らないという。すぐにでも探りを入れたかったが仕方なしに光秀の帰還を待ったのである。
一方で光秀は困惑した。他家に嫁いだ姫の為に家を空ける事になるのである。京から帰ったばかりだというのにまた家を空けるのだ。他国の姫となった帰蝶の為にである。聞けば小田氏治という人物は常陸に住まうという。美濃から常陸はとても遠いし、東国は総じて田舎である。見るべきものも無いだろうし、これは主命ではない。
しかも、内容はどう考えても『氏治が信長に懸想をしていないか調べてこい』である。武士たる自分の役目ではない。だが光秀にはこの頼みを断る度胸を持てなかった。かつてのわだかまりに罪悪感を持っていたのである。お人好しにも程があると自分でも思うが仕方がない。
「帰蝶様、この十兵衛が調べて参ります。ただ、他国を探るという事がどれ程の事かはご理解頂けますよう」
それを聞いた帰蝶は相好を崩した。
「十兵衛ならそう言ってくれると思っていました。他国である事は存じています、十兵衛になら任せられると思ったのです」
それからは、昔語りをするように美濃での思い出を語った。光秀は相槌を打ちながら帰蝶の機嫌が良い事に安堵した。そして那古野城から退出したのだが、、、。
主君の斎藤利政からは帰蝶から命があると聞いて那古野城までやって来た。近いとはいえ路銀は自分持ちである。那古野城で帰蝶から命を受けたが、常陸までの路銀の話も褒美の話も一切無かった。
斎藤利政と帰蝶は別にケチではない。互いに、互いが支払うのだろうと思っていたのだ。流石は親子である。
光秀は今更引き返して要求するのも恰好がつかず、かと言って主君の斎藤利政に要求するのもなんだか極まりが悪い。若者特有のプライドが光秀を行動出来なくしていた。そして光秀は深く息を吐いた。
「自腹か、、、」
そう言って光秀は片膝を付いた。
明智荘に帰った光秀は、また主命で家を空ける事を煕子に詫びた。光秀が気落ちしているように見えた煕子だったが、自分があまり心配しては却って光秀が困るだろうと詳しくは聞かなかった。常陸に使いに行くのだと言うし、戦で命を落とす訳ではないと自分に言い聞かせた。
光秀は煕子の夫であり、尊敬する人物だった。疱瘡にかかり顔に痘痕が残る自分を嫌悪する事無く受け入れてくれた。
病に倒れ、痘痕が顔に残ったのを知った時はこの世の終わりかと思った。そして両親はこれでは嫁に出せぬと、自分によく似る妹を光秀に嫁がせた。
煕子は泣いた。だが両親も妹も責める気にはなれなかった。自分の運が悪いのである。きっと前世で悪事でも働いたのだろうと思う事にした。自分はきっと一生誰にも嫁げず生を終わらせるのだろうと悲観した。いっそ、尼寺にでも入ろうかとも考えた。両親も反対はしないだろうと思った。
そうして悲嘆に暮れていた翌日、光秀が家にやって来た。煕子は驚くと共に醜い痘痕を見られるのを恥じて、屋敷の奥に身を隠した。泣いたせいで顔色も酷いものであった。だが、母から光秀が呼んでいると声を掛けられ無理やり光秀の元に連れて行かれた。
そこには光秀と嫁いだ筈の妹が居た。煕子は痘痕を見られたくなくて着物の袖で顔を隠した。煕子を目にした光秀は破顔して口を開いた。
「煕子殿を迎えに参りました。話は聞いて居ります。ですが、某の嫁は煕子殿と決めているのです。どうかこの光秀の嫁になって頂きたい。お顔を隠す必要は御座いません。光秀は煕子殿の全てが愛おしいので御座います」
光秀の言葉を聞いた煕子は動揺した。この人は何を言っているのだろう?自分の耳はおかしくなってしまったのだろうか?自分は夢でも見ているのだろうか?そう思いながらも涙が溢れて止まらなかった。
白昼夢でも見ているかのように事態は動いて行った。言われるままに花嫁衣装に着替え、そして光秀が用意した輿に乗り、明智の荘に運ばれていった。明智家の家臣や客人はただの一人も煕子の顔の痘痕を気にする者が居なかった。(なんと気持ちの良い人達だろう……)そう思いながら自分と目が合って恥ずかしそうにしている光秀がとても愛おしく思えた。
そうして煕子は光秀に嫁ぎ、明智家の一員となった。
光秀との生活は幸せの一言であった。明智家は土岐氏の流れを汲むというだけで生活はそこらの土豪と変わりがない。だがそんなものは気にならなかった。光秀は真面目で優しく誰にでも気遣いのある武士としては珍しい男だった。
そんな光秀が煕子を大事に扱ってくれるのである。煕子は光秀に夢中になった。そして己がこの人を支えていくのだと懸命に働いた。農作業をする光秀に付いて回り一緒に畑を耕したり、野山で山菜を採ったり、夜は草鞋や籠を編んだり、少しでも家計の足しにと働いた。
そんな煕子を見た光秀はやんわりと「あまり励むと身体に触るから程々にしておきなさい」と窘める。光秀としては自分が不甲斐ないせいで煕子に負担を掛けていると気にしているのである。だが、そんな気持ちはすぐに煕子に察せられ、却って張り切らせてしまう結果になり光秀は困ったように頬を掻くのだ。
そんな夫の光秀の様子がおかしいのである。気落ちしているなら慰めてあげたいが、武家の男子が簡単に弱音を吐く訳がない。それに光秀が煕子が心配するような言動をするとも思えなかった。
翌日、光秀の出立を見送る事になった煕子はただ一言。
「お早いお帰りを」
と告げると光秀は一つ頷いて煕子の頬を愛おしそうに撫でた。煕子は頬に残った光秀の温もりを感じながら旅立つ光秀の背中をいつまでも見送った。




