第百七十七話 箕輪城の攻防3 信長の語り②
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帰蝶に先導されて中島の西砦に到着した信長と信秀は、無数の槌の音が飛び交う砦の様子を興味深く眺めた。帰蝶からは西砦の全てが鉄砲の鍛冶場になっていると聞かされていたが、二人が知る鍛冶場は鍛冶屋個人のものや、城で戦の支度をするために鏃を用意する程度の小規模のものであったから、まるで鍛冶屋の町のような砦の様子を見て、ここが本当に尾張なのかと疑いたくなる心持ちであった。
信長は何故、今まで気が付かなかったのだろうと考えたが、この西砦は僻地であり、他者が余り来ないので気が付かなかったのだろうと当たりを付けた。ただ、昇る煙を見ると、もっと早く気付いてもよかろうとも考えた。この様子を見るに、織田家の家臣達の気の緩みを感じた。尾張を平定してから戦も無かったので、家臣の弛緩の是正が急務だとも考えた。そして信長自身が忙しさにかまけて細事に気を配らなかった事を反省した。様々な想いを巡らす信長と信秀を先導し、歩きながら帰蝶が言う。
「近頃は鉄束の値が上がっているようなので、帰蝶は今少し安い鉄束を求めたいのですが、信長様の伝手で如何にかなりませんでしょうか?」
秘密にしていた鉄砲の製造を打ち明けた事で、帰蝶は自身の考えを素直に信長に明かした。帰蝶は二言目には銭と言うので、信長はそれが可笑しくもあり、新鮮でもあった。信秀は普段は決して見る事のない帰蝶の姿を見て、義理の親としての情愛が湧いて来た。自分の実の娘のと余りの違いに、やはり新鮮な気持ちが沸き上がったのだ。
「鉄束はどうにかなりますが、たたら場を考えてもいいですね」
「たたら場で御座いますか……。氏治様の御話ではなるべく鉄束を求め、たたら場は作らぬ方が良いと仰せで御座いました。たたら場は木を多く切り倒しますので、森や林が無くなってしまうそうで御座います。なので、当家では他家で戦が起これば藤吉郎が折れた太刀や槍などの鉄を求めに参るのですが、今以上に鉄砲を造るならばより多くの鉄が必要になりますね。最も大事なのは玉薬なのですが、帰蝶には伝手が無くて十分に手に入らないのです。これも如何にかしないといけませぬ。玉薬の無い鉄砲はただの筒だと善住坊が申して居りました」
「玉薬は堺の今井から求めていますが、まだまだ足りませんね。近頃では伊勢の会合衆との繋がりも出来つつあるので、そちらからも求める事にしようと考えています。兎にも角にも銭が必要です」
そんな話を信長と帰蝶がしている後ろ姿を見て、信秀は世の在り様が変わって来ている事を感じていた。倅である信長からは仁君なれと言われたが、独自の政をしていた帰蝶の方が仁君のようであるし、信長の手伝いを帰蝶がするのであれば、家督を継いだ信長は民から慕われるであろうことが容易に想像できる。自分はまだまだ元気だが、この先は若い者に任せた方が織田家は栄えるだろうと感じられた。
西砦の本殿に到着し、信長と信秀は広間に通された。そこには遠山道雪を始めとした遠山衆と、加藤段蔵、杉谷善住坊、木下藤吉郎が居並んでいた。信長と信秀に引き合わすべく帰蝶が予め手配をして面子を揃えたのである。信秀は「儂はよい」と上座を信長に譲り、辺りにどかりと座った。信長は苦笑しながら上座に座り、帰蝶は側に侍るように腰を下ろした。帰蝶は平伏する家臣に面を上げるように命じる。
「皆の者。此度は大切な話がありますからよく聞くように」
帰蝶はそう言ってから今までで決まった事を皆に説明した。遠山衆と木下藤吉郎は帰蝶に従い、今のお役目をしながら勧農寮のお役目に励む事や、信長へ鉄砲衆を譲渡する事や加藤段蔵と杉谷善住坊を信長の直臣に推挙する事などである。居並ぶ帰蝶の家臣達は突然の事に騒めいた。そして段蔵と善住坊は余りの事に思考が追い付かずに石のように固まっていた。
「姫様、当家が勧農寮のお役目に任ぜられたので御座いますか?この道雪は林様がそのお役目に就かれていると覚えて居りますが?」
「帰蝶もそこに加われと、信長様の御達しです。林に負けぬようお役目を果たさねばなりませぬ。道雪の力が必要ですから励んで下さいね」
帰蝶の言葉を聞いて、道雪は自慢の髭を指で整えながら心の平静を保った。そして、とんでもない事になったと困惑した。帰蝶の話は続いたが、段蔵と善住坊は事態に付いて行けず、只々困惑していた。
(―――俺と善住坊が信長の直臣?あの娘は一体何を言って居るのだ?)
