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第百七十六話 箕輪城の攻防2 信長の語り①


 信長の元に戻った私は彼に中座を詫びた。私達の様子を敏感に感じ取ったのか、信長は少し思案気に私を見ていた。前田利家から床几を勧められたのでそれに腰掛けると、信長が私に話し掛けて来た。


 「氏治殿の御家中は真に女子(おなご)が多いですね。当家と申しますか、尾張の辺りでは女武者は珍しいので驚きました。陣中にこれ程女子(おなご)が居るのを私の父上がご覧になったらさぞ驚かれる事でしょう」


 「贅沢な話に聞こえてしまうと思うのですが、先の戦で領地を獲り過ぎたのです。統治をするのに譜代の家臣が足りずに、女子(おなご)でも務まると城代にする事を家臣に許したのですが、皆は見事にお役目を果たしてくれました。ですが、戦に出たがるとは考えていなかったので、今になって頭を抱えているのです。当家の真壁がですが」


 「御屋形様。それは無いでしょう」


 私の言葉を聞いて久幹は肩を竦めた。その様子を見て信長がくつくつと笑った。


 「でも、軍配は久幹が預かっているのだし、誰を使うかは久幹が決めるのでしょう?私では細かい事を決める事が出来ないから勝貞や久幹に任せているんだよ」


 「まあ、確かにそうで御座いますな。此度は頭が痛う御座います。岡見殿の御言葉も御座いますが、この様な事であれば、我等に出番がない方がよいとも考えてしまいますな」


 「当家では帰蝶が鉄砲衆を率いる事を諦め、女子(おなご)戦場(いくさば)に出る事を案じなくて済むようになりました。ですが、氏治殿の御家中はまるで逆ですね。可笑しなものです」


 「―――帰蝶殿がですか?」


 「左様です。氏治殿には礼を申さねばなりません。帰蝶に(まつりごと)を御指南されたとか?この信長は大変驚いたのです。鉄砲に木綿に新しき田植え、紙もありました。良き家臣も手に入り、信長は丸儲けです」


 えっ?一体何を言っているの?帰蝶が鉄砲衆を諦めた?木綿と田植えは覚えがあるけど、鉄砲とか知らないし、紙は帰蝶が考えて作ったから私は関与していない。ていうか、話しぶりからすると信長は知らなかったって事?


 「信長殿。氏治には覚えのない事もあるようですが、どういう事なのですか?」


 私がそう問うと、信長はアレ?みたいな顔をした。


 「どうやら、私と氏治殿で齟齬があるようです。軍勢の出陣まで今暫く掛かるようですから帰蝶の事をお話ししましょう」


 信長はそう言うと、私に帰蝶との出来事を語り始めた。


 ― 二カ月前 ―


 信長は父である信秀と家督の継承について話し合っていた。信長に仁君になれと求められた信秀であったが、もう面倒だと信長に家督を継がせる事に決めたのだ。国の大事を面倒で片づける信秀に呆れたが、信長としては新たに導入した律令の制度も軌道に乗っていたので、断る理由も無しとこれを受けたのだ。

 そうして信長と信秀が家督継承の段取りを話し合っていると、平手政秀がやって来た。信長は部屋に通すようにと近習に命じると、平手政秀は困ったような顔をして入って来た。その様子を見て、信長も信秀も眉を顰めたが、その後に平手政秀の口から出た言葉に頭を捻った。


 「平手、西砦が鍛冶場になっていると言いましたがよく解りません。どんな城にも鍛冶場の一つはあると心得ていますが、珍しくもないでしょう?」


 西砦は帰蝶の領地である中島の地にある。斎藤家に対する前線の砦のはずだが、鍛冶場と言われても何の事か全く結びつかなかった。信長に問われた平手は頭を摩りながら言う。


 「当家の家来が申すには、中島の西砦に大きな鍛冶場があるようで、毎日、鉄を叩く音が無数に響いているとか。商人の出入りもあるようで、それを偶々見た当家の者が不審に思い、この政秀に伝えて参ったので御座います」


 平手の言葉を聞いて、信秀は顎髭を撫でながら目だけを信長に向けた。


 「嫁子(よめご)の領地であるが、木綿を作り、紙を作り、田畑も良く耕しているとは聞いている。この儂は感心して居ったし、差し出口を叩いて嫁に嫌われとうないから黙って居ったが、鍛冶場がよう解らぬ。其の方は何か聞いて居らぬのか?」


