第二話 河越夜戦その後
2023/2/1 前半部分大幅修正致しました。
河越城を包囲していた連合軍は壊滅した。北条氏康の夜襲を受けて、散り散りになって逃げだしたのだ。軍勢の殆どは雑兵と呼ばれる民百姓である。彼等は好きで戦に参加している訳ではない。領主から兵役を課せられ、仕方なく戦に参加しているのだ。中には自ら戦に参加する人もいるけれど、その人達の狙いは乱取りである。乱妨取りと呼ばれるこの行為は、簡単に言うと略奪である。軍勢が戦で勝てば、褒美として雑兵に敵方の村や町などの略奪を許すのだ。そしてこの行為は、戦国時代では当たり前の行為と行われている。
そんな人達なので、武士のように主君を守る為に踏み止まって戦う事はしない。自軍の旗色が悪くなると、さっさと逃げ出してしまうのである。連合軍の雑兵も、北条氏康の夜襲を受けてさっさと逃げ出してしまったという訳である。
私と勝貞、久幹は、北条家の夜襲を受けて混乱している上杉朝定の陣に百騎の手勢を引き連れて助けに向かった。周りでは嘶く馬の声や、人々の怒号が飛び交っていた。夜襲がある事を知っていた私は、当然警戒していたので初動が早かった。でも、上杉家の陣に入ると呆れたのである。その様子は今でもはっきりと覚えている。
私達が陣に駆け込むと、上杉家の家臣と主である上杉朝定が揉めていた。
「何故、この我が逃げねばならぬ!北条は小勢、我等は八万の軍勢。夜討ちを掛けられても数はこちらが多いのだ!其の方等が返り討ちにすれば良いでは無いか!」
「殿、先ずはお逃げ下され!敵は目の前に迫って居りまする!」
家臣の一人がそう言うと、もう一人の上杉家の家臣が訴える。
「雑兵共も逃げ散って居ります。この暗闇の中では兵を集める事も叶いませぬ!逃げぬと仰せであらば、某が攫ってでも殿をお運び致します!」
押し問答が始まり、抵抗している上杉朝定の正気を私は疑った。私の傍らにいる勝貞は外の様子を気にしていて、久幹は呆れたように腕を組んでいた。
「若殿、この様な愚か者は放って置かれたら良いかと?」
「そうも行かないでしょ?上杉の軍勢は逃げ始めているし、担いで攫ってしまえばいいよ。久幹の出番だよ?」
「正直、関わりたく御座いませぬが、致し方無いので御座いましょうな」
私と久幹がヒソヒソと話していると、外の喧騒の音が大きく聞こえて来るようになった。そうしていると勝貞の家来が駆け込んで来た。
「敵が近くまで迫って居ります。そろそろ行かねば我等も巻き込まれます」
「承知した。其の方、騎馬のみを残し、軍勢を引かせよ。我等も直ぐに引く」
勝貞はそう命じると、口論している上杉朝定に歩み寄り、膝を突いた。
「上杉様!某は小田家家臣、菅谷勝貞と申す。我が主であるこれにある小田氏治様の命により、御助けに参上仕りました。今引かねば間に合いませぬ。敵は直ぐそこまで来ております」
勝貞にそう言われた上杉朝定は私を見て目を丸くしていた。私も上杉朝定に歩み寄った。
「上杉様、この氏治を助けると思って、一緒にお逃げ下さい。北条の軍勢が直ぐそこに居るのです。この手勢では討ち取られてしまいます。どうか私とお逃げ下さい。馬の用意も出来て居ります」
「小田殿であるか。我を助けに参ったと申すのか?」
「その通りです。ですが、お急ぎ下さい。私はまだ死にたくありません!」
上杉朝定は私を見つめて暫く黙っていた。迷う必要なんて無いのだからさっさと逃げろよと私は心の中で思っていた。本当にこの人は大丈夫なのだろうか?
