第百四十六話 武田家の使者と帰蝶からの手紙
明智光秀の調略に成功した。史実では三傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に匹敵する存在である。歴史を知る私は現代で評価されている武将を知っているけど、武将の青田買いをするような事はして来なかった。歴史に名を残した武将達もそれぞれの住まう土地で苦労をして成長し、武功なり内政の功を挙げて名を残したからである。史実で名を残したから引き抜いてポンと仕事を与えても大した事は出来ないと思う。
それによく知らない人を信用することも出来ない。小田家には信頼出来る譜代の家臣が多くいるので、自分で育てたほうが良いと考えたのだ。でも、光秀は別格である。将来性もあるし、私は明智光秀という人物に接して人柄を知っている。そして史実では本能寺の変で信長に謀反を起こしているので、それを防ぐなら私が登用して引き離してしまえばいいのである。
だけど、私の影響で信長は今の一五五二年の時点で尾張を統一しているし、律令も制度として組み込んでいくと思う。本来の歴史からは大きく外れていて、現代で言う所のもう一つの世界線を歩んでいると思われるのである。だから今私が生きている戦国時代は全くの別物で、この先は予想も付かない歴史を歩んでいくと思う。なので、光秀を信長から引き離す事になったけど、それをしなくても本能寺が消滅するとは考えていた。ただ、別の誰かがその役割を演じる可能性はあるのだ。私は将来は百地を使って見張って行く必要があると考えているのである。
光秀主従は数日の休息を取ってから各々がお役目を果たすべく励んでいるようである。政貞から光秀主従と煕子殿には算盤の習得を命じられて、毎日早朝に皆で算盤の修練をしてから仕事に向かっているそうだ。煕子殿が戸惑いながらも必死に算盤の修練をしているのを見て、政貞はほっこりした様である。嬉しそうに私に煕子殿は筋が良いと報告して来たから頑張って欲しいと思う。
光秀には『私と孫子』の写本も義務付けられて、それを読んだ光秀は衝撃を受けたようである。政貞の右腕として毎日政務で顔を合わせるので、質問が多くて困ったのである。私的には早く返して欲しいのだけど、未だに政貞に取り上げられている状態である。
押し付けた仕事を目の当たりにした光秀は固まっていた。私と政貞はそれが当然のように振舞って光秀に仕事のレクチャーをしたのである。明智家中は大騒ぎだと思うけど、これを乗り越えたら光秀は大きく成長すると思う。
そして私は相変わらず政貞と勝貞、久幹と光秀は政務の日々である。でも今回は輪をかけて辛いのである。とりあえずと割り振った所領の管理者の見直しをして、割り振りをし直したり、論功行賞の準備や、地域の陳情が早速上がって来ていて、岡見をトップとする司法省の人員の補充や、租税寮も人員の補充と見直しを行った。
国が大きくなり過ぎたので、新たに小田家に仕官した武家の管理は各軍団長に一任する事にしたのである。全てを完全に統括する事が不可能なので、取りあえずは運営に支障が出ないように手配して、軍団長に任せている土地が安定したら統廃合して制度の中に取り込んでいくつもりである。そうしないと回らないので仕方が無いのだ。
忙しく働いている間にも他国の使者がやって来ている。武田家からは武田信繁がやって来て、小田家と婚姻同盟を結びたいと申し出て来たのである。私が即答でお断りをすると、武田信繁は顔色を変えたのだ。
「―――小田様は当家と矛を交える御つもりなので御座いますか?」
武田信繁は変えた顔色をそのままに私に問うたのだ。武田家からすれば百九十一万石の小田家は脅威以外の何物でもないだろう。次は自分が狙われると考えた武田晴信が打って来た手である事は容易に想像出来るのである。
「そのようなつもりはありませんが、武田晴信殿は残酷なお方では御座いませんか?無秩序な乱取りで多くの民人を苦しめています。そのようなお人と同盟など結んでは当家が天下に笑われてしまいます。仮に同盟を結んでも、武田晴信殿は信用できません。当家と同盟を結びたいのであれば、戦において一切の乱取りを止め、心正しく生きて行かれるなら検討もしましょう。ですが、武田晴信殿の為さり様は余りに残酷。かような家と関わりたい者など居りましょうや?」
私がそう言うと武田信繁は黙ってしまった。私も大国の主になったので強気である。今までは武田晴信の陰に怯えていたけど、今の小田家と武田家の軍事力は比較にならないのである。
