第百七十二話 御旗と盾無
― 二年前 ―
武田信繁から小田氏治の言葉を聞いた武田晴信は大きな衝撃を受けた。名門である武田家の棟梁である自分を悪しざまに評したのだ。そして大国になった小田家に攻め滅ぼされるのでは?と恐怖を覚え、後にそれが怒りに変わっていった。
数日が経ち、冷静になると晴信は信繁から伝えられた氏治の言葉を一つ一つ反芻するように思い出し、その意味を考えた。そして笑った。氏治の言葉は何一つ間違ってはいないと。そして考える。このままでは何れ武田家は滅ぼされる。何か手を打たなければならない。
―――彼を知り己を知れば百戦殆からず
晴信は孫子の言葉を思い出した。そして先ずは小田氏治を知ろうと、武田家に仕える忍びの棟梁達を招集した。小田氏治の事であれば何でも良いと、小田領に潜入させ調べさせた。
少しの時が過ぎ、晴信の元には次々に忍びから報せが上がって来た。晴信はその報せが記された文を読んで様々に驚く事になる。その中の最たるものは、小田家が律令と思われる制度を取り入れている事であった。幼い頃から書に親しんで来た晴信は、律令を知っている。だが、あれは公家の制度の筈である。何故、武家の名門である小田家がこの制度を取り入れたのだろうか?晴信は数日考え込む事になる。その間も、忍びからは報せが幾つか届いた。晴信は纏まらない考えをわきに追いやって、忍びからの文に目を通す。その中に軍団長という文字があり、読み進めれば、小田家では戦の際、氏治の指示で軍団長が兵を集めると記されていた。確かに、小田家では国人が全て被官していると知らされている。晴信はこれを羨ましく感じていた。自分は国人の顔色を窺いながら兵を集めるし、氏治のように兵を自在に使えればどれ程良いだろうと考えもした。だが同時にこの様な非常識な事をどうやって行ったのかと考えた。何故、律令を使うのか?何故、国人を被官させる事が出来たのか?晴信は腕を組んで考える。
「律令……。被官……。律令……。公家……。朝廷……。帝……。―――あっ!」
(何という事だ!何故、こんな簡単な事に気が付かなかったのか!)
「小田殿は……。小田殿は帝の軍勢を作り居った!」
律令は公家の制度。力を持たない、なよなよしい公家の姿が頭にあったので、氏治の狙いに気付けなかった。氏治は公家ではなく、帝の制度を取り入れたのだ。同じようでまるで違う。公家の制度を必死に調べていたが、役職などの役割の問題ではないのだ。国人が全て被官しているから軍勢を好きに扱えるとは考えていたが、軍勢だけではない、政を好きなように行え、更に領地の全ての富を握る事が出来る。一体、如何程の富が集まるのだろうか?
興味を持った晴信は、己を知ろうと、武田領全ての国人や自分の領地の年貢や税の上りを調べ始めた。家臣に命じて集まった帳簿が山のように晴信の私室に積み上げられた。それをたった一人で整理し、武田家がどれだけの財を持っているのか算じた。晴信は私室に籠もりきりになり、何度か弟である信繁が気遣わしげに様子を見に来ていたが、口も利かずに作業に没頭した。やがて全ての帳簿を調べ切り、算じたその額に驚いた。貧しい武田家ですら信じられないような銭と年貢が集まる。
(―――だが、国人や家臣を全て被官させたとしても、その禄は如何程になるのであろうか?米は不作の年もある、米を銭に変えて禄を支払うから収穫に左右される。当家であれば金山の収入で賄えるか?)
