第五十三話 氏治からの手紙2 その2
鷹丸の語りは続き、それは信長と平手を大いに楽しませ、そして感心させた。
「成る程、乱暴狼藉を禁ずるのはその様な狙いもありましたか」
江戸領で乱暴狼藉をしなかった小田家は、領主が代わったばかりだと言うのに、民からの支持が高い事に信長は注目した。確かに、戦で土地を獲っても荒れていては米は取れない。それに土地の者に恨まれれば、代官を置いても素直には従わない。彼等とて人であるのだ。
傾奇者として地場の民と触れ合う事が多かった信長には、あまりにも思い当たる事が多かった。
信長は目を閉じて口を開いた。
「真の君主とは自国の民も他国の民も、同様に安んじる存在である」
そして言葉を胸に刻むように、もう一度呟くように同様の言葉を再度口にした。
「氏治様の兵法のお言葉で御座いますな」
信長と共に氏治の孫子を学んだ平手は、信長が発した言葉にすぐに思い当たった。
「理想と現実は違います。ですが、それを成すべく努力するのもまた君主の務め。この険しき道を進むのに躊躇されない氏治殿には、頭が下がる思いです。そしてそれを成せば、結果として国の強さにも繋がるのは明白。この信長もそう在りたいものです」
そう言いながらも信長の頭は回転し、家督継承後に控える戦の構想に修正を加えていた。
そして端で聞いていた帰蝶は頭を捻る。『氏治様の兵法?』信長様と平手は一体、何を言っているのだろう?氏治様は信長様と同年と聞いている。自分より一歳年上である。信長様と平手の口振りでは、まるで氏治様に学んでいるように聞こえる。自分達は学ぶべき年齢だというのは理解している。でも何故氏治様から学ぶのだろう?自分と一歳しか違わないのに、人に教えるほど兵法を修めているのだろうか?
鷹丸と名乗る小田氏治の使者が部屋から出るのを見送った帰蝶は、信長に問い掛けた。
「信長様、小田氏治様とはそれほど凄い御方なので御座いますか?」
帰蝶の問いに信長は優しく微笑んだ。その様子だけで帰蝶の胸の中で何かが跳ねる。
「氏治殿はこの信長を救って下さった。この信長にとっては目指すべき山の頂であり、いずれは友と、、、。ふっ、そう呼べるように並び立ちたいものです」
そう言うと信長は部屋から出て行ってしまった。帰蝶は解ったような解らないような心持ちで信長を見送った。
その日の晩、夕餉を摂った信長は平手と私室で氏治からの書状に目を通していた。二人の膳には珍陀酒とグラスが置かれている。蝋燭の火が揺らぎ、その光がそれらを映していた。
信長と平手は、氏治からの手紙を二人で読むのが習慣になっていた。氏治から送られた珍陀酒を楽しみながら一文を読んでは、二人で感想と意見を交わし、吟味しながら読んでいくのである。端から見ればおかしいと思われるだろうが、本当におかしい行動である。
もし、この事を氏治が知ったら悶絶するだろう。自分の手紙が検証されるように複数人に読まれるなど、この世の誰も想像できない事である。もし知る事があれば、さすがの氏治も抗議して二度と手紙を書かないと訴えるだろう。そして今やこの行為は信長と平手の密かな楽しみとなっていた。
「ふむ、戦の様子は鷹丸殿の語られた通りのようですね。氏治殿の素晴らしさは語るまでもありませんが、自らの功を誇らない謙虚さと見ました。事実だけを淡々と記していらっしゃる」
そう言ってから信長はグラスを口に運んだ。
「左様で御座いますな。それが故に内容もよく理解出来ますな。若い時は功を焦り、功を誇るもので御座いますが、その様な事とは無縁のお方の様で御座いますな」
そうして信長と平手が楽しそうに論じていると、帰蝶が部屋に入って来た。そして二人の姿を認めると、着物の裾を引きながら信長の隣に座った。そして氏治の手紙を覗き込むようにして口を開いた。
「夜遅くに一体、何をなさっているので御座いますか?」