苦労をして鍛冶場を立ち上げ、鉄砲の製造も軌道に乗り、今では六十の鉄砲を保有している。撃ち手の育成も進んだので鉄砲衆としての体も整った。伊賀からはぐれの忍びを集めて配下にして、これでようやく楽が出来ると気を抜いていた段蔵と善住坊であったが、帰蝶の言葉を聞いて目の前が暗くなったのである。
「段蔵、善住坊、信長様の御前へ」
帰蝶にそう命じられ、兎も角と段蔵と善住坊は信長の前に進み出て平伏した。
「か、加藤段蔵で御座います」
「わっ、わしゃあ、杉谷善住坊と申します。はいぃ」
「織田三郎信長である。二人の事は帰蝶から聞いています。加藤段蔵、杉谷善住坊、二人をこの信長の直臣として取り立てます。以後はこの信長の下知を仰ぐように」
信長の言葉を聞いて、段蔵と善住坊は返答に迷った。善住坊は段蔵の家臣の体を取っているので段蔵に返答させようと段蔵の脇腹を肘で小突き、『断れ!』と心の中で叫んだ。段蔵は善住坊に小突かれながら、どう返答しようかと思案したが、どうにも良い考えが浮かばなく、どうにでもなれと半ば自棄になって口を開いた。
「あっ、有難き仰せで御座いますが、我等が織田様の直臣となるなど恐れ多い事で御座います。この段蔵は忍びで御座いますれば、尊き御方の家来になるなど考えた事も御座いませぬ。奥方様からは格別のお慈悲を頂き家来としてお仕え致して居りますが、これ以上のお慈悲を頂く訳には参りませぬ」
「この信長の家臣では不足ですか?」
「めっ、滅相も御座いませぬ。ただ、この身には余りに相応しく御座いませぬ故申し上げたのです!」
(―――断らねば!これだけは断らねば俺と善住坊が死ぬ!これ以上訳の分からぬ仕事をさせられて堪るものか!)
軽い気持ちで帰蝶に仕官したら二日後には城代になっていた。鉄砲の製造を命じられ、撃ち手の育成を命じられ、田畑を耕す手伝いもさせられた。銭は使い切れぬほどに与えられたが、その肝心の銭を使う暇がない。ようやく手下を揃え、悠々自適の生活を善住坊と企んでいたが、織田の本家に仕えさせられては何を命じられるか分かったものではない。段蔵がそう考えながら信長の返答を待っていると帰蝶が口を開いた。
「段蔵、信長様にお仕え致すのが嫌なのですか?」
「い、いえ。決してそのような事では御座いませぬ」
「では、信長様に仕えて下さい。良いですね?」
「は、はい……」
段蔵はどういう訳か、出会った時から帰蝶に弱かった。帰蝶に求められるとどうにも断れないのだ。今は帰蝶の世話で蛍を嫁としているし、形だけではあるが遠山道雪の養子でもある。いつの間にか義理と人情で雁字搦めにされている己を段蔵は自覚した。隣にいる善住坊に目をやると、絶望した顔で段蔵を見ていた。段蔵と善住坊の様子を見て、信長はカラカラと笑った。
「これは参りました。この信長も段蔵と善住坊の主として励まねばならないようです。段蔵、善住坊、二人が戸惑うのはこの信長も承知しています。ですが、そこを押してこの信長を助けて下さい。心無い家中から悪口を受ける事もあるかと思いますが、段蔵と善住坊はこの信長が守りましょう。当家には忍びの家臣が居ないので、信長は段蔵と善住坊を得られる事が嬉しいのです」
「信長様はこの段蔵に忍び働きを御所望で御座いますか?」
「そうですね、忍び働きも入用ですが、当家の鉄砲衆も任せます。この西砦にも銭を注ぎこんで、もっと大きくしようとも考えています。それと善住坊は日ノ本一の鉄砲の名手と聞いています。何れは当家の鉄砲指南役である橋本一巴と対決致し、勝った方に当家の鉄砲指南役になって貰うつもりでいます」
(忍び働きと鉄砲衆、鍛冶場の拡張か……。それならば如何にか出来る。善住坊の対決は判らぬが、仕える事になった以上仕方があるまい。しかし、この者があの『尾張のうつけ』?噂とはまるで違うではないか?)