 「―――大きな鍛冶場ですか……。私は聞いて居りません。そもそも、私は帰蝶に何も聞かない事にして居りました。帰蝶は自身の領地で(まつりごと)を始めてから、とても良い顔をするようになりましたし、夫としては好ましいので好きにやればよいと考えていました。ですが、鍛冶場ですか……。刀や槍でも造っているのでしょうか?商うにしても他に鍛冶屋は幾らでもいますし、木綿や紙を造っている所をみますと、少々合点が行きませんね?ただ……。―――いや、まさか……」


 顎に手をやり思案する信長の様子を見て、信秀は方眉を上げた。常は即答、即決である倅の姿が珍しい。


 「何を思案致しているか存ぜぬが、思い当たる事があるなら言うてみよ」


 「はい。父上、あり得ないとは思うのですが、帰蝶は鉄砲を造っているのではないかと考えました」


 「―――鉄砲!鉄砲など造れるのか?」


 「少なくとも、氏治殿は鉄砲を御領地で造っていると思われます。氏治殿のお口から伺った訳では御座いませんが、鷹丸の話を聞いてそう推察しています。氏治殿が何も仰らないのは、国策で鉄砲の製造を秘しているからだと思われます。ただ、鷹丸が申すには、氏治殿からは私に聞かれた事は何でも答えるようにと言い付かっているそうですから、私は鷹丸の話からそう推察したのです」


 「氏治殿が鉄砲を造っていると申すのか?確かに、お持ちになっている鉄砲の数が多いので驚いて居ったが……。―――で?うちの嫁子(よめご)も鉄砲を造って居ると?それが真であれば大事では無いか!」

 

 信じられぬという素振りで信長を見つめる信秀の目を見返しながら、信長は腕を組んだ。


 「大事ですね。この信長は、氏治殿が鉄砲を造っていると推察しました時に、当然、当家でも造れぬかと考えました。ですが、今後の戦を考えますれば、今川を平らげ、後に神戸を平らげ、近江を獲るついでに国友村を押さえて当家から銭を入れ、大々的に鉄砲を造った方が良いと考えたのです。当家は六十万石、今川の領地を獲れば大軍を起こせるのでその方が早いと考えました」


 「鉄砲は今後の戦には欠かせぬとこの儂も心得て居る。其の方から聞いた鉄砲衆も理に適って居ると考えて居る。他には槍衆と弓衆であったか?得意な得物を持つ者同士を集めて戦で使うという其の方の考えも良いと思って居る。しかし……、嫁子(よめご)が鉄砲を造って居るとなれば、当家にとって喜ばしい事ではある。が、真なのであろうか?」


 信長は信秀の言葉を聞きながら考える。自分は鉄砲の製造を断念したが、人の考えは様々である。帰蝶が氏治が鉄砲を領地で造っている事に気付き、それを模倣して自身で鉄砲を造ろうと考える事は不思議な事ではない。もし、帰蝶が鉄砲を造っているのであれば、これは織田家にとって大きな力になる。


 「今までは帰蝶の好きにやらせていましたが、これは確かめた方が良さそうです。私が帰蝶に聞いてみますので、父上は少々お待ち下さい。場合によっては帰蝶に鉄砲衆を預ける事も考えなければなりませんね」


 「真であれば、とんでもない嫁子(よめご)であるが、頼もしいとも思える。氏治殿といい、今時の女子(おなご)は侮れるな?」


 信秀がこう評するのは女である氏治のやり様を知ったからである。他国であれば女が政など以ての外と一笑に付す話であるが、百九十万石を領する現実の氏治のやり様を知れば、笑い事では済まないと思い知っているからである。

 信長は自身と信秀が帰蝶の領地の視察をする事を平手を通じて伝えさせた。帰蝶から中島の領地の話を本人からは聞いていなかったし、帰蝶からも言って来ないので、信長は詳細を知らなかった。それもあって、余計に興味が湧いたのである。そしてその夜、信長は帰蝶を私室に呼び出し、西砦の事を聞いたのだ。


