第百五十九話 上総にて その2
吉祥天様の御堂巡りをしながら、私は上総の村々の復興具合を確認して回った。多くの家屋が建て直されていたり、か細い道までが整備されていて、私が思っていた以上に復興されている事に驚いたのだ。その事をお銀と村上に聞いてみると、どの様に復興させたかを事細かく語ってくれたのだけど、彼等の民への気遣いに私はとても感心してしまったのだ。
行く先々で私達は歓迎されたけど、彼等彼女等から賛辞を受ける度に私は気恥ずかしさを覚えたのである。小田家が上総の民を養い、年貢を免除したので食べる事が出来るようになった上総の民達は復興事業に従事する余裕が出来たのである。勿論、賃金も出しているから働くだけ彼等は潤うのだ。そして飯塚達は私が現代人の感覚で指示した事を行った訳だけど、この復興ぶりを見るとよくぞやってくれたものと感心するばかりである。
この時代の武家はお行儀が良くなったとはいえど、元々は野蛮人の集まりなのだ。鎌倉時代の御家人が私達の先祖なのだけど、当時は明確な武士像が形作られていなかったので、さながら蛮族のような人々だったのだ。当時の武士は道徳や倫理観が激しく欠如していて、平時でも殺人や略奪などが当たり前に行われていたのだ。その野蛮と言える強さがあったから元が攻めてきても撃退出来たのは歴史的事実である。だけど、その余りの無法ぶりに定められたのが有名な御成敗式目である。当時の日本には律令制度があったけど、これはあくまでも公家の法であって武家の法ではなかったのだ。そして、源頼朝が開いた鎌倉幕府には慣習法はあったけど、明確な法令が無かったのである。
御成敗式目は執権であった北条氏が定めたものだけど、内容はとても単純なもので、人を殺してはいけないとか、盗んではいけないとか、人の悪口を言ってはいけないとか小学生以下の道徳を定めたものだったり、裁判の仕方などが定められている。この法令は北条氏が滅亡した後も足利尊氏が御成敗式目を受け継ぎ、今に至るのである。そのお陰で武士に道徳が備わり、結果的に民への無法が大きく減ったのだから北条氏と足利尊氏の功績は大きいのである。戦に勝つことだけが武士の功績ではないのだ。現代でも武士といえば戦の功績ばかりを評価されるけど、優れた法令などもクローズアップされるべきだと思う。特に足利尊氏の日本の歴史への貢献は著しいと私は考えているのだ。前政権の法令を受け入れる度量があったという事だからだ。現代日本では政権は選挙で支持を得た多数派の党が担うけど、政権交代が起こっても民間の為になる政策が引き継がれる事は稀である。特権階級や政治家に都合のいい悪法はどういう訳か引き継がれるけど……。つまりは統治の事など何も考えてはいないのだと思う。先祖を見習って欲しいと思うけど、私の声は届かないのが残念である。ちなみに、御成敗式目は女性が御家人となることを認めているので、女である私が当主に成れたのはこの法律のお陰なのである。この御成敗式目が元になって今の武士像が形作られているのだけど、私と家臣達のこの活動が御成敗式目を更に進化させられれば良いと思う。戦国大名は御成敗式目に追加法令を定めて分国法にしているけど、私達の活動でその内容がよりモラル的になる事を期待したいと思う。良いものは受け継ぎ、更に良いものにして後世に受け継いで貰いたい。
私は飯塚の居城である椎津城に戻ると皆を集めてこの話をしたのだ。この時代の武士であっても余程の知識人でない限り法令が定められた歴史なんて多くの人が知らないので、私の話を聞いた飯塚達は終始驚いた顔をしていたのだ。いつも余裕な顔をしている村上が口を開けっぱなしにして聞いていたのが印象的だった。普段は控えめな高城が興奮して私は質問攻めに遭ったけど、私の知る限りを答えるととても感心してしきりに頭を上下させたのだ。村上は私に質問したかった事を全部高城に言われたと悔しがっていて皆で笑ったのだけど、その後に飯塚からこの話は大評定でも話すべきだと言われて私は了承したのである。
