第百六十九話 竹中家
― 竹中善左衛門 ―
善左衛門は馬を駆り、美濃の竹中重元の元へ向かっていた。荷には支度金である金子と氏治の書状が入っている。
元々は竹中半兵衛のお供として常陸にやって来た善左衛門であったが、半兵衛が小田家に仕官が叶うとは思って居らず、仕官を断られた半兵衛を連れ戻すのが役目だと考えていた。ところが、主である竹中重元や善左衛門の予想に反して、竹中半兵衛はあっさりと小田家への仕官が叶い、しかも大国の主である小田氏治に随分と気に入られたようで、側近として仕える事になったのだ。これには善左衛門も驚いた。
氏治の重臣達も、歳若い半兵衛を侮る様子など微塵も無く、礼節を以て接していた。これが斎藤家であれば、小馬鹿にされて追い返されていただろう。それに家中の雰囲気がまるで違う。国主である氏治に対して、小田家の重臣達は礼節を以て接してはいるものの、主の振舞いに対しては意見をはっきりと述べ、そして主である氏治はまるで友に接するように気さくに振舞うのだ。
その態度は善左衛門に対しても変わらなかった。氏治から竹中重元への書状を託されたが、善左衛門を見るその瞳には、上位者が持つ気位を全く感じなかった。まるで親類の娘と話しているような感覚さえあるのだ。
これは堪らない。氏治の態度は嫌でも男の庇護欲を刺激する。出会って間もない善左衛門が、身分など関係無しに、男としてこの娘を守らなければいけないと考えてしまうのである。氏治は明らかに善左衛門を対等の人間と考えて接しているのが嫌でも理解出来るのだ。竹中家が仕える斎藤家では、弱小の国人を嘲笑う者が多い。善左衛門も竹中重元の補佐役として斎藤利政に相対した事があるが、その瞳には、上位者としての驕りと下位者への蔑みが見て取れて、善左衛門の矜持を踏み躙られた思いがあった。
半兵衛の眼は間違っていない。恐らく、小田家の家臣は善左衛門同様に氏治を観ていると思われた。斎藤利政と小田氏治では器量が余りにも違う。あの醜い老人の為に命を懸けるのであれば、氏治の為に命を散らす方が後悔も無いし、むしろ誇りを持って死ねると考えた。
託された書状の内容は氏治から聞かされている。竹中重元を直臣として小田家に招く用意があることや、半兵衛を戦に連れて行くなどの内容だが、善左衛門の主が知れば仰天するだろう。支度金として渡された金子も、中身を確認してみれば見た事もない量の金子が詰まっていた。つまり、それ程まで半兵衛を買っているという事だ。
小田家では全てが美濃とは比べ物にならない程、進んでいる。小田城へ向かう道中で見た石垣造りの城を見た時は仰天したし、町に入れば人が多く、市も多く活気があり、真新しい建物が多かった。坂東が田舎だと誰が言ったのだろうかと問いたくなる様子だった。兎も角、主に伝えなければならない。半兵衛の眼が正しかったと。善左衛門は馬に鞭を入れ、旅を急いだ。
― 竹中重元 ―
「善左衛門が戻っただと!」
家来から善左衛門の帰還を伝えられた竹中重元は、手にしていた筆を取り落としそうになった。
「重虎は如何した?」
「善左衛門様のみで御座います。広間にお通し致しました」
(―――善左衛門だけ?何故だ?)
家来のその言葉を聞いて、重虎に何かあったのではと不安になった。兎も角、善左衛門から話を聞こうと重元は広間に急いだ。広間に入った重元は、善左衛門の姿を認めると「善左衛門、重虎は如何した!」と声を掛けながら善左衛門の正面にどかっと座った。
家来から聞きつけたのだろうか、妻の妙や他の家来達も広間に姿を現した。そして各々が善左衛門の周りに腰を下ろした。重元は善左衛門の様子を見て、凶報ではないだろうと見て取った。
「善左衛門、何故其の方だけ戻った?仔細を申せ」
「殿、若殿は大事御座いませぬ。先ずはそれを申し上げます」
善左衛門がそう言うと、重虎も妻の妙も家来達も、それぞれが安堵の息を吐いた。
「驚かせ居って、全く驚かせ居って、それで重虎は如何致した?何故、其の方のみが戻ったのだ?早う申せ!」
幾分か落ち着いた重元だったが、半兵衛の事が知りたいと善左衛門を急かした。
「若殿は大事御座いませぬが、それが、その……。若殿は小田氏治様に仕官が叶いまして、小田家にお仕え致す事になったので御座います」
「仕官?重虎は小田家に仕官致したと申すのか?」
そんな馬鹿なと驚愕する重元に善左衛門は続けて言う。
「付きましては、小田様より書状を預かって居ります」
そう言って善左衛門は傍らに置いた二通の書状と金子が入った袋を重元の前に置いた。重元は置かれた書状を素早く手に取り、文を広げ目を走らせた。妙や家来はその様子を固唾を飲んで見守っていた。
