第百四十八話 帰蝶の国造り その1
-尾張国 清洲城ー
織田信長の新たな拠点である清洲城では、帰蝶が今か今かと氏治の文が届くのを待ち構えていた。自身の領地を育てる事を決意した帰蝶は小田氏治や手塚雪、百地桔梗に様々な助言を文で求めたのである。
この行動は信秀や信長の会話から学んだ『情報』という考え方を元に、多くの人から助言を受けるべきだと考えたのである。氏治主従を選んだのは信長から氏治が政の達人だと聞いていたし、様々なものを作り出し、鉄砲まで製造している事も知ったからである。それに女子同士で気易かったのもある。
帰蝶の要請を氏治主従は好意的に受け止めた。氏治は帰蝶が鉄砲衆を率いようと企んでいた事を知っていたので、それを諦めたのなら帰蝶が戦場に出ようとする事も無くなり、信長も安心するだろうと考えた。そして帰蝶からの文には領内を育てたいと希望があり、桔梗に宛てられた文には孤児の世話の仕方を知りたいという要望があったので、それにいたく感心して協力する事にしたのである。
氏治は少しでも帰蝶の助けになるようにと様々な助言を文にしたためたが、余りにも膨大になったので書物のような形に変更したのである。それを氏治は自身の友とも呼べる百姓の権と綿作の技術を持つ三平に託して帰蝶の元に送ったのである。権と三平は帰蝶の元で技術指導をするようにと氏治に命じられ、二人は頭を捻りながら了承したのである。
権と三平は菅谷水軍の兵に守られながら尾張の熱田に上陸した。権は百姓ではあるが、氏治からは武士の身分を与えられている。だが当の本人は特に興味もなかったので断ったのだが、氏治から損は無いからと無理やり武士にされたのである。
権は氏治から屋敷も与えられており、小田邑では名の知れた存在になっていた。権は氏治から椎茸栽培を一任されて居り、また妻の幸は石鹸作りの責任者の一人であり、百地の家人と共に石鹸の量産に携わっている。権は小田家の重臣から一目置かれる存在でもある。椎茸栽培の秘密を知る菅谷政貞や真壁久幹は、氏治と権が椎茸栽培を成功させ、それを原資に領内の開発をした事を知っているので、小田領が富むきっかけを作った権を高く評価していた。
氏治は重臣達にも権が功労者であると語っており、権無くば今の小田家は無いとまで言い切り、氏治の言葉を信じた重臣達は権は特別であると認識している。
だが当の本人は侍の仕事には興味が無く、また、氏治も要求をしなかったので権は田畑を耕しながら椎茸栽培を行っている。今回は初めての主命を氏治から受けたが、いつもの野良着で尾張にやって来ている。
一方の三平は綿作農家である。綿作の腕前を買われて氏治から直々に綿作の拡張を任されている。小田家では一芸を持つ人物は身分など関係なく尊重される。その一人が綿作巧者の三平である。畑の拡張が一息付いた事もあり、多少の暇を持て余していたので氏治からの要請には快く応じたのだ。ただ、尾張に行かされるとは思っていなかったが。
二人が上陸すると菅谷水軍から帰蝶へ先触れの使者を派遣した。その使者の来訪を受けた帰蝶は文が届くと喜び、そして氏治が技術者を送ってくれた事に驚いたのである。帰蝶は使者に中島城に向かって欲しいと伝え、自らは袴を履き、近習を連れて自身も馬を駆り、中島城に向かったのである。
氏治から技術者を送られたが、帰蝶は夫である信長や義父である信秀にはなるべく知られたくないと考えた。政などは女子がする事ではないと言われる事を危惧したからである。流石の帰蝶も嫁ぎ先である織田家での振舞いには遠慮があるのだ。幸い信秀と信長は多忙であり、小田家の使者が来た事も気付いていない様子であった。常陸小田家の使者が来たのであれば、それに気付けば信長が出迎えないはずがないからである。
馬を走らせて中島城に到着した帰蝶は足早に広間に足を運んだ。そんな帰蝶の突然の来訪に驚いたのは、中島城を帰蝶から預かっている遠山道雪である。元の名を遠山景時と言い、美濃遠山七家の一人であった。若い頃から武勇に優れたが、武人に向かない優しい性格の持ち主であった。帰蝶が織田家に嫁ぐ事を聞いた遠山景時は自ら名乗り出て帰蝶に同行する事を申し出た。家にも戦にも大した興味が無く、また、斎藤利政の歓心を買おうと振舞う家臣達の様子に辟易しており、自身も出世の欲など無かったので、幼い頃から可愛がって来た帰蝶に付いて行こうと決めたのであった。その際に名を道雪と変え今に至っている。
「これは姫様、突然のお越しで御座いますな?何ぞ御用でも御有りで御座いましょうか?」
「先触れも無く参って、道雪には迷惑を掛けますね。道雪?相変わらず素敵なお鬚ね?」
帰蝶の言葉を聞いて道雪は自身の髭をひと撫でした。両端がピンと上を向いた、所謂ガイゼル髭である。道雪は髭の手入れに余念がなく、油を用いて髭の形を保っていた。彼自慢の髭である。
「御褒めを頂き恐縮で御座いますが、此度は如何されましたか?」
今まで帰蝶の領地を預かって来た道雪だが、今の今まで帰蝶が化粧料の領地を訪れた事は皆無であった。そんな帰蝶が中島城にやって来たのは如何なる理由であろうかと道雪は少し緊張した。そんな道雪の内心を知りもせず、帰蝶は口を開いた。
「この中島城に小田氏治様の御使者が向かっているのです。私がここに来るように申したのですが、政の為の文と、その技を持つ者が参るのです。道雪も丁重に迎えて下さいね?」
(帰蝶様が政?)と疑問に思った道雪だが、帰蝶が来た事には意味があると考えて質問した。