お銀がキラキラした目で私を見ていてお尻の座りが悪い。お銀は槍上手で、私の黒歴史と言える武勇伝は当然伝わっていたから、村々を巡る道中で何度も立ち合い稽古を請われたのである。余りにも熱心に請われたのと、村上がお銀の味方をしたので私は仕方なしに相手をしたのである。お銀は六角棒で私は木刀だったけど、お銀の攻撃を片手で全て弾いてみせたら大いに驚かれたのである。私のチートはズルなのだけど、出来るのだから仕方ないのだ。そしてその様子を見ていた村上にも相手を請われて仕方なしに立ち合ったのだ。お銀同様に全て弾いてみせたらやはり驚かれたのである。
お銀も村上もかなり強いのが解ったけど、私のはズルなので気恥ずかしいのである。その晩からお銀と村上は熱心に槍の稽古をしていたけど、百地から槍で木刀に勝てないのは恥であるとお銀と村上が言っていたと聞いて私は閉口したのだ。結局、毎日相手をする事になったけど、上総の御堂巡りは終わったので私もようやくお役御免である。二人ともしつこいから地味に辛かったのだ。
御堂巡りをしながら私は実験もしていた。それはテントの設営である。日本は長い歴史を持つ国だけど、天幕が発達しなかった国である。陣幕はあったけど天幕が無いのだ。現代では日本は早くから都市化が進んでいて、神社やお寺、民家などを借りて寝泊まりしていたと考察されている。また、天幕を造る素材である綿が不足していたからだと考えられている。戦国時代は木綿は朝鮮や明の輸入に頼っていたから納得できる話だと思う。この時代に生まれた私も天幕なんて見た事ないし、確かに何処にでも神社やお寺があるから泊まるのに苦労が無いのは事実だった。雑兵なんかは自分で木や枝を集めて寝床を作ってしまうし、天幕は必要が無い感じである。
私は水谷家から獲った綿の産地があるので木綿を手に入れる事が出来るようになった。なので、以前から気になっていた天幕を造ろうと考えたのだ。ただ、あまり規模を大きくすると失敗した時が怖いのでテントを木綿で作ったのである。中央アジアの遊牧民は天幕を動物の皮とかで作っていたようだけど、皮は重いので木綿にしたのだ。前世の父がアウトドア好きだったので私もテントの設営が出来たし、構造も大体解っていたので再現に苦労は無かったのだ。
城の侍女達と木綿を縫ってテントを作って完成させた訳だけど、いざ城の庭に設営して過ごしていると政貞と光秀と桔梗が渋面を作って私を観察していた。言いたい事があるなら言えばいいのにと思いながら私はその視線に耐えつつ次郎丸とテントに入ってみたけど、次郎丸の身体が大き過ぎてスペースが足りない事が発覚して肩を落としたのだ。次郎丸をベッドにする計画が破綻したので、仕方が無いと私は焚き火をして、早起きして獲って来たヤマメを木の枝に刺して焼いていたら私の様子を見ていた政貞からは主君がする事ではないと叱られて、光秀と桔梗は無言で政貞を肯定する態度だったので、何だか私が馬鹿な事をしているような感じだったのである。
三人の視線がとても痛かったけど、それでもめげずにテントを草色に染めたり、又兵衛に頼んで組み立て式の焚き火台を作ってもらったり、寝袋や飯盒も作ったりと意地になっていたのだ。そして一式をコンパクトに纏めて馬に乗せられるようにして今回の御堂巡りに持って来たのである。
中原村に行った時に御堂の前が丁度良い広場だったので私はテントを設営して野営をする事にした。桔梗からお小言を貰ったけど、ここには政貞も光秀も居ないので私のやりたい放題である。私がテントを設営していると百地が興味を持ったようで設営を手伝ってくれたのだ。私は思わぬ理解者が現れた事に気を良くして、アウトドアグッズの説明をしながら楽しくテントの設営をしていたのだ。そうしていたら桔梗が私を手伝う百地に苦言を言い始めたのだけど、百地は反論もせずに黙々と私の手伝いをしていた。私は桔梗の姿が見えなくなってから百地に『言われっぱなしだったけど良かったの?』と聞いたら『女子に口では勝てぬので、あれで良いので御座います』と、とても後ろ向きなコメントを貰ったのである。
