第二十話 氏治からの手紙
尾張の国、勝幡城。二重の堀に囲まれた館城であり、公卿の山科言継は織田信秀から勝幡城に招かれた際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記に記している。そしてここは「尾張の大うつけ」で知られる織田信長の現在の居城である。
織田信長の傅役であり織田家の次席家老である平手政秀は足早に廊下を進んでいた。そして部屋の前に来ると片膝を付け部屋の主に声を掛ける。「入れ」部屋の主の声を確認すると平手は戸を開け、そして主の前に座り居住まいを正した。平手の前には主君である織田三郎信長が書物に向かっていた。信長は平手の様子に片眉を軽く上げる。
「信長様、小田氏治様より使者が参っております」
平手の言葉を聞いた信長の顔に喜色が浮かんだ。
「氏治殿の使者で間違いないか!」
「間違い御座いません、今は部屋でお待ちいただいております」
「すぐ会おう!着替えだ!誰かある!」
信長はそう言い放つと足早に屋敷の奥に向かった。それを追うように平手が続く。やがて衣服を着替えた信長は使者の待つ部屋に到着した。
「爺、人払いは?」
「出来ております」
軽く顎を引き襟を正すと信長は部屋に入った。ここ尾張や近隣では織田信長の評判は最悪と言っていいほど悪い。奇天烈な行動が多く「尾張の大うつけ」と呼ばれている。だが、これらの行動は信長の擬態であった。信長は尾張に大きく勢力を伸ばす織田信秀の嫡男である。いずれは家督を継ぎ、家と家臣を守るのが務めとなる。尾張には幾つかの勢力が混在し、未だ統一には至っていない。その中でも織田信秀が抜きんでた存在となっている。しかしその家中は結束が固いとは言い切れない状態である。嫡男である信長には織田大和守家と、弟の信勝などの競争者がいたのである。父信秀が没すればお家争いは必然の状態なのだ。年々激化する織田家の派閥争いに家臣も動揺している。そして誰に着くべきか見守る者もいれば行動に移す者も出てきている。
これに対するに信長は一計を案じた。彼は傾奇者を装い奇行を演じる。誰が敵で誰が味方か判断するためである。そして信長のこの策を知る者は傅役の平手政秀のみである。信長は城でも領内の街や村でも粗暴な振舞いをした。今では「尾張の大うつけ」と評判されるようになり、それを諫める者もいれば遠ざかる者も出て来た。それら家臣の行動は信長が家督継承後の判断材料になる。戦で寝返りなどが出てはたまらない、信長は家臣の選別を行っていた。しかし、彼の生来の性質は善である。策の為に奇行を演じていたがそれは同時に信長を苦しめた。家でも外でも演じ続けるのである。並みの精神では耐えがたい程の苦痛であった。そんな時に信長の前に現れたのが小田氏治であった。氏治は信長の擬態を見抜き、一人で抱え込まないよう助言した。そしてその言葉は大いに信長の心を救ったのだ。信長は氏治の助言に従い、傅役の平手政秀に己の策を打ち明けた。それを聞いた平手政秀は驚くと共に一人苦しむ信長を哀れみ涙した。そして信長に忠誠と協力を再度約束したのである。
小田氏治との邂逅は信長に多大な影響を与えた。信長と同年である氏治は自らの理想と考えを持ち、そして行動していた。信長は嫌でも自分と比べざるを得なかった。信長の小姓である前田犬千代を叩きのめした膂力に加え、明晰な頭脳と行動力に信長は驚愕し、そして憧れた。信長は無意識の内に友を求めていた。信長の周りには生まれた時から家臣しかおらず、彼と対等な存在はいなかった。そして現れたのが小田氏治であった。信長は氏治の友になりたかった。だが自らの非才を恥じる信長には友になって欲しいと言えなかった。氏治に並ぶべく信長は武芸や学問に更に力を入れる事にした。その努力する姿は平手をして驚愕させた。だが信長は学問で壁に突き当たる。織田信長は早熟でありその頭脳は明晰である。学問を師事するものの、その内容に納得が出来なかった。彼の中で辻褄が合わないのである。信長は再び苦しんだ。そして悩んだ挙句、氏治に助言を請うたのであった。そして氏治の使者が今、目の前にいる。
「織田三郎信長です。氏治殿のご使者殿、楽にして下さい」
信長の穏やかな様子に氏治の使者である百地の忍び、鷹丸は動揺する。
「尾張の大うつけ」の評判は知っている。鷹丸は敬愛する主君に相応しくないと思いながらも主命だからと割り切って務めを果たしている。だが、彼の目の前にいる信長は評判とは真逆の姿に見えた。