 信長に呼ばれ、西砦の事を聞かれた帰蝶はとうとうこの日が来たと観念していた。だが、信長の様子を見ると機嫌は悪くはないようで、多少の安堵を覚えたのだ。信長からの質問に、帰蝶は今まで行った(まつりごと)の全てを話し伝えた。どうせならすべて話してしまった方が良いと考えたからである。帰蝶の長い話が終わると、信長は頷きながら口を開いた。


 「―――なる程……。氏治殿から御指南頂いていたのですか……。合点が行きましたが、例え氏治殿からの御指南があったとはいえ、簡単に出来る事ではありません。当家の奉行に語って聞かせたい話です。私も尾張を豊かにしようと励んでいるのですが、肝心の奉行がお役目を軽く見ている節があるので困っているのです。それにしても帰蝶は大いに励んだのですね」


 信長にそう評された帰蝶は大いに驚き、そして自身を認めてくれた信長の言葉を聞いて喜びが沸き上がって来た。


 「女子(おなご)(まつりごと)の真似事を致した事を、帰蝶は信長様からお叱りを受けると思って居りました。義父(ちちうえ)様からも……。ですが、そのように評されて、帰蝶はとても嬉しく思います」


 「叱るなどあり得ません。帰蝶の領地なのですから好きに(まつりごと)を致すのは当然の事。ですが、惜しくもあります。帰蝶が致した(まつりごと)を当家の(まつりごと)としていれば、今頃はどれ程栄えたかと考えるとため息しか出ませんね。帰蝶、明日にでも中島の地を見に行こうと思いますが、良いでしょうか?」


 「良いも何も、帰蝶は信長様の妻で御座います。信長様の御好きなようにお計らい下さいまし。中島の地は帰蝶の大の自慢で御座います」


 毅然と胸を張ってそう主張する帰蝶を可笑しく思いながら、信長は中島の地を検分する事にした。信長はその夜の内に信秀に声を掛け、翌日には共に中島に向かう事になった。信長と信秀は帰蝶に先導されるように馬を駆って中島に向かったが、信秀は馬を駆る帰蝶の達者さに舌を巻いた。先頭を走る帰蝶の背中を見ながら傍らで馬を走らせる信長に言う。


 「嫁子(よめご)がまるで武者のようではないか、当家の嫁は馬の扱いも達者だとは思うて居らなんだ!」


 「そのお言葉は父上にそっくりお返し致します。信長も驚いているのです。気を抜くと置いて行かれそうです。(おのこ)の恥で御座いますから、お気を抜かれないように!」


 馬を歩かせることはせず、鞭を入れて馬を駆る帰蝶のせっかちな様子と、それに付き従う郎党の様子を見て、同じ家中でもこれほど違うのかと信長は思った。帰蝶の郎党には侍女も一名いて、帰蝶と同じように袴を履き馬を走らせている。帰蝶同様に馬の扱いが達者なのを見て、信長も信秀も舌を巻いたのだ。


 中島の地に到着すると、休息も無しに綿花の畑に案内すると帰蝶は信長と信秀に言い、帰蝶の先導に信長と信秀は従った。そしてその畑が見えて来ると、信長と信秀は感嘆の声を挙げたのだ。広大な畑が真っ白な綿花で埋め尽くされ、ここが本当に尾張の地なのかと疑うほどであった。


 「この畑から綿を採るのですが、とても大変な仕事なので銭で領民を雇って収穫しています。領民に銭を与えて仕事をさせれば、領民は余計に銭を得る事が出来ますので、暮らしぶりも良くなります。私は木綿を手に入れ商う事が出来ますし、領民は銭を手に入れるので、酒や着物などを求め、その求めた銭は織田家の税となって義父(ちちうえ)様の懐を潤します。それに木綿は戦に欠かせないと聞いて居りますので、今後は当家で入用な分は帰蝶がご用意致します」


 そう言った帰蝶の言葉を耳にした二人だが、余りの光景に言葉を失った。話には聞いていたが、実際に見ると圧倒されるばかりであった。そして、帰蝶の銭に対する考え方にも二人は驚いた。まるで氏治の話を聞いているような錯覚に陥った。


 「綿とは白き玉のような実がなると聞いてはいましたが、このような物だとは思いもしませんでした」


 「これが儂の布団の元になっているのであったな?これだけあれば多くの布団を作れそうであるが?」


 信秀が帰蝶にそう問うと、帰蝶は口元に手をやってクスクスと笑った。


 「義父(ちちうえ)様、この程度では多くの布団は作れませぬ。もっと多くの畑を作らねば叶いませぬ」


 「そ、そうであるか……」

 

 (この程度?この程度と申したが、儂には少ないとは思えぬ……)


 広大な綿畑を眺め見ながら『これだけあっても足りぬのか?』と唸るように考え込む信秀に続いて信長が質問する。


 「帰蝶はこの程度と言いましたが、如何程あればいいのでしょうか?」


 「そうですね。三平の話では、瀬戸や長久手、西三河に良い土地があるそうです。その地で畑を多く作れば叶うと存じます」


 (三平とは何者ですか?)