段蔵は信長の話を聞いて、今までの仕事と大した違いはなかろうと判断した。貴公子然とした信長の姿が風聞と全く違うので戸惑ったが、無茶は言うまいと考えた。
「承知致しました。お役目、確かに受け承りまして御座います」
そう言って段蔵は平伏した。隣にいる善住坊は対決と聞いて激しく困惑していた。その様子を見て段蔵は善住坊の脇腹を小突いて平伏させた。二人の様子が可笑しくて、信長はクスクスと笑っていた。信秀は侍らしからぬ二人を見て少し呆れていたが、この西砦を造ったのがこの二人である事を思い出して、人は見掛けに寄らぬものだと思ったのだ。
それから幾つかの話をして、信長と信秀は鉄砲衆の検分に行く事になった。二人は立ち上がり、広間を出ようとしたところで信長は思い出したように口を開いた。
「そうそう、申し忘れていました。段蔵、其の方は私の重臣にしますので、評定には必ず出るように。清州の城下に屋敷も用意しますから、用意が整えば報せを送るので居を移しなさい」
そう言って信長は信秀と帰蝶と共に広間から姿を消した。
「はっ?」
段蔵は再び固まった。信長の言葉を聞いた広間の一同の視線が段蔵に集中した。誰もが信じられないといった顔をしていた。その中で木下藤吉郎は一番衝撃を受けていた。自身の目の前でどんどん出世していく段蔵を心から羨ましいと思った。
― 小田氏治 ―
「―――という事があったのです。信長が丸儲けと申した理由です」
信長の語りを聞き終えた私は驚くばかりだった。帰蝶が鉄砲を造っていたのにも驚いたけど、加藤段蔵に杉谷善住坊、そして木下藤吉郎……。
加藤段蔵は伝説の忍者として現代でも有名である。軍記物や仮名草子にも登場するし、飛加藤と呼ばれていて歴史好きなら誰もが知っている忍者である。その軍記物や仮名草子も江戸時代に編纂されたので、実在の人物ではないとも云われている。確か常陸の出だと覚えているけれど、私の耳には入って来なかったし、何よりも実在するとは考えていなかったので本当に驚いたのだ。これは是非会ってみたい。
そして杉谷善住坊は信長暗殺の実行犯である。彼も現代では有名で、信長を狙って鉄砲で狙撃をしたけれど、失敗して処刑されたのだ。確か、地中に首まで埋められて、竹で作ったノコギリで首を斬られたと伝わっている。現代では世界初のスナイパーとも評されている。これって、信長暗殺のフラグが消えたって事?光秀は私が家臣にしたし、杉谷善住坊は信長が家臣にした。この世界線での信長の脅威が二つも消えた事になる。
そして木下藤吉郎である。いるだろうとは思っていたけれど、まさか帰蝶に仕官しているなんて想像もしていなかった。木下藤吉郎が帰蝶の内政を手伝っていたとするならば、鉄砲の製造が出来た事に十分納得が行くけれど、身分の低い藤吉郎が剛腕を振るう機会があった事に疑問を感じる。戦国時代は身分が絶対の世の中である。幾ら才覚があっても直ぐに重用されるなんて有り得ないのだ。木下藤吉郎って今は十六、七歳?そんな若造が仕事を任される事が不思議でならない。私がうんうんと唸っていると、百地が信長に問い掛けた。
「大変無礼かと存じますが、加藤段蔵とは飛加藤と呼ばれているのでは御座いませぬか?」
「その通りです。百地殿も御存じでしたか」
百地が知っていたらしい。知っていたなら私が家臣に欲しかった。だけど、伊賀の忍びには全て声を掛けたと言っていたから断られたのかも知れない。伊賀の忍びは主を持たない事で有名だし。
「某が段蔵、いや、加藤殿を最後に見ましたのは八年ほど前になりましょうか?まだ元服を終えたばかりで御座いまして、秘術を受け継ぐべく修行を致していたと覚えが御座います。当家の鷹丸や桔梗とも馴染みで御座いまして、友と呼べる付き合いをしていたと記憶して居ります」
「えっ?鷹丸と桔梗の友なの?」
私が桔梗にそう問うと、桔梗はかぶりを振ってから答えた。
「桔梗は顔馴染みではありますが、友では御座いませぬ。鷹丸の友で御座います」
帰蝶の言葉を聞いて信長は相好を崩した。信長の反応を見ていると、加藤段蔵が随分と気に入っているように感じる。
