第五十二話 氏治からの手紙2 その1
那古野城の庭で織田信長は木刀を振るっていた。歴史にも鍛錬好きと伝えられる信長は、暇さえあれば己を鍛えていた。そしてその様子を眺めるようにして見ているのが、帰蝶と呼ばれる信長の妻である。
父である織田信秀と敵対していた美濃国の大名、斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘、帰蝶姫と信長の間で政略結婚が成立したのである。そして二人は夫婦となり今に至るのである。
政略結婚ではあるが信長は他家に嫁いだ帰蝶の心中に配慮し、彼女の心を慰めるような気遣いを見せた。帰蝶といえば、耳にして来た評判とはまるで違う信長の様子に戸惑ったものの、信長の帰蝶に対する真摯な態度に今は心を奪われ、そしてこの婚姻に感謝すらしていた。今ではもっと信長を知りたいと考えるようになり、時が許す限り信長の側に侍るようになったのである。
信長は婚姻を機に傾奇者の真似事を止める事にした。家臣の選定が終わったと判断したのである。それに信長の噂は他国にも十分に広まったので存分に見くびっている事だろう。
心の重荷からようやく解放された信長の日々は充実していた。信長の変わり様に家臣らは皆仰天し、その理由を様々に語り合った。元から信長を支持する家臣は信長は成長したのだと喜び、信長を見限った家臣は一時の気まぐれと一方的に断じた。その中間に居る者は信長の様子に安堵し、傾倒する者も現れた。
信長は自らの派閥を纏めつつあり、家督継承後の備えを始めていた。氏治から貸し与えられた孫子の写本を終えた彼の中にはその知識が宿り、そして天才織田信長の才能を更に伸ばす結果となった。信長の中では既に尾張統一のプランが出来上がって居り、家督を継げば直ちに行動に移るつもりでいるのである。
そんな信長をもう一方から眩しそうに眺め見る者がいる。平手政秀である。
信長の辛苦と努力を見続け、支えて来た平手政秀は信長が苦しみから解放された事を心から喜んでいた。織田家と争っていた美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と帰蝶姫の婚約を取り纏めたのは平手政秀である。
大国である美濃の後ろ盾を得た信長はこの事で圧倒的に有利な立場になった。義父になった斎藤道三にも気に入られ、危機とあらば援軍の当ても出来た。自分に出来る事があれば何でもしてやりたい。平手政秀は一心に木刀を振るう信長を眺めながら相好を崩した。
そんな平手政秀に近習が耳打ちをする。平手は目を見開き信長の元へ寄り、膝を付いた。
「氏治様よりご使者がお越しです」
平手政秀の言葉を聞いた信長は厳しかった表情を一変させ輝くような笑顔になった。
「それは真ですか!いや真でしょう、平手が私に嘘をつく訳が無い!」
平素に無い信長の様子に帰蝶は目を見開き驚いた。常陸の小田氏治殿と交流があるとは信長自身からは聞いていた。まるで夢でも見るかのように語る信長を見て、少々の嫉妬心を覚えた事がある。
「直ぐに会います、私の私室に通すように。着替えるのでその間は爺が相手をするように」
「畏まりました、直ちにそう致します」
帰蝶は信長と平手のやり取りを聞いてまた驚いた。使者を私室に通すなど聞いた事が無かった。信長は驚きに色を変えている帰蝶に目もくれず、着替えに去ってしまった。あれほど自分に気遣いを見せた信長が、一言も無しに去った様子を見た帰蝶は、氏治の使者に大いに興味を持った。そして平手に続くように信長の私室に足を運んだ。
平手政秀は近習に使者を信長の私室に通すように命じると、部屋に向かった。自分に付いてきた帰蝶を見て困ったように眉を下げた。信長からは何も言われていないが、奥方を同席させて良いものかと迷った。
「帰蝶様、同席されるおつもりで御座いますか?」
少し困ったような平手の様子に帰蝶は訝しんだ。夫と共に使者に会うくらい何でもない事だ、と考えていたからである。
「何か困る事でもあるのですか?」
「そのような事は御座いませんが、殿のご許可を頂いて居りませぬ」