甲斐は貧しい。米が採れず、場所柄もあり商いも活発ではない。冬が早く春が遅く、他国と比べると米以外の作物の収穫が少ない。だが救いはあった。甲斐では金が採れる。この金山があったから富を蓄える事が出来ていた。小田家の律令を取り入れる事が出来れば晴信の力は今とは比べ物にならないくらいに強くなる。だが……。
(一体どうやって被官させる?武田家では国人領主の力が強い。晴信は武田家の棟梁ではあるが、国人に命じる権限は無い。仮に全ての国人や家臣を被官させたとしても、一体、どれ程の碌を支払えば良いのか見当も付かない。とても晴信一人では算じる事も出来ないし、武門を誇りとする武田家には文官と言える者が殆ど居ない。一体、どうすれば良いのか……。)
晴信が悩む間にも、忍びからは次々と報せが入って来る。氏治が熊を素手で殴り殺したやら、次郎丸なる大きな獣を従えているとか、愚にも付かない噂を拾ったのであろう報せが多々あった。どうすれば国人を被官させる事が出来るかと、暫くの間悩んでいた晴信だが、自分では出来ないと判断し、他の方法を模索した。そして出した結論が、今後の戦で得た領地を全て自分の物にする事が出来ないだろうか?という考えだった。
信濃四十万石を晴信の直轄地にすれば、国人の力を遥かに凌駕する。今は合議で物事を決めているが、力を持てば、晴信の発言力は大きく増す。力を持ち、少しずつ国人を潰して領地を得れば、小田氏治の律令と何ら変わる事のない力を得る事が出来るのではないか?であるならば、次の戦の機会は、佐竹義昭の上野攻め。小田の軍勢が佐竹の軍勢と上野で戦をしている間に最低でも南信濃、叶うなら更に木曽郡、筑摩郡、安曇郡を獲る。小県郡の砥石城は無視して、川中島四郡を伺う。筋書きは出来た。これをどう実現するかが問題である。戦を仕掛けるにも国衆の了承が必要になるので晴信が決める事が出来ない。仮に通ったとしても、獲った領地の独占を国人が許す筈がない。
それからというもの、晴信はどうすれば領地を独占出来るか考え続けた。様々な策を練ったがどうにも良い案が浮かばない。屋敷の中をうろうろと彷徨い、気が付けば広間に来ていた。そこには御旗と盾無が飾ってある。
御旗とは源氏の棟梁である源頼義が後冷泉天皇より下賜された日の丸の旗で、盾無とは源頼義の子で武田家の先祖である新羅三郎義光が着用した鎧である。武田家の家宝として、先祖代々大切に保管されている。その御旗と盾無を眺めながら晴信は呟いた。
「御旗、盾無御照覧あれ……か……。ふふっ、ご先祖が今の晴信をご覧になれば、さぞ、お笑いになられる事であろうな……。ん?―――御旗、盾無御照覧あれ……。御旗、盾無御照覧あれ……。―――っ、これだ!これだ!これだ!あっはっはっは!」
御旗、盾無御照覧あれ。この言葉は武田家の棟梁が先祖に対してする宣誓であり、武田家の棟梁がこの言葉を口にした場合、家臣は一切の反論を許されない。つまり、晴信が武田家の棟梁としてこの言葉を使えば、武田家のしきたりとして、国人でも家臣でも反論が許されなくなる。戦の差配を全て晴信がすると宣言した後に宣誓すれば、戦も、後の論功も全てが晴信の思いのままになる。
「何故、このような事に気が付かなかったのか!」
広間で一人、可笑しそうに笑う晴信を、柱の陰から信繁が心配そうに眺めていた。