何となく百地家の力関係を把握したけど、百地の名誉の為に私は気が付かない事にしたのだ。以前、百地が酔った時に、桔梗から父上と呼ばれる事が嬉しいと漏らしていたけど、百地は娘に弱いのかもしれない。そうこうしながら野営の準備が整った。まだまだ陽が高いので今夜の食事の獲物を探そうと百地と出掛けようとすると、そこに村上とお銀がやって来て珍しそうにテントを見ていたので、私は百地にしたように再度説明をしたのだ。二人は感心して聞いていたけど、酒の用意をしておきますと言って去って行ったのだ。どうも、この時代の人達にはテントは理解されないようである。何だか悔しいのである。
私は次郎丸に獲物を狩ってくるようにお願いをしてから村の人に魚が獲れる川の場所を聞いて、百地と魚を獲りに出掛けたのだ。次郎丸は張り切って出掛けたようだけど、結局、私の味方は百地と次郎丸だけとなったのだ。私と百地は山野に分け入って山菜を摘みながら川を目指して移動した。移動しながら私はテントが政貞や光秀にも不評だったことを愚痴ると百地が笑いながら言ったのだ。
「菅谷殿も明智殿も御屋形様が大国の主となられたので体面を気にされているので御座いましよう。御屋形様は我等の主であり、また、小田家の姫君でもあるので御座いますから。某は御二方は立派にお役目を果たしていると考えまする。と、申し上げたい所で御座いますが、此度の御屋形様の為さり様が河原者の真似事に見えたのだと存じます。『てんと』もそうで御座いますが、野外で煮炊き致すのもよう似て居ります」
ふむ。言われてみればそうかもしれない。軍勢を引き連れても泊まる所は幾らでもあるし、野営の心配が無いのだから考える必要が無い。必要のない事を私が一生懸命やっていて、それが百地が言うように河原者の真似事に見えるなら皆が眉を顰めるのも解る気がする。この時代は自然だらけだからアウトドアを楽しむ必要すら無いし……。
「でも、百地は付き合ってくれているけど、百地はどう考えているの?」
私がそう問い掛けると百地は立ち止まって口を開いた。
「某は面白いと考えました。我等忍びの目から見ますれば、使えそうな道具も御座いますな。我等が野山に忍ぶ際には穴を掘り、草木で身を隠しまする。『てんと』は荷が嵩張る上に目立つので使えませぬが、『寝袋』はよう御座います。身体を温められれば夜を過ごし易くなりまするが、木綿は高価で御座います故、我等にはちと贅沢になってしまいますな」
「私が作った寝袋の生地は特別に厚く織って貰ったものだから少し値が張るんだよね。でも、十や二十作るのは問題無いから百地が試してみたらどう?私も随分と銭を掛けて色々作ってみたけど、一つくらいは成果が欲しいんだよね」
「有難き仰せで御座います。手の者に使わせてみましょう、何事も試しは必要で御座います」
百地が寝袋を試す事になった。でも今回のテントは随分と不評である。前世の日本の物品の再現でこういう事は偶にあるけど、私的には自信作だったので少し残念である。その後、私と百地は魚を獲り、テントに戻って来たのだけど、帰ってきたら私のテントを囲むように村人が作ったであろうテントを真似たような枝葉などで三角に作られた寝床が沢山作られていた。困ったように腕を組んで眺め見ていた村上に聞いてみたら、村人は私が儀式をしていると思って真似をしているらしいと聞いたのだ。理解はされていないので微妙だけど、これはこれで何となく嬉しかった。でも、変な風習として残らなければいいのだけど……。