「承知致した。幼子を道づれにしたとあっては我の面目が立たぬ。其の方等、早う参るぞ」
こいつ馬鹿だと思う。家臣の人達が呆れて口を開けてるよ。上杉朝定は扇谷上杉家の当主で、関東で権勢を振るう関東管領の一族である。わがまま放題に育ったのだろうけど、こんな人を助けるために残った私達が馬鹿みたいだ。うちの家来は一人も死なないで欲しい。
私達は上杉朝定を守るように陣所から出た。彼を馬に乗せ、私達も騎乗し、さあ行こうと言う時に敵が雪崩れ込んで来た。十人くらいの敵だけど、松明の明かりに照らされた顔が見えて、私はギョッとした。顔に墨を塗っているようで、顔が真っ黒で、白い眼だけが光って見えた。
「若殿、お急ぎ下され!」
久幹はそう言って私の馬に鞭を入れた。上杉朝定も同様で、勝貞を先頭にして、背後を久幹と小田家の騎馬が守りつつ、戦場から離脱したのである。遠くを見ると松明の明かりが見えた。私は逃走経路に松明を持たせた騎馬を配置させたのだ。あの松明を辿れば松山城に着くという訳である。
上杉朝定があんな人間だとは思っていなかったのでヒヤリとしたけれど、どうにか撤退戦を演じられたようである。ちなみにこれが私の初陣になるけど、敵の首を獲るより私らしくて良いと思った。
馬を駆けさせもう安心だと先頭に居た勝貞が馬を歩かせた。私と上杉朝定もそれに倣って、ようやく人心地着いたのである。久幹も私に追いついてきて、私の後ろで馬を歩かせていた。それにしても北条家の軍勢には驚いた。奇襲の為に顔に墨まで塗るのだから、決死の覚悟だったのだと思う。これが戦国時代かと改めて実感していると、上杉朝定が私に話し掛けて来た。
「小田殿には恥ずかしき姿を見せた。小田殿が居らなんだらあの黒い武者に討ち取られる所であった。城に戻り、落ち着いたら礼を致す」
「上杉様、礼など要りません。関東管領様や上杉様が北条家と戦をして居られるから、私達も暮らして行けるのです。どうぞ胸を御張り下さい。勝敗は兵家の常、生きていればまた戦う事が出来ます。御家を守る為にもどうか元気をお出し下さい」
「これは……。小田殿忝い、小田殿が申す通り、北条との戦は続くであろうな」
「これは氏治の考えですが、此度の連合軍は皆逃げたと思います。北条家は上杉様の首を獲りそこないました。上杉様にはお世継ぎがないので、もし、北条家に討ち取られていたら御家は滅ぼされていたでしょう。ですが、上杉様はご健在です。暫くはご領地を守り、力を蓄えれば良いと考えます。北条家も長い戦で兵糧を多く使い、軍資金も多く使っています。直ぐに上杉様のご領地に攻め込んでは来ないと思われますので、先ずはご健在を明らかにし、国境を兵に守らせれば、北条家も迂闊には攻め込めないと考えます」
私がそう言うと、上杉朝定は再び目を丸くした。私は十二歳で女子だからペラペラ軍略を語った事に驚いたのだろう。上杉には頑張って貰わないと私も困る。北条家の関東侵攻を止めて貰えるならアドバイスの一つくらいは喜んでするよ。聞いて貰えればだけど。
「御父上から話は耳にしていたが、何と賢い子であるか。命の礼に小田殿の助言を聞くと致そう」
この人、陣所で我が儘を言っていたけど、今は別人のように見える。もしかしてお酒を飲んでいた?まさか酒乱?今はお酒が抜けて、正気に戻ったのだろうか?
