第三十二話 賞賛と戦の兆し
熊退治の翌日の昼、手塚が尋ねて来て熊の肉を貰った。そして桔梗も貰った。ちゃっかりした男である。その様子を不思議そうに眺めていた政貞が、手塚に話し掛けた。
「手塚殿、その熊の肉はどうされたのか?」
そう問い掛けられた手塚はニヤリと笑い、昨日の熊退治の顛末を語り始めた。政貞は軽く口を開けたまま、私と手塚に交互に視線を動かすように聞いていた。桔梗も口に手を当て目を丸くして聞いている。手塚が語り終えると政貞は私に向き直り口を開いた。
「若殿!真で御座いますか!」
「手塚の言う通りだけど余り騒がないでね。危ない事をしたのは謝るから」
「真で御座いましたか!若殿の武勇は存じて居りましたが、まさか熊を素手で殴り殺すとは驚きました」
「頭蓋がめちゃめちゃになって居りました。捌いた村の者も腰を抜かして居りましたぞ」
手塚が相槌を打つように続けた。それを聞いた政貞が目を剥く。
うー、暫くはこの話が続きそう。変な二つ名とか付いたら嫌だな。
政貞はそう言うと再度手塚に話を乞う。手塚は桔梗を意識しながら得意げに語った。
「何とも凄まじい。その御身体の何処にその様な力があるのか、不思議で御座います」
政貞は感心したように腕を組みながら頭を傾ける。すると珍しく桔梗が口を開いた。
「政貞様、若殿には吉祥天様のお力が宿っているので御座います」
「えっ!」
「えっ!」
「えっ!」
私と政貞と手塚が同時に声を挙げた。それを見て桔梗は続ける。
「若殿は吉祥天様に小田領を悪鬼から守れるよう、誓いを立てたので御座います。その願いを吉祥天様が、お聞き入れ下さいましたので御座いましょう。若殿のお力はその証で御座います」
「えぇぇー!」
「えぇぇー!」
「えぇぇー!」
また私と政貞と手塚が同時に声を挙げた。
「何故若殿が驚いているので御座いますか?」
桔梗が小首を傾げて問う。いや、だって私だって初耳だし。それに悪鬼から守れるようとは言っていない筈?
「いや、桔梗、それはいくら何でも吉祥天様に失礼だと思うよ?」
「そのような事は御座いません。現にこのように御力を示されて居ります。桔梗も毘沙門天様に御誓い申し上げましたが、信心が足りていないようです。村に御堂でもお造り致しましょう」
そう言うと静かに手を合わせ目を閉じる。その様子を見て政貞が口を開いた。
「なるほど、それならば合点が行きまする。人では為しえぬ御力なのも確か、我らは何と素晴らしき当主を迎える事になるのか、、、」
そう言って私に平伏する。政貞はただでさえ感激屋だから困るんだけど?
「なるほど、吉祥天様の御力で御座いましたか。某、昨日は若殿の熊退治のお話を雪殿に致しまして数年ぶりに会話が成立したので御座います。まさに神の御力によるもので御座いましょう」
そうして微笑みながら目を閉じる。そんな悲しい事を嬉しそうに言わないで欲しい、そして私は関係ないから。
嘘つきの私だけど、さすがに神の力と僭称する事は憚られる。私にだって信仰心はあるのだ。
そうしていると侍女から来客を告げられた。久幹と赤松と飯塚だった。私室に通すよう言い渡し、入って来た三人の目的は熊退治の話であった。私は手塚に誇張しないよう命じて話をさせた。
面倒を感じた私は熊肉を持って私室を抜け出し小田城に向かった。今夜は父上と熊鍋のやけ食いである。
熊退治から暫く経ち、田植えも終わりホッと一息ついた頃、小田城の四の溝にある竜勝寺の内に吉祥天様の御堂が建てられる事になった。
父上は家臣から上奏されて半信半疑な様子だった。そして私に「本当なの?」と可愛く訊ねて、私が熊を退治したのは本当だけど、吉祥天様の事は知らないと答えると、頭を捻りながらも許可を出した。それにしても、この時代の人達の信心深さを舐めていたよ。
私の噂は周辺にも広まり、小田邑にある竜勝寺や長久寺には、話を聞きに来る者がやって来るようになったそうだ。小田の領民は私の城である戸崎城に向けて手を合わせ拝むようになった。誰か助けて欲しい。