「―――っ。当家と盟を結べば天下に笑われると申すので御座いますか?無礼にも程がありましょう……」
「民人を面白半分に殺す貴方方は鏡を見た事が無いのですか?信濃の人々が気の毒でなりません。私の耳にも入っているのです。甲斐の民が苦しいのは知っています。乱取りを許し、食べさせる為だという事も知っています。ですが、それを延々と続ければ、領民は人を殺す事を当たり前だと思い、人では無くなります。国を治める国主は民を守り、導く存在です。今の行いを続けるのであれば、武田晴信殿は国主では無く、ただの野盗に成り下がるでしょう」
「関東のような豊かな土地に住まう小田様には解りますまい。我らとて好きで致している訳では御座らん!」
武田信繁が怒りの形相でそう言った。
「ならば何故無駄に殺すのです!貴方方は殺す事が当たり前になり過ぎて人の心を失っているようですね?良い機会なので申しておきます。当家が武田家に戦を仕掛けるのに大義名分は必要ありません。他国の民を苦しめる武田家を討伐すると申せばどの大名も納得するでしょう。御帰りになられたら武田晴信殿にそう伝えて下さい」
私はそう言うと武田信繁を退出させたのだ。私もここまで言うつもりは無かったけど、話している内に抑えられなくなったのだ。百地からは信濃の凄惨な乱取りや虐殺を聞いていて、ずっと心を痛めていたのだ。どの道、良き隣人にはなれないし、私の発言が牽制となって村上義清や小笠原長時より小田家を警戒すれば軍事行動も起こしづらくなると思う。酷く後味が悪かったけど、言うべきことは言わないと誤解されても迷惑なのだ。
私と百地が甲斐の米や軍需物資を買いあさっているので、近頃の武田家は軍事行動を起こしていない。足止めが成功しているので信濃では小競り合いはあるものの、武田晴信が大軍を起こしていないので民への被害も少なくなっていると思う。武田信繁が退出すると神妙そうな顔で久幹が口を開いた。普段の私と比べるとかなり強い言葉を使ったせいだと思う。
「―――御屋形様、武田と事を構える御つもりで御座いますか?」
私は頭を振ってからこめかみを押さえた。何だか気分がとても悪いのである。私が武田晴信を嫌っているのもあるけれど、他者を攻撃するような事を言った自分にも嫌悪感があったのだ。
「今はそんなつもりは無いよ。私もあんな事を言った自分に驚いているよ。まずは国を治めてから義昭殿のお手伝いをして上野の平定が目的になるかな。二年は私達も動けないと思うから、民に迷惑が掛からないようにしっかりと政務をこなさないとね」
本当に自分でも驚いている。私は自分が吐いた言葉を思い出して、また自己嫌悪に駆られた。
「武田の信濃での乱取りや三千の雑兵の首を落とした話は某も百地殿から耳に致しましたが、いい気はしませんな。いっそ滅ぼしてやれば民も救われましょう」
「でも、甲斐への侵攻は大変だと思う。城は殆ど山城だし、落とすのは大変だと思う。関東は平城ばかりだから落とし易かったけど、甲斐を攻める時は策を練ってからでないと痛い目を見ると思うよ?」
私はそう言いながらも久幹に甘えたい気持ちになった。武田信繁に対しても嫌悪感を抱いていたのだと思う。とても気分が悪い。いつも私を支えてくれる勝貞や久幹に縋りたい気分なのだ。私と久幹が話していると政貞が口を開いた。
「今は領内を統治致す事が肝要で御座います。武田も当家には手出しは出来ますまい、何れ考えると致しまして、此度は無視という事で宜しいかと存じます。ですが、武田は油断なく見張るべきで御座いましょうな」
私が余計な事を言ったせいで武田家に余計に注意しなければならなくなった気がする。忙しく働いている政貞にも申し訳ない気持ちになった。
「御屋形様、そう落ち込まれなさるな。御屋形様にはこの真壁が付いて居ります。御屋形様は何一つ間違った事は仰って居りませぬ。民を安んじ、食わせると申したのは御屋形様で御座います。甲斐の民が食えぬなら我らが食わせれば宜しい。時が来れば我らにお命じ下され、甲斐の民を救えと」
久幹の言葉を聞いて私は小さく頷いたのだ。
♢ ♢ ♢
武田晴信の要請を袖にして落ち込んだ私だけど、久幹のおかげで翌日には立ち直ることが出来た。政貞と光秀は私の昨日の様子を見て、今日は何かと気遣ってくれたのだ。私も戦国大名の端くれなので、落ち込んでばかりもいられない。気を取り直して政務に励む事にしたのである。久幹は私の様子を見てニヤリと笑っただけだけど、長い付き合いである。私の事はお見通しなのだと思う。
