第三十四話 佐竹義昭の苦悩
佐竹家十七代当主、佐竹義昭の居城太田城は里川と源氏川の間に位置し、南北に連なる台地の上に築かれている。三重の堀の内には武家屋敷や商人街が連なっている。
佐竹氏は源氏の一族であり、その起源は源義光まで辿ることが出来る。戦国時代になると、佐竹氏十五代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が、佐竹山入家を討ち一族を纏め上げ、常陸北部を平定した経緯がある。
そして佐竹義昭が家督を継ぎ暫くすると、江戸氏は佐竹氏から離反の動きを見せ始めた。今現在の佐竹義昭の悩み事であり、家臣からは戦をせよと声が上がる始末である。
佐竹義昭としては、かつて祖父や父に従っていた江戸氏を、自らも従わせたいと考えている。だが戦になれば損害も馬鹿にできず、江戸氏も相当の力を持っているので負けでもしたら、取り返しのつかない事態になる可能性に憂慮していた。なので未だに動けずにいるのだが。
そしてそれとは別に佐竹義昭は苦悩の底に沈んでいた。それは佐竹義昭を悩ます事件が、連日のように起きていたせいであった。
それはある日突然始まった。朝になると門の前にカラスの死骸があった。最初は誰もそれを気にする事が無かったので片付けて仕舞であった。だが次の日も、さらに次の日もカラスや蛇や大きなカエルや百足などが門の前に置かれるのだ。
何者かの悪戯かと見張らせたが怪しい者はおらず、次の日にはまた死骸が置かれるのである。更に警備を増やすが効果が無く、門に無いと思えば屋敷の庭や屋根の上、ついには義昭の寝所に置かれる始末である。
流石の義昭もこれには肝を冷やした。人外の仕業かとも疑った。警備を厳重にしても何の効果も無かった。
最初は江戸氏を疑った。だが自分の寝所に忍び入れるなら命を取らない筈がない。これは人ならざる者の仕業なのではなかろうか?もしや悪霊の類の仕業なのではなかろうか?
義昭は日々起こるこの怪異な事件に恐怖を覚えた。内々に僧に相談した所、これは悪霊の仕業に違いないと祈祷を行う事になった。
その矢先に別の事件が起こる。領内のあちらこちらの寺社や祠に佐竹家を呪う札が張り付けてあるというのだ。検分の為に届けられた札には血でその文言が記されていた。と同時に、義昭の脳裏には連日置かれる死骸が浮かんだ。
何者かが我が家を呪っているのだ!
そう確信を得て祈祷を心待ちにしていると家臣が拾ってきた噂を耳にする。大塚、加藤、小宅が敵方に通じていると。確かにその者達は外様ではある。だがこんな急に噂が出るのも何かおかしい。
義昭は家臣に命じこの三者を見張らせることにした。悪霊騒ぎに家臣の離反、義昭の悩みは増えるばかりであった。その月の評定は紛糾した。城下に流れる噂のせいである。佐竹の家にも派閥があり互いに権勢を競っている。若い義昭は強く出る事が出来ず、なんとか秩序を保つのが精一杯であった。
結論を出せずに終わった評定に家臣は不満顔である。
何とかしなければ!
疲れを覚えて私室に戻った義昭は、文が置かれているのに気が付いた。そしてその文を広げ目を通す。文を持つ手がわなわなと震える。その文には、三十日以内に知っている者に同様の文を送らねば祟りに遭う、と記されていた。
馬鹿げている!
文を破り捨てようとしたが心とは裏腹に手が止まった。この頃の悪霊騒ぎや江戸氏の離反や、家臣の謀反の噂が脳裏をよぎる。もしこの文を破り捨て祟りに遭えば、自分はどうなるのか?佐竹の家はどうなるのか?
義昭は文を丁寧に戻し懐にしまった。心を落ち着けようと庭に出た時に、草履の緒が切れてつまづいて転んだ。強かに身体を打ち痛みに身を強張らせていると、懐から落ちた文が目に入った。
呪われている!