そうと決まればと晴信は戦の準備を始めた。小田家の軍勢を呼び込まないようにする為に、小田氏治には平身低頭の書状を毎月送る事にした。書状を送っても、氏治からの返事は無かったが、気にする事無く送り続ける。信濃四十万石を獲れば、小田家と戦になっても守り切る事が出来るかも知れない。佐竹家の合力があればその限りではないが、何もしないよりやれる事をした方がいい。どれ程の時が稼げるか判らない。だが、出来る限りの備えをするのだ。晴信は策が決まると、最も信頼出来る身内の信繁を呼び出し、心中を明かした。
「その様な事をお考えになられましたか……。しかし、小田の小娘が帝を模した政を致していようとは夢にも思いませなんだ。ですが、兄上の策、狙い通りにゆけば国衆を黙らせる事が叶います。この信繁は致す価値が十二分にあると存じます」
「信繁、小田の小娘などと言うでない。小田殿と申せ。小娘などと言葉に致せば侮りが生じる。良いか?我等には思いつかぬ政をし、武蔵と下野で致した見事な軍略。これを侮れば我等武田は容易く葬られるであろう。それほど恐ろしき敵、女子であるからと侮るのは愚者の行い。努々忘れるでないぞ?」
「承知致しました。お叱り、有難く存じます。この信繁は心を入れ替えまする」
信繁はそう言って晴信に平伏した。その姿を満足そうに眺めてから晴信は話を続けた。
「大まかな策は出来た。此度の敵は武田の重臣と家臣、そして小笠原、知久、下条、木曽、仁科はどうであろうな?戦は流れもあり、時の運不運もある。南信濃は獲れようが、その他は今は解らぬ。この晴信も三十二のこの歳になっても軍配を振るう機会に恵まれなかった。重臣共の言いなりに生きて参ったが、此度の戦ではそうは行かぬ。先ずは兵糧を蓄え、倹約を致し軍資金を蓄える。後に今一度軍備を見直す」
武田晴信はこの歳になっても全軍の指揮をした事が無かった。史実の武田晴信は、世に言う砥石崩れの後に戦を重ね、領地を増やし、自らの力を増すと共に国衆から絶大な信頼を得る巨人へと成長する。だが、小田氏治の存在が、晴信が本来辿るべき道を違えさせた。
氏治の謀略により再度の砥石城での戦に敗退し、複数の商人を使った経済戦争を仕掛けられて軍事行動の制限を余儀なくされた。そして足踏みをしている間に小田氏治は勢力を伸ばし、武田家の領地に接す事になった。そのような理由で、武田晴信は戦をする機会に恵まれず、経験を積む事も実績を積む事も出来なかった。小田氏治は武田晴信にとって悪魔のような存在であった。
「兄上、今川殿から援軍を求められては如何で御座いましょう?軍勢は多ければ多い程よう御座いますが?」
「此度は援軍は頼まぬ。先の戦で当家が援軍を断った手前もある。当てにならぬ援軍を頼むより、己が力で戦した方が此度は良いと考える。それに、小田殿に気取られたくない」
「左様で御座いますか。しかし、御旗、盾無を使われるとはよう考えられたもので御座います。」
「この武田のしきたりを一度使えば、次に使う機会は無いものと心得よ。此度の狙いは獲った領地を全てこの晴信の物に致す事。戦後の褒美は全て金子で支払う。土地は決して渡さぬ。大領を持てば国衆も逆らえまい。小田家も佐竹家も大領を得たばかり、上野攻めには時が掛かると見た。我等はその間に備えを致す。いざ、策を弄する時の為に、もう幾つか仕込みをせねばならぬな。国衆と合議を致してから軍勢を集めては敵の不意を付けぬ。合議なく軍勢を集めねばならぬ。南信濃に攻め入っても城が落とせなければ話にならぬからな」
「仕込みで御座いますか?」
晴信は暫く考えると口を開いた。
「先ず……。国境では、よく小競り合いが起こるが、その度に其の方が参り、仲裁せよ。頭を下げても構わぬ、当家が弱気と周りに知らしめる」
「兄上、致すのは構いませぬが、弱気と取られれば村上が攻めて参るのでは御座いませぬか?」