書状の内容は挨拶から始まり、半兵衛を直臣として、重臣として召し抱えた事。身体が弱いと聞いたので、氏治が責任を持って半兵衛の世話をする事。上野で戦があるが、その際は半兵衛を連れる事。叶うのであれば、重元を直臣として、重臣として召し抱え、城を任せる用意がある事。そして最後に、重元が小田家に仕えなくとも、困った時は自分を頼って欲しいと記されていた。
「この様な事があるのであろうか……」
重元は再度書状を読んだ。そして読み終えると、妻である妙に書状を渡した。受け取った妙は、重元同様に落ち着きなく書状に目を走らせた。
「―――これは……」
そう呟く妙の様子を目の端に置きながら、重元はもう一通の書状を開く。その中には朱印状が入っていた。そして朱印状に記されていたのは、竹中家に対する俸禄や特権などで、重元からすれば信じられない様な額が記されていた。重元の常識から考えてもあり得ない待遇である。
「御朱印状まで……。善左衛門、重虎は如何致して居る?」
「今は明智殿の御屋敷で過ごされて居ります。ですが、支度が整えば小田の城に住まう事になると小田様は申されました。更に城下にも竹中の屋敷を用意致しているそうで御座います」
善左衛門の言葉を聞いて、重元は腕を組んで唸るような仕草をした。
「功があった訳でもなし、にも拘らず、破格の待遇。考えられぬな……。それ程重虎を見込まれたという事か?善左衛門、小田様とはどのような御仁なのだ?」
「歳は二十と申されましたが、娘のように若く見えました。美しきお方で御座いますが、女子の着物ではなく、男の着物を付けて居られました。大変気さくな方で、御家来衆とは友のように話されます。この善左衛門にもで御座います。次郎丸と言う大きな山犬を飼って居られました。尾張に出たと噂があった山犬だそうで御座います。魂消ました。御家来衆は礼節を重んじられ、歳若き若殿を侮る事など無く、寧ろ立派であると褒め称えて居りました。殿、若殿の仰った事は全てが真でありました。小田家のご領地は税は軽く、御領地の尽くが整えられ、民が多く、見た事もない美しい城もあり、これが田舎の坂東かと目を疑いました。これは明智殿から伺った事で御座いますが、坂東では吉祥天様の御使いと崇められているそうで御座います。その明智殿も小田家では重臣であり、城を与えられているそうで御座います。明智殿からは様々な事を伺いましたが、この場でお話致すには時が足りませぬ。この善左衛門が言える事は、斎藤家は小田家に比べれば真に小さく、恥ずかしき国であると言う事で御座います。国主の器量が比べ物になりませぬ」
他家の国主を絶賛する善左衛門の語りに重元は驚いた。竹中家中でも堅物と呼ばれる男である。
「俄には信じられぬが……。其の方がそこまで申すのか……。重虎や青猿からは聞いては居ったが、この目で見るまではと思うて居った。まさか真実であったとは。吉祥天様とは近頃、上方で流行っているあの吉祥天様であろうか?まあ良いか。善左衛門、重虎を戦に連れて参るとあるが、これも真であるか?」
「関東官領の上杉家との戦に御座います。小田家の同盟国である佐竹家に合力為さると申されました。若殿には戦を見て学んで貰うと小田様は申されまして、二万の軍勢であるので、若殿に危険は無いと申されました」
「二万……。大軍であるな?しかし、如何したものか……」
「殿、若殿からは小田様の元に急ぎ馳せ参じるよう殿にお伝えせよと申し付かりました。戦は十月の吉日に出陣で御座います。この善左衛門は若殿に侍らんと槍と具足を取り、常陸に引き返すつもりで御座います。若殿は小田家の重臣になられました。ですが、従う郎党が少なくては、若殿を侮る者が出るやもしれませぬ。殿が行かれぬと申されるのであれば、我が郎党を連れて参ります。若殿に恥を掻かせる訳には参りませぬ」
語気を強めてそう語る善左衛門の様子を見て、半兵衛が心配で仕方がない重元は決断した。小田家に仕えたと言うなら重元が帰って来いと命じても、半兵衛の性分から考えると聞き入れないだろう。まだ幼い我が子とも離れ難い。戦に行くと言うならば尚更である。朱印状を見れば十分な禄を約束してくれている。重元が見込んだ半兵衛をここまで評してくれた事に感激もしていた。斎藤家には然したる恩も無い。ただ、家を守る為に従っているに過ぎないのだ。ならば、将来の竹中家を背負って行く半兵衛を評する小田家に鞍替えした方が、半兵衛の役にも立つだろう。
「むうっ……。よし!相分かった!取り巻き共には嫌気がさして居った。土地も城も斎藤にくれてやる!重虎に恥を掻かす訳には参らぬ。御朱印状を見たが、一族が十二分に暮らせる禄をお約束下された。大国の主にここまでされて、お断りしては反って失礼。明日にでもこの重元が登城し、斎藤家を辞して参る」
