第四十六話 常陸の動乱6
江戸勢との戦に勝利した小田勢は二手に分かれて敵を追った。一方は河和田城を、もう一方は水戸城である。私と久幹は本陣の兵と物資を纏めてから引き払い、河和田城に向かった。他の支城は敢えて無視する形になった。本拠を落として江戸氏を降伏させればこの戦はおしまいなのだ。敵兵は散り散りに逃げているので襲撃の心配は無いとの久幹の言である。
歴史において常陸では水戸が有名である。佐竹家が本拠を置いた事に加えて徳川御三家の一つが水戸藩なので当然だと思う。ただ、この時代の常陸中部の経済の中心地は河和田である。ここを取れば江戸家は手足をもがれた状態になるのだ。
見慣れない風景の中を兵に守られながら物資と共に河和田に到着した時は既に夕方になっていた。河和田城に向かったのは一門の岡見を筆頭として赤松や飯塚もそれに含まれる。水戸に向かったのは勝貞を筆頭とした国人衆である。
今回の戦では降伏は認めても所領の安堵は認めない事になっている。勝貞と久幹に随分と念を押されたのだけど、私としてもその方がいい。どの道寝返るのだろうし、出来れば穏便に済ませたい。義昭殿はきっと怒っている筈だから小田家に降伏した方がいいと思うんだけど、城を枕に討ち死にとかは出来れば遠慮したい。
河和田に到着した私と久幹を待っていたのは、江戸忠通の使者だった。降伏して臣従するのが条件で、失った三つの城は小田家に譲るから所領を安堵して欲しいとの事。それを聞いた私達は皆で顔を見合わせてしまった。使者も虫のいい話だとは理解しているのだろう、態度にそれが見て取れた。
使者の言葉に久幹が怒りながら条件を付きつけた。内容としては一族郎党の生命と持ち出せる財産の補償のみで、領地は取り上げるといった内容である。期限は明日の朝までとし、飲めないのであれば城攻めを行うと使者に伝えて引き取って貰ったのだけど、私は一言も口を聞いていない。多分、交渉に向かないからハブられたのだと思う。口を開こうとしたら岡見のおじさんに目で止められたし。別にいいけど。
使者は私に寄り添う次郎丸に終始怯えていた。気持ちはよく解る、知らない人が見たらモンスターにしか見えないだろう。次郎丸を倒したら経験値とか貰えそうな気がする。
翌日に江戸家が条件を飲み、降伏する事を伝えて来た。それは各支城にも伝えられる事になり、ようやく戦が終わる事となった。ただ、ここまでの日数はたったの六日である。出来過ぎな気もするけど良いとしよう。
史実での河和田は、一五九〇年に佐竹の侵攻を受けている。河和田城は一日で落城して、数千の民が殺され、民家はことごとく焼かれて河和田一帯は廃墟になったと伝えられている。それらが今後防げるならば少なくとも小田家は河和田の民に尽くした事になると思う。尤も、その歴史を知るのは私だけなので心の中にしまっておく。
一日待ってから河和田城に入る事になった。陣中で暇を持て余していると、河和田の顔役や僧などが次々とやって来た。それに多くの民が遠巻きに集まっていた。私は常陸では有名人である。佐竹領を救った吉祥天の生まれ変わりの噂は常陸中部にも届いていて、多分、信仰心で集まって来たのだと思う。
江戸家の降伏は小田家によって意図的に広められたから民の耳に入ったのだろう。私は久幹、岡見、百地、桔梗に守られながら彼等に会った。
皆が皆、次郎丸を見て驚いてはいたけど、江戸の使者とは違って怯える者は少なく神聖なものを見たような眼差しで見る者が多かった。ただ、何故か僧は酷く怯えて退出して行った者もいた。隠れて悪さをしていたに違いない。