痛みより恐怖に震えた。恐る恐る文を手に取り私室に戻る。信の置ける家臣を呼び出しその間に文をしたためた。家臣が来るとくれぐれも内密にと訳を話し文を託した。文は幾人かの町人や村人を経由させるよう指示をし、差出人が自分である事が露見しないよう念を押した。出す相手は自分を軽んじる風をたまに見せる一門の者とした。
祈祷の日がやって来た。その日も変わらずに屋敷に死骸があった。更には屋敷の塀に天誅と血で書かれていた。天が我を誅するだと!急いで家臣に洗い清めさせた。出がけの凶事に心が揺れた。
義昭は寺に向かい到着する。これで凶事も収まるだろう。和尚に先導され本堂に入ると仰天した。本尊の仏像が血まみれなのである。和尚も家臣もその異様な光景に慄いた。勿論、義昭自身もだ。
祈祷は取り止めとなり、後日別の寺社を検討する事になった。そしてその出来事は領内に悪事として広まって行った。
失意に過ごす間にも凶事は次々に起こった。村々には佐竹が悪政を行おうとしているとの噂があったり、あちこちの御堂にまた佐竹を呪う札が張られていたり、家臣の謀反の噂も絶え間が無かった。
毎月の評定は荒れるばかりで、欠席する者も現れるようになった。隣国から常陸を狙う噂も聞こえ、義昭はいつしか酒に逃げるようになっていた。
夏の中頃になると田に虫が出たと報告があった。慌てて近隣の村々を巡ると、稲が枯れたり痩せ細っていた。今年の収穫は絶望的だった。
佐竹領は度重なる不吉な現象や家臣の不満、領民の不満が日々募っていった。季節は秋になったが米の収穫は減じ、年貢も碌に取れない状態になった。民は領主が天に見放されたと口々に言うようになり、その話は義昭にも伝わって来た。
そんな時に隣国の小田領からある噂が伝わって来た。
曰く小田氏治は吉祥天様の生まれ変わりである。
曰く吉祥天様のご加護で小田領は大豊作である。
曰く小田氏治様にすがれば皆が救われる。
佐竹家にとって小田家は同盟国である。その同盟は義昭の父の代に成立したものだが、義昭もこれを破るつもりはない。そして思うのは噂は本当なのだろうか?自分も吉祥天様のご加護を得られれば、この呪いから解放されるのだろうか?
ほぼノイローゼになっていた義昭は藁にも縋る思いで小田氏治に書状をしたためた。
♢ ♢ ♢
今年の収穫も大豊作だった。政貞と共に村々を巡ると、人々の明るい笑顔が眩しく見えた。果物の実りも良く、今年のワインの仕込みも期待が持てる。
来年は一気に小田領に農法を行き渡らせる予定である。そうなれば領民の生活も豊かになるだろう。そして計画の第一段階がようやく終わるのだ。民が十分に食べられる国である。
葡萄の苗木も順調に成長し、来年には拡張した農地に植え込みが始まる。そうなればワインの生産量が上がり特産品となり、小田家の財政も豊かになる。民が食べられるようになれば第二段階である、街造りに手を付けることが出来る。
民が貧しくては街はやっていけない。いくら立派な街を作ったところで、民が苦しんでいては意味が無いのだ。
「今年も大豊作だね」
私は傍らで馬を歩ませる政貞に語り掛けた。
「そうで御座いますな、民あっての国で御座いますから良い事で御座います」
そう言って顔をほころばせる政貞が眩しく見えた。最近は私の孫子でモラル面が変わってきている様である。以前と違って領民に気遣いを見せるようになった。考えを変える事は中々、出来る事ではない。この一事だけでも彼は尊敬に値する人物だ。
そうして村々を巡っていると伝令がやって来た。
「佐竹殿の使者?父上でなく私に?」
どうも佐竹殿の使者が来たようだ。政貞も顔を固くしている。私はすぐ戻ると伝え馬首を返した。
「まさかとは思いますが、策が露見したのやも?」
「うっ、でもそうなら戦になってない?それに私に直接来るのもおかしいし」
そうして不安になりながら急いで戸崎の城に戻った。戻ってすぐに着替えをし、広間で佐竹の使者と対面する。
互いに挨拶を交わし本題に移った。ちなみに使者は小田野義正殿だった。確か義昭殿の側近だった筈だ。
「お家の恥では御座いますが、我が佐竹家は呪われて居るようなので御座います。我が主も気を病まれ、ほとほと困っている所で稲が虫にやられ、今年は米もろくに採れませぬ。どうにもならぬと落胆していた所、ある噂が聞こえてきました。耳に致したのは氏治様のお噂で御座います。何でも吉祥天様の生まれ変わりだとか。我が主は少しでもご利益にあやかりたいと願い、某を遣わしたので御座います」
ヤバいである。まさかここまで効き目があるとは思っていなかった。この時代は信心深いから効果があるだろうな?くらいにしか思ってなかったよ。どうしよう?