「村上は来ぬ。上杉の援軍なくば、当家を攻め切れぬ事は村上義清がよく解っている筈。無駄な戦はすまい。小笠原も同じであろう。仮に村上と小笠原が合力致しても同じ事。守りであれば今川殿の援軍も貰えよう。何より、村上と小笠原は戦を望んで居らぬ。仮初の太平を演じるのだ、いざ戦となれば、腑抜けた敵と戦出来る方が都合が良い」
「調略は如何致しましょうか?」
「此度は調略も致さぬ。国人を増やしては意味が無くなる。其の方には申して居らなんだが、真田は死んだ。忍びが伝えて来よった。下手に調略を仕掛けて気取られれば策が台無しになる」
「真田殿が……」
「獄中で死んだそうだ。哀れではあるが致し方なし。真田の死は秘しておけ。村上攻めで真田の一族が救出せんと気張るであろうから戦に有利になる。気に食わぬか?」
「その様な事は御座いませぬ。今は亡国の危機、使える物は何でも使いまする」
「うむ。今一つは小田殿の忍びを炙り出す。当家の城、屋敷にいる者全ての身元を改める。当地に所縁無き者は国外に追放致す。命は獲らぬ。小田殿は忍びを重臣、家臣に致して居るそうだ。下手に手を出せばこちらに目が向こう」
「当家に入り込んで居ると?」
「解らぬ。だが、用心は致す。最後は国衆共であるが、策はある故、時が来れば其の方に話そう」
こうして武田晴信と武田信繁は秘密裏に計略の準備を進めた。小田氏治には平身低頭し、武田家が気弱であると誤認させ、周辺国との小競り合いを可能な限り避けた。武田家の国衆に対しては、話の解る主君を演じ続けた。
一五五四年、天文二十三年、九月。佐竹家と小田家による上野攻めの報が晴信の耳に伝えられた。出陣は十月の吉日。宣言をしてからの堂々の出陣である。弱体化しきった上杉家に万に一つも負けは無いと見透かした佐竹義昭の行動だったが、公言した事により、武田晴信に利する形になった。
晴信は十月の十日を待って総動員の陣触れをした。合議なき陣触れだが、国人や家臣は周辺国が攻めた来たと誤認するだろうと見越しての陣触れである。砥石攻めでの敗退から碌に戦をしていないし、僅かな期間ではあるが太平に慣れた国衆も、危機とあらば慌てるだろう。
そうして晴信と信繁は、諸将と兵が集まるのを待った。軍奉行からは一万弱の兵が集まるだろうと知らせて来た。それを聞いた晴信と信繁はお互いの顔を見て笑い合った。
「よく集まったものだ。一万の軍勢が不意に攻め入れば城を落とすのも容易かろう」
「急な動員で御座いますから、国衆も敵が攻めて来たと考えると思われます。兎も角と槍を持ち馳せ参じた者も居るようでは御座いますが、その者達には再度兵を集めるように申し伝えて居ります」
「うむ。戦の理由を知らせなければ、重臣共も好きに考えを巡らすであろう。それが狙いよ。首尾良く兵は集まった。後は仕上げと参ろうか」
「急ぎ軍議を致し、南信濃へ侵攻致せば此度の初戦の勝ちは揺るぎませぬ。敵も備えが遅れましょうから」
「では、参るとするか。板垣と甘利の顔を見るのが楽しみだ」
― 躑躅ヶ崎館、大広間 ―
躑躅ヶ崎館の広間には、出陣の下知を受けた武田家の家臣達が、棟梁である武田晴信を今か今かと待っていた。その中で板垣信憲と甘利信忠は他の家臣に比べ、一際強く内心で困惑していた。板垣信憲と甘利信忠は武田家では最上位の役職である両職に任ぜられている。合議制を行っている武田家では国人の力が強く、例え棟梁の晴信であっても国人に直接命令を出す事が出来ない。