私の羞恥心を犠牲にしたせいかは知らないけれど、領民からの人望が上がったようだ。
そして評定の時に手塚によって持ち込まれた熊の毛皮は武勇を誇る小田の家臣をも仰天させた。それもあって私の評価が上がりすぎてお腹が痛い。
そもそも、桔梗がやらかしたせいなのだけど、どの道未婚を貫く方便にしていたので文句も言えない。その桔梗も鉄砲衆の村に毘沙門天の小さな御堂を建てたそうだ。
♢ ♢ ♢
その日、結城政勝は昼間から酒を飲んでいた。最近聞こえて来た噂に機嫌を悪くしていた。何でも小田の小娘が吉祥天の生まれ変わりだと言うのである。
結城政勝にとって小田政治は天敵と言っていい間柄である。何度も戦でぶつかっては勝負が付かない相手であった。その憎き敵の娘が吉祥天の生まれ変わりと持て囃されている。それが気に入らない。
政勝は子供に恵まれなかった。やっと授かった嫡男である明朝は今年の三月の終わりに疱瘡で亡くなってしまった。今の結城家には嫡男が居ない状態である。
自分に子が居ないのに政治には子が居てしかも、神の生まれ変わりと言われているのだ。面白くない。
小田政治が女子を嫡男としたと聞いたときは大いに笑ってやった。女子にお家の舵取りなど出来様はずがない。そうして自分には男の嫡男が生まれた。いずれはこの子と小田を滅ぼさんと誓ったものだ。だがその子はもういない。
盃を一気に呷る。酔っても一向に気が晴れない、そうして虚空に亡き明朝の幻を夢想した。
暫くそうしていると来客と家臣が知らせて来た。水谷正村であった。
酔った自分の姿を見せる事に一瞬戸惑ったが、どうでもいいと見栄を捨て去り通すよう申し付けた。暫くすると水谷正村が姿を見せた。
水谷正村。下館城主であり武勇に優れるのを見込まれ主君、結城政勝の娘婿となり「結城四天王」の一人と呼ばれている。風貌も独特で髪は剃り落とし、その左目の眼球には瞳が二つもあった。初めて相対する者は、その異形に戸惑うか恐怖するであろう。
水谷正村は挨拶を終えると左目をギラつかせながら話を切り出した。
「御屋形様のお耳にも入ったかと存じますが、小田の小娘の話に御座います」
それを聞いた政勝はピクリと片眉を上げた。今は聞きたくない不快な名である。
「其の方も下らぬ噂話に興味があるのか?」
吐き捨てるように問う政勝に水谷正村はニヤリと笑う。その様子に政勝はまなじりを吊り上げる。
「小田の小娘が神の生まれ変わりなど、下らぬ戯言で御座います。某が読むに、小田政治は病に侵されているのではないかと、推察致します」
「政治が病であると?」
水谷正村はゆっくりと頷く。
「某が聞きましたところ来年の三月に、小田の小娘が家督を継ぐそうで御座います」
それを聞いた政勝は顔を歪める。同時に今は亡き明朝が頭の中を横切った。
「して、それがどうだと言うのだ」
「政治は焦っていると見ました。現に小娘が神の生まれ変わりなどという戯言を、噂にし流して居ります。小田の家臣共も小娘が当主では動揺しているので御座いましょう。小娘の家督継承、神の生まれ変わりの噂、いくら何でも都合が良すぎると考えます」
それを聞いた政勝は膝をポンと手で打った。言われてみれば確かに都合が良すぎる、人が神になれる筈もない。そんな事すら判断できない程、政治は弱っているのか!しかし、と疑問も浮かぶ。
「真に政治が病であれば多賀谷から知らせがあろう?」
「虚勢を張っているのでしょう。音に聞こえた政治で御座います。そのくらいの芝居はやってのけるかと」
確かに、水谷正村の考えは正しく思える。しかし、自分が知る小田政治は武勇の人であり小賢しい策を弄する人物ではない。だが、擬態にしては話がおかし過ぎる、第一、神を名乗るなど尋常の精神で出来るものではない。
チラリと水谷正村を見る。左目の二つの瞳が怪しく揺らいでいる。勝機に聡い男だ、そして狡猾でもある。そこが気に入って一族に招き入れたのだ。