「許可など必要ありません。信長様が帰蝶を邪魔となさる訳がありません」
平手は逡巡したが、信長が判断するだろうと帰蝶を同席させる事にした。信長の私室に帰蝶を招き入れ、そして自身は部屋の外で使者を待った。やがて平手に導かれて小田氏治の使者が部屋に通された。その姿を見た帰蝶は可愛らしい顔を傾けた。どう見ても旅の町人にしか見えなかったのである。
「鷹丸殿、暫し待たれよ。もうじき殿がいらっしゃる故」
「お気遣い痛み入ります。待たせて頂きます」
そう言って鷹丸は用意された座に着いた。この頃になると鷹丸も慣れたもので、信長への遠慮は反って無礼であると心得ていた。何度も使者として通う内に、信長と平手とはすっかり顔馴染みになっていた。ただ今回は見慣れぬ姫が同席している事に片眉を上げた。
一方、帰蝶は鷹丸の風体に疑問を抱いていた。小田氏治は家督を継いだばかりだが大名であるという。大名の使者に似合わぬ貧相な装いが気になり、また、平手と親しそうなのも気になった。平手は織田家の家老である。その平手が町人のような男に気遣いを見せるのである。
「其の方、小田氏治様のご使者で相違ないか?」
いきなり帰蝶に問われた鷹丸は焦った。問われた事もそうだが、詰問するような口調だったのである。鷹丸は女が苦手であった。幼少の頃より百地丹波の元で、桔梗や秋や楓と共に修業に励む日々であったが、鷹丸は歳の近い四人の中で一番腕が悪かった。
成長してからは秋や楓には勝てるようになったが、桔梗には全く太刀打ち出来なかった。稽古で悔しがる鷹丸を冷たい目で見下ろす桔梗に、鷹丸は恐怖するようになった。桔梗とは仲が悪い訳では無い。むしろ友として仲は良いのである。ただ、戦闘態勢の桔梗は恐ろしく、完膚なきまで打ち据えられ、修業で相手をする度に心を削られた。鷹丸はいつの間にか女が苦手になっていた。
だがそんな鷹丸にとって主君である氏治は別であった。いつもニコニコしていて、鷹丸が仕事の報告をすると労ってくれる。そして忍びである自分の身をいつも案じてくれていた。恐れ多い事ではあるが、自分よりも幼いその姿にも関わらず母を感じる事もあった。
「左様で御座います」
手を付き頭を下げながら短く答えた鷹丸は、信長が早く来ないかと待ち侘びた。
「其の方は真に小田家の家臣なのですか?」
「我が主、百地丹波は小田家の家臣に御座います。某も同様で御座います」
詰問するような帰蝶の様子を見た平手は顔色を変えた。
「帰蝶様、その様な態度はお控え下さい。鷹丸殿は客人でもあるので御座います」
平手の言葉を聞いた帰蝶はまたもや驚いた。明らかに身分違いのこの男が信長の客であるという。どうにも理解できないと悩む内に信長がやって来た。信長は鷹丸に相対するように座ると口を開いた。
「鷹丸殿、お待たせしました。この信長、一日千秋の思いで待っていました」
鷹丸は居住まいを正し、平伏して口上を述べた。
「信長様もご息災で何よりで御座います。我が主、小田氏治より書状と荷を預かって参りました。どうぞお受け取り頂けますよう」
そう言って書状と傍らに置いた箱の一つを、平手に前に差し出すようにして置いた。平手はそれを受け取り信長の前に置く。それを見て信長は一つ頷いた。
「氏治殿はまた土産を下されましたか。この信長は頂いてばかり、嬉しく思います。中身は例のものでしょうか?」
「珍陀酒に御座います。主からは返書が遅れたお詫びと伺って居ります」
それを聞いた信長は相好を崩した。信長は酒が嫌いであった。だがこの珍陀酒は別である。下戸の信長でも美味しく飲める唯一の酒であった。
「こちらは平手様にと申し付かって居ります」
鷹丸はそう言って珍陀酒の入った箱を平手の前に置いた。
「これは忝い。この平手にまでお心を使われるとは、勿体ない事で御座います」
喜ぶ二人を見て帰蝶は口を開いた。
「信長様、珍陀酒とは何で御座いましょうか?」
「氏治殿が造られた酒です。とても美しく美味な酒です」
帰蝶は信長が何を言っているか理解できなかった。酒は酒である。美しいも何もない筈だ。訝しむような顔をした帰蝶を見て、信長は受け取った箱の蓋を取り、中から珍陀酒を取り出し、帰蝶に手渡した。
