第百五十四話 太原雪斎との外交
天文二十二年(一五五三年)六月である。
長尾景虎の来訪から随分経ったけど、彼が帰った後も大変であった。政務は勿論の事、資金調達や穀物の買い付けなど多忙であった。最初は巧く行っていた米転がしも、途中で中止して買い付けのみに専念する事になった。私と百地が穀物の買い付けをし過ぎて、相場のコントロールが出来なくなってしまったのだ。そして各地で穀物が値上がりし、買い付けに難儀する事になったのである。関東近郊での買い付けが難しくなり、上方を中心に穀物を買い付ける事にし、更に宗久殿と津田宗達、日比谷了慶にお願いして、西国の穀物を集めてもらう事になったのである。
関東の水利権を牛耳れたから銭はどんどん入ってくるし、上杉家の宝物蔵から財物と軍資金を義昭殿から譲って貰ったので銭に不足は無かったのだけど、下総半国、上総、安房、武蔵の民を食べさせる量である。それを他国から全て賄おうというのだから少し無理があったようである。私は上杉家の宝物の大半を宗久殿と津田宗達、日比谷了慶に売り払って、念の為の資金調達もしたのだ。そして東北にも船をやって、東北でも穀物を買い付けたのである。
米転がしが不発に終わったので銭は失う事になったけど、領地の統治の見通しが立ってホッとしたのだ。そうしてバタバタとしている間にも、周辺国からは戦勝祝いの使者と同盟締結の使者が次々とやって来たのだ。それは義昭殿も同様で、義昭殿は馬を走らせて私の元へやって来て、対応を協議する事になったのである。
私と義昭殿がてんでんばらばらに対応してしまうと、今後の領地拡張や共闘に支障が出てしまうからである。義昭殿は上野と磐城への侵攻の意図があるし、私は可能性として甲斐に侵攻するかもしれないと義昭殿に伝えた。特に信長の支援を考えると、今川家と領土を接した方が都合がいいのだ。
以前の私なら侵略戦争の意思など無かったけれど、義昭殿との同盟が成り、互いに大領を得た事で選択肢が大幅に増えてしまったのだ。信長が天下を取り、太平の世が訪れるなら、私の軍事力で信長を助ければ平和が早く訪れて無駄に戦で亡くなる人も減るのである。
そのような考えを元にして義昭殿と外交相手をチョイスしたのである。北の大国である芦名家、越後の長尾家、信濃の村上家、小笠原家を友好国として付き合っていく事を決めたのである。他国との同盟は信用できないので義昭殿の佐竹家のみである。その取り決めを元に対応したけど、私が同盟を断ると皆一様に私を怪しむのだ。多分、私に領土的野心があって、周辺全てを呑み込むつもりなのだろうと考えたのだと思う。
村上義清の使者は度々私の元を訪れて、同盟が駄目なら武田家を両家で磨りそうと提案して来たけど、私はやるなら義昭殿とやりたいし、下手に村上義清の勢力が大きくなると後が面倒になると考えたので断り続けたのである。そしてもっとしつこかったのが今川義元である。太原雪斎がやって来て、北条攻めの協力を求めて来たのである。
私が今回の連合で独り勝ちしている事を指摘して、連合国として戦った今川家の領地を取り戻す事に協力するのは当然であるという事をとても穏やかに太原雪斎は私に説いたのである。だけど、私は北条氏康に領土的野心が無く、私の領地を狙わなければ友好国として付き合って行きたいと考えている。北条氏康は名君なのだ。彼が統治してる領地では善政が敷かれるので、私としてはその方が余程平和的だと思うし、北条綱成から聞いた北条氏康の人物像から考えて、話半分としても他の大名より信用が出来る気がしたのである。
太原雪斎の言い分も理解出来る。今川義元が大敗したけど、彼が北条氏康の軍勢を引き付けたから今の私がある事は確かな事実である。連合国の一員としては協力するのが筋だとは思うけど、私は連合国が霧散した事を理由に断り続けているのである。それでも太原雪斎はやって来て私を口説くのである。北条幻庵とはまるで違う雰囲気で、とても紳士的である。そんな彼が優しく道を説くように諭してくるので、私は心の中で半泣きになりながら断るのである。器の違いを思い知ったのである。