だが今の小田の国力は侮れない。小田政治は減じていた領土を復活させた。兵も四千は集まるだろう。こちらは多賀谷を入れて五千、数では勝てる。小娘が家督を継げば国人の離反も考えられる。対陣して寝返りでも出れば討ち散らすのは容易いだろう。
いや、討ち入り、小田が兵を集めている間に城の一つも取れば、将は動揺するだろう。そうなればまず負けは無い。軍は恐らく菅谷が指揮を執る筈。小娘には何も出来まい。
「ふむ、それでどうするのだ?其の方の考えを申してみよ」
政勝の言葉に水谷正村は口角を上げる。
「小娘が家督を継いだらすぐに攻め込みまする。兵を集めるにも時期がよう御座います」
「多賀谷はどう致すのか?」
「気取られては面倒なので攻め込む前に使者を送ります。あの家は強い方に付きます故、ご心配なく。某が差配致しましょう」
政治が存命中に戦を仕掛けるのは面白い。領土の半分も獲ってやればさぞ悔しがる事だろう。
「よし!其の方に任せる。時はある故ゆるりと戦の備えをせよ!」
「はっ、先陣はこの水谷正村にお任せ頂けますよう」
そう言い水谷正村は平伏した。その姿を眺めながら結城政勝は口角を上げる。政治が逝く前に雌雄を決する。そうして政勝は膝を強く叩いた。
♢ ♢ ♢
私は堺行きの準備を始めていた。運ぶ品はグラスやワイン、椎茸、石鹸、リバーシだけど行きの船倉はスカスカである。十月に予定している船便では果物を満載に出来るのだけど、仕方が無いと諦める。
今回は堺に金を持ち込む予定だ。小田家の蔵にはかなりの量の金と銀が貯め込んである。暫くは戦も無かったので貯まる一方である。
蔵で腐らすのは勿体ないと父上に相談し、玉薬を買い込む予定だ。無ければ宗久殿に預けてしまってもいいかもしれない。
鉄砲は去年完成したのは二十二丁である。今年完成分と手持ちと合わせて五十七丁が現在の小田家の鉄砲保有数である。今年は六十以上出来る予定だ。来年には約百丁の鉄砲を持っている事になる。今の時期なら小田家は全国で、最も鉄砲を保有する家になるかもしれない。鉄砲が千丁になるのが楽しみだ。
私は戸崎の城に行こうと、小田城の武家屋敷の通りを馬を歩かせていた。すると後ろから声が掛かった。
「若殿!」
赤松と飯塚の筋肉コンビである。二人は久幹に次ぐ武勇の持ち主であり、小田四天王と呼ばれている。なんかこういうネーミング皆好きだよね。ちなみに政貞と手塚もメンバーである。お笑い四天王の方がしっくり来るのは、私の気のせいだろうか?
私は馬の手綱を引き足を止めた。二人は馬を私の側に寄せて来た。
「二人揃ってどうしたの?」
私に一礼してから飯塚がニコニコしながら答える。
「今日は若殿の兵法の指南を受けに参りました」
なぬ?私の兵法?
「私は指南などした覚えが無いのだけど?」
私がそう言うと赤松が口を開いた。
「政貞殿が若殿より兵書を賜り、それを皆で学んでいるので御座います。この赤松、若殿のお心に触れ感動致しました。吉祥天様のご加護といい、当家は素晴らしき当主を迎えると皆が申しております」
政貞何やってるの!返って来ないから気にはなっていたけど、そんな事をしているなんて知らなかった。私は頬をヒク付かせながら赤松に問い掛けた。
「聞きたいんだけど、誰と誰が参加しているのかな?」
「某共と菅谷の一門方に手塚殿に百地殿、桔梗殿で御座いますな。若殿の教えに皆目から鱗が落ちるような心持で御座います。有り難い事です」
赤松がそう言うと飯塚が続く。
「若殿、武勇のみではお家を守れぬと某も理解致しました。そして民への哀れみ、某は若殿にお仕え出来て幸せ者に御座います」
ダメだ、今更返せと言えない状態になっている。武勇一辺倒だったこの二人が兵法に興味を持つ程だ、私の注釈は理解し易かったのだろう。将の教育にはいいかも知れない、でも恥ずかしい。最近は恥ずかしいイベントが多すぎる気がする。
それに二人ともそんな綺麗な目で私を見るのは止めて欲しい。心が痛い。
「では、某共はこれで失礼致します。指南に遅れては一大事で御座います故」
私に一礼し二人は去って行った。私は呆然と見送るばかりであった。