 (三平とは何者ぞ?)


 二人はそう思ったが、口にはしなかった。信秀は広大な畑を目の当たりにして尚、帰蝶の言葉が信じられなかった。そして信長は国策で綿作をする事を考え始めていた。


 「信長様。もし、綿作を致すならば、国で漁業も奨励下さいませ。干鰯(ほしか)が畑の肥料になるのです。帰蝶は多くの干鰯(ほしか)を手に入れたいのですが、国で奨励して頂ければ多くの魚が獲れるので、値も下がるので、帰蝶も助かるのです」


 「―――干鰯ですか、考えておきましょう」


 「お願い申し上げます」とニコリと笑う帰蝶の様子を見て、(干鰯(ほしか)強請(ねだ)る姫などこの世に居るのか?)と信秀は変に感心した。

 暫く綿畑を見回った後、帰蝶に大きな長屋に案内された。余りにも大きな長屋なので、何事かと構えた信長と信秀だったが、中に入ると更に驚く事になる。


 「ここでは木綿を織って居ります。氏治様からは結城紬の技を持つ織手を借り受け、ようやく満足の行く織物が出来るようになりました。この長屋は『工場』と申しまして、ここで働く者には駄賃を与えて居ります。戦で夫を亡くした者や、若い娘などが勤めて居ります。木綿も作りますが、生活の糧を求める女子(おなご)の仕事場でもありますね」


 長屋の中には機織り機がズラリと並び、女達が機を織っている。小気味のいい音があちこちからパチパチと鳴り響き、見た事もない光景に信長と信秀は顎を落とした。生産工場など無い時代である。信長と信秀が驚くのも無理はなかった。二人の様子を気にする事も無く、帰蝶は説明を始める。収穫した綿花を糸にする過程や、その作業が過酷な事である事も伝えた。


 「この機織りも大変な仕事なので、一刻(二時間)に一度は休息を取らせます。遮二無二働かせては身体を損なうので気を配らねばなりませぬ」


 帰蝶の姿を見た女達は、次々と機織りを中断して立礼をし、そして直ぐに作業に戻った。


 「信長様、義父(ちちうえ)様、ここでは立礼のみで平伏は禁じて居ります。御無礼かと存じますが、お許し下さい」


 「それは構わぬが、何ぞ訳でもあるのか?」


 「大した訳は御座いませぬが、身分の高い者が参る度に平伏していては仕事が遅れますので禁じているのです。ここには当家の郎党もよく参るのでそうしているのです」


 「ふむ、儂は構わぬ。しかし、其の方も色々考えて居るのだな」


 信秀が感心したように言う。信長は無駄を排する帰蝶の考え方に驚いていた。『工場』の考え方は氏治からの文で聞いていたが、実践するとこうなるのかと考えさせられた。


 信長と信秀は帰蝶の説明にただ頷くのみで、機を織る女達の様子を興味深げに観察した。機織り機も見事なもので、どれ程の銭が掛かったのかと興味が尽きなかった。しばらくそうしていた二人は、茶の用意が出来たと帰蝶に声を掛けられ、長屋の奥の一室に腰を落ち着けた。

 茶が出されると再び帰蝶が説明を始めた。中島での田植えの話や、稲が育って来れば魚を放って稲の育ちを助けるなど、田畑の話を信長と信秀に披露した。帰蝶が余りに詳しいので、信長がその理由を聞くと、帰蝶は自ら作業の指揮を執ったり、百姓と語らい相談したり、今では孤児の世話もしていると言う。