「上杉様、折角なので、一つ私のお願いをお聞き下さい」
「おおっ、何なりと申されよ」
「実は、父上に黙って上杉様をお救いに参ったのです。父が私や家臣を叱らないように文を送って下さると助かります」
「何と!これは驚いた。承知致した、この朝定が御父君に書状を記そう。城に着いたら直ぐにでもしたためる故、それを持っていくが良い」
「有難い事です。これで叱られなくて済みます」
こうして私達は上杉朝定を松山城に送り届けた。私は父上宛の書状を受け取り、褒美として太刀も貰ったのだ。これは私のコレクション行きかな。松山城で一泊し、翌日には小田に向けて馬を走らせた。一応伝令は送っているので、私の無事は伝わっていると思う。それにしても、上杉朝定の先が心配である。
馬を駆り、二日を掛けて、私達は城に戻った。私は上杉朝定からの書状を父上に渡した。それを読んだ父上は大いに驚いていて、流石は小田の跡取りだと大いに褒められた。書状に変な事が書いてないか心配だったけど、これで叱られる事が無くなったので問題なしである。
私と勝貞、久幹が帰還した四日後、上杉朝定からの使者がやって来た。私も父上と共に会ったのだけど随分と感謝されてしまった。褒美にまた刀を貰いコレクションが増えたと喜んでいたら、父上も褒美を出すと言い出した。
非常に機嫌が良さそうなので、思い切って領地が欲しいと言ってみたら、あっさりと了承してくれたのには驚いたものだ。私十二だし。でも、これでようやく内政が出来るのである。楽しみだ。
後日、父上から戸崎城を貰った。私にとっては初めての領土だ。石高は七千石、小田家の直轄地は七万石なので十分の一を貰った形だ。そう、小田宗家は七万石しか無いのである。これに一門の領地と国人の領地を合わせて約十四万石。最大兵力は四千だというのだから、石高と比較すると随分と集まるようである。
私が知る資料だと一万石あたり二百五十人なので、十四万石だと三千五百人である。江戸時代の資料なので何とも言えないけど、無理目の徴兵をしている事は想像に難くない。小勢力が入り乱れて戦っているのだから当然とも思えるし。
小田家の国人には忠義の一族で知られる菅谷がいる。菅谷が治める土浦には港があり、周辺の水運を握っていてその税収が小田家を潤している。この時代、霞ケ浦は現代よりもっと大きく香取の海と呼ばれる内海になっている。私も初めて見たときは驚いたものだ。現代まで残ってたら確実にリゾート地である。
香取の海はまさに海である。現代人や地元の私でさえ想像を超えるほど広いのだ。現在の霞ケ浦の形になったのは徳川家康が江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川を、銚子口に流す大土工事をしたためである。ただ、この時代の工事であるから水の流れを変えることは出来ても水害を予測することは出来ず、結果水害が多発し、その土砂があちこちに堆積し、更に浅間山の噴火などで火山灰が大量に河川に流れ込み、香取の海を含む河川を埋め立てたのだ。そして江戸時代を通して埋め立てられて現在の形になったのである。ちなみに下総(千葉とか)は現代と比べるととても狭く、大きな島みたいになっている場所があるのだ。
話が逸れた。
港があると強力な力になる。有名な織田信長の強さは熱田と津島の港にあるのは現代人なら誰でも知っている事だ。そして港の税収を含めると小田宗家は十万石程度の力を持っている事になる。うん、でも足りないね。
これからの戦乱を生き抜くためには当然財力が必要になる。この時代で銭に目を付けた大名は例外なく栄えたし、勢力を拡張している。特に鉄砲は絶対必要だし、生活環境も整えたい。小田家は大名とは言っても宗家の勢力は小さく、国人を纏めての十四万石である。
中央集権化をすれば良いと私も当初は考えていたけど、現実を見ると国人の力が侮れず、簡単ではない事を思い知らされたのだ。国人を被官(国人が正式な家臣になる事)させるには、小田宗家が力を持つことが必要である。