この時代の僧は現代人の目から見れば多くが犯罪者である。勿論、信仰を大切にして民を哀れむ人だってちゃんといる。だけどそれは位の低い僧や志のある僧であって、位が上がるほど悪事に手を染めるのだ。そもそも信仰に位があること自体おかしいのだけど、これは言っても仕方のない事だろう。
歴史では本願寺が有名だけど、民をそそのかして戦に駆り立てて何十万人もの人々に殺し合いをさせている。殺し合いをさせている当人は、豪華な居室で美味しい食事とお酒を飲んでいるのだから民もたまらないだろう。どう考えても悪魔の所業なのだけど、彼等は現代でも恥ずかし気もなく権勢を誇って裕福な暮らしをしているのだ。その事実は現代人であっても獣と変わりがない事が証明されていると思う。何故なら彼等は祖先の蛮行を全く恥じていないからだ。
ちなみに今川義元の家督争いで有名な花蔵の乱も、実態は僧侶同士の殺し合いだった事は有名である。どちらにしても宗教にはあまり関わりたくないのが本音だけど、小田家にも付き合いがあってそうもいかない事が多い。寺社に課金すれば天国なり極楽に行けると、この時代の人は本気で信じているから、私個人が否定する訳にも行かない。小田家も寺社には課金をしている。せめて課金分はガチャくらい回させてほしい。
次郎丸は見方によっては神獣にも見えるから私の噂も相まって私は好意的に受け入れられた。今後の統治の事もあるという事で、私は久幹にほぼ強要される形で集まった民の前に行く事になった。私が姿を現すと一斉に跪かれて拝まれた。確かに久幹の言う通りかもしれないけど、私のメンタルは音を立てて崩れそうになった。
翌日には河和田の城に入って腰を落ち着ける間もなく評定の日々となった。大領地をいきなり手に入れてしまったので、論功や城代や代官の任命など、領地を獲ったら獲ったで面倒な仕事が山積みになって行くのだ。常陸中部は全てが私の直轄地になるので譜代の家臣が大勢出世する事になった。皆の喜びようが凄くて私も嬉しくなった。国人には金銀で報酬を支払う事になる。勿論、留守を預かっている政貞や平塚にも褒美を与える。彼等のお陰で遠征が出来たのだから当然だと思う。
私は今後の事を考えて私の本拠地である南常陸は、勝貞を責任者として任命して第一軍団とした。そして今回の軍配を預かった久幹の功績の褒美として、常陸中部の責任者に任命した。真壁久幹軍団の誕生である。それを第二軍団として、基本的には第一軍団を上位と定めた。
まさか小田家で軍団制を敷くとは思っていなかったけど、統治する側としては都合がいいのだ。史実にある織田家の大規模な軍団とは比べるべくも無いけど、行政を一括で管理できない以上、仕方のない事でもある。
兵農分離は不可能な事が解って早々に諦めたけど、軍団制は大いに役に立つと思う。これで小田家の動員兵力は六千五百になる計算だけど、どうも江戸家は銭で兵を雇っているようだから石高で計算すると千五百、だから五千五百が小田家の最大動員兵力になると思う。
今回手に入れた常陸中部は背後と脇は同盟国の佐竹家に守られているから南の鹿島と大掾に警戒していればいい。逆の見方をするとその二家は小田家を脅威に思うかもしれないけど。
そして河和田には塩の道と呼ばれる街道があって鹿島で作られる塩が各地に運ばれていくのだ。荷留をする気は無いけれど、心理的に牽制も出来るし、何より税収が大きいので領内の発展のための資金は常陸中部だけでも余りあるだろう。
ここで私が塩作りを始めたら鹿島が怒る気がする。だけど戦略物資でもあるし、人が生きていくのに必要な物でもあるから大量生産して民が安価に手に入れられるようにしてあげたいのが私の本音である。
そうして十五日が過ぎた頃、ようやく義昭殿が常陸中部へやって来た。連絡は入れてあるので少数の軍勢を引き連れての来訪である。
―佐竹陣営―