「ふむ、政で御座いますか?この道雪が帰蝶様のご領地を預かって居りますが、何か不足でも御座いましたか?突然のご領地替えで多少の不便は御座いましたが、今では落ち着いて居りますが?」
「そうではないのです。私が政を致したくなったのです。この地は私の領地ですから不思議は無いでしょう?」
「ふむ……」
道雪は帰蝶の意図を図れないでいたが、この領地の主は帰蝶であり自身は代理人に過ぎないので特に反対する考えもなかった。帰蝶が賢い事を知っている道雪は、帰蝶がやろうとしている事に興味も示しつつあった。女子の身で政をしようとする帰蝶が面白くもあったのである。
「姫様がそう申されるならこの道雪は従うのみで御座います。して、どのような政をされるので御座いますか?田畑を増やすくらいしか道雪には思いつきませぬが?」
「その方法を知る為の使者なのです。政の達人と呼ばれる小田氏治様に文をお出ししたのです。そのお返事が参るので、文の内容を読んでから決めます。道雪も合力致してくれないと困ります。宜しいですね?」
「承知致しました。槍働きも無く暇を持て余していたところで御座います。では、御使者をお迎えする支度をして参ります」
そう言って道雪は広間から姿を消した。帰蝶は喉の渇きを覚えたので水を所望し、乗馬で火照った身体を癒したのである。そうして暫くすると氏治からの使者が到着したと伝えられ、道雪に連れられて広間に三人の男が入って来た。帰蝶はそのうちの二人を見て目を丸くした。三人のうち一人は武士であるが、残りの二人は町民と百姓に見えたのである。
挨拶を済ませると菅谷光影と名乗った男から二通の文と本を受け取った。男は用事が済んだと平伏してから「これにて御免つかまつる」と退出してしまった。残された権と三平は落ち着かない様子でそわそわしていた。
(―――この者達が政の技を持っているというの?どう見ても町人と百姓にしか見えないのだけど?)
とりあえずと帰蝶は氏治からの文を読んだ。文には領地を育てようとしている帰蝶を褒め称える言葉と、政をする為の指南書を贈るという事を謙遜した表現で記されていた。そして送った二人の事が書かれて居り、権は田の収穫を増やす技を持っていると記され、三平は木綿を作る為の綿作を行う技を持っていると記されていた。そして強調するように記されていたのが二人は小田家にとって大切な人であり、特に権は氏治の友なので気を配って欲しいとの事が記されていた。それを読んで帰蝶はまた目を丸くしたのである。
(―――田の収穫が増える?木綿が作れる?氏治様の友?あの者が?)
帰蝶は権と名乗った男を不思議そうに見た。粗末な野良着を着ているが、身体は大きく六尺はあると思われた。筋骨隆々で長く伸ばした髪を首後ろで縛っている。百姓に見えるが、どこぞの山賊にも見えた。ただ、優しそうな面持ちをしているので山賊ではないのだろうが。もう一人の三平と名乗った男は少し老けて見えた。小柄で人の好さそうな顔をしていた。帰蝶は文を道雪に読むように命じた。文に目を通した道雪は少し驚いたような顔をした。
「姫様、まずは権殿と三平殿は客人として扱わねばなりませぬな?氏治様がここまで仰せになられるのであれば、粗略な扱いは出来ませぬ」
「そうですね、それにしても権、三平?真に田の収穫を増やす事と木綿が作れるようになるのですか?」
帰蝶に問われた権は落ち着かない様子ではあったが帰蝶の質問に答えた、
「田は儂が面倒を見ます。ですが、それなりの備えをせねば出来ません。綿作は三平どんが知っているので任せれば出来ます」
尾張に来る道中で権と三平は常陸弁で話すのは不味かろうと菅谷光影が教師となり言葉を矯正させられていた。それでも貴人と話を出来る状態では無かったが、これ以上は仕方がないと諦めたのである。
「ふむ、真であればありがたき事に思えますが?」
「そうですね。道雪、まずは客人をお部屋へ。丁重に扱って下さい。政は氏治様が下さった御本を読んでから考えます。権、三平、しばらくはゆるりと尾張を見て周るとよいですね。私は政は初めてなので、少し考える時が必要なのです。何れ力を貸して貰いますからそれまでは寛いで下さい」
道雪が権と三平を連れて広間を出ると、帰蝶は桔梗からの文を広げて目を通した。それには孤児の面倒を見る為に必要な心得が記してあり、孤児の成長に合わせて田畑を与えてやる事や、時が経てば夫婦が生まれ人も増えるだろうと記されていた。帰蝶は満足そうに頷くと、次はと氏治が贈ってくれた本を開いて読み始めた。そしてその内容に帰蝶は衝撃を受ける事になる。
氏治が贈った指南書には、領地を発展させる方法が順序良く記されていた。必要のない家臣を整理する事や領地の財政や米の収穫高を知る事。冬の間に人足を雇い田畑を広げる事。春になったら田植えの準備を権の指導の下に行う事や、綿作の準備も怠らぬようにと、それぞれについて事細かく記されていた。
帰蝶が最も関心を持ったのが、所謂、人員の整理である。帰蝶が律令を自領で行おうとしているのは資金を得る為であり、抱える家臣や侍女が減ればその分帰蝶の収入が増えるのである。家臣が減れば律令を行うのに都合もいい。帰蝶は夕方まで何度も何度も氏治の指南書を読み込んだ。
道雪から窘められるように時を告げられ、慌てて馬を駆って清洲城に戻ったが、私室に戻るとまた指南書を読み始めた。そして自身の持つ律令の知識とすり合わせて行ったのである。