「某、小田氏治が家臣、百地丹波の手の者にて鷹丸と申します。我が主君、小田氏治様より書状と荷をお届けに上がりました。お受け取り頂けますよう」
そう言い鷹丸は平伏する。普通、忍びは名を明かす事は無い。しかし、鷹丸の主である百地丹波が小田氏治の家臣となりその氏治が堂々と名乗るよう命じたのである。
「ご使者殿、お顔を上げて下さい。氏治殿の使者であれば過ぎた礼は無用です」
鷹丸はその言葉に驚愕する。大名の嫡男の言葉と思えなかった。まるで自分の主君の小田氏治を錯覚させた。
「過分のご配慮、痛み入ります」
「ご使者殿、氏治殿の家臣で百地丹波と言われましたが、伊賀のあの百地で間違いありませんか?」
「間違いは御座いません。百地丹波は小田氏治様に家臣として仕えております」
鷹丸の言葉を聞いた信長は軽い驚きを覚えた。乱破を家臣にするとは聞いた事が無かった。
「成る程、あの氏治殿が家臣とするなら余程の人物なのでしょう。氏治殿は私には想像もつかない事をいとも簡単になさる。この信長は未だ遠く及びませんか」
そう言いながら信長は驚きとも落胆ともいえる態度を示した。その様子に鷹丸は目を丸くする。自分の主に対する信長の態度はまるで敬愛しているようであったからだ。
「使者殿、氏治殿に信長がくれぐれも宜しく申していたとお伝え下さい」
「はっ、確かに承りました」
使者を帰した信長は自室に戻った。氏治の書状と荷である箱が信長の前に置かれている。そして側には平手が控えていた。信長は書状を手に取り、思わず顔が綻んだ。そして読み始めた。飾らない手紙であった。
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尾張でお会いしてから随分と月日が流れました、信長殿はお元気でしょうか?
御心の強い信長殿の事です、無用な心配なのかもしれませんが。
私は国造りに手を付け始め、忙しい毎日を送っています。いずれは常陸も尾張のように栄えるよう努力しています。
お手紙は拝見しました。貴方はいつも努力しているのですね。でも張りつめすぎるのもいけません。適度に息抜きは必要です。
平手殿にお話ししたとありましたが、私はこれを嬉しく思います。平手殿は大事にしてあげてください。
兵書に関しても信長殿のお気持ちはよく理解できます。なので、とても恥ずかしいのですが私が注釈した孫子をお貸しします。
写しは構いませんが、恥ずかしいので信長殿と平手殿以外は見ないでいてくれると助かります。
お土産の味噌は皆で食べました。とても美味しかったです。
船を作っているので完成したら尾張に求めに行くのもよいかと考えています。
最後に信長殿のご健勝をお祈りいたしております。
「小田氏治」
― ― ― ― ― ― ― ―
手紙を読み終えた信長は目を閉じ、氏治の姿を思い浮かべる。そして手紙を確認するかのように再度読み始めた。読み終わると満足げな表情で平手に手紙を渡した。平手は受け取った手紙を読み、その頬を緩めた。
「お元気そうで何よりで御座いますな」
「うむ、氏治殿はこの信長を案じてくれていました。嬉しい事です」
「氏治様はあの御歳で兵書を注釈をなさるとは驚きました」
「氏治殿は私の心をこうして救って下さる。あのお方には敵いません」
そして信長は氏治からの荷を解いた。箱の中には書物が収められており、その高さからかなりの数があると伺えた。表題には「私と孫子」という文字が見て取れた。信長はそっと手に書物を取ろうとしたが何かおかしい。
「!!!」
それは書物と言うにはあまりにも大きすぎた、ぶ厚く、重く、そして大雑把すぎた。それは正に書塊だった。戸惑いながらも信長は箱から書物を取りだし床に置いた。
「なんという、このような書物は見た事がありません」
平手が驚嘆する。
「さすが氏治殿、この信長をいちいち驚かせてくれます。それにしてもこの厚さは理解が及びません」
信長は傍らにあった自分の孫子を氏治の書物の横に置いてみた。そしてじっと見比べる。違いは歴然としていた。
「これは真に孫子なので御座いましょうか?この平手も長く生きておりますが、この様に厚い孫子は初めてで御座います」
信長は同意するように頷く。
「私も初めてです。この厚みが違う分が氏治殿の注釈だとすると恐ろしい量になりますが……」
信長は意を決したように書物を開く。そして最初の項を読み始める。