岩城勢との戦を始めた佐竹義昭だが、守りに徹する岩城勢に苦戦を強いられていた。小さな小競り合いが続き悪戯に日数を消化していた。
岩城勢の目論見は解っている、時間を稼ぎ、江戸勢との挟撃の機会を待っているに違いなかった。だが小田勢が江戸領に侵入したのは相手方は知らない筈である。ならばそれを知らせて和議でも結ぼうかと義昭は考えたが、侵略された状況で和議を申し込むのは屈辱であり、諸将の理解を得られないだろう。
岩城勢と対陣してから七日、小田家の使者が義昭の陣中に訪れた。受け取った書状に目を通した義昭は我が目を疑った。小田家が江戸家を降伏させたと記してあるのである。
江戸家は佐竹家に比べると規模こそ小さいが、豊かな領地を背景にした軍事力は侮れず、度々佐竹家と争っては引き分けとなっていた。それを小田家がこの短期間で降したというのである。
義昭は直ちに諸将を集めて軍議を開き、江戸家が小田家に降伏した事を伝えた。江戸家の手強さを知る諸将は「信じられぬ」と口々に言い、そして背後の心配が全く無くなった事に安堵した。だが、同時に微妙な空気にもなった。
江戸家は佐竹家に臣従していた家である。今は別れて争っているが、常陸中部は佐竹家が支配していたという意識が強い。江戸家が小田家に降伏したという事は常陸中部は小田家の領土になったという事である。
今の江戸家は佐竹の臣ではない。だから当然領有権を主張することも出来ない。それに小田家は佐竹家の危機を救うために出兵したのであり、これに異議を唱えるのは家の恥であり、そして義昭も認められない事だった。
「皆の気持ちは解かっている。江戸家を降すのは私の悲願でもあった。だが、あれだけ無私で佐竹を救ってくれた氏治殿に我らは何の礼すら出来ていない。ここで異を唱えては武士として面目が立たぬ。江戸家をこの手で降せなかったのは無念だが、私はこれを認めようと思う。江戸家が滅びたのは戦を好まぬ氏治殿を天がお助けなされたのであろう」
義昭の言葉に諸将は納得するしかなかった。江戸家の足止めを要請したのは佐竹家である。そして小田家はその要請に応え、江戸家に戦を仕掛けたのである。結果として常陸中部が小田家の物になったが、数日前までの佐竹家は滅亡の危機に瀕していたのである。これに文句を付ける方がおかしいのだ。
そしてこのやるせない気持ちは岩城勢に向かう事になった。この日から佐竹家の猛攻が始まり、岩城勢を撤退に追い込んだ。追い打ちを掛けて岩城の領地を僅かだが切り取ることが出来た佐竹家の面々は留飲を下げ、帰国する事になった。
そして義昭は主だった将を引き連れて小田氏治が居る河和田の城を訪問した。今回の戦の礼をしなければ義昭の気が済まないし、何より氏治の顔が見たくて仕方が無かったのだ。
そうして到着した義昭一行は、河和田城の評定の間に通された。そして彼等は皆一様に驚愕するのである。上座に座った氏治に寄り添うようにして真っ白な大きな獣が座っているのである。二本の尾を掲げて揺らしながらまるで氏治に憑いているようであった。
それと同時に義昭が言った『戦を好まぬ氏治殿を天がお助けなされたのであろう』という言葉が蘇って来た。佐竹の諸将は次郎丸を侍らせた氏治に神性を感じたのである。古来、白い獣は神の使いと呼ばれる事が多いのである。佐竹諸将は驚愕し、畏怖し、納得した。そして同時に思った、このお方に逆らったら罰が当たるのではないかと。この時代の人々は現代人が考える以上に信仰深いので無理からぬ事だろう。
義昭の目にはそれ以上の光景に感じられた。自らを救った菩薩のような存在の神性が更に増したように感じられたのだ。次郎丸を侍らせる氏治の姿は、義昭の目には全てが輝いて映っていた。この場では佐竹義昭だけが氏治の神性を疑っていなかった。