政や戦も全て合議で決まる。にも拘らず、突然動員が掛けられた。しかも可能な限り兵を集めよという。全ての国人は躑躅ヶ崎館に集まるように命じられた。板垣信憲と甘利信忠のみならず、他の重臣、家臣も今までに無い命令に首を傾げた。何か変事でも起こったのかと、兎も角行かねばと命令に従った。行けば誰かに事情を聞けるとも考えたからである。
そして躑躅ヶ崎館に集った重臣、家臣は、皆一様に理由を求めた。だが、誰もがその答えを持っていなかった。広間では軍装に身を包んだ武田家の家臣が騒めくように今回の召集の理由を求めて雑談をしていた。板垣信憲と甘利信忠も例外ではなく、小声で今回の動員の理由を推察し合った。
「それにしても、此度の陣触れは合点が行かぬ」
甘利信忠は腕を組みながら小さな声で板垣信憲に訴えるように言う。
「左様。我等に相談も無くこの様な陣触れは今までに例が無い。合戦致すなら我ら国人と合議致すのが決まり。何ぞ凶報でもあったのかと、取り敢えずやっては来たが、どこで戦致すのか誰も知らぬときている」
「この信忠も驚き申した。何ぞ変事でもと参ってみればこの有様。小田家が攻めて参ったのであろうか?」
「兵を搔き集めよとの仰せ。十分考えられる。だが、小田の小娘が当家に攻め入るには小仏峠を抜けねばならぬ。大軍が攻め入るには余りにか細い道であるから、これも合点が行かぬ」
「ふむ、然り。何れ御屋形様が参られるだろうが、早うに話を聞きたいものだ」
「だが、両職である我等に相談も無く陣触れ致したのは看過できぬ。武田家が今あるのも我等あってこそ。今少しお考えになって貰わねば困りますな」
「左様であるな。だが、先ずは御屋形様の話を聞こうではないか?」
そうして話をしていると、広間に武田信繁が姿を現した。これで理由が知れるとその場の者達は期待したが、信繁の口からは全く別の言葉が飛び出した。
「直に御屋形様が参られます。皆様、平伏して御待ち下され」
(平伏して待てだと?)
甘利信忠は耳を疑った。隣をチラリと見れば板垣信憲は半分口を開けたまま信繁を眺めていた。他の家臣が次々と平伏する中で、気が付けば板垣信憲と甘利信忠だけが信繁を見ていた。幾ら武田家が棟梁であろうとも平伏をして待つなど今まで無かった。
「板垣殿、甘利殿、如何致したか!」
叱責に似た強い口調で信繁に問われた二人は思わず信繁の圧力に屈して平伏した。力を持たない晴信を尻目に好き勝手やって来たせいもあって、自尊心が尊大になっていた二人は、何故この様な事をと臍を噛んだ。陣触れといい、平伏といい、突然の事ばかりで頭が付いて行かない。それでも、信繁に睨まれて平伏してしまう様子は小物であるとの証左であろう。
武田信繁に平伏して待つように申し伝えられた重臣、家臣達は、武田晴信を平伏して待っていた。だがその心の内は、畏怖などではなく、困惑が支配していた。暫くすると、具足を身に纏った晴信が姿を現した。その気配を感じ取った家臣達は緊張した。晴信はゆるりと歩き、上座に腰を下ろした。晴信の背後には広間を睥睨するように武田家伝来の御旗と盾無が飾られている。
「面を上げよ」
常になく大きく響く晴信の声を聞いて、重臣、家臣は一斉に顔を上げた。武田晴信は居並ぶ重臣、家臣をゆるりと睥睨した。そして、板垣信憲と甘利信忠に目を向けると、ニコリと笑った。
「板垣、甘利、顔色が優れぬようだが如何致した?」
板垣と甘利に優しく語り掛けた晴信だが、目は笑っていなかった。板垣と甘利は瞬時に恐怖した。晴信を侮ってきた二人には思い当たる事が多過ぎた。板垣と甘利の側に信繁が座っているが、鋭い目つきで二人をずっと睨むように見ていた事もあるが、普段とは余りにも様子が違う事に二人は気付いた。そしてもしや討たれるのではという思いが脳裏を横切った。思い当たる事が多かった。