そうしてその日の政務を終えようとしていた頃に、桔梗から遠慮がちに話があると私に伝えて来たのである。桔梗の言いようが珍しくて、私は私室で桔梗の話を聞く事にしたのである。どうしたのかと私が問うと、桔梗は座卓に文を置いたのだ。
「御屋形様にも届いていると思われますが、帰蝶様の文の事でご相談が御座います」
そういえば帰蝶から文を貰った事をすっかり忘れていた。私は束ねていた文の中から帰蝶から送られた文を抜き出した。
「私はまだ読んでいないのだけど、何か気がかりでもあるの?」
「気がかりと申しますか、帰蝶様が文で孤児の世話の仕方を知りたいと申されているので御座います。桔梗が御屋形様の許しもなく伝えて良いのか迷ったので御座います」
「孤児の世話?あの帰蝶殿が?」
「そうで御座います。姫君の為さる事ではないと考えましたので桔梗も驚いたので御座います」
帰蝶からは鉄砲を買い取って欲しいと要請があったのだ。私は鉄砲衆を率いる事を諦めたのだと思って、三丁の鉄砲を帰蝶の買値の金三十枚で買い取ったのである。支払いは尾張の拠点から出すように指示はしたけど、忙しくて文を読むのを忘れていたのである。桔梗に孤児の世話を質問したとなると、別の目的が出来たのだと思う。でも、大国の姫君が孤児を気に掛けるなんて偉いと思う。
「私も文を読むから少し待ってね?」
私は桔梗にそう言って帰蝶の文を読んだ。かなり長い文である。文は挨拶から始まって、私に指南をして欲しいと記されていた。帰蝶は五千石の化粧料を持っていて、領地として嫁入りの際に織田家から貰ったそうだ。そして領地を育てたいようで、私に領地経営のアドバイスをして欲しいと記されていたのである。お転婆だと思っていたけど、帰蝶は成長したのだろうか?でも、私としては大賛成である。鉄砲を手放したのも領地経営に投資するつもりなのだと思う。でも、信長が尾張を統一してから領地替えになったらしく、中島郡に領地があって中島城に美濃から付いて来た家臣に城代を任せているようだ。城持ちのお姫様も珍しいなと思いながら私は文を読み終えた。
「帰蝶殿は領地を育てたいそうだよ?私は帰蝶殿から鉄砲を買い取って欲しいと言われたから買い取ったけど、どうやらその銭は領地に使うのかもしれないね?」
私がそう言うと桔梗は胸をなでおろすような仕草をした。
「桔梗は鉄砲撃ちを育てる為に訊ねられたのかと邪推致してしまいました。帰蝶様の御心を見誤り、恥ずかしゅう御座います」
「尾張の中島郡に御領地があるそうだよ?でも美濃の国境に近いから、信長殿が帰蝶殿のご領地をそこに置いたのは美濃と戦になったら帰蝶殿のご領地には手が出せないと考えたからかもしれないね?尾張織田家の律令の準備だとは思うけど、信長殿も奥方のご領地は取り上げられないのだろうね」
中島郡と聞いて私は懐かしくなった。尾張の綿作は試験にも出た記憶があるからである。ならば綿作と木綿作りを勧めてみようか?今の時期なら木綿作りを大々的に行っている所は少ないだろうし、当家から知見のある農家や職人を派遣して技術指導も出来る。五千石の田んぼも稲の苗床の作り方と正条植えを教えれば収穫量は塩水選に匹敵すると思う。塩水選は秘匿するけれど、信長に漏れる分なら他の方法は教えても問題ないだろうし、あの帰蝶がやる気になっているなら力になってあげたい。ついでだから義昭殿にも伝えようと思う。
私はそう決めると、桔梗と一緒に帰蝶への文を書く事にした。小さい領地の内政は考えるだけでも楽しくて、簡単な棒グラフの作成での収穫量の比較の仕方を書いたり、不要な人員を国元に返して扶持を減らす事を提案したり、使わない米は収穫前の高値の時に売りさばく事や、領内の無法者や乱暴者を捕らえて賦役を課して田畑を広げてはどうかとか、色々と書いたのである。今は十一月だから準備をするのにも丁度いいと思う。
桔梗も私の傍らで孤児の面倒の見方を書いていた。どうしても説明が長くなるから文も自然長くなるのである。結局は本の形に纏める事になってしまった。タイトルは色々悩んだけど、『私と政』になった。そして桔梗と二人で相談しながら文も書き、綿花栽培の指導に行って貰う農夫に種を持たせ、権さんにお願いして苗床と鯉農法と正条植えの指導をしてもらう事にしたのだ。帰蝶には二人は私の大切な人だから乱暴に扱わないで欲しい事を文に追加したのである。一応念の為である。
 