私はこれからそれをやろうと思うけど、正直自信は無いのである。転生者らしく内政無双でもして銭や軍事力を蓄え、国人を懐柔する。と、言うのは簡単だけど先の事は判らないのである。
さて、私の居城となった戸崎城である。この城は香取の海に突き出すようにある新治台地にある。小田家の逃げ城である土浦城が近くにあり、港も近く安全な場所である。土塁と堀による掻上げ城でそんなに大きい城ではない。この頃の城は石垣も無いのだけど、私は割と好きである。素朴な佇まいがお気に入りなのだ。
この城を拠点にして小田領を富ませるのが私の当面の目標だ。現代知識をフルに活用して生き抜くのである。自重はしないつもりである。今では見知った家臣や領民が殺されるのも嫌だし、私が捕まって殺されるのも当然、嫌である。
私は僅かな家臣を引き連れて戸崎城に引っ越しをした。守役の勝貞からは早すぎる独立だけど、私としては都合が良い。今の私は十二歳だけど、前世を合わせれば三十三歳なのだから仕事の一つくらい出来ないと私が恥ずかしい。
私が所領を得るのに合わせて勝貞の子、菅谷政貞を付けられた。十二の小娘に政務は無理との判断なのだろう。当然と言えば当然である。
領主の仕事は大雑把に言うと税の徴収、資金の管理、軍の管理、兵糧の管理、領民の管理である。大体合ってると思う。私は久幹の城によく遊びに行き、ついでと政務の手伝いもさせられていたのだ。久幹の様子を見ると私を育てようと言う意図が感じられた。なので、それもあったからしっかりと励んだつもりである。
それから暫くは政務に励む事になった。まずは現状を確認しないと手を打てないからである。私の相方は菅谷政貞である。困り眉が特徴的な彼とは面識はあったけど、どういう人なのかは良く知らない。でも菅谷というだけで安心できるから不思議なものだ。
念のためと書類の確認をしていたら、出るわ出るわ計算間違いの嵐である。それを政貞と二人でせっせと修正していく。そして確認作業が終了した結果、領内の石高は六千五百石と判明した。五百石のマイナスである。こういうミスがあるとは思ってた。
菅谷一族の管理の問題というのもあって政貞は青くなって作業してた。次からは気を付けるようにと軽く釘を刺すに留めたけど、多分どこもこんな感じなんだろうなと思った。でも借金が無かったのは良かったと思う。これからはしっかりと管理していこう。
ひと段落すると各村を挨拶がてら訪ねて領内の見回りを始めた。人付き合いはとても大切である。小田領は家臣だけでなく領民も譜代のようなものだ。だから一揆の心配は無いし、兵役にも応じてくれるのだ。
戦国時代といえば一向一揆が有名である。かの織田信長や松平元康も随分と苦労したのは歴史に記されている。それは有名武将に限らず全国のあちこちで起こるのだ。ところが小田家は一揆とは無縁の存在なのである。長くこの地を治めてきたご褒美と言えるかもしれない。
現代に伝わる小田家の話には「頼朝以来の領主で百姓町人まで譜代であり、新領主が小田を治めても年貢を出すことを渋り、密かに旧主の元に運んでしまう」と記される程、領民からの支持を得ている。
なので私はどこの村に行っても歓迎されるのだ。小田家四百年の歴史は伊達ではないのである。ご先祖様に感謝である。
ポクポクと馬に揺られながら今日も領内の見回りである。お供には政貞が付いている。供回りを付けるのを嫌がる私はやんわりと諫められた。この政貞は、年齢は二十八歳で真面目な性格の人であるようだ。まだ慣れていないので私も結構気を遣っている。
私は隣で馬を歩ませる政貞を見て思った。菅谷一族は小田家を見捨てずに支えた忠義の一族だ。自分達の損を考えず、ただ主君に尽くした人達だ。私はこれから家督を継ぐけど、この人達にちゃんと報いることが出来るのか心配になった。正直自信なんて無い。私は歴史を知っているけど、私が干渉する事で歴史が変わってしまう。現に上杉朝定も戦死を免れている。
先読み出来なくなった先で私は巧くやれるのだろうか?漠然とした不安を感じた。小田家の家臣や国人、領民が惨い目に遭うのは見たくない。「はぁ~」思わず溜め息が出た。