「いえ、特に何も。此度の陣触れの事を思案して居りました」
甘利は動揺しながらも事情を知りたくて、気が付けば言葉を発していた。
「左様であるか」
晴信はそう言ったが、内心では痴れ者め!と罵っていた。板垣信憲と甘利信忠は、戦死した板垣信方と甘利虎泰に敬意を表して晴信が両職に任じた。にも拘らず、板垣信憲と甘利信忠は己の欲を満たす事しか考えず、晴信に力が無いと見て侮り続けてきた。今に見て居れと晴信は内心でほくそ笑んだ。
晴信は上座から立ち上がり、居並ぶ家臣を見回した。
「皆の者!此度、陣触れ致したのは小笠原と戦を致し、南信濃を我等の手中に収める為である。合議も無く陣触れ致したのは敵の目を欺く為、この晴信の軍略である。敵を騙すには先ず味方からと申す。とは申せ、欺かれては皆も気分が良くなかろう。先ずはそれを皆に謝りたい。なれど、流石は武田の国衆よ。よくぞ集まってくれたとこの晴信は感服致して居る」
晴信の言葉を聞いて広間は騒めいた。疑問が晴れたのもあるだろうが、久方ぶりの戦にその場の者達は高揚しつつあった。その中で穴山信友が口を開いた。穴山信友は武田家の一門衆である。
「急な陣触れで御座いましたので、何事かと思うて居りましたが、敵を欺く為の軍略とは恐れ入りました。近頃は戦も無く、小笠原も油断して居りましょう。我等がこの様に驚いたので御座います。敵方であれば尚更で御座いましょう」
「常であれば合議を致し、戦を決める事になるが、勝つには手段を選んで居れぬ。だが、此度の晴信の勝手を非難する事無く、その様に申してくれたのは嬉しく思う」
「信濃を攻めあぐねて久しく御座います。此度の陣触れは敵の虚を突きましょう。この信春も異存など御座いませぬ」
「馬場信春、此度の戦では期待して居る。だが、時が惜しい。ここで話し合うては合議と変わらぬ。聞くが良い」
晴信はそう言うと上座から降りて一同を見回しながら口を開いた。
「此度の戦は武田の先を決める大事な戦である。隣国には大国の小田家があり、信濃には小笠原と村上が居る。また北条も油断が出来ぬ。この一戦で領地を大きく広げ、国を守る力を手に入れる。それが狙いである。此度の戦はこの晴信が全て差配致す。仕置きや論功の差配もこの晴信が致す。此度の初戦は敵の不意を衝く事が叶うであろう。此度の勝ちは揺るがぬと、そう心得よ。南信濃で満足してはならぬ。早駆けに駆け、敵に時を与えてはならぬ。高遠を獲った後に軍勢を返し、木曽と筑摩郡に兵を進める。敵の支城は後に落とせばよい。火のように侵略致すのが肝要である」
そう言うと晴信は一度言葉を止め、諸将の顔を確かめるようにゆっくりと見回した。そして再び口を開く。
「此度の戦では乱暴狼藉の一切を許さぬ。当家の敵である小田家では、乱暴狼藉の一切を致さぬ事は諸将の耳にも入っていると思う。これは、よくよく考えれば後の統治が容易くなる優れた兵法だとこの晴信は考える。現に、小田家は大領を得たが、統治が行き届いていると聞いている。獲った領地を荒らしては次に繋がらぬ。この晴信は小田殿に倣おうと思う」
晴信の言葉に諸将は騒めいた。晴信が武田の棟梁として支持を得たのは無秩序な乱暴狼藉を許したからである。居並ぶ重臣や家臣の反応は様々で、晴信の言葉に納得したような者もいれば、露骨に顔を顰める者もいた。その様子を見ながら晴信は更に言葉を続ける。