帰蝶は初めて見る緑色の硝子の瓶に入れられた赤い液体を見て驚いた。そして信長の言葉を理解した。
「なんと見事な器でございましょう。中に入っているのが酒でしょうか?このような美しい酒は見た事が御座いません」
「氏治殿の領地で造られている酒です。美しく、美味で、珍しい酒であり、とても高価なものです」
信長は自慢げに帰蝶に話した。
「信長様、此度お持ちした珍陀酒は、氏治様が手ずから造られたもので御座います。そして器も同様に御座います」
「なんと、氏治殿自ら御造りになられたとは、この信長想像もしていませんでした。真に氏治殿には驚かされます」
信長はそう言ってしげしげと珍陀酒を眺め見た。その様子を見てから鷹丸は氏治から言付かった事を述べた。
「此度は返書が遅れた事、主に代わりお詫び申し上げます。常陸で戦が御座いまして、我が主も未だ小田城に戻って居りませぬ。信長様に無礼を働いた形にならないか、主が気にして居りました。願わくば信長様のお言葉を賜りたく存じます」
それを聞いた信長と平手は顔色を変えた。まさか戦をしていたとは思っていなかった。ましてや未だに帰らずとは穏やかではない。
「鷹丸殿、氏治殿はいかがお過ごしか?戦は長引くのでしょうか?この信長に出来る事はあるのでしょうか?」
矢継ぎ早に質問する信長に鷹丸は答えた。
「ご心配なさらないよう。戦は終わって居ります。ですが、常陸中部を切り取りましたので、我が主は政務に追われておいでで御座います」
それを聞いた信長と平手は胸を撫で下ろした。
「常陸中部といえば佐竹家か江戸家になりますな。どちらと戦なさったのか?」
信長や平手は氏治との交流をきっかけに、坂東の地理も頭に入れていた。地図を頭に浮かべながら平手が質問した。
「佐竹家の援軍の形で、江戸家を切り取りまして御座います」
「それは大勝利ですね。すぐに祝いを送らねばなりません。爺、祝いの使者の用意を頼みます」
「心得まして御座います。明日にでも手配致しましょう。それにしても目出度い、この平手も嬉しゅう御座います」
氏治の勝利に相好を崩す二人を見て帰蝶は首を傾げた。確かに友好国の勝利は良い事かも知れない。だが、それにしては喜び方が過ぎる気がする。所詮は他国の話である。小田氏治とはどのような人物なのだろうか?
「鷹丸殿もその戦には参加なされたのでしょうか?であれば話を聞きたいものです」
信長の質問に鷹丸は答えた。氏治からは、織田殿には何も隠さず話して良い事になっている。此度の戦は鷹丸も声を大にして語りたい大勝利である。主の許可もあり、鷹丸は戦の様子を語った。
「驚きましたな、切り取ったとは江戸家の全てであったとは、、、」
平手が感想を漏らした。それに続くようにして信長が口を開いた。
「『神速の用兵』を実践なされたか、さすが氏治殿。ご家中にまで秘伝を伝授されていたとは。それにしても僅かな兵で一日で三つの城とは驚きました。そして六日で常陸中部を平らげるとは、神速の妙技、この信長の目指すところでありました」
そう言って信長は目を閉じた。氏治の孫子の中でも『神速の用兵』は信長の興味を強く引きつけた。当然と言えば当然である。元々の歴史を知る氏治が、信長の用兵を真似ただけなのだから。
その後も信長は戦の話を鷹丸に強請った。鷹丸は自分が知る限りの戦の様子を語った。そして論功において、赤松と飯塚が褒美を辞退したくだりを聞いた信長は、他家の話ながら感動した。
「なんという忠臣。赤松殿と飯塚殿は武士の鑑だと思えます。乱暴狼藉は氏治殿も厳しく諫める所、ですが今の世でそのお言葉を聞く者は少ないでしょう。氏治殿が涙した気持ちが私には解ります」
その様子を見ていた帰蝶は『甘いのではないか?』と感じていた。帰蝶はマムシと呼ばれる斎藤道三の娘である。戦国の世は例え親子であっても非情なものと心得ている。なのに信長や平手、そしてそれを語る鷹丸は帰蝶から見れば甘いやり方に感心しているのだ。どうもおかしい、小田氏治に信長や平手が心酔しているようにも見える。それは大名の嫡男としてはあってはならない事だ。帰蝶は二人の様子に疑念を持ち始めていた。