「若殿、如何なされましたか?」
「いえ、何でもなく……はないよ。私が家督を継いだら父上のように領を守れるか心配になったんだよ。見ての通りの小娘だしね」
「某は無責任に申す訳では御座いませんが、若殿は幼い時から尋常のお子では御座いませんでした。河越での働きもそれを証明して居ります。某共は何も心配致して居りませぬ」
「今も十二の小娘だけどね。悪い方に尋常じゃないといいね。女の私が家督を継いだらきっと国人の衆は頼りなく思うのではないかな?」
「若殿の仰る通りで御座います。ですが、我等が若殿を御支え致します。何も心配は御座いません」
無駄に考えても仕方がないと私は馬の歩を進めた。次の村で気落ちした顔は見せられないのだ。
♢ ♢ ♢
私は小田山に来ている。現代では宝篋山と名付けられている山である。地元では小田家が治めている山なので小田山と呼ぶのだ。付き従うのは政貞と小田邑に住んでいる農民の権さんである。
今日の私の出で立ちは農家の娘と変わらない野良着である。着物が汚れるのは嫌だし、山に分け入るので動きやすい方が良いのである。頭から手拭を被るように巻いているけど、見た目を気にしている余裕など私には無いのだ。
権さんとの出会いはここ小田山の山中で、私は椎茸菌が欲しくて椎茸を求めて山を彷徨い、見事に迷子になったのだ。そこへたまたまキノコ狩りに来ていた権さんに助けられたのである。
キノコ狩りに来ているくらいだから詳しいだろうと色々質問している内に意気投合したのである。まぁ、当時私は九歳だし、私はちょいちょい村に行くので、村の人達も私が領主の娘である事は知っているだろうから、権さんも気を使ったのだと思う。
「何処に行かれるので御座いますか?」と私に聞く政貞に「行ってからのお楽しみだよ?」と馬を駆けさせ、まずは権さんを迎えに行ったのだ。
私の村人ネットワークで権さんには連絡が行っていて、ちゃんと待っていてくれたんだけど「せめて城に呼び付けて下され、示しが付きませぬ」と政貞にまた小言を貰ったのである。
山の入り口に馬を繋ぎ、権さんを先頭に奥に分け入っていく。生い茂る草と格闘しながら進み、途中何度か行き先を尋ねられたけど教えなかった。言えば騒いで足を止めるだろうし、驚く顔も見てみたい。それから暫く進むと目的の場所に到着した。そこには原木がびっしりと並べられている。
ここは私と権さんの秘密の場所である。ここで私達は椎茸を栽培している。権さんと二人でコツコツと実験を重ねて来たのだ。栽培を成功させるのに三年もかかったのは計算外である。もっと楽に栽培出来ると考えていたのだけど、甘かったようだ。私に付き合ってくれた権さんには頭が下がる思いである。
私が河越に行っている間に栽培が成功し、春の収穫には立ち会う事が出来なかったのは残念だ。けど、成功してくれてホッとしている。次の収穫時期は九月からだからあとひと月半ほどある。この椎茸が私の最初の成果である。
椎茸の原木置き場に到着した私は感嘆の声を挙げた。まだ小ぶりだけどちゃんと椎茸が生えていた、それも沢山。
「権さん凄いね、こんなに生えるとは思わなかったよ」
「こりやぁえらい事だべ。若様の言う通りにしたらほんとに椎茸生えおったからな」
私も権さんもニコニコだ。椎茸の栽培が実用化したのは寛永の頃、つまり江戸時代になってからである。それまでは山で稀に取れるキノコということで非常に高価な食材だ。この椎茸は銭になるのである。
「で、春はどのくらい採れたの?」
「干したら軽くなったけんど、四貫目ぐらいあるべ」
「えっ、そんなに!」
一貫(3.75kg)だから15kgである。確か15貫で城が買えると言われていたはず。これは嬉しい誤算だ。売れば当面の資金に困らなくなる。これから銭はいくらでも必要になる。
「さすが権さん!」「いやいや若様が」と讃え合い、私と権さんが盛り上がっていると政貞がおずおずと尋ねてきた。
「若殿、これは何で御座いますか?」
「見ての通り椎茸畑だよ、私と権さんで作ったんだよ。凄いでしょ!」