「此度は武田の棟梁として特に命じるものである。領地を広げ、速やかに備えねば、何れ起こるであろう小田家との戦に勝つ事は出来ぬ。当家と今川家、そしてこの甲斐、信濃の天険を以てすれば防ぐ事も出来よう。小田家では降っても領地は安堵せぬと聞いている。万一、武田の国人が小田に降っても領地は取り上げられる。その様な事はこの晴信は我慢ならぬ。皆はどうか?」
晴信の言葉に諸将はどよめいた。確かに降っても先祖から受け継いだ土地を取り上げられたら降る意味が無い。小田家の脅威は武田家の諸将も感じていて、晴信がここまで考えている事に驚いた者や、感心する者もいて、多くは晴信の主張を正しいと考えた。そしてその中の一人が口を開いた。
「土地を奪われれば、ご先祖に顔向けが出来ませぬ。某は御屋形様に賛同致します」
一人がそう言うと、次々に晴信の意見に賛同する声が挙がった。晴信はそれに対して満足そうに頷くと、上座に飾られる御旗と盾無に向かって座り居住まいを正した。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
晴信が力強くそう言うと、家臣も続くように一斉に声を上げた。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
晴信に続くように発せられた声は、広間に大きく響いた。その中で、板垣と甘利だけは沈黙していた。それを見た信繁は太刀を持って立ち上がり、二人を睨みつけた。
「板垣殿、甘利殿、何故黙られて居るのか!武田のしきたりをお忘れか!それとも武田には従わぬと申すのか!」
そう言いながら太刀を引き抜いた信繁を見て二人は恐怖し、慌てて平伏した。
「信繁、その様な事をするでない。板垣と甘利は武田の重鎮。この晴信が勝手致した事が気になるのであろう。そうであろう?」
晴信にそう問われた板垣と甘利は震え上がった。
「その様な事は御座いませぬ。今一度、宣誓の儀をお願い致しまする!」
板垣がそう言うと、甘利も続くように口を開いた。
「この甘利も異存は御座いませぬ。不意で御座いましたので呆けてしまいました。今一度機会を賜りたく存じます」
「左様か。板垣と甘利には叛意有りとも見ゆるが、其の方等は真にこの晴信に従うと申すのだな?」
晴信の言葉に板垣と甘利は震え上がった。叛意を疑われているとは露とも思っていなかった。武田のしきたりに従わなかった二人はこのまま晴信に討たれても文句が言えない。集まった軍勢が二人の領地に攻め入れば簡単に滅ぼす事も出来る。それ以上に板垣と甘利は晴信の眼の奥にある憎悪に気付いて恐怖した。
「元より、叛意など御座いませぬ。どうかお許し下さい!」
「この甘利に叛意など御座いませぬ。御屋形様に忠誠を誓って御座います!」
板垣と甘利の様子を晴信は笑みを浮かべながらじっくりと観察した。このまま手討にして見せしめとしてもいいが、急ぐ戦なので時が惜しい。やるなら戦の後に軍勢を返したらそのまま板垣と甘利の領地に攻め入り、滅ぼしてしまっても良いかも知れない。この戦で諸将の反応を見てから決めればよいか。晴信はそう考えてから口を開いた。
「ならば、今一度、宣誓致す。板垣、甘利、此度の戦の先陣を務めよ!死ぬ気で働け!良いな?」
「承知致しました!」
「承知致しました!」
震えながら平伏する板垣と甘利の様子を冷たい眼で一瞥すると、晴信は再び宣誓をした。先程よりも力強い宣誓をした諸将の様子を見て晴信は満足気に頷いた。これでようやく自分の好きに戦や政が出来る。こうして武田晴信は己と武田家の命運を分ける戦に身を投じる事になる。眠りについていた虎が、ようやく動き出した。
面白いと思った方は、ブックマーク登録、評価、レビューをお願い致します。