「私は吉祥天様に誓いは立てましたが、生まれ変わりなどではありません。ですが佐竹家は大切な同盟国です。私に出来る事があるのならば何でも致しましょう。詳しい話をお聞かせ下さい」
私の言葉を聞いた小田野殿は細かに事情を話してくれた。聞く程に背中に嫌な汗を感じた。
「事情は分かりました。家臣と相談致しますので、それまでゆるりと為さって下さい」
そうして私は私室に戻るといつものメンバーを招集した。座卓に並んだ皆に事情を説明する。
「稲が虫にやられたのは私のせいじゃないと思う!」
一番に主張する。打たれ弱すぎる義昭殿も悪いと思う!はっきり言ってネットの叩きの方が容赦ないからね?
「まぁそうでしょうが、ここまで効き目があるとは恐ろしいものですな」
久幹は感心したように顎をさする。そして久幹は百地に問う。
「百地殿、佐竹は内乱でも起きそうですか?」
「このまま続ければその可能性も御座います。致した我等も驚いて居りますが、噂だけで国が滅びそうですな」
そう答えて私に視線を動かした。百地の話を聞いて勝貞が顔色を変える。
「今攻め込めば容易く北常陸を獲れそうで御座いますな。それにしても何と恐ろしい」
そう言って私に視線を動かす。
「正に悪逆非道の策で御座いますな、頼もしくも御座いますが恐ろしくも御座いますな」
政貞も勝貞に追従し、私に視線を送る。まって!このままでは私だけが悪者になってしまう!そうだ桔梗だ!桔梗なら味方をしてくれるに違いない!私は桔梗に目で訴えた。速攻目を逸らされた。
「皆で決めた試しなのだから私のせいにしないで欲しい。責任があるとすればこの場の全員だからね!それよりもこれからどうするか決めないといけないよ。取り合えず策は中止にする。百地、お願いね」
「畏まりました、鷹丸に戻る様に伝えましょう」
「お待ち下さい。どうせなら若殿が佐竹様にお会いしてから、中止にすべきです。今止めれば露見する可能性が御座います」
皆の視線が久幹に集まると彼は続けた。
「佐竹様を弱らせる事には成功しました、暫くは戦どころか統治もままならないでしょう。若殿の仰る通り割拠している今の状態は都合が宜しい。まず考えるのはお家の事。育った領が踏み荒らされれば、このような同情も吹き飛びましょう」
「確かにそうであった。若殿の兵書を読んでから少々甘くなり過ぎたようだ」
そう言うと勝貞は髭を撫でる。その様子を眺め次いで私に視線を向け久幹は続ける。
「まずはお会いするで宜しいでしょうか?」
「うん、策は策だよね。佐竹が強くなり過ぎればいずれ戦になるのだし。でも凶作に喘いでいるなら援助をしよう。戸崎と宍倉の余剰米を全部義昭殿に送る。それでどうかな?」
私がホッとしながら出した提案に政貞が渋面を作る。
「少々気前が良すぎるのでは御座いませんか?これで佐竹様が再び力を蓄えるとなると、折角の策も意味を成さなくなるやも知れません」
「うーん、同盟は強固になりそうだよね。恩を売れば江戸と戦になっても、介入して調停出来るようになるかも知れない。それでも領土が欲しいなら私達から見て、正しいと思う方に助太刀するでどうかな?」
「そうで御座いますな。余りに薬が効きすぎて動揺しましたが、元の目的は戦を無くす事で御座います。此度の策は一兵も一民も殺して居りません。宜しいかと存じます」
勝貞の言葉に皆が頷いた。
「では政貞と久幹は荷車を掻き集めて、お米を送る準備をお願い。それと護衛の兵もね。勝貞は小田野殿を歓待して。くれぐれも丁重にね。荷が出来たらすぐに発つ事にする。父上には私が許可を取って来る。ダメと言われても行くから準備は進めてね」
こうして佐竹領に行く事になった。私は小田野殿に決定した事を話すと、彼は涙を流して喜んだ。激しくマッチポンプなので酷く後ろめたかったけど、仕方ないと割り切った。史実では小田が惨い目に遭うし、今回は精神攻撃なので許してもらおう。
私は小田野殿を連れ父上に事情を話した。私の吉祥天様の話は頭を傾けていたけど、小田野殿から伝え聞く義昭殿の様子に心を痛めたようだ。何だか大事になってしまったけど私は悪くないと思う、たぶん。
太田城にある私室で義昭は陰鬱な日々を送っていた。毎日のように起こる凶事に加え不穏で不吉な噂や報告の数々、彼の精神は崩壊寸前であった。唯一の望みは数日前に出した使者の返事だけである。