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この書を読む者に孫子が語ることを鵜呑みにするべきではない事を警告する。
何故なら孫子は今の天文の世から二千年前の人物であり、そこに生きる人々は今の我等と比べれば遥かに獣に近い存在だからである。
そして日ノ本の礼と道とは相容れない存在でもある。
しかし、それらを差し引いても孫子は真の才人だと、言わざるを得ない。その理は二千年の時を経ても色褪せる事無く、我等に兵の道を示しているのである。
しかしながら孫子の兵法をそのまま使えば、その者はただの野盗に成り下がる。
何故なら真の君主とは自国の民も他国の民も、同様に安んじる存在だからである。
天文の世に於いて乱暴狼藉は当然の行いと働いているが、それは人の心を失った獣の所業であると言わざるを得ない。戦国の世を言い訳にし、民を苦しめていい道理など無い。
だから君主は孫子の教えを鵜呑みにしてはいけない。我等は孫子の理を理解し、日ノ本に見合う理に昇華せねばならない。
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そこには全方位に喧嘩を売るような文言が記されていた。氏治が深夜のテンションで調子のいい事を書き込んだ結果であるが、信長と平手は知る由もない。信長は書物から目を離すと静かに目を閉じた。かつて語られた氏治の思想が思い出される。そして平手に書物を読むよう促した。暫くして読み終えた平手はその身を震わせていた。
「このようなお考えを為さっていたとは。この平手、感服致しました」
信長はその様子を見ながら口を開いた。
「これが氏治殿です。しかし、兵法と歴史と時代を同時に考察されるとは……。この信長、到底及びません」
信長は暫くは瞑想するように目を閉じていたが、やがて目を開けると書物を読み進めようと手を伸ばした。ふと書物の横から僅かに紙が出ているのに気が付いた。信長はその性格から整っていない物が好きではなかった。それもあり飛び出ている紙を直そうと書を開いた。そこには絵が描かれていた。折り畳まれており全体を知ることは出来ない。その紙はどうやら長いらしいし紙の質も違う様だった。好奇心が湧き、折り込んであった紙を摘まんで開いてみた。
「!!!」
そこには見事な合戦の様子が描かれていた。それも見た事が無い詳細な絵図であった。絵図のあちこちに氏治のものと思われる注釈が細かい字で記してある。
「爺!これを見よ!」
驚きと興奮で語気が粗くなった信長の様子に瞠目しながら平手は信長の手元に目を落とす。
「なんという……」
氏治はイラストが得意だった。冬の長い夜の手慰みも手伝って「私が考えた戦術」を絵にしたのだ。現代では当たり前な立体感のある表現を毛筆で細かく描いてある。そして堺で購入した絵具で着色したその絵図はこの時代の人間であるなら美しいと形容するに足りるものであった。
「このような見事な絵を氏治殿が書かれるとは……」
信長はしげしげと絵図を眺め見る。
「かような才まであるとは驚きですな」
平手が漏らすように感想を述べた。
「これは、氏治殿の秘伝かもしれません。このように貴重な物をこの信長に御貸し頂けるとは……」
信長は几帳面に絵図を折り畳むと別の絵図を広げる。そこには先ほどの絵図のように別の物が描かれている。そしてその中の一点に信長の目が釘付けとなる。
「これはもしや鉄砲?」
そこには鉄砲隊の様子が描かれていた。信長も鉄砲は知っていた。現に織田家にも数丁存在している。信長はこの新兵器に着目し、いずれは数を揃えての運用を考えていたのである。
「鉄砲をご存じ所か、このような使い方まで考えておられたとは、さすが氏治殿……」
「これは何でしょうか?戦馬車と書いてありますな」
いわゆるウォーワゴンである。馬車を利用した移動式トーチカが描かれている。戦国時代にも馬車は存在する。小田家も輸送用の馬車を三台所有している。
「ふむ、この絵図を見る限り馬車を大量に並べて盾として鉄砲を使用するようですね。よく考えられています」
信長と平手は絵図を見てはあれやこれやと話し合う。
「氏治様は写しを許されましたが果たして写し切れるものなのか……」
平手が漏らした言葉に信長が答える。
「氏治殿のご好意を無駄にする訳にはいかないでしょう。爺、私は写本しようと思う。少しでも氏治殿に近付く為に……」
こうしながら信長と平手の夜は更けて行った。そしてこの出来事が、天才信長の才能を更に伸ばすことになる。