帰蝶は信長の行動に違和感を感じていた。氏治からの使者が帰ってからは鍛錬を再開する素振りも無く、何か落ち着きが無いように感じられた。夕餉のときもそうだ。いつもはにこやかに会話しながら食事を楽しんでいたのに、今日に限っては寡黙に食事を済まし、さっさと部屋から出て行ってしまった。
これは何かあると考えた帰蝶は、侍女に信長がどうしているか見に行って貰った。戻った侍女から聞けば、珍陀酒を私室に運ばせ平手と話をしている様子だという。そして部屋に来てみれば、二人でお酒を飲みながら書状を読んでいるのである。
乱入してきた帰蝶に顔を向けた信長は、何故このような行動を取るのか理解できなかった。いくら夫婦とはいえ、礼儀というものがある。活発な娘である事は知っていたが、このような行動を取るとは思っていなかった。
「帰蝶、一体、どうしたのですか?」
信長の問い掛けに帰蝶は軽く唇を噛んでから答えた。
「氏治様のご使者が参られてから、信長様の様子がおかしいので見に参ったのです」
帰蝶の言葉に信長と平手は顔を見合わせた。確かに氏治の手紙を読む事を楽しみにしていたが、帰蝶がそれを気にしているとは思っていなかった。
信長はやんわりと、手紙を楽しみにしていただけだという事を帰蝶に話した。信長の言葉を聞いた帰蝶だが何かが引っかかり、素直に信じる事が出来なかった。信長から話を聞いても部屋から出る様子の無い帰蝶を見て、信長は別に良いかと手紙の続きを読み始めた。
そしてその一文に眉を顰めた。そこには氏治が佐竹義昭に鷹狩りに連れて行って貰った事が記されていた。いつもならゆるりと手紙を読むところだが、その内容に衝撃を受けた信長は一気に読み進める。信長の様子に平手は眉を寄せた。そして読み終わったところで声を掛けた。
「信長様、如何なされましたか?」
頭痛でも堪えるように片手でこめかみを抑える信長は、手紙を平手に手渡した。平手は手紙を読むと感心したように口を開いた。
「佐竹様は鷹狩りの名手の様で御座いますな。ですが、、、。少々、気になる所が御座いますな」
「そのようですね。しかし、私は悔しい。この信長、鷹狩りは大の得意。氏治殿がお望みならば私がお連れ致したかった」
そう言って信長は肩を落とした。氏治の手紙には義昭との鷹狩りの様子が詳しく記されていた。そして義昭を絶賛する内容に信長は嫉妬した。敬愛する氏治の初めての鷹狩りに同行した義昭が、羨ましくて仕方が無かった。
肩を落として落胆する信長を見た帰蝶は、そんなに氏治が気に入っているのかと思う反面、まるで恋でもしているように感じた。帰蝶からすれば、たかが鷹狩りである。行きたければ誘えば良いのだ。尤も、遠過ぎて誘えないのだろうとは察したが。
信長は肩を落としながらも気になった事を平手に話した。獲物を二匹同時に仕留めた事や、鷹と共に義昭が猪を仕留めた事など。鷹狩りを良く知る信長にとっては信じ難い事であった。だが氏治が嘘を付く訳も無いし信じるしかない。
これには平手も頭を捻った。確かにそうである。そもそも猪に鷹を嗾けるなど聞いた事が無い。信長と平手は推測と憶測を語り合った。
「この東屋ですが、真なら見事と言う他ありません。義昭殿は中々の戦上手と見ました。この発想は素晴らしい。今は悔しくもありますが」
義昭の組み立て式の東屋には信長も驚いた。このような発想をする佐竹義昭という人物に嫉妬もしたが、興味が湧いていた。手紙には氏治も東屋を絶賛しており、鷹狩りだけでなく様々に応用できるだろうと記されていた。信長は自分も作ってみようと考えた。何か見えるものがあるかも知れない、と予感したのである。
語り合う二人の側で全く相手にして貰えない帰蝶は、小さく頬を膨らましていた。そして夫である信長の心をここまで捕らえる小田氏治が、どのような人物なのか益々気になった。帰蝶は語らう二人を眺めながら、探ってみようと決意するのだった。