そんなやり取りを続けたある日。私は太原雪斎を小田城の喫茶室で持て成していた。太原雪斎は洋風の部屋に随分と感心していて、紅茶の茶器の美しさや味にも満足した様である。私は共闘を断り続けていて、心苦しかったのもあり、せめて歓待しようとお茶に誘ったのである。
太原雪斎は紅茶を気に入ったようで、私は今川義元にも紅茶を贈る事にしたのである。紅茶で援軍を断る事を今川義元は納得しないだろうけど、気持ちは大切だと思う。そして太原雪斎と世間話をしていたら、彼は唐突に私に質問したのだ。
「氏治様は百九十万石の太守に成られました。周辺諸国は氏治様の御力に怯える事になりましょう。いや、既にそうなって居ります。諸国からの同盟の要請も尽く断って居られると耳に致しました。現にこの雪斎も援軍のお願いをしに参って居りますが、頑なにお断りになられる。北条家を野放しに致す理由は何なので御座いましょうか?」
紅茶の香りを楽しむようにしながら彼は穏やかにそう言った。私は突然、政治向きの話になったので緊張したけれど、もう本心を言った方が良いと判断して答えたのだ。
「氏康殿は仁君です。あのお方を滅ぼせば民に迷惑が掛かります。氏康殿が関東に野心を持たないのであれば、私からどうこう致すつもりはありません。ただそれだけです」
私がそう言うと太原雪斎は珍しく表情を変えて、目をしばたたかせた。
「―――確かに、北条様はそのようなお方で御座います。では、それが当家への援軍を断る理由なので御座いましょうか?だとすれば、氏治様は当家の太守様より敵方である北条様に信を置き、また味方している事になりまする」
仕方ないじゃん。義元は信秀と信長の敵だから私の敵でもある。義元が勢力を伸ばす軍事行動に加担する訳にはいかない。それに、北条氏康は日本の歴史に名君として名を残す人物なのだから、いくら力があったとしても、私如きが滅ぼしていい人ではないと思う。
「そうですね。雪斎殿からすれば噴飯ものだとは理解していますが、私は氏康殿を尊敬し、信じて居ります。お会いした事は無いのですが、あの方の為さり様を見聞きしてそう思ったのです」
「―――これは困りました。かようなお考えだとは思って居りませなんだ。では、何故、此度の連合に与したので御座いますか?」
「関東管領様への義理と、北条家の関東侵攻を食い止める為です。結果的に私は大領を得る事に成りましたが、目的は達せられました。氏康殿の国力では私の領地に攻め入る事は出来ないでしょう。ならば、争う事が無くなるのですからこれ以上の戦は無意味だと考えています。尤も、氏康殿と言葉を交わした事もありませぬので、私の一方的な考えですが」
私がそう言うと太原雪斎は静かに目を閉じて黙考している様子だった。私は落ち着かない気持ちになったけど、静かに彼の次の言葉を待った。
「氏治様の御考えは理解致しました。ですが、納得は出来ませぬ。氏康殿が気に入りだから軍勢を出せぬと申されている事に等しいかと存じます。連合国に対する義理は無かった事にされようとしています。当家は河東の地を失いました。今も駿府は北条に伺われて居り、太守様は落ち着いて寝食も取れぬ始末で御座います。当家としては何としても河東を取り戻し、元の平穏を取り戻したいと考えて居ります」
う~ん、困った。それにしても何て粘り強い外交をするのだろう。これが外交の達人というものなのだろうか?北条幻庵は直ぐに顔に出たけど、この人は涼やかにこちらを攻めて来るから対応に困る。それに義理を殊更強調して、心に訴えて来るから私へのダメージが半端ない。少し言い返してみようか?