重元がそう言うと、その場の者達が「おおうっ」と声を上げた。
「殿、御心を決められましたか。常陸にはこの善左衛門が案内を致します。一刻も早くお支度を」
「まぁ待て善左衛門。支度は致すが暫しの時が掛かる。先立つものが無ければ常陸に参りたくとも参れぬ。家財など全て処分し金子に変えねばならぬ」
「それなので御座いますが殿、その皮袋に小田様から頂戴致した支度金が入って居ります。心配は無用に御座います」
「支度金?これがか?随分と大きいが……」
善左衛門にそう言われた重元は皮袋の口を開いて中を見た。中には金子が詰め込まれるように入っている。
「―――なっ!ほううっ!」
重元は思わず声を上げた。そして金子の入った皮袋を両手に持って中に入っている金子を眺め見た。ずっしりとした重さに驚いた。そしてゴクリと唾を飲み込んで、金子を見つめながら重元は呟くように言った。
「これだけあれば、これだけあれば、重虎に幾らでも書を買うてやれる……。待って居れよ重虎……。今に父が参るぞ」
その言葉を聞いた妙や家来達は重元の持つ皮袋を覗き込んだ。そこには見た事もない大量の金子が入っているのを見て、皆が驚きの声を上げたのだ。そしていち早く正気に戻った妙は、重元から皮袋を引っ手繰って胸に抱えた。そして柳眉と眦を吊り上げて言う。
「金子をご覧になって最初に申される言葉がそれで御座いますか!お前様!この金子は路銀や常陸で暮らす為に使います。戦もあるので御座いますから書などに使うのは許しませぬ!」
重元が半兵衛の為に散財するので、台所を預かる妙はいつもギリギリの生活を強いられていた。重元は竹中家の当主であるが、家中の者達より貧しい生活をしていた。全ては重元が半兵衛に高価な書を買い与えるせいである。これだけの金子があれば、家中の者にも、他家の者にも侮られる事のない生活が出来る。この金子は夫である重元に任せる訳にはいかない。
(チッ、まあ良い。機会は幾らでもあるわい……)
「承知して居る。女子がその様な顔をするでない。菩薩様が般若様になって居る。般若様を嫁に迎えた覚えは無い」
「この妙は般若で結構で御座います。重虎、重虎と殿には呆れまする。重虎ばかりを可愛がって、久作が気の毒です」
「何を申す。儂は久作も可愛がって居る」
「お前様が書ばかりお求めになるから当家の台所は苦しいのです。これを機にお考えをお改め下さいまし」
「承知して居る」
「足の踏み場も無いほど書を重虎に買い与えているのです。これ以上は必要御座いません。宜しいですね?」
「承知して居る」
「この金子は小田様が下された物。一文たりとも無駄には出来ませぬ」
「承知して居る」
「この金子は私が預かります。お前様にお渡ししては何にお使いになるか判りませぬ。これで久作に滋養のある物を与える事が出来ます」
「何を申すか!この儂が童のように小遣いを貰うようではないか!その金子は小田様が儂に下された軍資金!使い道は儂が差配する!」
「なりませぬ!常陸に居を移すので御座いますから、これから幾らでも銭が入用になるのです。小田家の家臣の皆様にご挨拶も致さねばなりませぬ。手ぶらで参っては当家が恥を掻きます。小田様が御屋敷やお城を用意されていると書状に御座いましたが、それを整えるのにも銭が掛かります。考えて使わねば、この金子もあっという間に無くなってしまいます。お前様にお渡し致す訳には参りませぬ!」
「その様な事は承知して居る!この儂を差し置いて差配致す事は許さぬ!其の方に任せては重虎に使う銭が無うなるではないか!」
「やはりその様な事を御企みで御座いましたか!この金子は竹中の為に使うのです!重虎の事はこの妙が考えまする!」
「何を申すか!重虎の事はこの儂が一番よく存じて居る!差し出口を叩くでない!」
「いいえ、聞きませぬ!お前様に任せては小田様に申し訳が立ちませぬ!」
「小田様は儂を重臣にと求められたのだ!其の方が如何こう言う筋ではないわい!」
「お前様が小田様の重臣なら、この妙も小田様の家臣です!何も違いは御座いませぬ!
「何を申すか!金子に目が眩み居って!恥ずかしいとは思わぬのか!」
「なんて事を仰るのですか!金子に目が眩んでいたのはお前様では御座いませぬか!」
また始まった。善左衛門は呆れたように二人の様子を眺めていた。喧嘩が長引くと見た善左衛門は、側にいる家来達に一門を集めるように命じた。
竹中半兵衛を造った男。竹中重元はこうして小田家に仕官する事になったのである。
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