 「孤児?帰蝶がですか?」


 信長がそう問うと、帰蝶は小さく頷いた。


 「左様で御座います。氏治様に倣い、鉄砲の撃ち手を育てる為に孤児を集めて育てているのです。ですが、帰蝶も所詮は女子(おなご)なのだと思い知らされました。帰蝶は鉄砲衆を作りたくて(まつりごと)を始めたのですが、あの子達を率いて戦に連れ出す事は出来そうにありませぬ。情が移ったのでしょう」


 少し寂し気に帰蝶は言う。これまでとは違った帰蝶の内心を聞いて、信長は帰蝶は人として成長したのだと強く感じた。この場で抱きしめてやりたいと思ったが、信秀の前では憚られた。一方の信秀は何か声を掛けねばと考えたが、巧い言葉が見つからなかった。


 「帰蝶は鉄砲衆を率いる事を諦めるのですか?私は帰蝶の(まつりごと)を高く評しています。帰蝶が望むなら鉄砲衆を率いる事を許します。氏治殿の鉄砲衆のように、危うくなれば真っ先に軍勢を引けば良いと考えますし、そうすれば孤児達が討ち取られる事も無いでしょう」


 「いいえ、帰蝶は参りませぬ。ですが、あの子達にも暮らしがありますのでお役目は果たして貰いたいと考えています。当家には日ノ本一の鉄砲指南役が居るのです。その者が育てたあの子達はとても優秀な撃ち手なので、腐らせる訳にも参りませぬ。危うくなれば真っ先に引かせて頂けるならば、信長様にお譲り致します」

 

 「日ノ本一の指南役?」


 「杉谷善住坊と申します。帰蝶の家臣なのですが、遠くに吊るした針を鉄砲で打ち抜く名人で御座います。鉄砲衆は加藤段蔵と申します帰蝶の家臣が率います。この段蔵の家来が善住坊なのですが、この二人に任せれば、あの子達を無下に扱いませぬし、帰蝶も安堵出来るのです。二人が承知するならば、どうか信長様の家臣にお取立て下さいまし」


 「遠くの針を打ち抜く?其の方、日の本一と申したが、それは真か?当家の指南役である橋本一巴よりも優れていると申すのか?」


 信秀の問いに帰蝶は笑みを浮かべた。


 「帰蝶はそう思って居ります。帰蝶は橋本一巴を存じていますが、善住坊の腕前も存じて居ります。何れ腕比べをされれば良いと存じます」


 自信たっぷりにそう言う帰蝶の様子を見て、信長と信秀は顔を見合わせた。


 「帰蝶が譲ると言うなら、この信長は是非、貰いたいと思いますが真に宜しいのですか?」


 「はい。あの者達も槍働きを致したいと思われますし、段蔵は忍びなので信長様のお役に立てると存じます。帰蝶は今一人の家臣とあの子達の帰る場所を守ろうと考えて居ります」

 

 「忍び?帰蝶の家臣に忍びが居るのですか?」


 「はい。氏治様の模倣をして家臣にしたのです。そこに控える蛍も忍びなのです。段蔵はこの蛍の夫で御座います。気の良い(おのこ)なので、信長様も気に入ると思います」


 信長と信秀は帰蝶に促されるように視線を動かして蛍を見た。その視線を受けて、蛍は頭を下げた。若く美しい娘だとは思っていたが、忍びだとは夢にも思わなかったので、二人は大いに驚いたのだ。特に信長の衝撃は大きい。信長は忍びを欲していて、何度か使者を出しているが良い返事を貰えないでいたのである。気長に探そうと考えていたが、まさか自分より先に帰蝶が忍びを手に入れているとは考えもしなかった。


 「帰蝶が忍びを家臣にしているとは……。この信長が欲しているものを帰蝶は全て持っているのですね。帰蝶、是非譲って頂きたい。望む褒美があるのであれば、可能な限り叶えましょう」


 「帰蝶が欲しいのは銭で御座いますが、頂いて使うのみでは意味が無いのです。領地を育て、そこから上がって来る銭を増やして更なる(まつりごと)を致したいのです。強いて言えば、座を無くして貰えると帰蝶は嬉しく思います。働かぬ者が多くの銭を民から奪うのに納得出来ぬのです」 


 「―――座……。ですか……。この信長も考えていましたが、帰蝶が望むとは夢にも思いませんでした。信長は何れ今川を滅ぼし、領地を広げます。もっと力を持たねば座を排する事は叶いません。それに領内の(まつりごと)を差配する者も足りません。ですが、何れ必ず座を廃しましょう」