「雪斎殿。義理と申されますが、当家は今川家と交流はあるものの、全てが当家からご使者を差し上げています。つまり、当家は今川家から見れば大した家ではないという事です。今川家から見れば、大領を得る前の当家は取るに足りない存在だったという事です。此度は連合を致しましたが、発起人は里見家です。不幸が重なり里見義堯殿と戦になりましたが、当家は里見家のご使者である正木殿への義理はありました。そして同様に関東管領様もですね。ですが、今川家に義理があっての出陣ではありませんでした。なので、雪斎殿が申される義理は当家には当て嵌まらないと考えます」
「左様で御座いましたか。確かに当家は受けるばかりで御座いました。無論、返礼の使者はお出しして居りますが、氏治様が御不快に思われた事はこの雪斎にも理解出来まする。であれば、今後は互いに交流し、誼を結んでは如何で御座いましょうか?」
「雪斎殿の申し出は嬉しいのですが、私は義元殿の為さり様が気になります。私と誼を結ぶ前に北条家と誼を結んだほうがいいと思われます。義元殿は北条家に不義理を致し、武田家と婚姻同盟を致しました。そして、その事に怒った北条家が今川家に攻め入り河東の戦が始まりました。氏康殿の御父上である氏綱殿の頃ですね?まずは義元殿が不義理を改めるのが宜しいかと存じますね?宜しければ私が中に入っても構いませぬが?」
「それは……」そう言って雪斎は言葉に詰まった。花倉の乱からの今川家の歴史を私はしっかりと覚えている。伊達に歴オタはしていないのだ。義理で攻めて来るならこちらも義理で攻め返すのである。雪斎は少し悩むようにしてから口を開いた。
「それは難しゅう御座います。当家と北条家は争い過ぎました。太守様も決して頷く事は無いでしょう。確かに当家は義理を欠いて居ります。今更ながらどの口が義理を申すのかと恥じて居ります。氏治様がかようなお考えを持っているとは思うて居りませなんだ。であれば、当家の要請には頷いて貰えそうに御座いませぬな?」
「私の考えは雪斎殿に申した通りです。軍勢は出せません」
「では、先を見据え、当家と同盟を結んでは如何で御座いましょうか?当家と誼を結び、これからは助け合って参るのが宜しいかと?」
直ぐに外交方針を切り替えて来た。勝手に同盟なんて決めていいのだろうか?いや、太原雪斎と今川義元の間柄なら事後報告でも義元は納得しそう?だけど、信長との関係もあるし、武田家と婚姻同盟を結んでいる今川家と同盟を結ぶ訳には行かないのである。
「雪斎殿、大変申し訳ありませぬが、それもお断り致します。当家は佐竹殿と盟約を結んで居ります。当家が勝手に盟を結ぶ訳には参らぬのです」
「氏治様は他の諸国との同盟も拒否されたと耳にして居りますが、佐竹様との盟約が理由なので御座いますか?」
「理由の一つですね。私は気が小さいので、信を置いた相手でないと盟約を結ぶ事が出来ないのです。佐竹殿は私が困れば必ず助けてくれます。私も佐竹殿がお困りなら全力でお助けするでしょう。私が他国との同盟をお断りしているのは、その時々の都合で同盟を結ぶ事に意味が無いと考えているからです。当家と佐竹家が共にある限り、どんな敵にも打ち勝てると思っています。これが最大の理由ですね?」
「これは……」
「義元殿に他意がある訳では無いのです。御家を守る為に盟を結び、時には盟を違える家は信じる事が出来ないだけです。私の考えがおかしいのか知りませぬが、友を裏切る行為は私には出来ませぬし、裏切る者は信じる事が出来ません。ご納得頂けたでしょうか?」
「氏治様の御考えは理解出来ました。ですが、この戦乱の世では危うくも御座います。佐竹様の気が変わるとは考えないので御座いましょうか?」
私はそれを聞いて、つい笑ってしまった。あの義昭殿には似合わな過ぎる。私の様子を怪訝な顔で雪斎は眺めていた。
「失礼しました。義昭殿がそのような事を為さるのは想像出来ませんね。義昭殿のお耳に入れば激怒されると思われますので、ここだけのお話にしましょう」
私の様子を見て呆れたのか諦めたのか、それ以降は外交の話を雪斎はしなくなり、今度は私の政の話を聞かれた。今度は情報収集に切り替えて来た感じである。私はこれも暈しながら対応したのである。そしてようやく雪斎は駿河に帰って行ったのである。
長尾景虎が来た時は彼の行動に気疲れしたけれど、太原雪斎は心を覗かれるようで別の意味で疲れたのである。大国になったらなったで、面倒事が多くて辟易する。これで今川義元が諦めてくれればいいけれど、彼は野心が強いからまた巻き込んで来るかもしれない。村上義清もどこで知ったのか、村上家の流れを組む村上国綱を通じて私に再度の接近を試みている。村上国綱が小田城までやって来て、村上義清には迷惑していると私に零していたのだ。その様子が可笑しくて私は笑ったのである。
 