「鷹丸の友だとは知りませんでした。それに百地殿の知り合いとは驚きました。段蔵からは何も聞いていないので、この信長も驚いています」
「加藤殿はこの陣中にいらしているのですか?」
「今は主命を与えて居りますので、終われば追っ付け参陣する事になっています。氏治殿は段蔵に興味が御有りと見受けましたが、段蔵が参れば引き合わせましょう」
「信長殿、出来れば杉谷殿にもお会いしたく存じます。木下殿もいらっしゃるのでしょうか?」
「お役目が済めば善住坊も木下も参ると思います。今は段蔵のお役目の手伝いをしていますので行動を共にしている筈です。しかし、木下にも興味が御有りですか?少々変わった者なのですが、帰蝶から頼まれまして、初陣の面倒を見る事になりました。ですが、この様子だと出番があるか怪しいですね」
「木下殿は帰蝶殿の家臣なのですね?」
「左様です。帰蝶が申すには、何かと役に立つ男で木綿藤吉と帰蝶の家中では呼ばれているそうです」
おおっ!木綿藤吉って呼ばれているんだ!史実でもそう呼ばれていたし、やっぱり能力があると考えた方がいい。秀吉は本能寺の黒幕説もあるから、帰蝶の家臣なら信長は更に安心になると思われる。彼は内政巧者として歴史に名を残すのだろうか?
それにしても帰蝶の家臣ガチャの引きが良すぎて、私はそれが恐ろしい。帰蝶には内政の事を色々教えたけれど、信長の力になってくれて本当に良かった。帰蝶は勧農寮になったというから、信長の領地の発展は疑いないと思う。木下藤吉郎もいるし、西三河で大々的に綿作をすれば領地は潤うし、信長の資金力は跳ね上がる。ライバルにされた林秀貞が少し気の毒だけど、これは仕方ないかな?
「信長様の奥方様とはいえ、女子を勧農寮に任ぜられたのには驚きました。国で最も大事なお役目だと心得て居ります」
「真壁殿は御笑いになられますか?」
少し挑むように問い掛けた信長に久幹はかぶりを振って答えた。
「笑えませぬ。当家では女子の城代が多くなった事は聞かれたと存じますが、政務に於いては並の男より優れた者が多いと家中の者から先日聞いたばかりです。今までのお話を聞く限り、奥方様は並の者では御座いませぬ。まるで当家の御屋形様を見ているかのように感じました」
「真壁殿がそう評されるならば、信長も安堵出来ますね。帰蝶が真壁殿の御言葉を耳に致せばさぞ喜ぶでしょう。当家も律令に転じる事が出来ましたが、地味なお役目を軽く見る者が多いので帰蝶の働きを見て考え直してくれると良いのですが……」
信長はそう言うと、柴田勝家を始めとする織田家の家臣を眺め見た。その視線を受けて彼等は気まずそうな顔をしている。信長の家中でも軍事を担当する兵部省が人気なのだと思われる。でも、急激な改革に付いて行かないといけない家臣の苦労もあるから無理もないとは思う。武家の子は誰でも戦ありきで育つのだから。
「信長殿の御気持ちは氏治にも解ります。これからの戦は武勇一辺倒では勝てません。当家も兵部省に入りたいと嘆願する者が多いので、当家の軍団長も困っていると耳にしています。若い武者ならば仕方がないとも考えますが、国を預かる者達は苦労が絶えないようです」
それにしても、あの帰蝶が勧農寮かぁ。この時代の女子に一部門を任せるなんて、信長の思い切りの良さは流石だと思う。農業部門は国の根幹だから、帰蝶は今まで覚えた事や、やって来た事がきっと生きるはず。また帰蝶からの文が増えそうだけど、私も全力でバックアップしよう。
そうして話をしていると、辺りが急に騒めきだした。義昭殿の準備が整ったようである。
「戦が始まるようです。御喋りはここまでのようですね」
信長の言葉を聞いて、皆は箕輪城に視線を向けた。辺りを見回すと、小田家の将達もあちこちで戦の様子を見ようと屯している。女子衆もいるけれど、何とも華やかな様子に見えて場違い感があった。そうしているうちに佐竹家の軍勢の指物が一斉に上がり、軍勢がゆっくりと動き出した。いよいよ攻城戦が始まる。
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