 「帰蝶はまるで氏治殿のようであるな?話を聞くに、当家の家臣より(まつりごと)に長けていると儂は思う。いっそのこと、勧農寮(かんのうりょう)(農業振興部門)を任せたい思いがあるが、林に任せて居るからそうも行かぬか」


 「父上、良い考えかと。林と帰蝶に勧農寮(かんのうりょう)を任せて競わせれば良いのです。林はお役目に不満があるようですが、女子(おなご)の帰蝶と競うとなれば、面目に掛けてお役目を果たそうとするでしょう。当家は律令に転じる事が出来ましたが、お役目を甘く見ている者が多いのが実情です。信長が家督を継げば、お役目を疎かにする者は罷免して別の者に変えて行きます。父上の家臣も例外ではありません。帰蝶にお役目を与えれば大きな功を挙げるでしょう。当家にとって良い事だと考えます」


 それを聞いた帰蝶は目をしばたたかせて、自分には無理だと訴えたが、信長や信秀からは今までと同じ事をすればいいのだと諭されて、説得されるように役目を引き受ける事になった。帰蝶は少しの間は茫然としていたが、寺子屋や畑を多く作りたいという願望もあったので、藤吉郎に気張って貰えば何とかなると直ぐに気を取り直したのである。

 この頃の木下藤吉郎は帰蝶の家中では木綿藤吉と呼ばれ、木綿の様に丈夫で使い勝手が良いと家中から評され、また、帰蝶からの信頼も絶大であった。これを切っ掛けとして、木下藤吉郎は歴史の表舞台に踊り出る事になる。


 「先程から気になって居るのだが……。蛍は忍びであると申したな?女子(おなご)の忍びとは何が出来るのだ?見た所、その細腕では太刀も扱えぬと思われるが?」


 蛍をまじまじと見やりながら信秀が言う。


 「蛍。義父(ちちうえ)様に申し上げなさい。遠慮は無用です」


 帰蝶にそう言われた蛍はもじもじしながら口を開いた。


 「はい。この場であれば、殿様も若君も弑し奉る事が叶います。蛍は女子(おなご)では御座いますが、毒の針を使いますので、この身が討たれても毒の針を御二方に撃ち込む事は叶うと存じます。解毒の薬は持って居りますので、試しに撃ち込んでも安心で御座います」


 「―――なっ!」

 「―――毒?」


 恥じらう様な態度とは正反対の言葉に、信長と信秀は仰天した。毒針など飛ばされたら防げるものではない。そしてこれが忍びなのかと認識を改めたのだ。苦笑いをしながら「儂には撃たぬよな?」と蛍に問う信秀と、少し考えている蛍を見て、信長と帰蝶は笑った。

 

 「帰蝶。蛍の夫が段蔵だと申しましたね?段蔵の腕前は如何程なのでしょう?氏治殿の百地と比べる事は出来ますか?」


 「蛍が申すには、段蔵は忍びの秘術を受け継いでいるそうで御座いますから手練れである事は間違いないと存じます。段蔵は自身の事は余り語りませぬし、功を誇る事も無いので、帰蝶は余り聞かぬ事にしているのです。近頃は段蔵も手下が増えたので、今では十五名の忍びがいますね。信長様の御役に立てると存じますが、蛍は帰蝶が入用なのでお譲りする事は出来ません」


 「承知しました。段蔵と善住坊を貰い受けます。この信長の直臣として取り立てましょう。会うのが楽しみです」


 こうして加藤段蔵と杉谷善住坊は当人達の知らない所で信長の直臣になる事が決定した。その後、帰蝶は信長と信秀を西砦に案内した。そこで信長と信秀は更に驚く事になる。


 


 


少し忙しくなりまして執筆の時間が取れず、投稿の間隔が空いてしまいましたがご了承下さい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今回の話はいつにもましてボリュームがすごかった。 クスっと笑う箇所も多くて特に信長が家督を継いだ理由が 面白かったです。 [一言] 帰蝶、加藤段蔵、杉谷善住坊、木下藤吉郎等の今後の活躍が …
[一言] 完全に帰蝶さんが覚醒している!
[良い点] こんな読み応えのある作品を毎日ありがとう! 無理せずにご自身のペースで執筆なさって下さい。
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