私は胸を張って自慢げに言い放った。あれ?政貞が怖い顔してる。
「これは椎茸なので御座いますか?」
「椎茸だよ」
「これ全部で御座いますか?」
「全部だよ」
「若殿、椎茸がどういう物かご存じで御座いましょうか?」
驚くとは思っていたけど予想以上だった。政貞はちゃんと椎茸の価値を知っている。ならば、私が考えている通り銭になるのである。
「椎茸はたまに取れる高級食材だね。勿論、知ってるよ」
政貞が黙ってしまった。なんか空気が重い気がするんだけど?私と権さんは互いの顔を見合わせ、そして政貞の様子をしばらく眺めていた。
「若殿、これら椎茸を如何為さるおつもりで御座いましょうか?」
「勿論、売るけど?」
「御屋形様はこの事は?」
「勿論、秘密だけど?」
「秘密で御座いますか?」
「うん、秘密だからね。私は政貞の忠義を信じているからね?」
政貞にも説明した方が良さそうだ。私は彼を右腕にするつもりだし、協力してもらわないと私一人では何も出来ない。領地を貰った今、この時代では新しい事をどんどんする予定だから彼には理解者になって欲しい。
「政貞、驚かせたのは謝るよ。でもね、これは絶対他国に知られてはいけない事なのを、まずは理解して欲しい」
「はい、そうで御座いますな。欲に目が眩んだ連中が大勢やって来るでしょう」
「うん、そしてこの椎茸は小田家の力になるんだよ。こんな場所でなんだけど、これからの時代は武勇だけでは小田家は生き残れないと考えているよ。土地を取り合っても互いに疲弊して領地は荒れて皆貧しくなる。僅かな実りを奪い合って殺しあうんだよ。私は大切な家臣や領民がそんなことに巻き込まれないようにしたい。だから私は銭を稼いで兵を雇い、武具を整え、力をつけて領地を荒らされないようにしたいんだ」
無ければ奪えばいいが戦国時代の基本的な考えだ。有名な武田信玄はそれを徹底して他領を荒らし、奪い、殺しまくった。相手が信玄でないにせよ敵領での略奪は立派な戦術であることも確かだ。だけど小田領でそんな事は私が許さない。絶対だ。
「銭で御座いますか、若殿がそのようなお考えを持っていたとは。しかし、銭で集めた兵など使い物になるので御座いましょうか?野盗まがいの者共で御座いますし、役に立たぬと某は考えまする」
言い難くそうにしながらも政貞は意見してくれた。彼の言い分は正しいと思う。歴史を知っているから私もこんな事を言うけど、知らなければ発想すら出来なかっただろう。
「大丈夫とは言えないかも知れないけど、考えがあるんだよ。その一つがこの椎茸栽培でこれが第一歩なんだよ。これから新しい事をしていくつもりだけど、私一人の力だけでは無理なんだ。これからは説明するから力を貸してほしい」
政貞は再び椎茸畑を見やると居住まいを正し膝を突いた。権さんもつられたのか平伏する。
「若殿には本当に驚かされます。正直に申し上げますと狐につままれた心持で御座います。若殿のお考えも理解しきれて居りませぬ。しかし!この政貞、若殿がそうしたいのであれば粉骨砕身、お役に立てるよう働きまする」
うんうん、本当にいい家臣だ。忠誠度100だよ!言質も取ったし大いに助けて貰おう。私は彼の手を取り助けるように起こし、膝についた泥を払った。恥ずかしそうにしている政貞がちょっと可愛かった。そして権さんも立たせる。
「権さん、褒美は期待してね。それと家を建ててあげるから戸崎に引っ越してくれない?戸崎の城を貰ったから来年は椎茸もあっちで作ろう。私の領地なら秘密も守りやすいからね」
私の言葉に権さんは口を開けて固まってしまった。恩も返したいし椎茸栽培の秘密を守る必要もあるし、権さんを逃がす訳には行かないのである。
「若殿、四貫の椎茸はどちらに卸すおつもりで御座いますか?これだけの量を捌ける商家はこの辺りには無いと思われますが?」
「うーん、それはね、帰ったら話すよ。話もあるし暗くなる前に帰らないと迷子になるよ?」
不審げな政貞と挙動不審になってしまった権さんを引き連れて私達は帰途に就くのであった。